第二話【魔界から来たツインテール】 

文字数 22,527文字

季節は冬季(とうき)。
閉まりきっていない扉の前で尻持ちをつき、俺は履き慣れた靴の紐を結んでいた。キイキイと揺れる扉の空き間からはスズメの囀りをBGMに、忙しなく走り去って行くJKの姿がスクリーンショーのように流れている。
パンツ見えないかなぁ。心の中で、そっと呟いて。
「それじゃあ俺は学校に行ってくるから。あと、ルシファ。昼飯のにんじん残すなよ」
つま先を地面に打ちつけながら、俺はルシファの柔い毛髪を撫でる。
ルシファは額の前に手をやると、兵隊のようなポーズで声を張りあげていた。
「任せてください! 極力食べます。極力」
「極力て……。まあ、何でもいいけどちゃんと食えよな。行ってきます」
「はーい、いってらっしゃい。気を付けて帰ってきてくださいねぇ」
ルシファに注意と別れを告げると、俺は扉を開け玄関を後にする。
もう慣れたことだが朝一(あさいち)ルシファは家を出てからも今生(こんじょう)の別れみたいにしつこく手を振ってくるので、隣人(りんじん)に変な誤解をされないか心配なのが最近の悩みだ。
「あずきさーん! 昨日夜遅くまで激しくしたからって、授業中寝ちゃだめですよー!」
やめろ。激しかったのは俺じゃなくゲームだろうが。誤解されるからほんとにやめて。
近所のおばさん達もこっち向いてコソコソ喋んないで。指差さないで。
「……はいはい。寝ません寝ません」
前を向きルシファに背を見せた状態で、俺は後方に手をブラブラと振る。
多分あいつは俺が見えなくなるまでの間、ずっと手を振り続けているんだろう。
ふと、歩いていると、鼻先に何かが止まる。
何かを指先で拭うと、それは見慣れた桜の花弁(かべん)だった。
冬に咲く桜というのもおかしな話ではあるがこの町――《永桜町》に住む住人にはもう見慣れた景色なのである。
「そういや……ルシファが俺の家に住み始めて、もう十日も経つんだっけ」
花弁を見つめたまま歩道で立ち止まり、俺は青い絵の具が零されたキャンパスを仰ぐ。
空はどこまでも広く、そして終わることのない晴天(せいてん)を場景(じょうけい)の彼方まで繰り広げていた。
空から目を放し、今度は自分の手の甲を見つめる。手には魔法陣をモチーフにした紋章のようなものが刻まれており、紋章は真っ赤に塗り潰されていた。
俺は紋章を見つめながら、止めていた歩(ほ)を進め歩きだす。
一月一日。そう、あの日俺は――火事に巻き込まれて死ぬはずだった。
だが、ルシファと結んだ契約――『アンティ』(名前は後から聞いた)により俺は炎に包まれて焼死することもなく、今を無事に生きている。また手の甲の紋章は契約を結んだ際に現れる証のようなものらしく、願いを叶えると同時に赤く塗りつぶされるらしいのだ。
また、契約をキッカケにルシファは一か月の間、俺の家に住むことになった。
その理由は至極単純。俺が死なないように見張る為だ。
あれからルシファが巻物を見返していて気付いたらしいが、どうやらアンティを交わした人間は必ず契約を結んだ相手によって殺されなければいけないという決まりがあるらしく、それを破ってしまえば、契約は破棄(はき)になってしまうらしいのだ。
つまり俺が事故に遭ったりして死んでしまえば、その時点で人類はジ・エンド。
と言うことはあのまま火事に巻き込まれて死んでいたら、それこそ犬死になってたってけか……よくよく考えたら俺、結構やばい橋を渡ってたんだな。
「寒っ……。十日前のあの日と比べれば、正反対の気温だな」
巻いてあるマフラーに顔を埋(うず)め、俺は風の当たらないマンションの陰へ身を寄せる。
ちなみに俺が学校に行っている間ルシファは何をしているかというと。漫画を読んだり、ゲームをしたり、近所へ散歩に行ったりしているそうだ。いやはや暇人の鏡である。
また、ルシファにはホラー映画を見た夜には一人で眠れない。という子供っぽい弱点もある。悪魔のくせに、何故か吸血鬼やゾンビは怖いらしい。
そういえばその日は隣で寝ているあいつの寝言がうるさすぎて、一睡も出来なかったな。
「はむすぅ」って何だよ。どんな寝言だよ。
だがその反面。あいつには優しい一面だってある。最近だと俺がバイトを終えて帰ってくるとカップ麺にお湯を入れて待っていてくれたこともあったな。お湯入れたの、俺が帰宅する二時間くらい前だったらしいけど。
まあ、そんなかんなで俺とルシファの共同生活は、案外上手くいっているというわけだ。
とは言っても、ルシファに関しては謎な部分がまだまだあるのも現状なんだけど。
例で言えばルシファが使った呪文みたいなのや家族の有無(ゆうむ)。
他にはどんな種類の仲間がいるか。とかか。
一番の謎と言えばあの日聞こえたあの声は一体、誰の声だったんだろう。
ルシファにしては大人っぽい声だったけど、俺達以外には周りに誰も居なかったし……。
「でも、確かに聞こえたんだよな。……って、もうこんな時間か」
腕に付けてある時計に目を移すと、指針(ししん)は家を出た直後より大分動きを進めていた。
やばいな……このままじゃ遅刻するかもしれん。確かあと一回遅刻したらペナルティとしてトイレ掃除って担任のなっちゃんも言ってたし……。
「……仕方ない。近道するか」
 俺はグッと伸びをし、簡単な柔軟運動を始める。続けて歩いてきた道を戻り、助走を取る体制になる。手を地面につけた、クラウチングポーズだ。
そう――言い忘れていたが俺はルシファと契約を結び願いを叶える力以外にもう一つ。ある力を手に入れた。足裏に溜めていた力を解き放つように、地面を蹴り上げる。
「よしっ……! やっぱり屋根からの近道を使えば、移動が早えなっ!」
その力とは――身体能力の倍化。だ。
ルシファの説明によると一般的な人間の身体能力は三程度しか無いらしいが、契約を結ぶことによりその身体能力を二倍に底上げすることが可能になったらしい。なので俺が屋根から屋根に飛び移るなんて人間離れした行為を出来るようになったのも、ルシファのおかげだ。
背負っているリュックを揺らしながら、俺は学校へ続く道のりを駆け上がって行く。
変わらない町並(まちな)みを横目に、変わらない風景を眼に焼き付けながら。

「眠すぎるっ……」
時間は過ぎ去りお昼休み。 ザワザワと騒がしい教室で欠伸をし、俺は愚痴を吐いていた。
