第6話 十四夜

文字数 50,915文字

 具衛が射的屋の不正に立腹し、その景品を元手とした仮名企画の景品争奪大会が終わったのは、午後一〇時前だった。祭りはまだまだ盛り上がりを見せていたが、ちらほらと会場を後にする人々も出始めた頃合いである。仮名もすっかり堪能したと見え、盆踊りに来ていたにも関わらず結局踊る事なく、具衛や盆踊り実行委員会本部員による片づけが終わるなり、
「そろそろ帰ろうと思うんだけど」
 と言い出した。
「もう少しいたい気もあるんだけど、実は明日、朝から出張なの」
「分かりました。家まで送ります」
 それを聞いた仮名は素直に「ありがとう」と言ったものだが、主催者運行のバスで山小屋まで戻ってから、具衛の言った家と、仮名が捉えていた家の意味の履き違えが発覚する。
「え?」
 具衛の手違いで、車の運転を控えている仮名にビールを手渡してしまい、
「私が飲んでたのって、普通のビールだったの?」
 気づきもせず二本空けてしまっていた事に、仮名はこの期に及んでようやく気づいたらしい。
「全然気づかなかったわ」
 冷静さを見せる仮名は、
「味の濃いものを食べ過ぎたせいね」
 祭りで見せた陽気はすっかり失せており、少なくとも外見上は酒気を帯びているようには見えなかった。
「どうされますか? タクシーを呼びましょうか? この際タクシー代は持ちますが」
「いや、お金はいいとして、実は明日出張直前にディーラーに代車を返す事になってるのよ」
 花火大会での交通トラブルの後難を避けるため、具衛のアドバイスで仮名の自家用車のアルベールは、ナンバーと塗色変更のためディーラー預けとなっており、現在は英国産の高級スポーツクーペの代車になっている。それが明日戻って来るらしかった。
「ディーラーで代車と交換して車を受け取って、そのまま広島空港へ行くつもりだったから。代車は置いて帰れないわ」
 広島空港は、広島県のど真ん中やや南寄りの山間部に位置し、広島市内中心部からだとリムジンバスで一時間少しかかる。更に鉄道だとそれ以上であり、JRは飛行機を首都圏方面への競合交通と位置づけている様子からも空港まで乗り入れておらず、それでもJRで向かうとなると、途中でバスに乗り換える必要があるなど不便極まりない。とにかく、空港までの公共交通機関は脆弱であり、やたら時間がかかる事で悪名高かったりする。片や、空港周辺には駐車場が多くある事から、空港利用者は自家用車で行くケースが多かった。
「じゃあ、運転代行を呼びましょうか?」
 具衛が更に食い下がると、
「今からタクシーや代行呼んでも時間がかかって仕方がないわ」
 仮名はあっさり否定する。
 三人がバスで戻って来る時、盆踊り会場に押しかけた車は、少しずつ会場を後にし始めていた。流石に周辺道路では渋滞が始まっている頃合いである。集落を貫く国道も、普段より交通量が多い。
「申し訳ないんだけど、送ってくれないかしら? あなたの運転で」
「え?」
 具衛が仮名の意外な言に思わず首を突き出した時、ちょうど仮名は半狐面を剥ぎ取った。髪を掻き分ける仕種とその面妖を思い切り覗き込む格好になってしまった具衛は、お面姿に慣れてしまい油断していた事を思い知る。
「い、」
 見入ってしまい固まりそうになるのを、どうにか声を出して回避し、
「家まで送っても良いんですか?」
 率直な疑問をぶつけた。それはつまり、
「詐欺師に住所を知られても良いんですか?」
 と言う事だ。
 仮名が名前を明かしたがらない理由に関連するであろう住所地の事である。だからわざわざ詐欺師を持ち出し、念を入れて確認をした。住所とは即ち、私生活を送っている所であり、名前以上にセンシティブと捉える向きが普通である。住所と代車を天秤にかける理由が今一良く分からないが、代車が気になるのであれば、二人はやはりタクシーで帰り、代車は自分が別便で自宅近くの指定場所まで持って行くと言う方法もある、と言いかけたところで止めた。それならば結局のところ、始めから具衛の運転で二人を送り届けるのが時間的にも経済的にも一番ロスが少ない。何も自宅まで帰らずとも、自宅付近のコインパーキングに止めておけば、自宅を知られる事もない。
「そう言う事よ」
 具衛の思考を読んだ様子で仮名は
「面倒かけて悪いけど」
 と言った。
「もうタクシーで空港を行き来したくないの」
 何でも以前、酷い事故渋滞に捕まった事があるらしい。それ以来、広島空港までの行き来は自家用車と決めているのだそうだ。同じ渋滞に捕まるとしても、見ず知らずの他人と一緒に長時間を共にするのは
「我慢ならなくてね」
 とは、如何にも人嫌いを公言する仮名らしい。だから代車は絶対に置いて帰るつもりはない、とか何とか。
「あなたも責任を感じているようだから挽回の機会を与えて上げたいところだし、タクシーは時間がかかりそうだし、代行は信用してない訳じゃないけどやっぱりハンドルは情を良く知る人間に預けたいし、ディーラーに都合を変えさせるのも申し訳ないし」
 こんなところでどうかしら? と、仮名に立板に水の如く理由を述べられると、具衛は
「はい」
 と言うしかなかった。
 情を良く知る人間として位置づけられている事が気恥ずかしくも、言いようのないプレッシャーも感じる。仮名にハンドルを預けられる人間など、そう多くもないだろう。自分はその信に足る人間だ、と言い切る自信はとてもなかった。
「私が気づかなかったのも、多少は責任あるし」
「珍しく、それだけ浮かれてたって事ですよ」
 ユミさんがまだ半狐面のままつけ加えると、
「えい!」
 報復と言わんばかりに、仮名が素早くその面を取り上げる。
「まー乱暴な事」
 途端にユミさんが目を釣り上げて見せた。
「立ち話も何だし、そうと決まったら早速お願い出来るかしら?」
「分かりました」
 代車はクーペだが、四シーターである事が幸いした。仮名のアルベールは二シーターであり、三人は乗れない。
「四人乗りで良かったわ」
「すみません。私の迂闊のせいで」
「だから私も迂闊だったって言ってるでしょ」
 具衛と仮名がまたごちゃごちゃ始める中で、ユミさんは一人さっさと狭い後席に乗り込んだ。
「ごちゃごちゃは、車に乗って前列で隣同士やったらどうです?」
 わざとらしく「プンスカ」などと口にするユミさんは、年の割に可愛らしい。
「時間が過ぎるばかりでしょう」
 仮名も仮名で、
「ほらもう頼んだわよ」
 何やら口を尖らせ気味にさっさと助手席に乗り込んだ。
「ユミさん、運転席側の後席の方が広いから」
 仮名は乗り込むなりユミさんを運転席側に移動させると、助手席自体もその背凭れも同時に後ろへ下げた。事実具衛は仮名とは対称的に、運転席もその背凭れも、前にスライドさせる。
「ね」
「よくご存じで」
「まあ車に同乗するのも三度目だし」
 言うなり仮名が、そそくさと顔を窓ガラスに向けた。
「回数までよく覚えてらっしゃること」
 隙のないユミさんの指摘を予想しての仮名の反応だった事に、具衛はようやく気づいたが、
「もう、あなたが余計な事言うから、一々突っ込まれるじゃないの!」
「え? 私のせいなんですか?」
「いいから早く出ちゃってよ! 運転手さん!」
 時既に遅く、仮名はすっかり焚きつけられている。相変わらず仄かな品の良いハーブのような匂いが、具衛の鼻を気持ち強くついた。発汗により身体が匂いを発したようだ。その原因が、普段の仮名では考えも及ばない可愛らしさであり、そのネタが自分である事に具衛はまた動揺する。
「まあまあ、もう言いませんから仲良くされたらどうですか」
 ユミさんがそう言うと、そのまま口を閉じた。急に押し黙る様子が何処か意固地で、それを察してか仮名も押し黙る。
「じゃ、出ますよ」
 具衛は流石にその雰囲気は察して、腫れ物に触るような口振りで、誰に言うでもなく車内に言った。
「高速経由だから」
 仮名が相変わらず左窓に顔を向けたまま、素気なく指示する。一瞬だけナビに顔を向けたかと思うと、またすぐに左窓に顔を戻した。少し遅れてナビが自宅までルート設定した事をアナウンスする。
「ご自宅まで、ですか?」
「くどいわよ」
 急転直下雰囲気が悪くなってしまい、具衛は改めて自分の口の拙さを思い知った。人嫌い故、人と連んで会話を楽しむと言う経験に乏しいこの男は、こう言う時に気の利いた事など全く言えない。今まではそれを悔いた事などなかったのだが、見た目は詐欺師でも、口振りは実は全く詐欺師ではなかった。
 山小屋傍の橋を渡って国道まで来ると、右折して北部方面に頭を向ける。高速までは約一〇キロメートルであるが、代車と言えどもやはり高級車だけありナビも高性能だ。走行しながらも周囲の交通状況を正確に読み取り、リアルタイムで目的地までの到着時間を計算しては何度となく検算し直し、その訂正結果を律儀にパネル上に表示している。パネルの表示も垢抜けており、機能美を惜しげもなく晒したものだ。それは最近のナビなら当然と言えば当然なのだが、具衛はそもそもナビを使う、更に言えば車を運転する事自体が今となってはすっかりご無沙汰だ。それも相まって、運転に余念がない。
「その乗車姿勢がハンドルを預ける理由ね。今時いないわよ、そんな自動車学校スタイル」
 遅ればせながら、仮名なりに肯定の意を示した。
「ユミさんはどちらまで送ればいいんですか?」
「私の家の近くだから、心配しなくていいの」
 仮名が一方的に言い切るが、ユミさんは宣言通り口を閉じたままだ。
「——旦那さんがいないからって、少し大人気ないわよまったく」
 仮名が誰に言うともなく呟くと、
「誰のお陰様で、この年で単身赴任なんか経験させられて、寂しい思いをさせられてるものやらまったく」
 口を閉じていたユミさんが、急に食いついた。
「ちょっとユミさん? 今それを言わなくても良いんじゃなくて?」
「それはお嬢様の方じゃございませんこと?」
「どう言う意味かしら」
「どうもこうもございませんよ」
「寂しいだろうと思って帰省させてあげたじゃないの」
「あんなもんで足りるもんですか! 私達は長年一緒に連れ添って来たんですから」
「まぁ言ってくれるわね。暑苦しいったらありゃしない」
「ご家庭を築けば分かりますわよ」
「うわ嫌味!」
「そんな人の揚げ足ばかり取ってるから男が寄りつかないんでございますよ。ただでも隙がないのに。女はね、ちょっとぐらい隙があった方が可愛気があるんですよ」
「今度は説教!」
「その捻くれた性根を考えませんと、その外見を持ってしても、そのうち誰も見向きもしなくなりますわよ」
「別に良いわ、人嫌いだし。見向きもされない方が済々するわ」
「そこまでおっしゃるのでしたら——」
「まあまあまあ!」
 具衛が堪らず横槍を入れた。
 いい加減ヒートアップして来て、何やら聞いてはいけないような事も耳にしてしまったようだ。
「折角のお祭り気分が勿体ないです」
 と、とりあえず諭す。そもそも仮名は、出掛けにそれを口にしていた筈ではないか。なのに今回は、せっせと自分で墓穴を掘り進めてしまっている。ただ、その根本の原因を作ったのは、ビールを渡し間違えた自分自身である事を思うと、
 ——俺ってヤツは。
 その至らなさと、間の悪さに呆れざるを得なかった。
「家に帰るまでが祭りです」
 至極全うな面白味のない真四角な事しか言えない具衛は、女二人の複雑にもつれて行く感情を上手く斟酌する術など当然知らない。物の見事につまらない全うな言葉で、二人を上から押し潰すような格好となった。
 き、気まずい。
 急に静かになる車内に具衛はラジオに救いの手を求めたが、FMは山間地域であるため電波が弱く入りが悪い。片やAMは音質が悪く、面白そうな番組もない。
 ——参ったな。
 すると仮名が怒ったままの顔つきでナビを操作し、インターネットラジオに切り替えてクラシックを流し始めた。
「クラシックで良いかしら」
「ええ、耳に優しければ何でも」
 具衛が素直にぶっちゃけると、仮名は思わず失笑を漏らす。
「あなたはこう言う時、ホント素直よね。誰かさんに爪の垢を煎じて飲ませたいわ」
 が、また余計なつけ加えをすると
「先生の爪の垢を、仮名さんが飲みたいそうですよ。何でしたらそのまま手を舐めて貰ったらどうですか」
 ユミさんも即座に際どい内容で応戦し、また蒸し返されてしまった。
「あなたが舐めればいいじゃないの。何で私が」
「あら、私が舐めて差し上げてもよろしいんですか? 私がそのまま先生を取るやもしれませんけど? そうなったらお困りになるんじゃありませんこと?」
 今度は急転直下で、合わせてその内容も怪しくなる。
「取るも取らないも関係ないでしょーが! だいたいあなた不倫を公言するわけ?」
「このまま長期間単身赴任が続いて、夫より男振りが良い人が現れれば、可能性は無きにしも非ずと言う事ですよ。人生なんて何処でどうなるかなんて誰にも分からないんですから」
 言いつつユミさんは「ねぇセンセ」と怪しい声色で運転席の背後に身を寄せて見せた。
「いやぁ、運転中なんで。動揺させられると困るなぁ」
 具衛は余りにも腰砕けで、ヘラヘラ曖昧な事しか言えない体たらくに甘んじ、まさに気が利かない。それがまた何処か気に障ったらしい仮名が、
「急制動急発進よ!」
 などと口汚く暴走し始めた。
「あれ程の旦那を持っていながら図々しい! だいたい草食系は嫌だって言ってたじゃないの! メロドラマの見過ぎも大概にしなさいよ!」
「大事に育んでらっしゃるところを邪魔されるのは、そりゃ面白くありませんわよねぇ」
「な、何言ってるのよ!」
「あら、意外にウブじゃございませんこと? いくら聡明でらっしゃるとて、人を毛嫌いして遠ざけていれば、その機微に疎くなると言うものです」
 が、ユミさんもユミさんで、中々容赦ない。「くっ」と口惜しさを漏らすような仮名など、具衛は見た事がなかった。反論をためらう程に的を抉られたらしい。
「如何お考えですか、センセ?」
 よく分からない振りを決め込み、事実よく分からない部分もあり、それを大義として放置しようとした具衛に思わぬ矢が刺さり
「——と、申されましても、」
 言葉がない。
 辛うじてすぐに出たのは、
「——あ」
 そんな間抜けな一言だけだった。
 ナビに従い、ちょうど町の北隣の自治体に位置する高速のインターチェンジに流入したのだ。
「しまったぁ——」
 車はその声を置き去りにしつつ、広島市の北縁を東西に走る中国自動車道に入り、一路進路を東に取る。仮名の自宅まで、ナビの表示は四〇分だった。そのパネルが左右で半分に割れており、右側は現在地周辺の拡大図、左側は出発地から目的地の全体図であり、目的地は市内中心部のど真ん中やや南寄りを示している。
「どうかしましたか?」
 ユミさんが、明らかに悪乗りした様子で後席中央から顔を覗かせると、仮名があからさまにそれを毛嫌いして首を捻り、顔をこれ以上ないくらい左窓に近づけた。
「余り妙なお話が続くようなら、私は車を降りるんでしたのに。もう高速に入っちゃいましたよ」
 具衛が真偽の定まらない事を口走ると、
「まったくだわ」
 仮名が小さく同調する。
「肉食系も程々にする事ね」
「だからたまに草食になるんですよ」
 それでも尚、ユミさんが「ふふふ」と意地悪く食い下がると、然しも仮名も閉口し黙り込んでしまった。

 自動車学校スタイルの乗車姿勢に裏打ちされた具衛の運転は、まさに教科書通りだった。速度こそ周囲の流れに任せているようだが、アクセルを踏み過ぎる事はなくエンジンは静かであり、操作のどれを取っても車内の雰囲気とは打って変わって落ち着き払い、急のつく操作をしない。まさにBGMのクラシックの如き穏やかな運転だった。一方で目の配り方は忙しく、様々な所を見てはナビ同様情報を次々更新しているかのようなそれは、落ち着きのない子供のようである。静まり返った車内は、静かなエンジン音とウインカーの音が副旋律となっており、誰も口を開かない。年齢不相応に年配の貫禄を匂わす、言うなれば妙にじじむさい具衛の運転で、無言の三人を乗せた車はナビが示した定刻通り、仮名のタワマンに着いた。
 入口の取付道路を進むと、高速道路のインターチェンジ入口に見られる進入防止用のバーが降りている。徐行に近い速度で近づくと、
「近づいたらバーが上がるから」
 そのまま進んで、と久方振りに車内に人間の声が聞こえた。どうやら登録車しか入れないシステムらしく、仮名の言うとおり、ある程度接近するとバーが上がる。そのまま地下駐車場に入ると道が二股に分かれており、一方は更に下に降りる道、もう一方は目の前に白色の綺麗な壁が迫っていた。具衛がまた、迷うように速度を落とすと、
「ドアの方に進んで」
 仮名がまた指示を出す。
「ドア?」
 と言われても、一方は道で一方は綺麗な壁である。
「ああ、壁の方よ」
 仮名に言われるまま壁に近づくと、白い綺麗な壁の一部が音も立てずに横滑りした。壁と思われたものの一部は自動ドアだったようである。
「うわ、壁が開いた!」
 具衛が驚く余り、
「開けゴマかっ!?
