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文字数 1,979文字
非常にショックなことがあると、その感情や記憶を心から切り離してしまうことがある。
解離性健忘、いわゆる記憶喪失、と呼ばれる精神症状である。
まだ精神科実習前ではあるが、授業で教えてもらったのを覚えている。
「そのあと、一緒にきていた彼女のお母さんが声をかけてくれてね。一緒にボランティアに参加していたんだけど」
面識のある女性の母親は、佐原主任に謝罪しつつ、事情を説明してくれた。記憶の一部に欠損があり、夫や子供が行方不明になったことは覚えているが、その前の、妊娠から出産、出産後一年ほどの記憶が、とても曖昧になっていることを。
『このボランティアに参加すると聞いた時は、心配になって、私も一緒についてくることにしました。でも、あの子は、ここが自分が出産した病院だってことは、スポンと忘れているんです。そんなにつらいのなら、無理にここに来なくても、と思いましたが、主人はあの子がしたいようにやらせてみようって。なので、できれば、先ほどのように、知らんぷりをしていただけると助かります』
彼女の様子に違和感を抱いた佐原主任は「以前どこかでお見かけした気がしたもので」と当たり障りない言葉で取り繕ったということで、今後もそのように対応してほしいという希望だった。
快諾し、産科病棟や過去に産科病棟にいた職員にも周知し、今は経過を温かく見守っているという。
「それって、僕に話していいことなんですか?」
「ま、普通はダメよね。でも」
軽くため息をついて、佐原主任は肩をすくめる。
一応、看護学生は『院内で知りえたあらゆる個人情報について学術研究の場以外では秘匿する』という誓約を交わしている、とはいえ。
やはり、学生の領分を越えている。
「ハルくん、近いうちにまた小児科に実習で来るんでしょう? その時また遭遇すると思うし……キミ、見えるヒト、なんだよね?」
「…………はい」
母の幼馴染で、父とも親しいとなれば、その事情も知っているのだろう。
「で、何が見えたの?」
「見えたというか……感じた、というか。何て言うか、あの笑顔には合わない、すごくネガティブな、思い? 念? みたいなものを」
「……普段はね、あのとおり、穏やかで優しい笑顔で、子供達も彼女が大好きなのよ。だけど、ある場所でだけ、変わるの」
「ある、場所?」
「そう。前に、彼女になついた、患児ちゃんで、少し活発に動ける男の子が、赤ちゃんが生まれるところが見たいって、こっちの病棟へ入ってきちゃったのよ。まあ、彼女の興味を引きたい気持ちもあったのか、見え隠れするように、逃げてね。で、エレベーターホールで追いかけてきた彼女を見て、泣きだしたのよ。『こわい! こわい!』って。別に、彼女は何もしていないのよ。その場面を、私も見ていたし、『そっちはダメよ』って、優しく声をかけて、触れてもいなかったのに。そして、看護師に抱かれて小児病棟に戻ったら、まるで何事もなかったかのように、けろりとして、また彼女に本を読んでももらっていたわ」
「何が……あったんでしょう?」
「さあ? ただ、その子はそのあと、エレベーターホールに来るのをすごく嫌がって、泣きながら退院していったわ。エレベーターホールを境に、この階は産科病棟になる。彼女がすっかり忘れてしまった場所にね。これが何か関係あるのかしら?」
「……わかりませんよ。そういうことは、父の専門です」
「いやあ、別に事件ってほどのことじゃないし、ハルくんが実習がてら、ヒョイッと解決してくれたらスッキリするかな、って」
「あの、僕は、ただちょっと人より色々見えることがあるだけで、それだけの、ただの看護学生なんですけど。今日も、分娩記録のレポート仕上げないと、
「そうね、これ以上言うとパワハラになっちゃうわね。仕方ない、あきらめるか」
「そうしてください」
実習で忙しいのに、これ以上厄介ごとを増やしたくない。元は言えば、聞かれたとはいえ自分がつい師長に尋ねたのがいけなかったのだが。気になって仕方ないのは……まあ、自分も同じで。
……正直、気になる。
「あ、そうそう、彼女、毎週土曜日は平和公園で美化ボランティアやっているんだって。朝七時から。あ、でもまだ実習期間中だから、無理はしないでね」
……まんまと策略にハメられた気がするハルであった。
これで実習評価下がったら、佐原主任をパワハラで訴えてやる!