ここは俺が通う高校――《四季(しき)波高(なみこう)等(とう)学校(がっこう)》の二年四組だ。
この学校は健康の為かはたまた体力増量の為なのか。大分(だいぶ)山沿(やまぞ)いの方に学校が建てられているので自慢ではないが校舎から街全体が見渡せるくらい眺めが良い。またグラウンドの端には大きな桜の木が植えられており、この木には〈神桜(しんろう)〉という呼び名がついている。
確か聞いた話しでは数百年前の永桜町にはある呪いがかけられていたらしく、定期的に村の中で生贄をランダムに選んでいたらしい。しかし、ある日突然現れた神桜のおかげでその呪いは消え、村には平和が訪れたと以前歴史の先生には聞かされていた。
何だかそう考えると、その呪いって俺とルシファが結んだアンティによく似ているな。
まあ、とは言え関係ないか。それにもしそれがアンティのことだとしたら、こうして俺が生贄に選ばれているはずもないし。
俺は外の景色を眺めながらあんパンを持ち、ウトウトと赤べこみたいに首を揺らす。
何せ今は昼休み。ともなれば、嫌がおうにも眠気が現れるってもんだろう。 
腕を頭上に掲げ、大きく身体を身震いさせる。持っているパンを潰さないために手だけは力を抜いて。それからこしあんがたっぷり入ったパンを口元まで誘導。
「とりあえず昼からの授業は保健室で昼寝の時間にでもしまっ――ケバブッ!」
痛っ! 突如後頭部に衝撃が走る。反動であんパンが口の周りで被爆(ひばく)した。
何事かと思い振り返ると、そこには藍色の制服を着た女子がいた。
「なにがお昼寝の時間だって? あーずき」
「……っだよ、明音(あかね)か。急に人の頭叩くんじゃねえよ。多分八十七個くらい脳細胞死んだわ」
「八十七個って何その中途半端。あずきが堂々とサボり宣言してるのがわーるい」
少女は反省の色を一つも見せず俺の目の前の席。山下君の席に座ると、足を組みながらスカートをチラリズムさせていた。相変わらずエロイな。太もも。
それから持参した鞄から弁当箱を取り出すと、俺を一瞥。
「今日もあんパンだけ? あずき料理出来るんだから、自分のお弁当も作ればいいのに」
「自分に作るのは面倒くさいんだよ。それに前はメロンパンだったからな」
意地悪く舌を見せ、明音の弁当に生息する卵焼きをジロリ。結構美味しそう。
それを見逃さなかった明音。ニヤリと頬を上げ、得意げに箸を手にすると。
「なに? 欲しいの?」
そう言い卵焼きを摘まみ俺の目前に運んできた。
たくっ……。
「バーロ。男がお前……卵焼き何て女々しい食べ――モグ――の食う――モグ――わけないだろ」
「女みたいな顔のくせによく言うわね……。それよりどう? 甘めで美味しいでしょ?」
「意外と美味しい」
今俺の目の前で弁当を食べている女子は俺の幼馴染。仙崎(せんざき)明音(あかね)だ。
趣味はカラオケ(下手)で男子顔負けの活発さを持ち、淡いブラウンのネコ目に栗色のセミショートがチャームポイント(らしい)。ちなみに血液型はA型。好きな食べ物は確か、苺だったかな?
だが、俺的に一番に注目すべきはやはり。エロい太ももとたわわに実った巨に――
「あずき、今なんか変なこと考えてない?」
――にゅうめんが好きなところかなぁ。俺は勢いよく首を左右に振り続ける。酔いそう。
そんな俺の仕草にジト目になる明音。「やれやれ」と首を横に振り、話を切り替える。
「まあ、いいけど。……それよりあずき知ってる? 十日くらい前に《日の出公園》近くで起きた放火事件の噂」
また切り替えられた話は難儀(なんぎ)なことに、俺に関係がある話だった。
……あの日の出来事は明音には言わない方がいいよな。
白々(しらじら)しく、俺はオーバーリアクションを取る。
「へえ! そんな話があったんだ! 俺、詳しくは知らないから知りたいなぁ‼」
「フッフッフ。まあ、待ちたまえ。待ちたまえ」
適当な相槌を打っていた俺に対し、明音はズイッと手の平を顔に近づけてきた。
それから「気になる?」と小さな声で問いかけてくる。
正直そんなに聞きたくもなかったが、ノッておかなきゃあとが面倒だ。
「気になる! 気になるぅ!」
「んー、どれくらい気になる?」
「地球全体くらい。気になる! 気になるぅ!」
「それじゃあ足りないなぁ。私はもっと気になってくれなきゃ、教えたくないかも」
「じ、じゃあ宇宙全体くらい。気になる! 気になるぅ!」
「宇宙って例え、なんか幼稚よね」
うっっっっっっっっっっっっっっざ。
「……じ、じゃあ。もう銀河くらいでいいよ」
「銀河と宇宙って似てない?」
「もういい。聞きたくない」
それから明音に慰められ、俺はようやく話を聞くことが出来ました。
「で、その噂話っていうのが……火事があったはずなのに、誰も見ていないってことなの」
「……はあ」
顎に手を当て、とぼけたように口が半開きになる俺。
聞くには聞くことが出来たが、よく分からん。
「分かんない? つまりあの日あの場所では確かに火事があったはずなのに。“誰もその火事があった現場を見ていない”ってことよ」
「……は?」
火事があった現場を……誰も見ていない?
「――お、おい! その話、もっと詳しく聞かせてくれ!」
「な、何よ。急に。あんたそんなにオカルト話とか、興味あったっけ?」
「あー……! もうそんなのいいから、早く!」
「わ、分かったわよ。えっと、この話は私もお母さんから聞いたんだけどね? 十日くらい前にお母さんが買い物に向かっている途中、どこかの家が火事になっているのに気づいたんだって。でも、その現場を見た記憶が無いらしいの」
「記憶が無いって……で、でも、火事があったのは知ってるんだろ?」
「うん。火事があったっていうのは覚えてるの。――けど、その火事があった現場を見た記憶が少しもないんだってさ」
言い終えると明音は「ね? おかしな話でしょ」と指先で髪を弄(もてあそ)んでいた。
話を聞き終えた俺は口を手の平で覆い、思考を張り巡らせる。
……どうなってんだ、これ。
確かに思い返してみれば、おかしな点はいくつかある。
テレビを見ていても以前の火事に関するニュースはどの番組も報道していなかったし、俺やルシファについて警察や報道関係の人達が自宅に来たわけでもなかった。
流石にあれだけの大規模な火事が起きたなら、ニュースの一つにでもなるはずだ。
――そして、何故。何故誰もその火事現場を見たという記憶が無いんだ?