 千夜一夜物語の有名なフレーズを素直に口にすると、それまで黙りを貫いていたユミさんと仮名が、つい堪え切れず同時に噴いた。直後に二人とも、短く鼻を啜ったり咳払いしたりして、それとなく体裁を整える。
「一応防犯モデルマンションだから、駐車場もセキュリティーがね——」
 仮名がそれとなく説明する横で具衛は、
「これがマンションの駐車場?」
 目を剥いて無意識めいた声を漏らし、その内部の様子に呆気に取られていた。地下駐車場と言うには高い天井の空間が広がっており、道幅も、高さも、一つひとつの駐車枠も、明らかにゆとりがある。一番の違和感は明度だろう。路面こそコンクリートだがホワイトコンクリートの丁寧な仕立てであり、他三方向の壁面は一見して大理石調だ。照明がどのくらい設置されているのか詳しく分からないが、通常の照明でもこの周囲のあつらえなら明るいであろう事は言うまでもない空間は、何処ぞの商業施設の店舗内のように明るかった。具衛でなくとも、普通のマンション駐車場を想像している者なら驚く事請け合いである。
 こんな造りで——
 全戸の駐車枠が確保出来るのか。密かに疑問を呈していると、
「駐車場は地下四階層なの」
 仮名が見透かしたように補足した。
「地下二階は高層世帯向け」
 ようするにセレブ向け、と言う事らしい。
「じゃないと、一〇〇〇世帯分の枠は確保出来ないわ」
「一〇〇〇世帯——」
 堪りかねた具衛が
「うちの町より人口が多いですね」
 思わず漏らすと、残りの二人がまた失笑した。町の世帯数やマンションの人口など、詳しくは知らなかった具衛だが、マンションの世帯数からすれば感覚的には恐らくそうしたものだろう。
「この一棟でねぇ——」
 笑われるのも何処吹く風で独り言ちる具衛が周囲をキョロキョロ見渡していると、
「ここにバックで止めてくれない?」
 仮名が更に指示を出した。
 車を止めると、壁に囲まれた一角がまた突然、上にスライドする。壁に囲まれた個別枠のようだった。
「ま、また壁が——」
「開けゴマパート2ね」
 駐車枠の入口が開くと、内部は奥行きと幅は一台分には十分なスペースだが、二台は置けないような中途半端振りである。高さだけは車二台分は確保されていた。よく見ると床面の一部にほんの僅かながら隙間が見える。どうやら個別の立体駐車場になっているようだった。
「地下駐車場で個別の立体枠ですか」
 具衛が無駄に感心ばかりしている横で、仮名は少し飽きた様子で
「そのまま下がってくれていいから」
 さばさばと言う。
「車は一台しかないし」
 言われるなり具衛が車を下げると、
「ありがとう」
 仮名が素気なく、謝意を口にした。
 如何にも人の上に立つ者然とした使い慣れたフレーズ感を醸し出す仮名に、具衛は改めて階層格差を痛感させられる。
 駐車場だけで——
 まざまざと、物質的にも立場的にも仮名は間違いなく、具衛とは違う世界の住人である事を突きつけられた。
 仮名に絡まれるようになってからと言うもの、始めから分かり切っていながらも、あえてそこにはまり込まないよう、格差的観点での推測をなるべく避けていたのだが。これまで触れる事を恐れていた分、まるで元を取らされるように、自らの間抜け振りを瞬間的に思う様突きつけられ、打ちのめされたような気がした。
「どうかした?」
 声がかかり、ようやくハンドルを把持したままぼんやりしていた事に気づく。
 ——悟られたか、な。
 この辺りの機微に聡い仮名の事である。重ね重ね、不甲斐なさに苛まれながらも、
「いえ、出口は何処かな、と」
 辛うじて常を装った。
「送るわよ」
 具衛は出発前、山小屋にとんぼ返りする事を仮名に伝えている。帰りのバスの心配をする仮名に具衛は、
「主催者のバスが、町の最寄りのJR駅まで来るので」
 と言ってごまかした。
 主催者の運行するバスが駅まで来るのは事実だったが、時間的に会場方面の便はとっくに終わっている。路線バスに至っては最早言うに及ばない。実は先日の花火大会の時も「路線バスの臨時便が出る」と言う無理がある嘘をついては、市内中心部のネットカフェで仮眠して朝帰りした経緯があった。今日もその予定である。仮名に本当の事を言えば、タクシー代かホテル代が出てくる事は間違いなかったが、具衛はそこは密かな抵抗を示した。全てにおいて甘える事は、彼の中の何かに反する。また、仮名に何処かを見込まれて絡まれる以上は、何処かの部分はブレてはいけない、何処か分からないのなら、自分のポリシーは
 保持するとしたもんだろう。
 具衛は、よく分からない小物なりに勝手な解釈をしていた。つまりは、水面下での意地とか見栄とか言う、つまらない強がりしかない。
「出口まで、ですよ」
 そのつまらないプライドめいたものが、つい要らぬ一言を吐かせた。
「当たり前でしょ。ここまで送って貰った意味がないじゃない」
 具衛は今度は密かに笑む。
 他人に頼られるなど煩わしい以外の何物でもないのだが、仮名絡みだとそうは思わない自分がいるようだ。
「まぁ、いつまで二人の世界ですか。いい加減降ろして貰いたいものです」
 仮名はわざと放置していたようだが、具衛は失念していただけに、
「すみません」
 と、慌てて降車し前席をスライドする。ユミさんは返事の代わりに、
「私は先に帰らせて頂きますよ」
 相変わらず角を見せながら、先に駐車枠を出た。
「今日はお疲れ様でした」
 具衛がその背中に声をかけると、ユミさんは僅かに顔を見せて左手を軽く振りながら、何処へ行くともなく下駄の音を控え目に鳴らしながら消える。数秒後に二人が枠を出てた時には姿は既になく、壁のようなシャッターが降りたのを確認する頃には、ユミさんの下駄の音すら聞こえなくなっていた。
「まあ、逃げ足の早いこと」
 仮名が少し笑みを浮かべながらユミさんが消えた事情をはぐらかす。仮名の下駄の音に具衛がついて行くと、すぐ隣の自動ドアの向こうがエレベーターホールになっていた。
「そう言う事でしたか」
「そ」
 六機ある中の一つがすぐ開くと、仮名が躊躇せずに中に入る。その後に続いて具衛が中に入り、扉が閉じたかと思うと殆ど浮上感なく再びドアが開いた。エレベーターの表示が地上一階を示し、合わせて女性的な音声が一階到着をアナウンスすると、仮名がまた躊躇なくエレベーターを降りる。いくら上下二階層の近接階とは言え、殆どワープに近い感覚だ。半信半疑でまた具衛が続いて降りると、目の前に女性コンシェルジュが二人座っている受付があった。その二人が、
「今晩は」
 丁寧に挨拶をするものだから、否が応でも別の階である事を認識せざるを得ない。一階は受付を挟んで左右がエレベーターホールとロビーになっており、その正面は広く綺麗なエントランスだった。具衛がまた、
「はー」
 その壮麗さに呆気に取られながらも辛うじてコンシェルジュに頭を下げ、慣れた調子の仮名について歩くと、エントランスの自動ドア前で仮名が立ち止まる。
 ——あ。
 そして、出入口直前までつき合わせてしまった事に小さく後悔をした。防犯モデルマンションとは言え、中から外に出る時は、基本的にセキュリティーが影響する事はないだろう。ドアが開いた隙に、外からよそ者が入り込む事を警戒するぐらいの事だが、それは管理者サイドが頭に置く事であり、田舎者は自動ドアから出る事だけを考えれば良い。
「ここから出れるから」
「すみません、ドアの直前まで」
 具衛が情けなそうに頭を掻くと、
「今日は楽しかったわ」
 仮名が社交辞令めいた送辞を述べた。
「そうですか」
 それに合わせて、具衛も愛想笑いをして見せる。が、
「社交辞令じゃないわよ」
 仮名は感慨深そうに言う。
「ホントに」
「それは、良かったです」
「あら、誰かさんのマネ?」
 具衛が喜ぶ度、仮名が得意気に使う例のフレーズを思わず口にした具衛は、今更ながらに思いがけぬ発見をした。「他人に楽しかった」などと礼を言われた事など、今まで一度もなかったのではないか。そしてそれは、中々にくすぐったい。
「あんなに笑ったのは、ホント久し振り」
「普通の祭りじゃ、あんな事はありませんから」
「そうなの?」
「獲得した景品を元手に、参加者自ら催し物をするなんて、聞いた事ありませんよ」
「まぁ、そうよね」
 仮名は表情を和らげたが、すぐに曇らせた。顔を背けながら、
「帰りの道中があんな事になってしまって」
 悔しさを滲み出す。
「あなたの言うとおりね」
「え?」
「帰るまでが祭り」
「いえ、生意気でした」
「ちょっと表まで出ましょうか」
「え?」
「ドア」
 具衛が自動ドアの前で立っているため、気がつくと自動ドアが開いたままになっていた。このドアの向こうにも更に自動ドアが二枚あり、直ちにセキュリティーに影響はないだろうが、遠目ながらもコンシェルジュの目を気にした仮名が、具衛を表へ誘う。
「あ、帰ります。明日が早いんでしょう?」
 明日は早朝から出張だと言っていた筈だ。時刻は既に午後一一時を過ぎている。具衛が慌てていそいそと外へ出て行くと、
「いいから!」
 仮名が語気強く呼び止めた。
「え?」
「あ、いや」
 思わぬ呼び止めに驚いている具衛と、ばつが悪そうに口を濁す仮名のその横を、自動ドアの内外から人が出入りする。広島の中心部だけの事はあり、休日夜間のこの時刻にして、人車の出入りはまだそう途切れたものではない。仮名の浴衣姿は確かに見映えはするが、これでは流石に浮いて見えてしまう。
「ほら、邪魔になるから」
 言うなり仮名は、勝手に外へ出て行った。具衛もその後をついて行く。中も中なら外も外で、ビジター向けの車寄せと平面駐車場は、地上二階にある周辺施設へ連絡する広大な歩道の下にあり、その整然たる機能美は、高級ホテルのそれと遜色なかった。天井の位置は高く、通常の地上三階と変わらないその下にある立体駐車場は三階層のビジター用で、隣の敷地と広い車寄せを隔てる壁替わりとなってその一角を占めている。その車寄せには、中の受付には見られなかった警備員が一人立っており、人車の出入りに目を配っていた。その警備員から少し離れた所まで足を向けると
「つい甘えちゃうのよね」
 仮名は突然足を止めて、独り言ちるように口を動かした。
「え?」
「ユミさん。本音で話せる人、少ないから」
 そのユミさんと拗れた事から、
 これは何やら——
 話を聞け、と言う事のようだ。
「はぁ、そうですか」
 が、気の利いた事が言えない具衛は、すぐに何かを答えようとする余り、如何にも間の抜けた冴えない相槌を打ってしまった。
 ——う。
 仕事以外で、人から相談めいた事の相手をさせられるなど、まるで経験がない具衛である。そんな自分の至らなさを痛感すると同時に、夜だと言うのに嫌に喧騒が耳についた。街の中心部ともなると、夜でも音が絶える事がない。大通り沿いのエントランスは、やや声が拾いにくかった。
「山の人には少し賑やか過ぎる?」
 またしても察しの良い仮名に悪戯っぽく笑われると、具衛は苦笑いをするしかない。
「これでも何か月か前までは、東京の人間だったもんですが」
 何の気なしにそう口にして、その自分の口振りに少し驚いた。
 口が——
 軽くなっている。
 他人に自分の過去を話そうとするなど、実は殆ど覚えがない具衛である。密かに焦る向きを隠していると、
「ちょっと庭へ行きましょうか」
 仮名がエントランスから、裏手へ足を向けた。すぐに見えて来たのは、エントランスと同程度のだだ広い緑地である。頭上にはあった歩道の天井はなくなり青空天井だ。流石に山のように星は見えないが、街の中心部にしては不釣り合いなその広さと色彩を湛える庭には、四阿やベンチが設けられている。天気の良い昼間なら、青空ランチに良さそうだった。
「ここなら、少しは落ち着くでしょ」
 仮名はベンチまでは足を運ばず、とりあえず緑地の縁で足を止めた。腰を下ろす程、話し込むつもりはないのだろう。
「こんな緑地まであるんですね」
 と、とりあえず言ってみた。
 確かに青空ランチには良さそうな所だが、今は深夜帯である。裏手ともなると、流石にこの時刻では人影も見当たらない。
「都心のタワマンだと、ここまでやるような所は流石にない、ですかね?」
「そうね」
 その深夜の緑地へ誘い込んで何のつもりか、誘い込まれて何としたものか。
「ここなら気にならないでしょ?」
「え? 何が?」
「何って、騒音よ」
「あぁ、そうでした」
「そうでした、って——」
 そうか誘い込まれたのは騒音が理由だった、などと、思わぬ失念に色々動揺が積み重なる。
「ちょっと健忘症が、はは」
 慌てて苦しい言い訳をしてみたが、
「何を考えたものかしらね?」
 やはり仮名は、かなりの高角度でお見通しのようだった。
「それとも健忘症になる程、日頃何かお悩みかしら?」
 それを、
 ——あんたが言うか。
 今や厭世の山奥暮らしの具衛に大した悩みなどあろう筈がない。あるとすれば、それを尋ねた本人との境界線の位置だけである。
 春先までの具衛の東京暮らしは、心身共に中々ハードだった。それが今や、喧騒が耳につく程に、都会暮らしは遠い過去になりつつある。その過去は、人の中に生きながらも今と変わらず孤独な過去だった。その過去を、
 誰かに——紐解く?
