文字数 1,342文字

 冬になると、ぼくらは下水道に逃げこむ。路地裏より幾分(いくぶん)、温かいから。
 拾った毛布に、ふたりで(くる)まる。少しでも寒くないように、寄り添い合って、ぼくらは眠る。
 あちこちに(ひび)の走る、煉瓦(れんが)造りの、古い下水道だ。緩慢な水の流れが、ひたひたと満ちる静寂に、ささやかなノイズを添えている。空気は薄く、ぼくらの呼吸は自然と速まっていく。
 仄暗(ほのぐら)(うろ)の中。ぼくは想像する。黒く(よど)んだ(なま)(ぬる)い水の中で溺れる、魚になった自分を想像する。うとうとと、まどろみながら。
(……来た)
 遠く、不揃いな足音が聞こえて、ぼくは、伏せていた顔を、ゆっくりと上げる。近づいてくる、ざわめきと光。充満する闇が、交叉する光に払い除けられていく。暗がりに慣れた目に突き刺さる、サーチライトの光。静寂を掻き乱す、怒声と悲鳴。
「お兄ちゃん」
 妹のメイが、不安そうな瞳で、ぼくを見上げる。もうあまり見えていないのだろう、焦点の合わない、ぼくと同じ翡翠(ひすい)色の瞳。骨ばかりになった幼い腕が、ぎゅっとぼくにしがみつく。大丈夫だよと、ぼくは微笑む。痩せたメイの頬に右手を添えて、左手は頭を撫でて、抱き寄せて。
「どこへ行きたい?」
 ぼくは(ささや)く。戸惑いを含んだメイの吐息が耳に触れた。
 微笑を崩さないまま、ぼくは続ける。
「どこへでも、メイの好きなところへ連れて行ってやるって言ったら、どこへ行きたい?」
 足音が近い。光が、ちらちらと(そば)(かす)めていく。もうまもなく、彼らはぼくらを見つけるだろう。
「わたし……動物園に行きたいな」
「動物園?」
「うん。いろんな生き物の声を聴いてみたい」
 腕の中で、メイが小さく微笑む気配がした。
 (うなず)いて、ぼくはそっと腕をほどく。
「逃げろ! おとなだ! 奴らが来た!」
「捕まるぞ! 早く!」
 ぼくらと同じように身をひそめていたこどもたちの影が、次々に飛び出し、駆け抜けていく。こどもの一人が、足もとに置いていたぼくらのランプを奪っていった。ごみを(あさ)って手に入れた材料で、ぼくが作ったもの。構いはしない。ぼくらには、もう必要ないものだ。遠ざかる影を、ぼくは冷やかに見送った。
「……でもね、お兄ちゃん」
 ふっと、メイは瞳を伏せた。あどけない声に、おとなびた色を宿して。
「わたし、お兄ちゃんが笑ってくれる場所が、いちばんいいな」
 叶わないことを知っていた。
「……ごめん」
 ぼくは静かに立ち上がる。
 揺れるサーチライトの光と、硬い靴音が、ひときわ強く、大きくなった。すぐそこまで来ている。《子供狩り》の、おとなたち。
 きびすを返し、一歩を踏み出す。(ぬる)い影の中から、冷たい光の中へ。
「少年を一名発見!」
「抵抗の様子は見られません!」
「直ちに保護します!」
 おとなたちの声が飛び交う。サーチライトの光が、一斉にぼくの姿を(さら)し出す。メイの呼ぶ声を背中に感じた。悲鳴の色を帯びた声だった。唇を引き結び、ぼくは顔を上げた。爪先(つまさき)に力をこめる。(すく)まないように。後ろのメイを(かば)うように。
「さぁ、賭けを、しようじゃないか」
 ぼくは笑った。光の先を、まっすぐに見すえて、ぼくは、不敵に笑ってみせた。
「代価は命。持ち時間は人生全部だ」
 たとえ、ぼくの体に、価値なんかなくても。
「挑ませてもらうよ――神様」
 勝ちを、手に入れるんだ。
 価値を、手に入れるために。

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