いつもと違い真剣に考え込む俺を不思議に思ったのか、明音はバンッと俺の背中を強く叩いてきた。ビリビリと背中に軽い痛みが駆け巡る。
「ま、まあ。そういうオカルト話もいいけどさー! ……それより今日の夜って暇?」
話の内容的にどうやら無視は出来なさそうだ。仕方ない……考え事は後にしよう
「暇といえば暇だけど……何かあんの?」
俺は残りのあんパンを口に詰め込み、コーヒー牛乳で流し込む。
明音はというとモジモジと身体をよじらせ、不思議と頬が火照っているように見えた。
「いや。だからその何というかね。特にあれじゃないんだけどさ……えっと」
今度は水筒のカップを両手で持ち、目線だけをそっぽに向けて更にモジモジ。
何だこいつ。変なの。……――あ、分かったぞ。やれやれ、とんだ困ったちゃんだぜ。
「おしっこ行きたいのか?」
 パァン。俺の気の利いた台詞に対し、明音は平手で返事を返してくる。
「――てえなっ! じゃぁ、なんだよ。う○○か――」
 パパパァン。往復ビンタが炸裂。この後頬が赤くなったのは、言うまでもないだろう。
 話は戻って。
「――でさ。今日の夜なんだけど一緒にレストランに行かない? 新作のフルーツパフェが食べたいの。もちろんルシファちゃんも一緒に。パフェが食べたいだけだからね。パフェが」
「いや、別にいいけどさ。どんだけパフェ食いたいんだよ。連呼(れんこ)しすぎだろ」
「別にそんな食べた……ぷっ……ちょ、頬撫でるの止めてよ。私ツボ浅いんだからさ」
俺は真っ赤に腫れあがった頬を撫で、必死に笑いを堪えている明音の表情を見受ける。
よく見ると明音は頬を膨らませ、指で太ももまで抓(つね)っているもよう。
しばくぞ。 誰のせいで、こんなに腫れあがったと思っているんだ。
「たくっ……。そういえば明音ってルシファと会うの今回で二回目だっけ?」
「二回目かな。前に一回だけ会ったからね。あの時は驚いたなぁ」
「ほんと。俺なんか危うく警察沙汰だったもんなぁ」
言い忘れていたが、明音とルシファは一度だけ顔合わせをしている。
と言うのも俺が買い物に行っている間に明音が鮭トバ(北海道のお土産)を俺の家に持ってきて、ルシファと偶然鉢合わせしてしまったからだ。
それから色々あり、なんとか俺は誘拐犯のレッテルを剥がしてもらったっけ。
また明音にはルシファのことを『短期間だけ居候している遠い親戚』と伝えてある。
「こいつ半魔族(ディア―)なんすよ」と伝えても信じてもらえないだろうし、何より俺が一か月後に死ぬと明音に知られれば、面倒なことが起こるのは火を見るより明らかだからな。
「でも、愛(あい)らしいよね。ルシファちゃんって」
俺の飲んでいたコーヒー牛乳を勝手に取り、ストローを咥えた明音が急に呟く。
「……愛らしいか?」
そりゃ確かに顔は可愛いと思うしスタイルも良い。だが、性格に関しては食べること大好きのぐーたら女だ。しかも料理は下手くそ。そういう面では、そんなに愛らしいとは思わない。
「愛らしい。本当にあずきは女心が分かってないなぁ。そんなだから彼女出来ないのよ」
うるせえ。嫌味か。俺は呆れ顔の明音に、嫌味をリボン付きで送り返す。
「女心が分かって出来るのなら苦労しないっての。お前がなってくれたら、助かるんだけどな」
ハハッとバカにしたように笑う俺。
……あれ。明音ちゃん? お顔真っ赤。どしたの?
「――ババ、バッ、バカな冗談言わないで! も、もう私教室に戻るから……今日の七時にレストランの傍にある空き地に集合ね! 赤いマフラー着けて待ってるから、約束破んないでよ」
変なの。あんなに怒んなくてもいいのにさ。俺は教室に帰っていく明音を見送る。  
レストランか。そういえばルシファは初めて行くんだったっけ。
……いや、よく考えたら外食自体、ルシファは行くのが初めてなのか。
「まあ、流石に他の人の食事を取ったりすることはないだろうけど……っと」
不安を愚痴りつつ、俺はリュックからゴソゴソとあるものを取り出す。
それはルシファが持っていたアンティの巻物だ。巻物を括りつけてある紐を解き、半分開いたところで机に広げる。最初はこんなもん破り捨ててやろうと思っていたがアンティやルシファのことについて色々分かると思い、取っておいたのだ。
ペラペラペラ。
うーむ。
「けど、やっぱり何度見ても巻物に書いているのは、契約に関することだけなんだよなぁ」
書いてあるのは勿論以前ルシファに教えてもらった人類滅亡のこととか決まりについてだけ。しかも最初の数行以外は全て真っ白ときた。
残りの白紙はメモにでも使えってか。巻物をリュックに戻し、俺はうつ伏せになる。
まっ、いいか。詳しい話は何よりルシファ本人に聞けばいいし。
それより今は眠気の方が好奇心を上回ってる。結局明音と話しをしていたから、昼寝出来なかったからな。
それから俺が軽い眠りにつくまで、時間はそうかからなかった。

ドアノブに鍵を差し込み、俺は我が家へと帰宅する。
「ただいまルシファ。ちゃんと飯、残さず食ったか?」
「あっ、お帰りなさい。はい。オムライス美味しかったですよー……くっ、このっ」
靴を脱いでリビングへ向かうと、ルシファはコタツに埋もれてゲームをしつつ快楽を貪(むさぼ)っていた。目がすごくしばしばしているので、俺が家を出てからずっとゲームに専念していたんだと思う。今度メモリーカードの接続部にはちみつを練り込んでやる。
俺は背負っていたリュックをソファに投げ台所へ向かう。シンクに置いてある大皿はボウルに浸されており、レンジの中には細切れになった人参が戦死した兵士の如くばらまかれていた。それもケチャップ塗れで。
皿の下には『無意味な犠牲』と書かれた紙が添えてある。
あいつ人参に親でも殺されたの?
「たくっ、もったいない」
後でしばく。心中でそう誓った俺は制服を着替えるためワイシャツのボタンを外し、洗面所へ。そういやルシファに今日の夕飯は外で食べるって伝えなきゃな。
洗面所に向かうと扉の隙間からは日差しに似た光が一筋。薄暗い廊下へ漏れていた。
ルシファの奴、また電気つけっぱなしにして。
「仕方ねーなぁ」
溜息をつき、肩を揺らしながら、俺は扉に手をかけた。
「さーて。今日はなに食おうか――な?」
「ふんふんふ――ん?」
俺の表情が硬直する。ついでに、俺の愚息も硬直する。
――ここは確かに俺の家で間違っちゃいないはずだ。だって俺がガキの頃から見慣れている洗濯機もあるし、今朝学校に行く前に作っておいたオムのケチャがこびりついた食器もあった。
それに世界中を探せば有り得るかもしれないが、自宅の鍵がそんじょそこらの他人の家の鍵口と簡単に一致するわけがない。
俺は頬を抓(つね)り、必死にフォローを捻り出そうと考える。
ぽく。ぽく。ぽく。ちーん。
無理。フォローも何も思いつかない。仮に思いついたとしても、ハローくらい。
いや、というより何故なんだ。
何で俺ん家の洗面所で見覚えのない赤髪の少女が、縞パンに猫マークのシャツだけという露わな姿で、髪を拭っているんだろう。
「ハ……ハローエブリバディ」
「――イ……イヤアアァァアッ‼」
叫ばれた。いや、当たり前か。くそっ! エブリバディ付け足してみたけどやっぱダメ?