 それは具衛にしてみれば、有り得ない。
 梅雨時に仮名の事故に遭遇した日は、単なる通りすがりの場繋ぎのつもりで少し開示しただけだ。ここまでのつき合いになるなど完全に想定外であり、今やその間柄は立派な知己の部類になってしまっている。
 そうとも——
 困っている。
 言葉を交わし続けていると、情が移ってしまう。これ程の美人だ。高飛車だのせっかちだの、そんな欠点などつい目を瞑りがちになる。ぶち壊すつもりなら、とっくにやって終わっている。それをせず当たり障りなくその意を汲んでいると、どうしても気がつくと好意的に接しようとする向きが強くなってしまったものだ。そうなってしまうと、過去が重たく伸し掛かり始める。余り語りたくない過去が。自分に纏わりつく業が。それを口にしようものなら大抵の人間は構えて、引いて、離れてしまう。そんな過去でそんな業だ。当初は、それを知られる事など構いもしなかった。人間の会話など人の噂が七割を占める、とまで言われる。その口に蓋など出来ず、具衛の素性など、何処へ行っても気がつくと周囲は皆知っていた。そうなると好意的な向きはほぼ皆無となり、大抵は悪意を含んだ好奇に晒され、孤立を招いたものだった。そんな事を何度繰り返して来たものか。今回もきっと、
 そう言う落ちだろう。
 そう思っていた。
 それがどうだ。お互いに素性を隠したつき合いなものだから、今のありのままを晒すのみで、過去に触れる機会が全くないではないか。そうなると少しずつ、しかして確実に、知れば知る程、もっと知りたくなってしまっている。今を象るその為人は、どのように形成されて来たものか。その過程が気になり始めてしまっている。片割れの具衛が思うのだ。相手方の仮名も、程度こそ違えども感じるところはあるだろう。今になって、それを知られる事は、具衛にとっては何を今更だ。
 そんな事になるのなら、なぜ知己になる前にスッキリ終わらせてくれなかったのか。これではまるで、何かの期待を膨らまされて、大きくなったところで割られて笑われる何かのコントのようではないか。どうせ膨らまされたのであれば、大きくなった先に何があるのか、今は只それが知りたい。いつか何処で割れるのか。それとも限界まで膨らみ続けるのか。その後は膨らんだままいつか宙に浮くのか。中身を吐き出しながら勢い良く飛び回った挙句、また萎むのか。それとも膨らむだけ膨らんで、静かに萎む何て事もあったりするのか。
 何にせよ今ここで過去や業を知られては、この風変わりな関係性は、きっと終わってしまう。それには、お互いの素性を伏せたままと言う、今のありのままを当たり障りなく、まさに仮名で呼び合う間柄が都合が良いのだ。当初は殆ど仮名の都合でしかなかったそれが、ここへ来て具衛にも只ならぬ好都合をもたらし始めている事を認識すると、具衛は動揺した。この歪な間柄を続けて行く事を望む自分。仮名の為人に興味を覚え、その過去やより詳細な素性を求め始めている自分。只、それを求めると、同時に自分も身包み剥がされた挙句、構えられ、引かれ、そして離れて行く。
 俺なんて——
 そんな過去で、そんな業の持ち主だ。結局は、見事なまでの
 ——堂々巡りってヤツ。
 だった。
「ちょっと」
「え?」
「何か、本気で悩んでる訳?」
「え?」
「さっきから『え』の疑問形ばかり」
 どうやらしばらく黙り込んでいたらしい。仮名がわざとらしく不機嫌面をしながらも、また何処か悪戯っぽく笑んで見せた。
「いえ、別に」
 具衛はまた苦笑いする他ない。こんな事、口に出来る訳もない。
 ——そうとも。
 困っている。その堂々巡りの原因の片割れに。
「別にって——」
 こうして言葉を交わし続けていると、憎まれ口でさえ思いがけなく恋しくなってしまうその声に。その凛として弾むような声が、
「そうバッサリ切られると、取りつく島がないわね」
 小さく呆れて溜息を吐いた。
「切ったつもりは——」
「詐欺師のくせして舌足らずね」
 今度は失笑する。
 取りつく島と言われたところで、身軽さだけが取り柄の身だ。
 そんなもの——
 島はおろか、陸地めいた物など何一つない。文字通り、絶海を揺蕩う葉っぱのように気楽にふらふらと、そんな拙さでしかない。用意したところで、思う様侮蔑され蹂躙されるだけだったその前半生が、具衛をそうさせたのだ。
「——なんて。そう言う私も、実はね」
 そんな誰にも言えない鬱憤を、俄かに心中でたぎらせ屈折めていると、仮名のその思いがけない独白が、それに添え木をした。
「え?」
「取りつく島なんて。何処の口がどの面さげて言ったものやら、分かったもんじゃないわ」
「そう、なんですか?」
「仕事上のつき合いはあっても、プライベートは全然だし」
「そうは見えませんが」
 こんなマンションに住んでいながら、島がないとはそれこそどの口が言ったものか。具衛は訝しむが、
「島はあっても、取りつける所は用意してないの」
 仮名はあっさり具衛の思考を読み、そして認めた。
「いつも自信に満ち溢れていて、社交的のように見えるんですけどね」
 具衛が素直な感想を述べても、
「それはビジネスの延長上の姿ね。プライベートはあなたとユミさんだけだし」
 仮名は何処かしらふっ切れたようにつけ加える。
「ホントですか?」
「だからホントなんだってば」
 なんだか子供染みた安っぽい何かの信用論の様相になり、少しの間会話が途切れた。ややあって具衛が迷った挙句
「ユミさん、大丈夫ですか?」
 俎上に上げると、仮名は目を剥く。
 すぐに今にも噛みつきそうな顔をしたが、口を真一文字に結んで何かを息を止めたかと思うと、
「——今度、謝っとくわ」
 小さく吐き出して、ぼそりと呟いた。
「そうですね」
「あなたにも——」
「え?」
「ごめんなさいね、見苦しい言い争いを見せちゃって」
 一気に捲し立てられる。
「折角連れて行って貰ったのに」
 捲し立てないと言えなかったようで、仮名は言い切るなり何やらそっぽを向く。
「今日の埋め合わせは、また今度させてもらうから」
「え?」
 かと思うと、また具衛に向き直し
「じゃ、私、明日早いからこれでね」
 一方的に突き放すように言うと、
「気をつけて帰りなさいよ」
 と言い残し、裏手側にあるサブエントランスの中に消えて行った。
 今日のお礼って——。
 そのやっつけ気味の畳み方に呆気に取られた具衛だったが、確かに仮名の言う通り、もういい加減夜も更けている。サブエントランスでさえ二重構えのセキュリティードアを潜った仮名が、確かに摩天楼の中に消えたのを見届けてから、具衛も玄関を後にした。
 埋め合わせ、
 ——と、言われても。
 確かに今日のホストは具衛だった。だったのだが。
 そんな事——。
 埋め合わせとか、貸し借りとか。何処かしら一歩引いたその表現は、要するに、次なる伏線のための婉曲なのだとしたら。それが矜持を保つための見え透いた取り繕いである事は、何となく分かって来たものだ。では、そうまでして、足繁く顔を覗かせるその本心は何なのか。それを知ろうとすると、歩速以上に呼吸が速くなった。何かは分からないが、それは未だ膨らみ続けている。
 具衛は少し嬉しかった。

 九月に入った。
 山小屋周辺は既に初秋めいており、明らかに市内中心部の暑気とは一線を画した涼気を帯びていた。真琴は相変わらず、週に一度は仕事を早く切り上げて山小屋を訪ね、そこの主とたわいない会話を挟みながらも移り行く景色を愛でている。平日の夕方にも関わらず、山間と言う事もあり常に日常感に乏しい。目の前に広がる牧歌的な田園に人の姿はなく、柔らかく白んだ風景の中を涼しげな風が抜けては、少し黄味が増した稲穂を揺らして行く。蝉の鳴き声は遠くなり、山小屋周辺の林間を抜ける風の音が大きくなったこの頃、縁側に吊るした風鈴が景気良く鳴るようになった。盛夏に慣れた身体としては、風と言い音と言い清涼この上ない。風鈴は、先生が盆踊りで射的屋からせしめた景品の余りである。欲の薄い先生は物を持ちたがらず、唯一持って帰ったのがこの風鈴だった。
「風鈴が賑やかになったわね」
 相変わらずと言えば先生も同様であり、いつも居間の中央にある座卓で、真琴を放置し本を読んでいる。この日も同様に、客をほったらかしては座卓にしがみついて、図書館から借りている本を静かに読んでいた。
「しかしあなたも欲がないわね」
 射的屋の景品を殆ど根こそぎ取ったのだ。こう言ってはなんだが、暮らし振りはお世辞にも裕福には見えない。それこそ、
「売れそうな物は、換金すれば良かったのに」
 である。百均商品の延長のような物に紛れて、ネットオークションに出品すれば、それなりの値がつきそうな物も実はあったりしたのだが。
「そう言う物は、ガキんちょ共の餌食でしたし」
 まあ私は本があれば、などと相変わらずブレない本の虫振りだ。
「あ、そ」
 人が良いと言うか——
 何と言うか。真琴は軽く溜息を吐いた。真琴が企画した景品争奪大会でも、大物は子供に限らず、子や孫の命を受けた親世代、爺婆世代も喰らいつきが良く、その白熱振りは凄かった。が、大人が獲得しそうな場では、真琴が物の見事に文字通り、最強の横槍を入れ続け、掻っ攫い続けたものだったのだが。
「そう言うあなたこそ、あれだけ横槍を入れたのに、一つしか持って帰らなかったんでしょ?」
 何持って帰ったんです? と先生が不意に不思議そうな顔をする。
「な、何も持って帰ってないわよ」
 実は持って帰った物に、少し痛い向きの心当たりがある真琴が、不覚にも噛んだ。
「ユミさんが、何か大事そうに巾着に入れてたって、言われてましたけど」
 ——よ、余計な事を!
 思わず小さく舌打ちをした真琴は、
「フーリンよ! フーリン!」
 とりあえず感全開で、顔を背けながら忌々しげに吐き捨てた。
「そうですか。良いですよね、風鈴」
 が、先生はそれ以上勘繰る事なく、いつも通り素直に、柔らかく答えたものだ。
 ホント、素直と言うか——
 何と言うか。近頃、この素朴な詐欺師の雰囲気の、思わぬ心地良さに気づいたものだったが、一方でそれを認めまいとする思いもあるようで、心臓の動揺を覚えるのと同時に口が歪み舌打ちしたくなる。
「お陰様で、獣が寄りつかなくなりましたよ」
 先生はそんな事などまるで気づきもしない様子で、真琴の言葉を額面通りに受け止めては、淡々と口を動かすのみである。
「獣?」
 下手に勘繰られる事を思うと
 まあ——
 楽は楽なのだが。
 とりあえず、その話に乗っかる事にした。
「狸とか鹿とか猪とか」
「猪って危なくない?」
 真琴が顔を向けて先生を一瞥するも
「接し方さえ間違わなければ、そこまで危なくは」
 などと言いつつ、すぐ本に目を落とす。
「ある農家さんなんて、飼ってる方もいますし」
「ん!」
 油断していた訳ではなかったが、真琴は出された茶を啜ったタイミングで、聞きなれないフレーズに思わずむせてしまった。
「大丈夫ですか?」
「あなたがまた——」
 咳が絡んで後が続かないが、言いたい事は先生に伝わったようで、
「ウリ坊から飼うと、良く懐くらしいです。私も撫でさせて貰いましたけど、立派な成獣なのに、意外に大人しく撫でさせてくれたもんですよ」
 呆気らかんと答えた。
「ふーん。聞いた事ないわー」
 喉を取り戻した真琴は、首を捻りながら素直な感想を述べる。
「全国的には、ちょこちょこあるみたいですよ」
「猪って、飼える——のか」
 素直な疑問を俎上に上げたものの、真琴は一人で納得した。適法に捕獲された場合、つまり狩猟期間中に捕らえた物なら基本的に
「何ら届出や許可は要らないみたいですよ」
 とされており、その根拠法は主に、
「狩猟法絡みに反しない限り?」
「鳥獣保護法とも言いますね」
 が挙げられる。
「ホント一々ここは、興味が尽きる事がないわ」
 少し喉の予後を気にする真琴に、先生はくしゃりと笑みながらも、
「そう言えば、熊はまだ見てないですね」
 また只ならぬ事を呟いた。
「まさか、熊飼ってる人は?」
「この近辺では、流石に聞いた事ないですね」
 が、広域的には、実はない事はないそうである。因みに熊を飼う場合、日本では
「環境省令——か」
「特定動物でしょうから、届出や許可も必要ですよね」
 危険な動物を飼う際の根拠法は、外来生物法などにも見られるように、基本的には届出や許可を要する。
「外国では、熊と仲良く暮らしてる人がいますよねー」
 自分よりも遥かに大きい熊と暮らす人の例を挙げながらも、先生は
「猪は、ウリ坊なら飼ってみたい気もしますが。熊は、流石にちょっと」
 人ごとを良い事に、カラッと笑って見せた。
 やはり——
 法に明るい。
 この頃では、先生が法に嗜みがある事は最早疑いようがない。真琴はまた素性の推理を働かせる一方で、
 色仕掛けにも随分慣れて来たのかしら——。
 目の端でにこにこする先生を捉えながら、僅かに頬を紅潮させた。真琴は断じて色仕掛けをした事はない。のだが、先生が見惚れたような反応を示しては、自虐的にそのように定義づけるようになった。事実、先生が挙動不審になるのだから、その気はなくても間違いではない。その気はないのだが、その気をひけらかす事を、この稀有の美貌を携えながらも中身は男以上の肝を持つこの女傑は常に嫌った。それは典型的な同族嫌悪と言うヤツであり、見た目ばかりに囚われ、男の気を引こうとする中身が空っぽの女と、そんな女に引かれるバカな男と言う構図が世の中の大数である事に呆れ、では自分は聖人ではないにしてもそんな安っぽい人間ではない、と抗うのである。
 身形は良品で固めるものの、デザインはシンプルであり素気ない。最も化粧だけは自己分析でも年々濃くなって来ているように感じるのだが、これは恐らく気のせいではない。何処かでリセットしたい思いもあるのだが、中々きっかけが掴めないでいる。結局、これでは世の大数と同じだ、と分かっているのだが。現時点では気の持ち様だけでも断じて違う、とするに甘んじている。
 と、自分の事はこれぐらいにしておくとして。先生が慣れてきたのか、色気が乏しくなったのか。何にしても真琴には、それは歓迎すべき傾向だった。見た目だけで擦り寄って来る男は、いい加減見飽きた。財を目当てに絡んで来る連中は、吐いて捨てる程に吐き捨てて来た。真琴に近づく世の男共は、大抵このどちらかのパターンであり、先生はどちらに転んで捨てる事になるか、何となく気にはしていたのだが、今のところ一風変わった可愛気なこの男はこのどちらでもない。身体目当てで手を出す事もなければ、金目当てで何かアクションを起こすでもない。所謂、そのずば抜けた魅力ゆえ、何らかの野心を持つろくでもない男達に絡まれてばかりだった真琴の人生において、先生は極めて平凡な男だった。これが世に言う極めて常識的な男とも言うべきなのだろうが、ろくでもない男達のせいで歪んでいる真琴にしてみれば、回り回ってその様は、単なる意気地なしにも負け犬にも映る。その熱量のなさからすれば、文字通り草食系と表現する事も出来る先生は、真琴にとっては明らかに異質であった。
 先日の盆踊りの帰りに真琴のマンションが発覚したにも関わらず、先生は全くと言って良い程その後の追及をせず、その立ち位置を変える事はなかった。既に知己の間柄となっている二人の関係性は、依然として三か月が経過した今も尚、仮名と先生なのである。今までが擦り寄られるばかりだった真琴の性別を問わない交友関係において、プライベートで先生のような放置、不作為が常と言う人間は初めてであった。
 となると、自分が能動的になるとこの男は
 どうなるんだろう——?
 と、最近俄かに気になり出している。
 人嫌いのこの私が?