……なんて、多分無理だろうな。「無理するな」って、ちゃんと助言したわよ、と言い逃れされるのは目に見えている。
「明日のレポート、楽しみにしているからね」と笑顔で佐原主任に見送られ、がっくり肩を落としながら、家路への道をトボトボ歩き。
ぐったりして帰ってきたハルを心配して、ナミが夕飯の長ネギの肉巻きを一個多く皿に盛ってくれた。その優しさに、涙したハルだった。
解離性健忘、いわゆる記憶喪失、と呼ばれる精神症状である。
まだ精神科実習前ではあるが、授業で教えてもらったのを覚えている。
「そのあと、一緒にきていた彼女のお母さんが声をかけてくれてね。一緒にボランティアに参加していたんだけど」
面識のある女性の母親は、佐原主任に謝罪しつつ、事情を説明してくれた。記憶の一部に欠損があり、夫や子供が行方不明になったことは覚えているが、その前の、妊娠から出産、出産後一年ほどの記憶が、とても曖昧になっていることを。
『このボランティアに参加すると聞いた時は、心配になって、私も一緒についてくることにしました。でも、あの子は、ここが自分が出産した病院だってことは、スポンと忘れているんです。そんなにつらいのなら、無理にここに来なくても、と思いましたが、主人はあの子がしたいようにやらせてみようって。なので、できれば、先ほどのように、知らんぷりをしていただけると助かります』
彼女の様子に違和感を抱いた佐原主任は「以前どこかでお見かけした気がしたもので」と当たり障りない言葉で取り繕ったということで、今後もそのように対応してほしいという希望だった。
快諾し、産科病棟や過去に産科病棟にいた職員にも周知し、今は経過を温かく見守っているという。
「それって、僕に話していいことなんですか?」
「ま、普通はダメよね。でも」
軽くため息をついて、佐原主任は肩をすくめる。
一応、看護学生は『院内で知りえたあらゆる個人情報について学術研究の場以外では秘匿する』という誓約を交わしている、とはいえ。
やはり、学生の領分を越えている。
「ハルくん、近いうちにまた小児科に実習で来るんでしょう? その時また遭遇すると思うし……キミ、見えるヒト、なんだよね?」
「…………はい」
母の幼馴染で、父とも親しいとなれば、その事情も知っているのだろう。
「で、何が見えたの?」
「見えたというか……感じた、というか。何て言うか、あの笑顔には合わない、すごくネガティブな、思い? 念? みたいなものを」
「……普段はね、あのとおり、穏やかで優しい笑顔で、子供達も彼女が大好きなのよ。だけど、ある場所でだけ、変わるの」
「ある、場所?」
「そう。前に、彼女になついた、患児ちゃんで、少し活発に動ける男の子が、赤ちゃんが生まれるところが見たいって、こっちの病棟へ入ってきちゃったのよ。まあ、彼女の興味を引きたい気持ちもあったのか、見え隠れするように、逃げてね。で、エレベーターホールで追いかけてきた彼女を見て、泣きだしたのよ。『こわい! こわい!』って。別に、彼女は何もしていないのよ。その場面を、私も見ていたし、『そっちはダメよ』って、優しく声をかけて、触れてもいなかったのに。そして、看護師に抱かれて小児病棟に戻ったら、まるで何事もなかったかのように、けろりとして、また彼女に本を読んでももらっていたわ」
「何が……あったんでしょう?」
「さあ? ただ、その子はそのあと、エレベーターホールに来るのをすごく嫌がって、泣きながら退院していったわ。エレベーターホールを境に、この階は産科病棟になる。彼女がすっかり忘れてしまった場所にね。これが何か関係あるのかしら?」
「……わかりませんよ。そういうことは、父の専門です」
「いやあ、別に事件ってほどのことじゃないし、ハルくんが実習がてら、ヒョイッと解決してくれたらスッキリするかな、って」
「あの、僕は、ただちょっと人より色々見えることがあるだけで、それだけの、ただの看護学生なんですけど。今日も、分娩記録のレポート仕上げないと、
あなた
に叱られるんですが」「そうね、これ以上言うとパワハラになっちゃうわね。仕方ない、あきらめるか」
「そうしてください」
実習で忙しいのに、これ以上厄介ごとを増やしたくない。元は言えば、聞かれたとはいえ自分がつい師長に尋ねたのがいけなかったのだが。気になって仕方ないのは……まあ、自分も同じで。
……正直、気になる。
「あ、そうそう、彼女、毎週土曜日は平和公園で美化ボランティアやっているんだって。朝七時から。あ、でもまだ実習期間中だから、無理はしないでね」
……まんまと策略にハメられた気がするハルであった。
これで実習評価下がったら、佐原主任をパワハラで訴えてやる!
……なんて、多分無理だろうな。「無理するな」って、ちゃんと助言したわよ、と言い逃れされるのは目に見えている。
「明日のレポート、楽しみにしているからね」と笑顔で佐原主任に見送られ、がっくり肩を落としながら、家路への道をトボトボ歩き。
ぐったりして帰ってきたハルを心配して、ナミが夕飯の長ネギの肉巻きを一個多く皿に盛ってくれた。その優しさに、涙したハルだった。