一見幼く見える少女は緋色のツインテールを大きく揺らし、俺に猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)といった勢いで突進してくる。とは言えそれは平手を振りかざしながらなどという可愛いらしいものではない。そして、縞パンに目をやっている場合でもない。
たとえ覗きのプロ。下山(しもやま)のオッサンでも今ばかりはそんな暇はないはずだ。
何故かって?
――だって、この子三叉持ってるもん! 悪魔が持ってる大きいフォークみたいなやつ‼
三叉を運よく躱せた俺は腰を抜かし、その場に崩れ落ちてしまう。一方三叉はというと俺の目線スレスレで壁に突き刺さっていた。
それはもう、そのまま埋もれてしまいそうなくらいの勢いで。
「――あ、あぶ……あぶ……危ないだろうが! 不法侵入女! 銃刀法違反で訴えるぞ‼」
「――うるさい、変態男! 人の着替え覗くなんて、あんたこそ危ないわよ! このクズ‼」
シュウウウッと白い煙を立ち曇らせる三叉は耳の横で壁に食い込み、尚も穿(うが)っていた。
少女はそんな三叉を引き抜き、肩に背負い上げると。
「それに男のくせにこれくらいで驚いてんじゃないわよ。こんなの、可愛い戯(たわむ)れじゃない」
などと意味不明な言い分を俺に押し付けてくる。いや。もうこれ殺人未遂レベル。
というか、何で俺がこんな見ず知らずのガキに、偉そうに言われなくちゃいけないんだ。
身に怒りを覚えた俺は逃げ腰になり、置いてあった雑誌を盾みたいに持って言い返す。
「うるせえ! これで驚くなっていう方が無理だわ! それに少しも可愛くねーんだよ‼」
必死の反撃。ふてぶてしい少女は半眼になり、俺の胸元に指を差し向ける。
「はあ? なんで無理なわけ? 理由を教えて? ちゃんと私が納得する説明をして?」
シャツを引っ張りパンツを隠そうする少女。そんな少女の減らず口が、止むことはない。
「そ、それは危ないからだよ! 普通の常識はそうなんだよ‼」
「それはあんたの常識でしょ? 私からすれば、躱せばいいだけの話だもん」
「じゃ、じゃあ俺が躱せてなかったらどうしてたんだよっ!」
 これは正論だろう。言い返せまい。
「さあ? 躱せてるんだから結果は分からないわ。――というより、あんたが最初に私の着替えを覗いたのがそもそもの発端(ほったん)よね?」
「そ、それは」
「普通はノックをするとか声をかけるのが当たり前よね?」
「そ、それはそうですけど。でも、いきなりの暴力は酷いというか……」
知らぬ間に敬語になってる俺。当たり前だ。女子と口喧嘩などしたことないのだから。
「それに私が抵抗しなかったら襲われていたのかもしれないのよ? 正当防衛じゃない」
「で、でもっ」
「あとさっきから私の太もも辺りをチラチラ見ないでくんない? 気持ち悪い」
駄目だ。これ多分泣く。今喋ったら、絶対に泣いちゃう。
「で、でぼ俺……わるぐ……ないじ…………。ばが……ばかっ! ばーか! ばーーがっ!」
「男ってほんと幼稚。バカしか言えないの? 脳みそミジンコくらいの大きさなんじゃない」
「うええええぇええぇぇえええっっ‼」
俺は泣き崩れた。それはもう幼稚園児が泣くみたいに立派にだ。
女子に口喧嘩で泣かされたのは生まれて初めてだと思う。だが、俺が泣いても少女の暴言(ぼうげん)はまだまだ止まらない。「あんたからは下水に捨てられたもやしの匂いがする」と罵(ののし)られた際にはあまりにも悔しすぎて「ジャスミンの匂いじゃっ!」と泣き喚いたら殴られた。
それから一段と酷くなった罵倒(ばとう)を俺が泣く泣く聞いていると、リビングからトタトタと可愛らしい足音が聞こえてくることに気づく。
この足音は多分あいつだ。俺の救世主。
「もう。どうしたんですか。騒がしいですねぇ」
「ルジファァッ! こいつがいじめるよぅ! 俺の心はクラッシュ寸前だよぅ!」
恥じらいも無く、俺はルシファのお腹に抱き付いて着物を涙で濡らす。
ルシファはそんな俺を優しくキャッチしてよしよししてくれた。
こりゃ、どさくさに紛れて乳を揉んでもバレないんじゃねーか?
けど、ツインテールの視線がめっちゃ怖かったから、止めておくことにした。

「で……何があったんです? 二人とも」
ルシファが三人分のお茶を注ぎ机に並べる。そして始まる対談(たいだん)タイム。
ルシファはツインテールの対面に座り俺はルシファに抱き付いたまま腰を降ろす。
ツインテールは相も変わらず俺を睨みつけているようで怖い。
「あいつがね。いきなりね。俺にね。暴力をね。振るってきたの」
嘘はついてない。眉を下げたルシファは「そうなんですか。本当なんですかベリー?」とツインテールに叱るように尋ねていた。べリーって名前なのかこいつ。
「そうだけど……で、でも、そいつが先に私の着替えを覗いたんだもん。ていうか、アンタいつまでルシファちゃんに抱き付いてんのよ! 早く離れなさいよ! この変態っ!」
べリーも負けじと甲高い怒鳴り声で俺にキレる。
しつこいんだよ。いつまで言ってんだ。
「あずきさんは本当にべリーの着替えを覗いたんですか?」
「不可抗力(ふかこうりょく)だよ。それにあいつが俺に断りもなく洗面所に居るのが悪いだろ」
「確かにあずきさんの言い分も分かりますね。それにべリー。いきなり暴力は駄目です」
メッ。と言いながらルシファがべリーの頭を小突く。ひゃっはぁ! ざまーみろ‼
「それとあずきさんもいつまでも抱きついてないで、早く離れてください」
「あ、はいっ」
掴んでいた着物の帯(おび)を手離し、コタツに足を入れてお茶をグイッと一杯。
フー。
こうして俺とべリーの喧嘩は幕を閉じ、いつもの日常が戻ったのでした。
めでたしめでた――
「――くねーよ。何でいい感じに締めようとしてんだ。俺は」
バンッ! 湯飲みを机に打ちつけ立膝(たてひざ)をつく。非日常が悪化(あっか)したわ。
「えー。まだ怒ってるんですか? もう、大人気ないれふよ」
お煎餅をパリパリと食べ始めるルシファ。それに釣られ、ベリーもお煎餅に手を伸ばす。
「しつこいわね。もう許してあげるから、黙ってなふぁいよ」
え、何? 私が悪いの? という態度なべリー。逆に俺が悪いの? という心情(しんじょう)の俺。
「黙らねえよ。つーか、こいつ誰だよ。スルーしてた俺も悪いけどさ」
そう告げるとルシファは「え、まだ自己紹介してなかったんですか?」とコソコソとべリーに聞いていた。べリーは「だって私が自己紹介で言ったこと全部メモられそうだもん」と静かに返事を返す。「流石にそこまではしないと思いますよ」と小声でルシファ。
丸聞こえなんだよ。お前等の親指と薬指全部深爪(ふかづめ)させるぞ。
数分後。べリーはルシファに説得され諦めたのかめっっちゃくちゃ嫌そうな顔で自己紹介を始めてくれた。視線はもちろん俺に向けられてはいない。
そろそろ心が折れそう。
「……名前はべリー・リリネット。以上」
俺はフンフンと頷き、続きを待っていたがべリーは黙秘(もくひ)。
……あれ?