である。
 本に目を落とす先生を、それとなく横目で捉えて観察する。朧気な優面で力感に乏しく、まさに草食系の代表格なのだが、実は有事にそれなりの立ち回りが出来る男である。しかも、それに良い結果を伴うと言うおまけつきだ。その見た目とのギャップが非常に興味深く、そうした男が自分が能動的に、極端な言い方をすれば籠絡しようとするとどうなるのだろうか、などと思い出している。そんな思惑など何処吹く風の先生は、今日も例に違わず、目の前の稀有の美女を放置して本に没頭している。その顔が余りに穏やかで、武芸に覚えがある真琴の意表をつくような男には到底見えない。
「どうかしましたか?」
 気がつくと、つい先生を見入っていたようだ。悶々と思いを巡らせていたとは言え、思わず見入るなど不覚にも程があり、自分の中でさえ認めたくないのだが、瞬間で無駄に跳ね上がった心音が逃避を許さない。
「いや、何を読んでるのかな、と思って」
 と言ったところで、不自然に視線を逸らした。その尋ね方の軟弱さが実に自分らしくなく、その有り得なさ振りに、顔の辺りが火照るのを感じざるを得ない。
「かな」って何よ「かな」って。
 そんな自分など、自分自身で見た事も聞いた事もない。
「これはライトノベルですよ」
 先生はやはり、そんな真琴の機微など露知らずの調子で、すぐにまた本に目を落とし当たり前に答えた。
「日本のライトノベルはレベル高いですよねー」
 などと嬉しそうに言いつつも、目は本を捉えたままだ。
「そう」
 先生が本に目を落としたままなのを幸いに、真琴は口先だけは平生を装った。恐らく少し気にして見られたならば、高揚のため顔が赤くなっている事がバレたに違いない。
「ユミさん」
「え?」
「どうなりました?」
 それは完全なる不意打ちだった。
 先生が、盆踊りの帰りの口喧嘩の事を言っているのは分かったが、あれから大方三週間は過ぎており、真琴の中では既に終わった事になっていた。
 実は由美子とは、あれ以来冷戦状態に突入してしまい、余りの気まずさから何日か前に、長年溜まりに溜まった有休消化の名目で一方的に帰郷させている。今後の事は未定であり、そのまままた本家家政士に復帰と言う事になるかも知れなかった。迂闊にも辻褄合わせを考えおらず、不意打ちを食らった格好である。当然謝罪もしていよう筈がない。
「——謝ったわよ」
 現況を思い出す余り、感情が少し出てしまい、吐き捨てるように言ってしまった。忌々しさを辛うじて堪え、謝ったと言う事にする。どの道「ユミさん」の出番は、恐らくもうないだろう。ユミさんはこれで幕引きだから、謝った事にしておけばよかった。
「仲直り出来ました?」
「ええ」
「そうですか」
 先生は言う事を言うと、
「良かったですね」
 また本に目を落とす。
 ——良くない!
 真琴にしてみれば先生の一言で、思い出したくない事を蒸し返されてしまった。久し振りに一人暮らしに戻って約一週間になるが、真琴は家事をこなす事には何ら不自由しない手性の持ち主である。私生活の家事レベルは、然程落ちてはいなかった。が、仕事は相変わらずキリキリ舞いであり、その状態で帰宅して全部一人で完璧にこなそうとすると、やはり少し無理が生じている。余暇の時間は半減以外になってしまっていた。それがストレスとして蓄積されている感が、既に現れ始めているのだ。如何に由美子に依存していたか、と言う事を痛感させられている今日この頃だったりしていた。ストレスもそうだが、何より体が疲れるのも否めない。しばらく人に任せていた分の報いである。慣らしていくしかなかった。
 そして何より、やはり一人は寂しいのだ。
「何か、まずかったですか?」
 蒸し返された結果、表情に出てしまったらしい。
「別に」
 真琴は図星を突かれ、思わずそっぽを向く。
「何か怒ってるような」
「怒ってないってば!」
 その稚拙な言葉の応酬に我に返ると、後から遅れて小っ恥ずかしさが押し寄せて来た。
「ごめん」
 真琴は相変わらずそっぽを向いたままだったが、素直に詫びが口をつく。この情けない感情的なやり取りが、また実に自分らしくない。由美子との関係は修復困難であり、どうなるか分かったものではない。そんな中で先生とも喧嘩別れしてしまっては、心地良さをまた一つ失う事になる。負の連鎖だけは避けたかった。
「いえ」
 殆ど八つ当たりに近かったにも関わらず、先生は相変わらず穏やかだ。ここ最近の鬱憤を、この男にぶつけてはいけない事は分かっている。分かってはいるが、このままではズルズルとぶちまけそうな気がしてならない。それに加えてここ数日、何故だか妙に体が火照る。
「今日はそろそろ帰るわ。いつもありがとう」
 せめて普段は言わない事を添えて、真琴はすっかり夕暮れが早くなった山小屋を後にした。

 九月下旬。
 シルバーウィークにもなると、山小屋はあっと言う間に秋めいて来た。日中でも涼しいのは当たり前で、朝晩は肌寒さを覚えるようになると、今から冬の厳しさが怖くなる。具衛は相変わらず、世間から置き去られたような生活を営んでいたが、一つ重大な変化があった。仮名と連絡がつかなくなったのだ。正確にはメールが届かない、と言う事なのだが。
 当然、几帳面に毎週半ば辺りに仮名が山小屋に来訪していたのも、先週は何の音沙汰もなかった。山小屋で非番日に心置きなく読書をしている具衛が、気がついたら本から心が離れている事が何度となく続くようになり、気がついたら、仮名が最後に来訪してから二週間が過ぎていた、と言う訳だった。
「どうしたんだろう」
 何の気なしに一人で声に出してみると、山小屋の中を抜ける風が風鈴を鳴らして声が掻き消された。
 風鈴は——もういいか。
 軒にかけていた風鈴を台所に移す。
 座り直してまた本に目を落としたが、何を読んでいるのか余り内容が掴めなかった。
 具衛は長年の読書癖からか速読の部類であり、一日中読む機会があれば物にもよるが、文庫本なら軽く二、三冊は読み込む人間である。山小屋暮らしを始めてからは邪魔が入らないため特に読むペースが早くなり、頻繁に町の図書館に押しかけては、早い段階で顔馴染みになっていた。
 そんな男が本に目を落としても、その内容を掴めない。
「うーん」
 ついに本を閉じて、座卓の傍で後ろ頭に手を組んで仰向けになった。本を読んでも内容が頭に入って来ないなど、これまでの人生では経験がない。理由は、頭の中でははっきり認識している。寝転んだかと思うと、がばっと起き上がり、縁側の右端に目を移した。仮名の姿を思い起こそうとするが、中々上手くその残像が捉えられない。徐にそこへ擦り寄って見たが、やはり右端には座れなかった。そこは既に、仮名のプライベートスペースになってしまっている。今ならそこから、見頃を迎えた彼岸花が、川土手を始め農地の畦や林地の端などそこかしこに咲き乱れている景色を見る事が出来る。
 儚気で綺麗だな——。
 日本では秋の彼岸に咲く彼岸花が、畔、土手、墓地などに咲き乱れる理由は、人為的に植えられた事による。彼岸花の鱗茎(球根)には毒があり、土を掘り返して土地を荒らす習性があるモグラや鼠などが、それを嫌がり寄りつかなくなるのがその理由だ。具衛はこの事実を、やはり農作業の手伝い先で聞いて知った。世の中本当に、
 知らない事だらけだ。
 仮名ではないが、このような山奥でも、この世の興味は尽きる事がない。それでも、
 人嫌いは変わらんけど。
 その具衛が嫌うと言う人の都合で植えられたにも関わらず、彼岸花は墓地でよく見ると言う理由から「死人花」や「地獄花」など、芳しからぬ別名を多々持つ事で知られるのであるが、花言葉もまたそれを強く連想させる。色によって異なるのだが、一般的によく見られる赤い彼岸花の花言葉は、情熱、独立、再開、諦め、悲しい思い出、思うはあなた一人、また会う日を楽しみに、などであり、やはり何処となく悲壮感がつき纏い良いイメージに乏しい。
 極めつけはその迷信であり、
「彼岸花を家に持ち帰ると火事になる」
 とか
「彼岸花を摘むと死人がでる」
 など、思う様言いたい放題の挙句、総仕上げ的な散々のひどい扱いである。それでも彼岸花は健気に、そして几帳面に、害獣対策をアピールしつつ、毎年秋の彼岸に全国各地で咲き乱れるのだ。晩夏初秋の儚気なこの風物詩を、仮名はきっと、薄く感嘆しながら目を細めて愛でる事だろう。その花言葉は、仮名のためにあるのではないかと思える程、そのイメージをよく捉えているように思えた。
「情熱、独立、再開、諦め、悲しい思い出——」
 スマートフォンで調べたその花言葉を、小さな声で一人読み上げる具衛は、その後に続く言葉からは思わず黙読に切り替えた。そして、盛大に一つ嘆息して、また仰向けに大の字になる。そこまで気になるのならメールを送れば良いだけの話である。が、その踏ん切りが中々つかない。メールのやり取りこそするようになった二人だが、その内容は只の連絡用であり、発信するのは仮名ばかりだった。対する具衛は返信するばかりで、実は未だに発信した事がない。
 俺なんかが——
 送っても良いものか。
 悩んでいるのは、ズバリそこである。いずれは捨てられ、忘れ去られる身である。既に山小屋ブームが過ぎ去ったのではないか。それへ向けて、嬉しげにどの面さげて何を打って送ると言うのか。などと、後ろ向きな発想には事欠かない。大体、これまでの展開が出来過ぎだったのだ。単独事故で知り合い、以後何故か絡まれるようになり、トントン拍子に花火大会に盆踊りと、何やらお出掛けめいたものにまでつき合わされるようになった。何を意図したものか相変わらず分からないが、相手は只ならぬ美女である。嬉しくない訳もなく、その有り得なさにこの世の事ではないのではないか、何かしら騙されているのではないか、少なからず疑心暗鬼も経験したものだ。
 目の前にありながら、数える程しか足を向けた事がなかった中山神社にも、何となく足を向ける事が増えた。鳥居の左右におわす白狐さんの様子が気になったのだ。何度か通っていれば、その変化に気づく事もあるだろうとして、盆踊りの後何度か参拝したのだが、特に異変は見られなかった。像がないとか壊れているとか、濡れているとか汚れているとか。何度か通ったところで何ら変化はなく、一対で鳥居の左右で鎮座する様子に何故か安堵したものだ。普段はまるで人が寄りつかない山奥の神社である。定期的に神主である大家が掃除に来るとは言え、何となく雑然とした感は否めない。暇な身である具衛は、何となく参拝がてら掃除をするようになった。それでも特に、白狐さんに変化が見られる事はなかったのだったが。
 ——まあ、流石に。
 この世の当たり前な出来事であるとして、肯定する事に無理はなかったものの、やはり余りにも出来過ぎの展開は、正直怖くもあった。これから自分は、
 一体何に巻き込まれようと——
 しているのか。
 このまま捨てられて終わり、と言う展開以外にも、起こり得るシナリオが存在するものなのか。少しずつながらも、何処かしら良好なものになり始めている二人の関係性は、その維持の拠り所が素性を伏せたつき合いと言うから、男の具衛からすれば意外と言う他なかった。
 当初は、得体の知れない男を怪しまない女がこの世に存在するものなのか半信半疑だった。それを女の身である仮名が継続して望む向きを崩さない、と来ている。そう言う意味でも仮名は規格外だった。具衛が知り得る女と言う生き物は、往々にして保守的だったものだが。一見して、既成概念に抗おうとする強い意志が目立つ一方で、現代の日本女性から失われつつある玲瓏たるその所作の美しさは、どういう過程で培われたのか。等々、興味は尽きない。
 俄かに盛り上がって来たところで、急に梯子を外す事はあっても、梯子を放置するような事を仮名がするようには思えない。何らかの理由を律儀にこじつけては、具衛に絡んで来た仮名である。何にしても、一言を惜しむようには思えない仮名の為人からして、連絡がない事にも、必ず何らかの理由がある筈だ。とりあえず今は、そう思う事にした。
「今日ならブドウがあるのにな」
 農家の手伝いで貰った「三次ピオーネ」である。黒葡萄の一種で、広島県の県北三次市の名産品であり、ご当地では「黒い真珠」と称される高級ブドウの一つだ。強い甘みがありながら爽やかな酸味、すっきりとした味わいを有し、大粒なのに身が詰まっており果汁が豊富、と言われる。
 海外出張でも行ってるんだろう。
 非番日で早風呂を済ませ、後は晩飯だけの身である。台所へ立とうとしたその時、座卓上に置いていたスマートフォンが、素気ない音で一回鳴った。飛びつくように慌てて確かめると、待受画面に「仮名」の表示がある。
「来たっ!」
 急に胸が高鳴り、体温が上がるのを感じたが、誰もいない山奥だ。素直にそれを受け止めつつも、嬉々としてスマートフォンを手に取った。それ程までに、仮名の素気ないメールに依存してしまっている自分がいる事は認めざるを得ない。今はとりあえず、捨てられる運命を考えず、
 やっぱり海外出張だったか。
 勝手な推測を膨らませながらメールを開封する。そのタイトルに
"病み上がり"
 とあった。

 同じ日の夕方六時過ぎ。
 お馴染みのTシャツ、綿パン、サンダル姿にリュックサックを背負った具衛は、仮名のタワマンにいた。サブエントランス前の緑地にあるベンチに所在なく腰を下ろして一休みしていると、中からチュニックワンピースとワイドパンツにサンダル履き、と言う軽装で出て来た仮名が、如才なく具衛の姿を見つける。具衛の出立ちが、いつもながらはっきりしない色味である事は最早言うまでもないが、今日は仮名もはっきりしない色味である。全体的に淡いカーキ色、と言えば収まりがつくであろう地味な色合いの服は、着飾らない部屋着である事を物語っていた。
 仮名が近寄って来るのを押し留めるように、具衛が素早く立ち上がって仮名に迫る。
「何か、ダッシュが効いてるわね」
「もう外に出ても大丈夫なんですか?」
 具衛がサブエントランスのすぐ外で仮名を捕まえたため、自動ドアは開いたままになった。仮名が自動ドアのセンサーの範囲から外れるように横滑りする。
「出て良いも何も、押しかけられたらどうもこうもないじゃないの」
「ええっ!? そうなんですか!?
 具衛があからさまに怯んでたじろぐと、
「大丈夫。昨日お医者様から、一応完治の診断は貰ったから」
 そう言う仮名は、気のせいか少し細っそりしたように見えた。
「そもそも表に出られないようなら、押しかけさせないわよ」
 流行性耳下腺炎。ムンプスウイルスの感染に伴い発症し、一九六七年のワクチン開発以前は、世界的な小児疾患の代表選手だった。途上国では今日でも脅威となっており「おたふく風邪」と言う通称名は、日本でもお馴染みである。が、仮名は未だに馴染みがなかったらしく、この度見事に感染したのだった。
 盆踊りの後、具衛が勤める施設に入所する射的屋事件の被害者である件のショウタが、おたふく風邪になった。どうやら盆踊り当日から既におかしかったらしく、祭りに行きたいがため無理をしていた事が発覚したのは、当の本人が帰所後に高熱を出し周囲を慌てさせた事による。不思議と他の子供には感染しなかった。どうやらそれを、免疫を持たない仮名が一身に貰ってしまっていたようだと分かったのは、今夕の仮名からのあのメールで知らされてからだ。
 大人になってから罹るおたふく風邪はひどい、と言う都市伝説があるが、これは正しいらしい。何もおたふく風邪に限った事ではないのだが、大人の方が体内に入ったウイルスに抵抗する力が強いため、その反動で症状が強く出てしまうのがその理由、だとか何とか。
「うちのショウタのヤツが、飛んだご迷惑をおかけしてすみません」
 具衛は周りを憚らず、深々と頭を下げた。おたふく風邪と分かっていれば、施設側はまず祭りには連れて行かなかったのだが、人は欲のためなら嘘をつくものだ。精神が未発達な子供時分は、特にその傾向が強いと言う事を鑑みれば、子供を預かる施設の職員なら本人から申告がなくても、そこは何らかの異変に気づかねばならなかった。具衛も祭りの最中に見かけたのであるから、施設職員の端くれとは言えその過失は免れない。ショウタの元気そうな様子に、まんまと騙されてしまったのだ。
「そんな。あの子の事を悪く言わないであげてよ。あの子だってなりたくてなったんじゃないんだし」
 とは言うものの、大人のおたふく風邪の重症化は、厄介な合併症も引き起こす事がある。脳炎を引き起こす髄膜炎や、精巣炎、卵巣炎になると子供が出来なくなったり、難聴の後遺症を患う事もある。事実仮名も無菌性髄膜炎を発症し、昨日まで丸々二週間自宅療養していたらしい。無菌性髄膜炎は所謂風邪によく似ており、養生していれば大抵の場合、自宅療養で完治し後遺症もない。仮名も順調に回復し、本人も先程口にした通り、昨日医師から完治の診断を受けた、との事だった。その報を受けた具衛が、独断ではあるが着の身着のまま一応施設職員の格好で謝罪に訪れた、と言う訳である。
「ちょっと、周囲の目ってものを考えてよ」
 平身低頭の具衛に加え、威風堂々たる仮名の佇まいが合わされば、見よう見方によっては、
「それこそ悪代官が虐める構図でしょこれは」
 と見受けられかねない。
 何せ一〇〇〇世帯が入居するタワマンである。人の気配が途切れるのは、深夜まで待たないといけない。
「あ」
 慌てて周囲の様子を伺った具衛は、
「重ね重ねすみません」
 また深々と頭を下げる。
「いや、だから」
 と言う仮名を差し置き、今度はリュックサックの中から大きな白い買い物袋を二つ取り出し、仮名に突きつけた。
「すみません、不調法なのは承知の上なんですが」
 仮名の鼻っ面に出したそれは、
「まずは駆けつけの何とやらで」
 全て貰い物と言う、例のピオーネ一房と、きゅうりとトマトの山盛りである。
「途中で氷買って、一応冷やしたまま来ましたから」
「ちょ、ちょっと! 不調法なのを承知してるんなら暴走しなさんな!」
 仮名は堪りかねた様子で
「悪代官が農民から搾取してる構図でしょ、これは!」
 また例によって悪代官を持ち出し、両手でそれを押し返した。
「だいたい感染症なんて、誰が誰にうつしたとかはっきり分かる訳ないでしょ。疫学調査した訳じゃあるまいし」
 その仮名が、押し返した袋の横に顔を突き出すと、
「あの子が私にうつしたなんて、誰が言い切れるのよ」
 その突き出された顔をモロに拝まされた具衛が瞬間で見入ってしまい、明白に固まってしまう。
 常日頃と比べると明らかに化粧気がないのだが、病み上がりと言う事も影響してか、只でも色白の面立ちが、いつもにも増して白いような気がする。それも只白いのではなく、妙に艶っぽいのだ。常日頃の凛々しい仮名が太陽なら、病み上がりのか細さを纏う今の仮名は月である。強調されたつけ睫はなく、アイラインや眉も描かれていないようで、明らかに顔に色のアクセントがない。男の具衛が見ても、服が服なら化粧も部屋着である事がはっきり分かる。それは、よりすっぴんに近い顔、と言う事であり、仮名の自然の為人を表す顔、と言う事だ。仮名の秘密をまた一つ知ると同時に、その妙な可愛らしさに動揺する。が、仮名にとってそれは、知られたくない一面である事に違いない。今更ながらに、相手の思惑を顧みない押しかけが、自己の過失を軽くしたいがための身勝手である事に気づかされ、胸の辺りから脳にかけて、後悔の念がじんわりと重たくに伝う。
「と、とにかくこれは受け取ってください」
 殆ど無理矢理仮名の顔に袋を押しつけ、
「私は帰りのバスの時間が切迫しているのでこれで!」
 仮名がそれを手にした事を感じ取るや、素早く後退りして、また深々と一礼した。
「待ちなさいよ!」
 具衛が逃げるように踵を返した瞬間、片腕が掴まれ背中に捻り上げられる。
「あたたっ」
 躱そうと思えば躱せたが、見舞いと謝罪に来た手前、更にプライドを傷つける事を憚った具衛は、代わりに情けない悲鳴を小さく上げた。本当に決められており、地味に痛い。
「自分だけ楽になろうったって、そうはいかないわよ」
 仮名が背中越しに腕を捻り上げながらも、具衛のもう片腕も取り押さえ、耳元で早口を発する。
「どうしてもって言うんなら、ちょっとついて来なさい」
 部屋着でも化粧気がなくても、相変わらずなのは匂いだ。それだけで脳がやられてしまい、文字通り頭がのぼせてしまう。しかもかつてなく近い上、両腕を取られており迂闊に動けず、勝手に生唾が込み上げる。
「こ、これは悪代官が農民を虐めている構図なんじゃ——」
 具衛はみっともなく生唾を飲み込み、意識が遠退くのに抗い反駁したが、結局大人しく仮名の誘導に従い、サブエントランスの中へ押し込まれて行った。

 三分後。
 具衛は、仮名の家に押し込まれていた。軽く三〇畳はある居間は只広いばかり。その一角にある応接ソファーに、居心地悪そうに座らされている。立派なそれは柔らかくもあり、しっかりともしており、不思議な感覚だ。座り心地はきっと良いのだろうが、畳間に座り慣れた具衛の尻には、とにかく落ち着かない。目の前には、ベランダ越しに広がる広島湾が一望出来ると言う、低所に住み慣れた者としては有り得ない眺望が展開していた。尻も落ち着かなければ目も落ち着かず、リュックサックを膝の上に抱えて畏まっては、只々目を瞬いている。
 腕が——
 まだ痛い。
 結局、仮名の家に連れ込まれるまで、腕を固められたままだった。受付前を通過する時など、怪訝そうに声をかけるコンシェルジュに、慣れた調子で微笑みながら
「駄々を捏ねるお客様なので」
 ホホホ、と答える仮名の斜め前をけつらかされながら歩く具衛は、無様に顔を歪めて悲鳴を漏らさないのが精一杯だった。殆ど逮捕監禁の類いの蛮行だが、そこは具衛の浅知恵も因果を含むため、我慢して飲み込む。
「大丈夫?」
 気がつくと、盆の上に何か飲み物が入ったグラスを、ソファー前のテーブルに置く仮名がいた。
「え?」
「腕」
 仮名が具衛に向かって手を伸ばす。
「あなたの関節、年の割に柔らかいもんだから、つい思い切り捻っちゃったわ」
「も、もう大丈夫ですから!」
 また捻られては堪ったものではない、と言わんばかりに具衛は慄き大きく身を逸らして見せた。
「そう」
 仮名は伸ばしかけた腕を止める。
 不用意に近づかれると、その容貌的観点から一々動悸がして心臓に悪い。
「リュックサック、置きなさいよ」
「いや、汚いですし」
 乱雑に扱った事はないし、地べたに置くこともなく、それなりに大事に使っているつもりではある。が、室内が余りにも整い過ぎており、異物を置くような隙が見当たらない。何よりも自分こそ異物感が半端なかった。
「ちょっとこれでも飲んでなさいよ」
 言に反して、飲み物を置く時の所作は丁寧で慎ましく一々美しい。堪らず肩を窄めて俯いていると、
「病み上がりの元病人に気を遣わせるって、どうなのよまったく」
 愚痴りながらも、荷物入れ用の籠を傍に持って来た。
「十分綺麗なリュックじゃないの。押しかけといて何を今更気を遣ってる訳?」
「すみません!」
 その愚痴に具衛が、尻尾を踏まれた猫の如く、かばっ、と言う雑音と共に直立する。
「あーもー座ってなさいよ。アニメ以外で反射立ちする生き物を初めて見たわ」
 それを見せつけられた仮名が失笑しながら
「冗談よ、冗談」
 お座り、と、犬に向かって言うように具衛を窘めた。徐にテーブルの上にあるリモコンを操作し、テレビをつける。室内壁面にある家電量販店でしか見た事がない、最早何インチサイズなのかよく分からない程の大きさのテレビ画面が、電子音を発する事なく静かについた。
「まあ、テレビでも見てて」
 言うなり仮名は、キッチンの方へ足を向ける。
「すみません」
 具衛は、へたり込むように再びソファーに腰を下ろし、力なく籠にリュックを入れると、
「頂きます」
 蚊の鳴くような小さな声で、出された飲み物に口をつけた。
「うまっ!」
 なるべく邪魔にならないよう、気を煩わせないよう静かにしているつもりが、思いがけぬ美味に目をひん剥いて声を上げる。
「な、なんじゃこりゃぁ」
 背の高いグラスに入ったそれは、抹茶のような色合いをしていた。が、味は明らかに抹茶のそれではなく、野菜と果実が混ざった爽やかで仄かな甘味と酸味がある。
「ハーブスムージー。自然思考のあなたの口には合うと思って」
 ハーブと言われて納得した。その爽やかな香りが鼻や喉に抜けるスムージーは、季節柄体調に関わらずがぶ飲み出来るだろう。僅かに首を傾げ、然も不思議な物を見るかのようにそれを覗き込む具衛の元へ、続き様に仮名は、具衛が持って来たトマトを早速湯むきにして切り分け皿に盛って来た。
「ホントはもう少し冷やして出したいんだけど、とりあえずつまんでて」
「重ね重ねすみません」
 また頭を下げて、一つ口に入れてはまた叫ぶ。
「田舎のトマトも、一手間で洒落ますね」
 トマトは軽く塩を振っただけの湯むきだが、皮がないだけで驚く程口触りが良くなり、最早トマトであってトマトではない上品さだった。更に驚くべきは、仮名の手際の良さである。さっき持って来たばかりのトマトを、早速湯むきであつらえるなど中々手慣れている。
 具衛は、室内東側に据えられたテレビを見る振りをしながら、西側のキッチンで調理を進める仮名の動きを見ていた。キッチンは西側壁面にシンク、コンロがあり、流行りのアイランド型ではない。つまりは居間に背中を向ける格好で、調理を進める事になる。具衛もそれなりに主夫歴が長い男だ。その良し悪しを判断する視点は体が覚えていた。忙しさの中で少しでも節約するため、自炊出来る時は自炊する。そうせざるを得ない身の上だった具衛は、大した物は作れなかったが、それでも作る事は手慣れていた。同時に様々な行程をこなす計画性の高さ、手慣れた包丁やフライパン捌きなど器具を扱う上での優れた器用さ、調理に対する関心と配慮は、
 料理は愛情だ。
 の所以である。
 生きていくための糧を得るだけの本能的な行動に愛情を注ぐ事で、料理と言うより良い糧を得た人類は、豊かさを実感しそれを活力として他の動物と明確に分け隔てる文化文明を構築するに至った。その文明が続く限り料理のそうした側面は決して変わらず、その意義の大きさたるや、実は簡単に言い表せるようなものではない。
 ——と思いたいんだが。
 過去に具衛に擦り寄って来た女達は、そうではなかった。現代は、性差で役割が分担される時代ではない事は理解してはいた。が、それにしては皆、具衛より雑で粗末で、それでいて顔は良く突いた。家事は生活の基本の筈なのだが、それよりもまず顔を突く。その様は具衛にとって極端な言い方をすると、飯も食わずごみを放置して化粧をするも同じであった。前半生の日常は、殆ど生き抜くための戦いだった具衛にとって、表面的な見映えなど何の足しにもなり得なかった。
 生きていく上での価値観が、男と女では
 こうも違う——。
 唖然とさせられたものだ。
 それは、より優れたオスに選ばれんとするメスの本能なのだろう、と具衛は諦めたものだったが、次第に見た目に固執する人間と共にある事を避けるようになった。その体裁が、いざと言う時何かを引っ張り窮地に陥るのではないか。それをまんまと自分が負わされるのではないか。そんな危機感を覚えたのだ。
 確かに——
 身嗜みもある程度は必要だろう事も理解は出来る。が、具衛は、そんな女達を見るうちに、それにより失われるべきではない生活の基本が失われる危うさを恐れるようになった。
 男は確かに、美人に弱い。瞬間的には見惚れるだろう。生物学的なオスなら、それでメスを選び種を残すのかも知れない。が、複雑にして高度な社会性を築き上げた人類の男女が、それだけで伴侶を
 ——選んでも良いものか。
 難しく考えるつもりはなかったが、そこが男女と夫婦の境目である事を、具衛は自己解釈していた。
 仮名は男女としての女と言う観点では、採点基準の物差しを振り切るような女であり、最早言うに及ばない。そのまま社会の中に横滑りさせても、何処か女傑めいており非の打ち所が見当たりそうには思えなかった。
 では——
 家ではどうなのか。実は、気になっていた。家庭に入った時、この途方もない美女はどうなるのか。しかしそれを覗く事は、通常それなりの関係性を構築しない限り無理である。
 それを——
 思いがけず目の当たりにさせられるとは。
 外面は良くても、家はめちゃくちゃと言う話は良く耳にするものである。そうした観点で仮名の自宅での生活振りは、具衛の稚拙な想像力では正直なところ未知数だった。
 具衛が知り得る外面の仮名は、言葉は砕けているのに所作は整っている。そのチグハグ振りがおかしな絶対美人。そんなところだったのだが、今目の前にいるその女のエプロンの着こなし振りに、
 何で気づかなかったもんかな。
 具衛は、自分の人を見る目のなさに呆れた。何処かしら洗練された美しい所作が身についているような女が、いい加減な私生活を送る訳がないではないか。むしろ、日頃の乱暴な言葉遣いの方がわざとらしく見えて来る。
 何でこんなに——
 何でも出来るのか。具衛は内心で舌を巻いた。てっきり、メイドに囲まれたお嬢様生活を送っているものと、内心で高を括っていたのだ。が、どうやらそうではない。何処かで、世間知らずを侮っている向きがあった事は認めざるを得なかった。今日の手際を見て、その認識をついに改めなくてはならないと痛感させられる。
「そろそろこっちにいらっしゃいよ」
 いつの間にか、テレビを見ながらぼんやり考え込んでいた具衛は、ダイニングテーブルに配膳を済ませる寸前の仮名にようやく気づいた。
「あ、すみません!」
 具衛はまた反射立ちとなり、テーブルに並べられた二人分の料理に唖然とする。仮名におたふく風邪罹患の事実を報じられ、施設職員の代理として謝罪とお見舞いを兼ねて粗末な土産物で押しかけた結果が、晩飯のご相伴である。その至らなさの極まりように、穴があったら入りたいとは、まさにこのことだった。
「いいから食べましょうよ」
 仮名はもう着席している。
「お詫びとお見舞いに来たのに、最早何と言ったものやらで——」
「だから自分だけ楽になるなって言ったでしょ」
 と、にべもない。
「無闇に押しかけた報いね」
 具衛はのろのろとダイニングテーブルに歩み寄ると、物の二〇分程度でテーブル上に大小何皿もの料理が配膳されている事に驚いた。メインはサラダうどんのようだったが、その周りに小鉢が七つ。厚焼き卵、ひじきと豆の煮物、胡麻豆腐、トマトの湯むき、かぼちゃの煮物、ほうれん草の白和えである。残りの一つは水菓子で、具衛が持ってきたピオーネだ。
「この短時間でこんなに?」
「作り置きや貰い物ばかりよ」
 とは言ってはいるが、うどん、卵焼き、トマトは調理しているのを見ている。やはり手際が良いと言わざるを得ない。
「まあ、病み上がり食だから。そこは勘弁してね」
 言いつつ仮名は、具衛を対面席に促した。
 対面か——。
 目のやり場に困る、などと密かに困惑しながら着席するや否や仮名が
「では頂きます」
 と宣言して箸を取る。
「まーあなたはあなたで、施設の過失に責任を感じての事なんでしょうけど」
 仮名は食べながらも、早速核心を突いて来た。向かいに座っていた具衛は、いきなり痛いところを突かれ、つい顎を前に突き出し少し驚く。
「あ、ごめんごめん。ほら食べて。それとも粗食で箸が進まない?」
「え? あ、いえ」
 具衛はまた小さく呟き、
「では有り難く頂戴します」
 箸を手に取った。
「仰々しいわね」
 少し噴いた仮名が、
「がっかりしたでしょ。もう少し豪勢な物を食べてると思ってた?」
 図星を突きつつサラダうどんを啜る。病み上がりでも、相変わらず察しが良い。具衛は観念した。
「そうですね。毎日、ステーキか何かのイメージで」
「そう言う富裕層も、いないとは言わないわ」
「古臭い成金のイメージです。偏見めいた」
「急に素直になった」
「あなたは察しが良いし、もう小理屈言うの諦めちゃいましたよ」
「結構ね」
 仮名は微笑み、また皿に箸を伸ばす。箸の進み具合が早い。完治は本当なのだろう。具衛は内心、少し心が軽くなるのを覚えた。
「食は菜食中心ね。根菜や豆類が多いかしら。ランチは外食だから別として、一日の食費が朝夕で千円程度なんて事は結構あるわ」
 と言う仮名に
「意外ですね」
 具衛は素直に驚いた。
 仮名が食費を認識するような生活をしている事自体が意外であった。何せ、タワマンの最上階に生活するような人間である。
 ひょっとして——
 家政婦的な愛人か何かなのか、と思ってしまった。それならば仮名のこれまでの言動は、大体の事の辻褄が合ってしまう。
 ——違うか。
 そして、それを即否定出来る程、仮名は大物然とした凛々しさを帯びていた。そして、そうした思考は
「家政士さんにお世話になった事もあるけど、家事は自分でやって来た期間の方が長いし、もちろん富豪の愛人なんかも経験がないわ」
 見透かされてしまうのである。
「一々すみません」
 具衛は思わず天井を仰いだ。
「肉や魚は、普通の人より食べないんじゃないかしら」
 普通を認識しているのが、また意外である。このような所に住む人間が、市井を意識している事自体が、具衛に言わせれば奇跡に近かった。
「盆踊りの時は食べたけど、普段は余り味の濃い物は食べないし、肉も魚も週一程度ね」
 ハムは食べるけど、とサラダうどんに乗っているハムを掴んで口に運ぶ。
「ある程度歯応えがあって、身体を維持出来る栄養が取れれば良いのよ」
 言いながら仮名は、
「ベジタリアンって訳じゃないんだけど、まぁ菜食中心ね」
 卓上の皿を箸先で指示した。
「お酒は別だけど」
 とつけ加えた仮名が、花火大会の時も盆踊りの時も、ノンアルコール製品を結構飲んでいた事を思い出す。酒は流石に良さそうな物を飲んでいそうだ。
「それなりの物をそれなりに飲んでたりするわね」
 と言う仮名に
「安酒は混ぜ物が多くて、体に毒ですから」
「そう! そう言う事」
 具衛が肯定を示すと仮名は必要以上に力強く同意し、言外にそれが建前である意が滲み出て、二人して軽く噴き出した。
「でも、浴びる程飲まないわ」
「イベントの時だけですか」
「うん。普段は飲んでも二、三合ね」
 などと酒量の言い回しが、また意外にも庶民染みている。
「健康にはそれなりに気を遣ってるつもり」
 健康と言うフレーズに、具衛がまた俄に凹みそうになるのを感じ取ったらしい仮名が
「食に贅を凝らすタイプじゃないって意味よ」
 すぐにつけ足した。が、その配慮にも箸が鈍くなってしまった具衛は、目のやり場に困っていた事も相まって軽く俯き加減になる。
「美味しい物にお金をかける幸せもあるんでしょうけど、私は身体を資本に色々楽しみたいタイプだから」
 と言うと仮名は、
「お陰様で、病気療養なんてのも久し振りだったしね」
 口も箸も止めた。
 静かになったような気がした具衛が慌てて顔を上げ正気を取り戻すと、仮名が正面から見据えているではないか。
「な、何か?」
 その泰然たる表情に、一瞬で飲み込まれそうになった具衛が思わず仰反るが、
「あなたが今日来たのは見舞い」
 仮名は具衛の目を掴んで離さない。
「私のおたふく風邪は、施設とは関係ないから」
 それは文字通り、蛇に睨まれた蛙であり、具衛は何となく蛙の気持ちが分かったものだった。
「あの子を責めちゃだめよ」
 その有無を言わせない圧は、メドゥーサさながらである。背筋に冷や汗を覚えながらも、具衛はまた例によって、本人を前に勝手な例えを連想した。頭髪に数多の毒蛇を有し、目力で見たものを石に変える事で有名なギリシャ神話の怪物メドゥーサは、元はギリシャ神話最古の地母神ガイアの孫に当たる美少女神である。それが海神ポセイドンの愛人になった事に起因して怪物にされてしまうのだが、
「聞いてるの?」
「え?」
「また、ぽけーっとして」
「い、いえ」
「どうせ、メドゥーサあたりを連想してたんでしょ」
 また図星され、具衛はあからさまにたじろいだ。一々心中を読まれるその感覚は、
 エスパー!?