「あれ? それだけ?」
心中で呟いた疑問が、いつの間にか言葉として表れていた。
べリーは「悪い?」と不愛想に言うと、そこからは何も言わずに黙秘権(もくひけん)を主張。
そんな自己中すぎるべリーの自己紹介に代わって、ルシファが代弁(だいべん)をしてくれた。
「えっと。べリーはですね。私の同級生なんです。今日のお昼くらいに玄関からあずきさんのお家にやってきました。成績がとっても良くて養成所ではエリートだったんですよ。好きな食べ物はシュークリームで嫌いな食べ物はキノコ類。あと裁縫と犬が苦手でー……」
「も、もうそんなに言わなくていいよ。ルシファちゃん」
親が口止めをするように唇に指を当て、ベリーは静かに。とジェスチャーを。
ルシファは「ごめんね?」と謝ると、べリーの頬をさすっていた。
微笑ましいとこ悪いけどさぁ、一つ良い?
「……まさか、べリー。お前も半魔族(ディア―)だとか言わないよな?」
一番気になっていた事だ。もし、ここで「ええ、そうよ」とでも言われたら俺は立ち直れる自信がない。理由は一人のハートを二人の女子が取り合うムフフな体験ならまだしも、一人の命(ハート)を二人の半魔族(ディア―)が取り合うトホホな体験など俺は味わいたくないからだ。
べリーは涙袋を指で引っ張ると、赤い舌を俺に見せつけてくる。
それから両腕を組み。
「フン、違うわよ。私がルシファちゃんみたいな高等な種族なわけないじゃない」
「じゃあ、何だ。ゴキブリか」
瞬間、俺の太ももに何かが突き刺さる。
多分三又だと思う。
「はい?」
「ごめん」
悪魔をからかうのはよそう。そう誓った十六歳の冬。
「――私はベリアルっていう種族よ。俗にいう悪魔。あんたもそれくらい知ってるでしょ?」
コクリと頷く。確か堕(だ)天使(てんし)だっけ。
続けて「まっ、私は神話に出てくるべリアルみたいな残虐(ざんぎゃく)な破壊は行わないけどね」とベリーは自慢げに語っていた。
文句を言いたかったけど、刺されたら嫌なので言わないことにした。
俺も大分、悪魔の対応に慣れてきたなぁ。
「はいはい……そういえばさっきお前が言っていた、ルシファの種族が高等っていうのはどういう意味なんだ?」
湯呑を手にし尋ねると、べリーは話し合う前に着替えたミニスカートとサイズが合ってないパーカーを揺らめかせ、ルシファの首元に後ろから抱き付く。
続けさまに、べリーは自分のことを自慢するかのように語りだしてくれた。
「あんたそんなのも知らないわけ? ルシファちゃんは魔界の大英雄『ロキ』様の孫なのよ。ロキ様はとても凄い人で、噂では火山の噴火を素手で防いだとも言われているわ。だからそんな凄い人の孫であるルシファちゃんの種族は、とっても高等ってことなの」
ふ、ふふ、噴火を止めた⁉ ……半魔族(ディア―)て、そんなに凄い種族だったのか。
言い終えると、ドヤ顔になったべリーは貧相な胸を反りかえしていた。
ルシファはと言うと「そうですね」と頷くと、浮かない顔でお茶を飲み続けている。
? あれ。珍しいな。
いつものルシファならここで「いやー、照れますねぇ」とでも言うだろうに、今日に限ってどこか憂鬱な陰(かげ)りが見えるのは、俺の気のせいなんだろうか。
心中に引っ掛かる違和感を後回しにし、俺はとりあえず「なるほどな」とべリーに返事を返す。次いでベリーは逆に背を反りかえすと、俺の鼻先を指差し。
「――そして私はルシファちゃんのアンティ(契約)の手伝いをする為に、この地上に遥々訪れたってわけよ」
そりゃ、お優しいことで。俺にとっては全然嬉しくない事実だけどな。
するとべリーは俺の傍から離れ、今度はルシファに浮かれ気分で語りかけた。
「そういえば聞き忘れていたけど、ルシファちゃんはもう巻物に書いていた契約者を見つけたの? ルシファちゃんと契約を結ぶ相手だもん。ちゃんと挨拶しとかなきゃ――」
「この人ですよ。ね、あずきさん」
「――ね?」
べリーの視線が俺にグンッと勢いよく変えられる。べリーはそのまま唖然とした表情で硬直。そんなに驚くなよ。俺だって好きで、選ばれたわけじゃないんだからさ。
べリーはそれから八回くらい「こんな猿の出来損ないみたいな奴が? 宿屋の店主じゃなくて?」とルシファに聞き直していた。
どうやら俺は宿屋の店主と思われていたらしい。
「……俺が契約者だったら、なんか文句あんのかよ」
「いや……文句は無いけど。可哀想だなって」
何だ。同情してくれているのか。案外こいつにも良いところはあるんだな。
「ルシファちゃん。元気出してね。もしこの変態がうざかったら、一緒にグリモア(魔界)に帰ろう?」
撤回(てっかい)。
「さっきから黙って聞いてりゃあ……好き放題言いやがってっ! あんま舐めてっと――」
――パァンッ! 怒鳴ろうとした俺の声が、騒がしいサウンドにより遮られる。
突如響き渡った何かが潰れる音。それはべリーの手中(しゅちょう)から聞こえた破裂音(はれつおん)だった。
よく見るとべリーの手には机の上にあった赤いリンゴ(過去形)が握られている。リンゴを潰すために必要な握力が六十から八十と言われているが、こいつは今指だけを使いリンゴを粉々に砕いていたので、おおよそ二百くらい握力があるんだろう。
「舐めてっと、何よ?」
「……いや、舐めてっとちょっとあれっすね。いけないっすよね。べリーさんのことを」
怯えた小動物みたいに、俺は微かな声を絞り出す。
いくら俺の身体能力が上がったとはいえ、こいつには絶対に勝てそうもない。
ルシファは「こら、勿体無い」とべリーを叱責(しっせき)していた。「食べ物を粗末にしたらいけないんですよ?」いや、お前も人のこと言えねえ。
「ごめんなさい。あずきさん。べリーは『ヴァイツァー』というクラスなので、握力の制
御がとても難しいんですよ」
ルシファは謝ると、ベリーと共に零れた果汁を布巾で拭いていた。
いや。ヴァイツァーって何。
クラスってなんだよ。初耳なんだけど。
「ヴァ、ヴァイツァーっていうのは……漫画とかでいう、能力的なあれ?」