 と対峙しているかのようだ。
 驚く余り言葉を失う具衛の前で、
「ポセイドンはいないって言ったと思うけど——じゃあ、ただの美神?」
 なんちゃって、などと仮名はしゃあしゃあと言ってのけている。もっともそれは事実なのであるが、
「分かった?」
「え? はい」
「何が分かったの?」
「え?」
 石になる程の強力な魔力こそないものの、何の話をしていたのか一瞬で見えなくなる程の美貌は有している。
「とりあえず全部」
 思考的に参った具衛が、へこへこしながらやっつけ気味に答えると、仮名が小さく噴き出した。
「まあ、分かれば宜しい」
 結果として仮名の配慮により、具衛の独りよがりが認定された訳だ。それにより施設側の過失は不問にされ、後に残った具衛の見舞いは、それ以上の返礼によって帳消しにされてしまった。
「お見舞いの品々は、有り難く頂戴しておくわ」
「いや、押しかけた挙句それ以上の返礼で——」
「言わないの」
 こう言う時の仮名の一言一言は、静かな中にも二言を許さない迫力である。
「私がそれで良いって言ってるんだから、それ以上言わない」
「はぁ」
 具衛は、情けない返答をするので精一杯だった。

 午後七時過ぎ。
 夕食後、具衛はやはり落ち着かない座り心地のソファーに座らされていた。所在なく、リビングのテレビで全国ニュースを見ている。
 食い終わってすぐ——
 帰っても良いものか。
 具衛は、お愛想のタイミングを図っていた。そもそも想定していなかったご相伴である。帰るタイミングを推し量るなど想定外だった。
 病み上がりで飲酒を伴わなかったためか、予想外に早い食べ終わりだった。本当に多少なりとも喋りながら食べたのか、と思わざるを得ないような会食で、殆ど一人で食べる時とそんなに変わらないのではないか。そんな食べっ振りだった。如何にもせっかちなその食べ方は、仮名らしいと言えばらしく、具衛は密かに笑いを堪える一方で、予後の順調振りに安心したものだった。その仮名は、キッチンで後片づけをしている。外はすっかり日が暮れていた。
 暖色系のフローリングとオフホワイトの壁紙で仕上げられている室内は、白を基調とした調度品で揃えてあるが、真っ白と言う訳ではない。整然としていながらも、仄かな暖かみが漂う生活感のある居心地の良い空間。それは、普段の仮名の洗練された形とは意外過ぎる程遠い印象である。リビングの南側は全面がガラスサッシで、カーテンがかかっていないため外が丸見えだ。タワマンの最上階だけあって、見える範囲に同じ高さの建物は見当たらない。外の視線を気にする必要がない、と言う事だろう。そのサッシの向こう側には、これまたタワマンの最上階とは思えない程の広さのベランダが見える。よく見るとベランダにもソファーらしき物があり、リビング同様に整っていて、一般世帯のベランダとは一線を画した趣きだった。
 ベランダ?
 と言うより部屋である。
 ぼんやり考えていると、仮名がそのベランダ側のサッシの一部を開け、ベランダのソファーの向こう側にしゃがみ込み、何やらテーブルを拭くような仕種をしている。かと思うとまたキッチンに戻り、今度はお盆に何やら飲み物が入ったグラスを乗せ、またベランダへ足を向けた。
「こっちへ来ない?」
 通りすがりに声をかけられ、
「え?」
 具衛は、また鈍い反応をする。
「夕涼み」
 短く答えた仮名はそれ以上言わず、リビング照明の明度を落とすと、そのままベランダのソファーにどっかり座った。少し迷った挙句リモコンでテレビを切り、そそくさと具衛もベランダに入る。
「これが、ベランダ?」
 アウトドアリビング型のベランダで、居間の半分程度の広さのベランダの南端には、やはりガラスサッシがあった。その向こうには幅二m程度のベランダがもう一つある。便宜上、外ベランダと言う事にすると、外ベランダの南端にはガラスサッシはなく、一m少しのすりガラス調の塀があるだけだ。その向こうは空、と言う事なのだろう。外ベランダは植栽で埋め尽くされており、やはりタワマンの最上階とは思えない。内ベランダだけでも山小屋より広そうだった。
 仮名がどっかり座っているソファーがある内ベランダは居間の延長であり、フローリングのようでウッドデッキのような床面は、普通の部屋と何ら変わらない清潔感を帯びている。床以外の面は骨組み以外は、天井も含めてガラスサッシか窓ガラスになっており、前面も天井も全面開放されて外気が入って来ていた。耳を澄ますと下界の騒音が僅かに届くが、街の中心部にありながら排気ガスと騒音を気にする事なく窓が開けられると言う環境は中々ない。
「ぼさっとせずに、座ったら?」
 具衛は呆気に取られながら、腰が砕けるようにソファーの端にへたり込んだ。ソファーの横幅はちょうど畳一畳分程度。右端に座った仮名に相対して、左端に腰を下ろした具衛のそれは、山小屋の縁側右隅に腰を下ろした仮名と、居間中央の座卓前に陣取る具衛の距離感よりも明らかに近い。何よりも、二人の間に何も遮る物がない、と言う事に強い違和感を覚えた。
「そんなに警戒しなくても」
 仮名は失笑するが、具衛としては、遮蔽物の有無が妙な据わりの悪さをもたらす事に戸惑いを隠せない。今更ながらに、山小屋の座卓の偉大さを痛感させられたものだが、今この場ではどうしようにもない。図らずも右半身に力が入る。
「良い季節になったわね」
 そんな具衛をさておいて、仮名は余裕綽々だった。今日はいつぞやのバーベキューとは異なり、土俵は名実共に完全に仮名のものである。相撲も勝負も今の具衛につけ入る隙などなく、文字通り
 なされるがまま——
 だ。
 俄かにこれは、何事か召され兼ねないのではないか。思考が怪しくなり始めた。背中を嫌な汗が伝う。
 こんな只ならぬ状況でもなければ、街でも夜はそれなりに涼しくなっている時期柄の筈だった。天窓から入る夜気は、山小屋の夜気に比べるとまだ熱を帯びているように感じるが、クーラーは必要ない。街中故流石に星は見えにくいが、殆ど雲がかかっていない月夜だった。
「どうぞ」
 仮名が座ったまま差し出したグラスは、食前に飲んだスムージーの時とはまた違った背の高いグラスである。それに七、八割方入った液体は淡い琥珀色をしており、一見してウイスキーだ。
「ウイスキーですか?」
「な訳ないでしょ」
 ウイスキーでこの量なら水割りである。
「あなた、お酒飲まないじゃない」
 仮名は、
「病み上がりだしハーブティーよ」
 言いながら、自分のグラスに口をつけた。
 いきなり酒を呷らないところなどは、豪快そうに見えて意外に繊細なところもあったものだ。実はこうなった以上は、以前仮名から耳にした曰くつきの「自家製サングリア」を飲んでみたい気もしていた具衛だったのだが、それを催促する事で仮名の何らかの配慮を害しても悪い。そもそも自分は、酒を飲まない主義でもある。それを口にする事なく、大人しく具衛もグラスを呼ばれて見ると、
「すっきりしますね」
 何種類かブレントされたらしいハーブが、爽やかに鼻に喉に抜けた。
「食後に歯磨きしなくても良いぐらいにね——まあ、歯磨きするけど」
 その横で具衛は、鼻や喉に香りを通しながら、立て続けに二、三口飲む。
「体の中も良い匂いになりそうですね」
「アロマ効果ね。他にもリラックス、鎮痛、幸福作用等々かしら」 
 などと言う仮名は、
「それよりも、何か気づかない?」
 思い出したように言った。
「何がですか?」
「匂いよ、匂い」
「匂い? ですか?」
 具衛は首を傾げながら、またハーブティーを飲む。
「違うそれじゃない。部屋の匂いよ」
 と仮名は、
「やっぱり気がつかないか」
 鼻をひくつかせ、匂いを嗅ぐ仕種をしてみせた。具衛の鼻は、既にハーブティーの匂いに満たされてしまい、他の匂いなど全く気づかない。
「我が家もバイオ洗剤にしたのよ」
「ええっ!?
「米糠とふすまの。売ってるのよ、世間様で」
 仮名は素直に嬉しそうである。
「洗剤も石鹸もシャンプーも。化粧品もあるから、変えられるものは全部変えたわ」
 確かに言われてみれば、嗅ぎ慣れた匂いが仄かに漂っているような、そうでないような。とにかく部屋が広過ぎて、正直よく分からない。もっとも仮名は、何かのアロマも焚くのだろうから、その匂いと喧嘩せず、米糠とふすまの匂いと調和して別の匂いになっているのかも知れなかった。
「洗剤は良いとして、化粧品まで大丈夫ですか?」
「中々気に入ってるわ。余計な混ぜ物がなくて、クレンジングなんてびっくりする程よく落ちるし、肌艶は良くなるし」
 仮名は頬を突く仕種をした。
「ホント良い事聞いたわ。先生様々よー」
 弾力や肌艶の良さをアピールしたつもりなのだろうが、男の具衛からしてみれば、大体基がずば抜けているだけに、その違いが全く分からない。それよりも、その肌艶を拝まされた事による動揺の方が大きかった。
「はぁ、そうですか」
 まあ、本人が納得しているのだから、あえてそこに突っ込む事はないのだが、その仕種が一々絵になる方が具衛とっては問題である。
「でも、部屋の匂いは気になりませんけど」
「あなたの家みたいに、原料を生で使ってないんだから当たり前でしょ。うちのは企業が作ったパッケージングされたものだし」
 と仮名は、今度は着ているチュニックの裾をバタつかせた。
「何です? 一体?」
 堪らず慄いて身を逸らす具衛の鼻に、仄かなバニラのような香りが漂って来る。
「何かバニラのような香りが」
「そうなのよ」
 バニラは、メキシコや中央アメリカを原産とするラン科の常緑の蔓性植物である。樹木などに絡まり成長し、長い物になると六〇mを超えるとも言われるのだが、香の素はこの種子だ。採取する豆(種子鞘)自体に香りはないのだが、発酵と乾燥を繰り返す事で、世に言う独特の甘い香りを発するバニラビーンズとなる。これを抽出したものが、バニラエッセンスやバニラオイルとなり、アイスクリームを始めとする洋菓子の香料となるのであるが、
「バニラビーンズって、結構高級品なのよ」
 だったりする。
「レユニオンやタヒチの物が有名ですよね」
「でた、詐欺師」
 と言う仮名のそれは、今となってはその意外性を褒めるフレーズとなっていた。
 レユニオンとは——
 密かに懐かしかったりする具衛である。
 が、ひとまずここではそれはさておき、二人が言うように、このバニラビーンズは庶民にはややお高く、有名な産地の一つであるマダガスカル東方約八〇〇kmのインド洋上に浮かぶ仏領レユニオン島の物だと、日本円で
「一本一〇〇〇円前後しますよね」
 のだが、その一方で市井ではバニラは安価で溢れていたりする。その理由は、香りの主成分であるバニリンが安価で合成出来るためだ。紙などの製造過程でパルプを加工する際、その廃液にリグニンと言う物質が副産物として得られるが、それを酸化させるとバニリンとなるのである。他にも、ビーバーの肛門腺から分泌される海狸香(かいりこう)からも抽出出来るなど、様々な方法でバニリンの抽出法の開発は進んでいる。
「そのバニリンが、米糠から取れる米油からも取れるらしくてね」
 米油を加熱すると、その成分の一つがバニリンに変換され、甘い香りを発する。米油を使った料理が仄かに甘く香る理由の一つは、このバニリンが影響していると言われている。
「米糠洗剤で洗濯して乾燥機にかけたら、何か甘いバニラみたいな香りがすると思って調べてみたの」
 仮名はいつになく、俄にはしゃいでいた。こう楽しそうな仮名は盆踊りの時以来であり、改めて楽しそうに話しをする生き生きした表情の仮名に、具衛は悩殺されそうになる。
「熱を加えたからかしらね」
「何だか楽しそうですね」
 内面に溜め込んで悶々としないためにも、具衛は素直な感想を口にした。
「あなたもそうだったじゃない」
「は?」
「ほら、あの事故の日よ」
 仮名が言うと、只ならぬ仮名の気を紛らわすために、そんな事を話した事を思い出す。
 そんな風に——
 見られていた、らしい。
 確かに「山小屋生活は楽しい」と言う話をした覚えはある。が、人嫌いの身故、どのように伝わるのか疑問だった。とりあえずあの時は、仮名が妙な気になりさえしなければ良かった、
 それだけだったんだが。
 それが現状を呼び込んだ、とするならば、予想外の波及を生んだものだ。
「この発見を誰かと共有したいと思ってたんだけど」
 事故の日を回想していたせいか、仮名はまた寂然とし始めた。
「私、ホントに周りに誰もいないし」
「ユミさんがいるじゃないですか」
「家政士よ」
 ——やっぱり。
 年齢的にも、そうではないかと当たりをつけていたものだ。日常的に同じ空気感を味わってなくては出せないような息の良さを二人は、
 持ってたもんな。
 具衛はさり気なくグラスに口をつけながら、盆踊りの時の二人のやり取りを回想した。
「鈍いあなたでも、流石に薄々気づいてたんでしょ?」
「まあ——」
「この春にね。拝み倒して殆ど無理矢理一緒に広島に来て貰ったの。お気に入りの東京の家政士さんに。当面は仕事が忙しくて、家事まで手が回らないだろうから」
 仮名は目を眇め、
「あの年で、しかも女の身で単身赴任なんて初めてだったから。悪い事しちゃったわ」
 グラスを手にしてハーブティーを覗き込む。
「これもユミさん特製だったんだけど、今度から見よう見まねで作るしかないわ」
「そう、ですか」
 広島出身で地理にも詳しいためだったとか。長年本家で世話になった腹心で、本家では腕を鳴らした敏腕家政士だったとか。何をやらせてもその道の一流の一歩手前まで肉薄した良い仕事をするだとか。
「もう土地にも慣れて来たし、仕事も落ち着いて来たから、帰京させて当面有休消化して貰ってるわ」
「そうでしたか」
「ホントはあのまま」
「え?」
「喧嘩別れしたまま」
 はぁ、と仮名は畳んだ両膝の上に顎を乗せる。その横顔が、今度は妙に哀愁を漂わせ始めた。
「私としては——」
 いつになく緩んだその目尻は、明らかに常日頃の力強さが見られず、妙に弱々しい。
「もう一息ウォーミーに繋がりたいと思ってたんだけど、やっぱり根底のビジネス上の関係性は、覆せなかったなぁ」
 事故の日の仮名は、寂しさを帯びるも達観した強さがあったものだが、
 目が——
 口ほどに物を言う、とはまさにこの事かと具衛は思い知る。それにしても今日の仮名は、抑揚の激しさは相変わらずだが、いつになく無邪気で情緒的だ。
「まあユミさんには、いずれ機会があったら土下座するなりなんなりして謝るとして」
「土下座ですか」
 急に明るく顔を起こすが、
「当面、ホントに一人になっちゃって」
 また萎む。
「おたふく風邪で休んでる時は、病気よりも寂しい方が——」
 抑揚が大きくなり始めると仮名は
「——辛かったな」
 妙に可愛げが増す事に具衛は苦しんでいた。うっかりすると、只ならぬ事を口走って恥をかきそうだ。
「まあ、病は気からと言いますし」
 具衛は当たり障りなく、
「病気の時は、誰でも気弱になるものです」
 月並みな事を言うに止める。
「あなたのせいよ」
「はあ?」
 が、思わぬ藪蛇に、具衛は顔を顰めた。そんな迂闊を踏んだつもりはなく、何処が地雷だったのか検討もつかない。
「この年でおたふく風邪になるって言ったら——」
 盆踊りの時に、子供とはしゃいだ時以外に考えられない。でもそれを具衛に伝えると、施設の過失に責任を感じて謝罪で攻めて来るかも知れない。例え施設に過失がなくても、見舞いで攻めて来るかも知れない。何にせよ、攻めて来たら具衛にうつるかも知れない。そうすると連絡出来ない、云々かんぬん。仮名は恨み節めいた事で、ねちねち具衛を責めたものだ。
「私は子供の頃に、おたふく風邪やりましたよ」
 流行性耳下腺炎は、基本的に一度感染すると生涯分の抗体を獲得する。つまり生涯免疫となる、と言われている。が、
「おたふく風邪でも、再感染する事があるのよ」
 実は稀に必要な抗体が獲得出来ず再感染したり、おたふく風邪にかかったものと思い込み、実は別の病気にかかってしまっていたために抗体を獲得出来ておらず、また感染したと思い込むケースもある。
「うつしちゃ悪いでしょ」
 事実あなたは、私がメールを送った途端に暴走して押しかけてきた訳だし、と言われると
「弁明の仕様がありません」
 事務的な返答で、恥の上塗りを防ぐのがやっとだった。
「だからメール出来なかった」
「何か取り繕って、送って貰っても良かったんですけど」
「そうすると逆におかしいでしょ。普段はショートメール程度のやり取りなのに」
 と言うと、仮名は横を向いて、
「何、やろうって訳?」
 具衛を軽く睨みつけて来た。
「いえ、やりません」
 こうなるとまた蛇と蛙である。具衛はあっさり白旗を上げた。
「だから、あなたのせいなのよ」
 仮名は鼻にかかった物言いで、
「ご理解出来て?」
 いつもながらの余裕気な笑みを浮かべると、具衛は大人しく、
「はい」
 と言った。
「どんどん素直になるわね、あなたは」
「だって敵わないんですもの。説得力を持ち合わせない大多数の男なので」
「あら? いつか聞いたわね?」
「今日みたいに綺麗な夜空でしたよ」
「迂闊がどうとかで?」
 七夕に仮名の武椀を、具衛が挫いた時の事である。
「今日は、手は出さないわ」
「素直じゃないですか」
「だって敵わないんだもの」
 互いに論うと、思わず同時に失笑が漏れた。つまりそれは、お互いそれだけのやり取りをして来て、論う事が出来る程度に覚えている、と言う事だ。
「そろそろお暇します」
 具衛は、突然言った。
 笑っている間に、深いところに
 はまり込まないうちに——
 帰った方が良い、と考えた。
 身分は違えども、仮にも男と女が二人切り。何ら邪魔立てする者もいなければ要素もない、と言う只ならぬ状況である。想像だに
 ——危うい。
 言うなり残りのハーブティーを一気に飲み干し、
「どうもご馳走様でした」
 腰を上げると、
「ネットカフェかカプセルホテルに泊まるぐらいなら、もう少しゆっくりして行きなさいよ」
 その仮名の一言で、具衛はあっさり引き止められてしまった。
「——知ってたんですか」
 花火大会の時にしろ、盆踊りの時にしろ。バスの臨時便に託けて、きちんと帰宅出来る振りをして、ネットカフェに泊まっていた具衛である。
「時刻表を確かめるだけで分かるでしょ。そんな拙い手口で、余計な気を遣わせてないつもりかしら?」
 とまで言われてしまうと、ぐうの音も出ない。具衛は立ったまま固まった。こうなってしまっては、まさにメドゥーサに睨まれ石になった何物である。
「余り人を侮らない方が良いわね」
 その通りだった。
 具衛は、そうは言ってもやはり何処かで仮名を、世間擦れしていないお嬢様として見てしまう向きがあった。金と地位に物を言わせ、大抵の事をそれらでまかり通して来た傍若無人の世間知らずだと、富裕層を侮る向きがなかったと言えば嘘になる。もっとも仮名は、そのような雰囲気は余り見せなかったが、根底は同類だとする向きはどうしても拭う事が出来なかった。
「すみません」
「言わなかったっけ」
「は?」
「私は結構、一人で暮らして来たんだって事」
 そうである。
 一人で暮らして来たからこそ、市井の暮らし振りがよく分かろうものなのだ。食費の認識も如才ない家事も。そして何より、事ある毎に、お嬢様らしからぬ配慮に感心していた筈ではないか。この際、バスに乗った事がない、と言っていた盆踊りの時の隔世振りは飲み込むとして、子供達と楽しげにはしゃぐ姿や思い遣る姿に、一般的な富裕層とは違う向きを仮名に見い出そうとしていた
 筈だった——
 のだ。
 が、結局今に至るまで、根底に凝り固まった潜在的な偏見は、やはり拭えなかった。
「対等かと思ってたんだけど」
 どことなく常に冷めている仮名が、いつになくその皮肉に熱を帯び始める。
「それとも世間知らずのお嬢様だから、配慮と受け取ったものかしら?」
 相変わらず仮名は、お見通し然として言及する。その容赦ない物言いに
「古臭い偏見、と見られても仕方ありません」
 先程の食事時の、食事内容に吐露した台詞をまた持ち出し、
「すみません。情けない弱者の僻みですね」
 具衛は全面降伏した。
「いいから座りなさいよ」
 対して仮名が、そっぽを向きながら言い捨てる。具衛は大人しく座った。飲む物もなくなり手持ち無沙汰となった具衛は、相変わらず気の利いた事が言えない。針の筵を甘んじて受け入れ、膝上に両手を置いて、仮名の次なる出方に警戒を巡らせた。子供が親に怒られて縮こまっているようだ。
「何で、反論しないの?」
 沈黙を破った仮名は、そっぽを向いたまま呟いた。
「事実を言い当てられてますし」
 やや間を置いて、重苦しく、往生した様子で具衛が返すと、
「痛い腹を自分で掻きむしってるのよ。反論しないなら、それこそ何か取り繕ってくれてもよくないかしら?」
 すっかり蟻地獄である。
 正直に言っても、取り繕って言っても、結局は責め立てられる。理詰めと感情を上手く混ぜた攻め方は、如何にも弁論慣れしている立場の者である事を思わせる。
 今度は——
 蟻地獄だ。
 最早どれだけの物に例えて来たか。すぐに思い浮かべる事が困難になりつつある。
「良くも悪くも、ウソは良くないと分かったのなら、もう騙せませんよ」
 配慮の底意に侮る向きがあったのは事実だ。これ以上の嘘は
「裏切りです」
 とつけ加えた時には、仮名はそっぽを向いてはいるが、明らかにふて腐れていた。屁理屈を重ねられては具衛はとても敵わない。拙いその口では、思った事を素直に言う他なかった。
「私は肩書きこそ明かしてますが、素性は伏せたままですし。その上為人までウソはつけません」
 それではそれこそ、嘘を嘘で塗り固める只の詐欺師だ。この先仮名が、自分の素性に触れるかも知れない事を思うと、それはしたくなかった。もし仮名が自分の素性を知ったなら。その目に映る自分の為人は、果たしてどんな物なのか。ネガティブなイメージしか連想出来ず、とても自信がない。が、今嘘を重ねる事は
「自分の過去に対しても、ウソをつくようで——」
 そんな気がした。
 根拠、論拠で理論武装して渡り歩いて行きがちなご時世の事。ややもすると、肩書きこそが為人、などと言って憚らない人種が、高度経済成長を実現し経済大国となった日本には、未だ相当数存在するものだ。
 ——そんなもの。
 具衛に言わせてみれば、それこそが詐欺師の走りのようなものなのだが、世間の大数は恐らくそうではない。忌々しいが、やはり肩書きや素性から形成される為人の側面も無視出来なかった。それと向き合うためにも、嘘を嘘で塗り固めるような事は
「したくないし、出来ません」
 それは仮名のため、でもある。
 具衛の素性など、その身の軽重で言うなれば、何処にでも転がっているような大多数の一人に過ぎない。それこそ嘘方便で飾ったところで世の体制に影響など及ぼしようがないし自由自在だ。が、仮名はきっとそうではない。
「それが軽々しくも出来ないお立場である事は——」
 その素性は、恐らく世の体制に何らかの影響を与え得るものなのだ。そんな事は鈍い具衛でも、これまでの短いつき合いの中で体感して来た事であるし、何となく察していた。それを具衛が、身軽を良い事に好き放題取り繕うついでに嘘で塗り固めれば、騙される向きの仮名に残されるのは、やはりネガティブな物でしかないだろう。
 取り繕うとか、嘘とか、騙すとか。そもそも二人は、
「素性を伏せているだけの筈です」
 それ以上でもなければそれ以下でもなかった筈だ。ならば他の要因は不要の筈だった。それはこれからも良好で有りたいと思う前提
 ——なんだけど。
 流石にそこまで口にするのは図々しいような気がして言えない具衛だ。
 侮った向きは認めて謝罪した。合わせて底意に、関係性の在り方も示した。後は仮名のプライドが、何処でそれを素直に受け止めてくれるか。その問題だったのだが。
「屁理屈だった。——ごめん」
 意外に早く、すんなり受け止められたようで、具衛は密かに驚いた。そっぽを向いたままの仮名が、ふて腐れたまま蚊の鳴くような声で、ぼそりとばつが悪そうに吐いたそれは、それでも具衛の意を察したらしい。
「こんなふうに。つい、ね。甘えちゃうのよ」
 すぐに開き直った仮名は、
「ユミさんの時と同じ」
 寂しげに漏らす。
 人恋しさ故に、身近な人間につい甘えてしまう、きっとそう言う事なのだと具衛は理解した。
「仕事上でやったら、立派なパワハラだわ」
「やらないでしょ」
「え?」
「仕事上じゃ」
「どうして言い切れるのよ」
「外で本音をぶつけられないから身内に当たるって事は、よくあるものです」
「分かった口を聞くじゃないの」
 仮名はそのまま黙り込み、グラスに口をつけた後、足を組んでソファーにもたれ込み、天井に目を移した。具衛もそれを受けて、ソファーにもたれて足を伸ばし、殆ど仰向けになる。天井と左端のサッシの境目辺り、東南の夜空に満月がかかり始めた。
「月が綺麗ね」
「ええ」
 満月に見えたが、よく見ると僅かに左側が欠けている。
「今日は十四夜らしいわ」
「そうなんですか」
 実は知っている。ネットニュースで見た。
「月見なら、山小屋よりここの方が良いですね」
「単純に月だけを見るならね」
 と言う仮名と、七夕に神社で天の川を見てからもう二か月だ。
「遮る物がないから、望遠鏡でもあれば尚よく見えるわよ」
 まさか二か月後に、仮名の自宅で月見をするとは思っても見なかった。
「十四夜の別名って知ってる?」
「うーん」
 本当は知っている。
 が、微妙な雰囲気になってはいけないと言う自制が、それを言う事を憚る。が、知っているのに知らないと言うのは、これはこれで中々勇気がいる。
小望月(こもちづき)です」
 中国の暦法である太陰太陽暦では、満月を望月(ぼうげつ)と言った。その前日だから小望月と呼ぶのは、日本のオリジナルである。
 結局、穿った言い方は逆効果だった。
「わざとらしいわね」
 待宵月(まつよいづき)、と言う。
 月と一緒に来る筈の人を待っている宵、と言う、非常に情緒的な意味を含んでいるそのフレーズは、今の具衛にはNGワードであった。
「心配しなくても、取って食やしないって言わなかった?」
 それを言ったのは、二か月も前の七夕での事であって、それが未だに有効なのかどうなのかは、この際分かったものではない。
「また迂闊かしらね。ウブな男を捕まえて」
 明らかに蛇になぶられる蛙の構図である。
「も、もうそろそろお暇——」
「さっきから何分経ったって言うのよ。どうせなら、月が真ん中に来るぐらいまで、ゆっくりして行きなさいよ」
 などと、仮名は更に只ならぬ事を言った。
「どうせ暇でしょ」
 そう言われると、身も蓋もない。事実である。
「私も暇なのよ」
 次々に口から
「だからつき合ってよ。ドキドキして仙人暮らしには良いカンフル剤でしょ」
 際どい文句を、からかい気味に繰り出す仮名の口達者振りに、拙い具衛はついて行けない。何やら喉が渇く。
「の、喉が渇いたなぁ」
「美女に構われてんだから、生唾でも飲んでなさいよ」
「はぁ」
 サイデスカ、などと具衛のたじたじ振りに、仮名はついに噴き出した。
「冗談よ、冗談」
 喉を引き攣らせながらも
「可愛らしいもんだから、ついからかっただけよ。悪かったわね」 
 仮名は、自分のグラスに残ったハーブティーを飲み干すと、
「同じ物で良いかしら」
 と言って立ち上がった。
「は、はい」
 具衛も合わせて起き上がり、座ったまま背伸びをする。油断しているつもりはないが、油断しているとどんなアクションを起こされるか分かったものではない。そして、アクションを起こされると、最早自制に自信がない。
 ソファーのテーブル越しにグラスを回収する所作は、過激な言とは裏腹にやはり如才ない慎ましさで、そのチグハグ振りが小憎らしくなる程である。
 さり気なく警戒する具衛を仮名は、
「悪かったわよ。これ以上やったらセクハラね」
 グラスを盆に載せると、
「もう言わないわ」
 そそとキッチンへ逃げた。
「はい、お待ちどう様」
 かと思うと、すぐに舞い戻って来る。
「すみません、病み上がりなのに色々と」
「そうよ」
 その立場を思い出したように取り戻し、仮名はわざとらしくシャチホコ張って見せた。仮名が座り直して、グラスに一口つけたのを見て、具衛も再び一口呼ばれる。飲んだ後、天然のハーブ香と一線を画す人工的な強いミント香が鼻を突いた。
「あれ?」
「どうしたの?」
「いや、ミントの強い香りがしたので」
 同じ物じゃないのかと思いまして、と言う具衛に
「同じ物だけど」
「そうですか」
 仮名は首を傾げたものだが、ややあって鋭い体捌きで、ソファーに座ったまま上半身だけ具衛に急接近して来た。具衛が反射で仰反るが、仮名の目的は具衛ではなく、具衛のグラスにあったようで、血相を変えてグラスの縁を覗き込んでいる。
「ごめん」
「は?」
「グラスを間違えたわ」
 具衛が口をつけたグラスのミント香は、仮名が唇に塗りたくっていたリップクリームがつけたものだった、らしい。つまりはグラスを間違えた、と言う事である。
「え、ええっ!?