そう尋ねるとルシファは「ちょっと違います」と言い、白紙とペンを〈異次元のポーチ(デイ・ポーチ)〉から取り出した。白紙には達筆(たっぴつ)な字で〘ヴァイツァー〙〘マギー〙〘チェスタ〙〘ノア〙という四つの文字が書き込まれていく。そしてそれらを書き終えると、ルシファはペンを再度ポーチにしまう。
ルシファが言うにはこの四つのクラスが悪魔の生まれつき持っている能力の個性を表しているらしいのだ。人間でいうところの、血液型のようなものらしい。
またそれぞれのクラスについて、ルシファは更に分かりやすい解説をしてくれた。
「まず『ヴァイツァー』このクラスの悪魔は簡単に言えばとても力が強く。また肉体強化のカルマを得意とします。その反面(はんめん)、自然系のカルマや治癒系のカルマは不得意です」
 指を二つ立て、ルシファは説明を続けていく。
「次に『マギー』このクラスの悪魔はカルマ全般を得意とし、所持魔(しょじま)力量(りょくりょう)が他のクラスの悪魔より多いです。しかしその反面。体力や腕力に関しては他のクラスより著(いちじる)しく乏(とぼ)しいですね」
 更に三つ目の指を立てるルシファ。
「三つめが『チェスタ』このクラスの悪魔は体力も魔力量も平均的で、特にこれといった弱点もない所謂オールマイティというやつでしょうか。まあ、悪く言えば器用貧乏。良く言えば何でもできる便利屋さんって感じですね」
 最後に四つ目の指を立てるルシファ。
「そして最後に『ノア』このクラスは何と言いますか……力量不明なんです。基本的にノアのクラスは出来損ないと称されるものが多いですが、まれに一部の力に特化した天才的な能力を持つ悪魔も存在します。それはカルマであったり力であったり……とは言え細かい詳細についてはまだ私達自身も分かっていないので、これについては保留ということにしといてください」
 保留、ねえ。悪魔でも、やっぱり分からないことはあるんだな。
ルシファは「それでですね」と、さも当たり前のように話を続けていく。
「簡単にいうとべリーのクラス『ヴァイツァー』は腕力や脚力がものすごくあるってことなんです。それに加えてベリーはヴァイツァーでありながら、カルマも得意なんですよ」
べリーは「どうよ」と言いながらにやける。凄いけど、俺にとってはそんなに嬉しくない。
「そして私のクラスはカルマを得意とする『マギー』……と言いたいところなんですが、私のクラスは出来損ないと称される『ノア』。カルマもロクに使えない、所謂(いわゆる)落ちこぼれですね」
しょげたような声でそう言い、ルシファは「クラスの説明は以上です」と告げる。
つまりそのクラスってやつは、ルシファ達が元々持っている個性みたいなもんなのな。
じゃあさっきから説明にあった……カルマだっけ。その魔法みたいなのは何なんだろ。
どうにも気になった俺は手を上げ、質問をすることにした。
「じゃあ、さっきから説明にあった呪文みたいなのは何なんだ? カルマってやつ」
「ああ『カルマ』はですね。地上で言う、いわゆる魔法みたいものなんです。カルマには『結界―シェル―』『治癒―キュア―』『火炎―ヴァルム―』等々様々な種類がありましてー……まっ、口で言うよりは、実際に見せた方が分かりやすいですかね」
説明口調のルシファはコタツから出ると、リビングの中央へ向かう。
それから「よく見ていてください」と胸に手の平を添えると。
「――ゴーティア〘結界―シェル―〙」
詠唱を唱えた刹那、見覚えのある水色の膜が俺の周りを覆い始める。
続けてあの時と同じ閃光を放ち、薄膜は俺の身体を優しく包み込みこんでいく。
おお。前にも見たことあるけど、やっぱりすげーな。
「炎出したりとか……他には何か出来ねーの? それと何で胸に手を添えたんだ?」
俺の問いかけに対しルシファは首を横に振った。どうやら先程言っていた通りルシファはカルマの才能があまり無いらしく、炎を出したり雷を呼びよせたりするカルマは使えないらしい。  
またカルマを使う際には何らかの動作(アクション)を取らなければいけないという決まりがあるらしく、ルシファが胸に手を添えていたのもそれが理由だった。
そしてその動作(アクション)が、カルマを使う際の術式の代わりになるらしいのだ。
「昔はカルマを使うたびに術式を地面や紙に書いていたらしいですから、便利な時代になったものです」
「人間で言うと黒電話からスマホに変わったみたいなもんか。そりゃ、確かに便利だな」
ちなみに動作(アクション)は何でもいいわけでもないようで。悪魔一人一人が生まれつき持っている固有の動作(アクション)を取らなければ、カルマは発動しないらしい。
ルシファで例えるなら胸に手を添えずにカルマを唱えても、何も起きないってわけだな。
しかし、例外もあり。熟練の悪魔ならカルマを使用する際に動作(アクション)を取らなくても、カルマを発動することが可能という話だ。だが、その分、カルマの威力は比較的落ちてしまうらしいが。
「なあ、ルシファ。カルマについてはとりあえず分かったんだけど……何でこれ解かないんだ?」
いつまでも消える気配のない水色の膜をつつきながら、俺は首を傾げる。
別に見せたかっただけなら、もう満足なんだけどな。
得意げに笑うルシファは腰に手を当ると、エヘンと仰け反り。
「それはですね。あずきさんにはせっかくですから、べリーのカルマも見てもらおうと思ったからなんです。カルマには個人の得意な属性がー……――ってベリー、まだ早っ!」  
ん? どういうことだ? 別にカルマを見るくらいなら、結界(これ)はいらないんじゃ……。
リビングから廊下へ一目散に逃げ出したルシファは、一向に戻って来る様子はない。
不思議に思い、俺は大人しく黙っているべリーに視線を移し……ん? 何だあの電――
――気と心中で言い終える0.2秒くらい前に俺は理解した。
ルシファがカルマを解かなかった意味を。
そしてルシファが廊下へすぐに逃げ出したわけを。
「弾けなさいっ……! ――ゲーティア〘雷―ライズ―〙」
「んなっ⁉」
バチバチバチッ!
結界の外層(がいそう)で無数の電撃が花火のように弾け、結界を溶かすかのように火花を散らす。
電撃に耐え切った結界はシュウゥゥゥンと音を立てると、跡形もなく消えていった。
「あっ、あぶっ……あぶっ……!」
思考が戻った俺はヘナヘナとその場に座り込む。べリーは頭上へ手を掲げたポーズを取ったまま、本日二度目のドヤ顔で俺を見下ろすと。
「どう? すごいでしょ。これが私の一番得意なカルマ〘雷―ライズ―〙よ。属性は雷。……でも、おかしーなぁ。何かいつもより、威力が弱い気がする……」
「……とまあ、このように。それぞれが得意な属性のカルマを持っているってことなんです」
電撃が途絶え安全を確信したのか、ルシファはいつのまにか廊下からソロソロと戻って来ていた。そしてベリーの横に並び、謙虚(けんきょ)に説明を始める。
凄い。本当に凄いけど、この後二人の頭にたんこぶが出来たのは言うまでもないだろう。

「痛いです……」「痛いわね……」
「げんこつで済んだだけありがたいと思え。それにお前らはだなー……――」
頭部にそれぞれこぶを作った二人を正座させ、俺はガミガミと説教を食らわしていた。
ルシファならまだしもべリーが外であんな化け物みたいな力を使ってみろ。
警察どころか軍まで動き出す始末だ。
さっきだって下手をしたら、救急車を呼んでいたかもしれないのに。
またルシファについては何故注意が浅いのか言うと、単純にルシファのカルマが言っちゃ悪いが使えないしとても安全だからだ。シェルならまだ役に立つとしてもルシファが唯一使えるもう一つのカルマ。〘転送―ヴァンデル―〙はどんな能力だと思う?
何と物資や人間。命あるものを三メートルだけ動かせる能力だと。
必至に勉強して覚えたらしいが、正直掃除機の方がまだ役に立つと思うわ。
「で、いつもの俺なら晩飯は抜きにしてるところだが今日はー…………晩飯?」
そういや晩飯と言えば何か忘れている気がするな。何だっけ、確か……えーと。
“――約束、破んないでよ”
「やばいっ!」
――そうだ。明音とレストランに行く約束をしていたんだった! すっかり忘れてた。
俺は急いでハンガーに掛けてあるコートを羽織(はお)り、無造作に髪を整える。用意を終えた俺は二人に「今日は外に晩飯を食べに行くぞ」と強引に伝えた。
ルシファは外食と聞き喜んでいるのか、瞳を一昔前の少女漫画みたいに輝かせている。
「外食ですか⁉ 私初めて行きますよ。外食って。ほら、べリーも早く行きましょう」
ルシファはぴょんぴょんと跳ねながら、べリーの腕を嬉しそうに抱く。しかし、べリーは。
「私は別にいいよ。……それに食事なんかしてる場合でもないだろうし」
と、ピリピリした表情を浮かべ、その場から動かない。
なんだ。拗ねてんのか? せっかく連れて行ってやろうと思ったのに。
「別に連れてかないって言ってるわけじゃないだろ。ほら、早く行こうぜ」
だが、べリーに伝えた誘いはすぐに断られる。「だから私はやる事があるの」だってよ。
やる事ってなんだっつの。俺は腕を組み、嫌み交じりにベリーに言葉を投げる。
「えー、そうですか。流石はエリートだな。今から書類にサインでもしなくちゃなのか?」
「違ーいーまーす。ほんとルシファちゃんの契約者のくせに、魔力(まりょく)探知(たんち)も出来ないのね」
「……魔力探知?」
「そっ。魔力探知」
そう言いベリーは目を瞑ると、南西(なんせい)を指差し、傍にあった三叉を手に取る。
俺は最初、それが何を示しているのか分かってはいなかった。
ただその方角に何があって――また誰かが居るかもしれないという検討はついていた。
ベリーはバツが悪そうに、指を差した方向に視線だけを向ける。
「――魔力の出所を察するに、この方角に『バジュラ』が現れたわ」
「バジュ……ラ?」
「私達悪魔の住むグリモア(魔界)に居つく、言わば魔物よ。そして魔力探知とは魔力を持つ者の居場所を突き止める方法のこと……だから私はソレを放ってのんびり食事なんか出来ないって言ってるの。けど、珍しいわね。小物ならいざしれず。こんな大きな魔力を持つバジュラが人間界に現れるなんて、滅多にありえないはずなんだけど……」
ベリーの話を聞き、茫然と立ち尽くしていた俺はもう一度ベリーの指差した方角に何があったかを考える。
――やっぱり。そうだ。あの方角には……。
焦りを露わにし、俺は震える手を抑えながらベリーの手を強引に掴む。
「ちょ、ちょっと待てよっ……! そ、そいつは。そのバジュラってやつは……危険なのか?」
俺の声色を聞き驚いたのか、ベリーは困惑気味に眉を下げる。
「きゅ、急に何よ……まあ、危険で無いとわ言い切れないわね。バジュラは普段魔界の動物の生肉を主食として食べるんだけど、バジュラの本当の好物は――人間の魂だもの」
「こうしている間に人間が襲われている可能性だって……0じゃないわ」
「なっ……!」
冗談……だろ?
ベリーの話しを聞き、俺は歪んだ表情を隠すため深く俯く。
スウ、ハア。と何度も深呼吸を繰り返し、自分に強く言い聞かせる。
――大丈夫。大丈夫だ。あいつが。あいつがそこに居るわけがない。
どうせ遅刻して。それか道にでも迷っているはずだ。
俺はグッと息を飲み、ベリーにある質問を尋ねる。胸の高鳴りは尚も激しさを増し、頬を伝う汗の感覚は研ぎ澄まされたように鋭く感じられていた。
「ベリー……そこに。いや、その場所に“誰か人が居るかどうか、分かるか?”」
その答えはノーであってほしかった。
いや、仮にイエスであったとして、それがあいつでないことを信じた。
だがベリーからの回答は俺の期待とは裏腹に、あまりにも現実的な答えを述べたんだ。
目を瞑っていたベリーは瞼を開くと、どこか真剣な顔つきで俺を見上げていた。
続いてベリーから発せられる、救いようのない最悪な事実。
「……残念だけど、一人いるわ」
「茶髪で赤いマフラーをした……あんたくらいの年頃の女の子がね」
「……――っ‼」
――今日の七時に、レストラン近くの空き地で待ってるから。
――赤いマフラーをして――パフェが食べたいの――約束破んないでよ。
――……ほんと。

『――あずきは私が居なくちゃ、駄目なんだから』

「――明音っ……!」
「なっ……! 待ちなさい! あんた。どこ行くのよっ!」
「あずきさん……? あずきさん! 待ってくださいっ!」
気が付くと俺は無我夢中(むがむちゅう)で家を飛びだしていた。玄関に置いてあるバットを奪うように掴み、扉を蹴り開く。ゴオンッ! と鈍い音を立て、扉はギイギイと壊れたように揺れ動く。
お願いだ……頼む。頼むから無事でいてくれ……明音っ……!