「わざとじゃないわよ!」
 などと激しく弁明しながらも
「ギャーギャー喚かないの! 子供じゃあるまいし!」
 喚いているのは仮名の方である。
 仮名の化粧が在宅モードなのは、唇も同様だったらしい。いつもの口紅は、赤いシャインリップであり、明らかにそれと今の唇の色は異なり、薄い。
「乾燥するから、リップクリームを厚塗りしてたのよ」
 つまり唇はすっぴんと言う事だ。発熱で唇が乾燥して仕方がなかったらしい。普段の口紅をつけていたのであれば、グラスに紅がつくような安物ではないにしろ、僅かな色味の違いに気づいたかも知れない。だが、透明なリップクリームでは、只でも月光下の明るさである。相当敏感でなくては事前に気づかないだろう。合わせて既に病み上がりとは言え、仮名は丸二週間自宅療養していた身である。仮名を責めるのは、どう考えても道義的に難しい。
 だがこれで、具衛の心拍が一気に跳ね上がったのもまた否めない。涼しいはずなのに体の芯が暑くなり、Tシャツの中のからじわりと汗が伝うのを感じ取る。何処からか米糠の匂いがして来て、具衛の鼻をついた。
「ホントよ、だってうつったら悪いじゃない。再感染する事もあるんだし」
 仮名が本当に申し訳なさそうに言うので、
「大丈夫ですよ。うつるんなら、私もショウタのヤツから貰ってます」
 自制のための最終防衛ラインを、つい自分で取っ払ってしまった。
「——それも、そうね」
 仮名は、瞬時に安堵したように見えた。
「私も間違えて、ビールを渡してしまいましたし」
 盆踊りの時、車の運転を控えた仮名に、具衛が間違えてビールを渡してしまったのはもう一か月前の事だが、まだそう遠い記憶ではない。突き詰めれば、その事実が仮名の自宅を知る原因になったのであり、自宅へ押しかける事を可能にしてしまった、とも言えるのだ。そう考えると具衛の過失は、やはり大きかった。
「新しいの持って来るから」
 仮名が慌ててグラスを回収しようとするのを、具衛は一瞬早く手に取った。躱し切れずにその上に仮名の手が被さる。
「な、何よ」
 僅かに動揺を示した仮名が、慌てた風に手を離すが、具衛は
「病み上がりでしょう」
 静かに言う。
「もう、これでいいですから」
「も、もうって何よ、もうって」
「だって、ユミさんの特製なんでしょう? だったら仲直りするまで、飲めないじゃないですか」
 ともっともらしい事を具衛に言われた仮名は、見るからに固まった。
「あなたはホント——」
 土壇場になると何故か強いわね、と困った風に言う仮名を見て、具衛はリップクリームが載った辺りの縁を少し外して、また一口つけた。
「これはこれで、美味しいですよ」
「これはこれでって、それこそセクハラだわ!」
 仮名が慌ててグラスを取り返そうとするのを
「早くユミさんと仲直りした方が良いですよ」
 具衛は鮮やかに躱す。
「もう! 返しなさいって」
 むきになって、身体毎具衛に預けるようにグラスを取り返しに来た仮名は
「あ、危ないですよ!」
 ついに具衛を押し倒してしまった。
 お互いの顔が、それこそグラスの高さ程にもなく、驚いた顔でお互い僅かに引くが、具衛は引いたところで倒された身故、下はソファーであり逃げ道はない。一方仮名は、驚いて引く時にテーブルで頭を打ち、反動で逆に具衛の喉元辺りに顔を押しつける格好になってしまった。
「だ、大丈夫ですか!?
「痛いわよ! 頭が!」
 もつれながらも、仮名からはバニラとミントの混ざった甘い爽やかな香りがして、具衛は金縛りに合った。
「頭に来たわ!」
 仮名が矢庭に
「そんなに味わいたいんなら——」
 言い放ったかと思うと、気づいた時には顔の上に顔で覆い被されてしまい、目と目がまさに目の前で閉じつ開きつし、鼻同士が隣り合って交錯し、唇同士が重なっていた。

 月が天井の左側に入った。
 二人がどのぐらい折り重なっていたのか、具衛は瞬間でのぼせ上がってしまったため、よく覚えていない。が、一瞬ではない。窒息しそうになり、鼻で呼吸をした記憶が残っていたからだ。鼻の息が絡むのと、それに合わせて胸と腹が膨らむ感覚が、何故かリアルに残っていて、何故か唇の感覚は残っていなかった。理由はよく分からないが、何故か唇は少し固い感覚が残っている。
 しばらくすると仮名が、がばっと身を起こし
「風呂入って来るわ!」
 猛々しく宣言すると、どたどた雄々しい歩みで浴室へ向かったようだった。で、一人残された具衛は、内ベランダのソファーで、ぐったり仰向けになっている。
 大の大人が接吻如きで——。
 などと回想しただけでも、鼻の奥が何だか血生臭くなりそうになる。不覚にも鼻血が出そうだった。
 やっぱり——
 さっさと帰るべきであった。
 元を正せば、自分の暴走が原因である。後の祭りだ。施設の職員として、仮名のおたふく風邪を看過出来なかったのは事実である。職員の端くれとは言え、そこは施設職員としてあやふやな対応は許されないと判断し、素早い行動を起こした事は、今でも間違ってはいないと思っているし、後悔していない。病気をうつされたとして、感染元を訴えるケースは実際に存在する。施設の管理責任を問われ、勝ち負けは別として法廷闘争となる可能性は現にある。こうなると、施設の体裁は非常に悪いものとなる事は詳述を要しない。もっとも管理責任の観点で、その過失の度合いは低いと判断する事が妥当と思われる施設側や、感染源として疑われる無邪気で弱い子供を相手取り、わざわざ仮名が訴えを起こすような争い好きではない事も
 ——分かっちゃいたけども。
 しかしそれは仮名の為人が判断する事であって、施設側が拡散事実を掴んだのであれば、仮名に一方的に甘えるのは違う、と言う考え方もまた妥当だろう。リアクションの大小に差はあるだろうが、ノーリアクションは不作為の誹りを受けかねない。
 にも関わらず、仮名に絆されて晩飯を食わされた挙句がこの様である。プライベートで来訪したのであれば、惚れた腫れただの好きにすれば良い事だが、出だしは施設職員を代表した謝罪と見舞いだったのだ。具衛はそこを忘れてはならなかった。これでは、施設職員代表を騙ってわいせつ目的で接近した、と言う事も出来る。
 グラスを交換して貰っとけば——。
 そこまでは、どうにか当初の来訪目的を念頭に、どうにか逸脱してなかったのだ。が、幸か不幸か、間接キスをしてしまった後、グラスを回収しようとする仮名を差し置き、仮名のグラスを取り上げてしまった。
 何であんな事を——
 したものか。
 本当は理解している。勿体なかったのだ。中身もグラスも。ついついスケベ心が出てしまったのだ。男の悲しい性である。仮名と接する事に慣れて来るにつれ、少しずつ欲が出て来た表れである。禁断の果実であろう事は理解している。のだが、理性が利かなくなりつつある。手を伸ばせば触れる事が出来る位置に、世にも稀な美女がいるのだ。普通の男であれば、心が動かないヤツなど存在し得る筈がない。
 だから——
 迂闊と言ったのだ。
 それは自戒を含めた台詞でもあったのだが、ノーマルな男が女絡みで自分自身に自戒を利かせるなど、無理からぬものである。基本的にそれは修行僧の領域だ。
 そして、物の見事に土壺にはまってしまった現状。
「あー」
 などと、ソファーで仰向けになりながらうなだれていると、居間のドアが勢い良く開いた。その音に合わせて慌てて起き上がり、具衛は座ったまま殊勝気に縮こまる。どかどか歩いて仮名が居間に戻って来ると、何も言わずに具衛が座っている内ベランダのソファーにやって来る。ちゃっかり自分の分だけ新しいのを入れ直したグラスをテーブルの前に、たん、と音を立てて置くと、ソファーの右端にどかりと座った。その姿が、白いバスローブ姿に変わっている。
 バ、バスローブって!?
 均整のとれた体躯の線が浮かぶのも然る事ながら、湯上がりの湯気が芳香と共に体から放たれており、それが否応なしに具衛の鼻を突く。仄かにバニラのような良い香りが漂うそれは、シャンプーや石鹸を既製品の米糠物に変えた事を裏づけるものだ。虫でなくともその甘い匂いに釣られて、擦り寄りたくなるような。その誘惑が怖い。湯上がりのためか髪を巻いて纏めており、うなじが露わになっている。これだけで視覚的に悩殺されそうだったが、顔にパックを施している事が幸いし、すっぴんを拝まされる事はなかった。化粧を好まない具衛は、薄化粧やすっぴんにこそ弱い。仮名のそれは、恐らく大変な破壊力を有するであろう事は想像に易く、見るべきではない事は分かり切っていた。最早目の毒である。
 そもそも——
 バスローブ姿を、そこまで親密でもない男の前で女が晒すものなのか。欧米のドラマや映画でしか見た事がない形だが、日本人でもこうも似合う物なのか。とにかく目のやり場に困る事極まりない。
 ソファーに座り込むなり、仮名は新しいハーブティーを喉を鳴らして一気にグラスの半分くらいまで飲むと、
「ふぅ」
 と大きく息を吐き、腕を組んで仰向けになった。
 お互いに口を開く事もなく、
 重い——
 時間が過ぎて行く。
 徐に、
「そ、そろそろ私は——」
 お暇宣言しようとすると、
「逃げるの?」
 目もくれずゆっくりだが、仮名に鋭い言葉を浴びせられ、また金縛りだ。腰を浮かしかけていた具衛は、
「い、いえ」
 崩れ落ちるように、やむなく座り直した。
 これじゃあ——
 まさに蛇の生殺しである。
 また、時間が静かに過ぎて行く。
 室内に音はなく、外から夜の都市のざわめきが耳に入って来るが、音として捉えると言うよりノイズであり、しかも遠い。
 静かだ——。
 お互いが僅かに身動ぎする時の衣擦れの音が、一番耳を突く。その度に、音もなくそよいでいる中秋の微風が、甘いバニラに加えて爽やかなミントの匂いまで漂わせては具衛の鼻をくすぐるのだ。その臭源と言えば、ハーブティーを飲んでいる仮名の
 ——吐息?
 以外に思いつかないではないか。
 ——ま、
 参った。
 それはまるで、何かの魔術のようだ。
 時の移ろいと共に、ソファーとそよ風と匂いの三重の心地良さで、高鳴る感情が薄れて来る。代わりに睡魔が押し寄せて来た。

 目を開くと月が真ん中に来ていた。
 二、三回瞬きをして状況を確認しようとするが、うまく飲み込めない。瞬間で心臓の辺りに動揺が走り、慌てて起き上がると、ソファーの右端には相変わらず仮名が座っていた。
 ——寝落ち!?
 してしまっていたようだ。得も言われぬ罪悪感に、背中を冷や汗が伝う。幸いにも、仮名も目を閉じている。
 寝てる?
 ようだった。
 逃げようとも思ったが、ここで逃げては次に会う時に何を言われるか分かったものではない。大人しく、ソファーに座り直す。その直後。
「う、ん」
 仮名の艶っぽい声に瞬間でまた心臓が跳ね上がり、慌てて目を向けた。また何事かと身構えようとしたが、仮名は引き続き寝ている。その艶声に反し、体躯は堂々と腕を組んでいた。何処かチグハグに見えるその様子から、肌寒さを訴えているらしい事を勝手に察する。流石に夜風が冷えて来たようだった。
 や、やれやれ。
 具衛は寒くないが、隣りにいるのは身体の冷やし過ぎは憚られる女の身だ。それも病み上がりとあっては障るだろう。それがバスローブ一丁なのだから尚まずい。周りを見渡し、何かかける物がないか探すと、居間のソファーの袖にブランケットを見つけた。静かに立ち上がり、抜き足差し足の足運びでそれを手に取る。丁寧に端同士が合わせて折り畳んであり、一々生活に
 ホント——
 隙がない。
 思わず息抜きで、小さく嘆息した。
 その息を整えた一瞬後、また内ベランダに戻る。音を立てないように仮名の右側に回り込んだ。早速その玉体にブランケットをかけようとしたが、一応軽く叩いてからの方が良いと思い至り、背を向けたその時。また、バニラとミントの良い匂いが鼻を突いて、空気の動きを察した。脳が軽く揺さぶられたと思った瞬間、背後から羽交い締めにされて引き倒される。
「わっ!?
 辛うじてその手を払おうとするが時間差で足元も払われ、背中を向けたまま仮名の上に倒れ込んだ。
「スキあり」
「な、何やってんですか!?
 言いながらも抜け出そうとするが、中々見事に絡められており、本気で抜け出せない。
 あ、頭に胸が!
 後頭部の只ならぬ柔らかさと膨らみに慌ててもがくと、不意に抜けてしまいテーブルの端に額をぶつけた。
「あたっ!?
「さっきのお返しよ」
 ソファーとテーブルの間に滑り落ちた具衛が堪らず「うー」と額を摩り呻いていると、
「これでおあいこ」
 起き上がった仮名が、矢庭に具衛の顔に何かを貼りつける。
「これでも貼って冷やしたら」
 前額部から鼻腔を揺さぶる痛みに目を瞑ったままの具衛が、それでもソファーに座り直すと、気持ち冷んやりしたそれが腹の辺りに落ちた。
 ——ん?
 ようやく目を開いてそれを手にしてみると、白くしわくちゃになったそれはフェイスパックではないか。
 なっ!?
 驚いた具衛が、すぐ隣りに座り直している仮名の方を向くと、また顔にバニラとミントの良い匂いの塊が押し寄せており、今度は合わせて柔らかい物に口が塞がれた。驚いて目を見開くが、目はおろか、顔全体がその良い匂いの塊に覆われており何も見えない。二、三回瞬いてやっと、仮名の顔が押しつけられている事が分かった。慌てて引こうとしたが、見透かされたように後頭部と首にその艶かしい両腕が絡まっていて引くに引けない。進退極まってしまった。
 さっきの唇の固い感触は——
 指だったらしい。
 今度こそ本物の唇だと確信しながらも、余りの破壊力に脳がヒートアップして行くのを感じると、視野がボケて感覚が朧気になり、具衛は文字通り前後不覚に陥ってしまった。
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