俺は明音と待ち合わせをしていた空き地に向かい、一心不乱(いっしんふらん)に走りだす。
夜空に映える満月が、今日はどこか不気味に輝いているように、俺には見えていた。

☸☸☸

「……かねっ……明音っ……‼」
「……ん? あっー、やっと来た」
時刻は七時三十分を少し過ぎた頃合いだった。
空き地に辿り着いた俺は頬を膨らます明音を見て、深く安堵する。続いて明音の両肩を掴み強い物言いで安否を確かめた。見たところ、怪我はなさそうに見えるが……。
「ほんと、遅刻するのこれで何回目よ。あずきはさー……」
「――んなことどうでもいい! それよりお前、怪我ないかっ……⁉」
「ど、どうでもいいとは何よ。別に怪我なんかしてないけどっ……」
唐突な発言に驚いた明音は、俺を不思議そうに見入る。
だが俺には、そのまま明音と落ち着いて話す余裕など無かった。
その理由は俺の目の先。いや、先と言っても少しの距離はあるが……。
「グルルルッ……!」
――ある、化け物が居たからだ。
化け物は人間とは程遠い牛の怪物。そう。正に神話に出てくるミノタウロスを現実にそのまま取り出してきたような異様な姿をしていた。明音が戸惑うことなく平然な態度でいるのはおそらく、あの化け物が明音に見えていないからだろう。
化物はグルゥウッと白い息を漏らすと、巨大な眼(まなこ)をギョロギョロと四方に動かしている。
くそ……一体なんなんだよ。あの化け物は。
「――あれは『タウロス』……牛をモチーフとして生まれた、獣人(じゅうじん)タイプのバジュラです」
突如聞こえてきた声に反応し、俺は後方に振り返る。
そこに居たのは俺より少し遅れてやって来たルシファとベリーだ。その内の一人。ルシファは緊迫(きんぱく)な面持ちで透明化したサイスを構えていた。一方のベリーはと言うと同じく透明化した三叉を地につけ、化け物を睨んでいる。
続いて俺達に向けられる、化け物の視線。
「グルッ……?」
化け物はこちらに視線を移すと、ググッと首を左右に傾ける。
何とも不気味なその仕草は正に、化け物と呼ぶに相応しい姿をしていた。
こりゃ、絶対明音には見せられねーな……。
いや、今はそんなことどうでもいいか。
それより――
「グルッ……グルルッ……グルルルルルッ……!」
――ここに明音を残しておいたらまずい。
そう瞬時に察した俺は、明音の手を強く握ると。
「明音。お前は俺の後ろでルシファ達と居ろ。そして絶対に俺の前に出てくんじゃねーぞ」
半ば強引に明音をルシファに預け、化け物の立つ方向に俺は再度見向く。
背(せ)越(ご)しからは明音とルシファの会話が、コソコソと聞こえてきていた。
その物言いから。顔は見ずとも文句を言われているのだろうというのが、振り返らずとも理解出来る。
「な、何なのよ。あずき……――って、ルシファちゃん。ど、どうしたのよあずきの奴。急に怖い顔になっちゃってさ」
「え、えーとですね。それはっ……」
戸惑いながらも言い訳を考えているのだろう。ルシファの声色は、どこかぎこちない。
「あ……もしかして何かのイベントでも近所でしてるの? それであずきがあんっ……――」
「…………ふあっ……んっ……すぅ……すぅ……」
そんな中――突如明音の声が途絶えた。振り返り、俺は警戒しながら後方を確認する。
するとベリーが控えめに手を掲げ、小さく口を動かしていたのだ。
明音に目をやると、明音は熟睡したように、クウクウと寝息(ねいき)を立てている。
それから俺の傍に来たベリー。俺はベリーを横目に、小さく頷く。
「ありがとな。ベリー。……お前にもちょっとは良いところあるんだな」
「――ゴーティア〘睡魔―シープ―〙……人間や弱い悪魔を強制的に眠らせるカルマよ。これであの子は多分あと三時間くらいは目が覚めないと思う。勘違いしないでほしいだけど、別にあんたのためにやったわけじゃないから」
どこか素直ではないがやはりこいつもルシファ同様、悪い悪魔ってわけじゃないんだろう。俺はつい笑みを溢してしまう。
それを見たベリー。頬を赤くし、ジロリと半眼になり俺を睨むと。
「な、なに笑ってんのよ。気持ち悪いわねっ……」
「いや、別に。……――ルシファ。悪いけどお前は明音の保護を頼む。目いっぱいの結界を自分の前に張って、離れててくれ」
「ええ。分かりました。――ゴーティア〘結界―シェル―〙」
軽く頷き、ルシファは明音を抱える。次いでルシファと明音を包み込む薄青色をした結界。
以前俺が見た結界とは少し形が違っており、何分(なにぶん)大きい。
そして離れ間際、ルシファは心配そうに俺達を見やると。
「……絶対に無茶はしないでくださいね。二人とも」
「ああ。分かってる。……安心しろ。あの化け物は絶対、俺達が何とかするから」
俺からの返事を聞き入れると、ルシファは近くにあった家の屋根へ跳んでいった。
俺は逸らしていた視線を元に戻す。化け物は今だ動かずにいるが、先程から続いている首の躍動(やくどう)運動だけは止(とど)まる事なく行われ続けていた。ググ、グググッと左右に首を激しく傾ける。
それを見たベリー。どこか不思議そうに額(ひたい)に皺(しわ)を寄せると。
「……おかしいわね」
「……? 何がだよ」
「普通……タウロスっていうのはあまり知能が高くない種族なの。だから戦いになっても猪突(ちょとつ)猛進(もうしん)に攻撃してくるか、武器を振り回し続けるかの二択なわけ。けど、あのバジュラはそのどちらでもない。まるで誰かに抑えつけられているみたいにその場から動かずにいるわ」
つまり……あの化け物は誰かに操られているかもしれないってことか。
「けどさ。俺達からすればそれって良いことじゃないのか? 動かないなら戦わなくて済むし、このまま帰ってくれたらそれこそ御の字じゃねえか」
「のんき、ね。ていうかあんた人間のくせに本当に戦えるの? いくらルシファちゃんと契約を結んで身体的能力が向上しているとはいえ、あんた自身は生身の人間なんでしょ?」
ベリーにそう言われた俺は「まあな」と頷き、手に持っていたバットを更に身構える。
「正直な話、めちゃくちゃ怖えよ。……けど、ここでお前一人戦わせるのも流石にな」
「ふーん。つまりあんたは、『私一人で戦わして負けるのが不安』と。そう言いたいわけ?」
「何でそうなるんだよ……。ただ、俺は女一人戦わして自分だけ逃げるってのが嫌なだけだ。たとえそれが、お前みたいな憎たらしい性格をした悪魔だとしてもな」
「はあっ? ……ア八……アハハッ……! 何それ……あんたって相当の馬鹿なのね」
「う、うっせーな……そういう性格なんだから、仕方ないだろ」
「はいはい。そういう事にしといたげる。……ま、無駄話もそろそろ出来なさそうだしね」
「――来るわよ」
ベリーの声が場に出た刹那、化け物の姿が目前から消えていた。
俺は周囲を注意深く見渡し、手に持っていたバットを強く握りしめる。  
ベリーはと言うと俺と同じように、辺りを注意深く観察していた。
ベリーの表情を見る限り全くの余裕というわけではなさそうに見えるが……まあ、そうだろうな。
もちろん俺だってそうだ。逃げだせるものなら、今すぐにでも逃げだしたい。
ドク、ドクッと心臓の鼓動が鮮明(せんめい)に聞こえてくる。
胸が締めつけられるように痛み、恐怖を過剰に演出する。
けど。けど、ここで逃げたら俺はまた、ルシファと出会う前のあ
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