第18話
文字数 3,694文字
「だからね、一緒にかけっこしようって言ってんの!」
「だから、何で僕がそんなこと、あなたとしないといけないんですか」
心底迷惑そうに、颯は言った。
「僕、自分より弱いやつとやる気しないんで」
「だから、アサ、結構速いんだってば!」
アサは何とか自分に興味を持ってもらおうと、必死で颯が走っていくのにくっついていく。黄色く見える砂がビーチサンダルの中に紛れ込んできて気持ち悪い。
「そんなこと、僕は知りませんし。仮にそうだとしても、僕は今忙しいですから」
今度はアサのことを見向きもしないで言った。
悔しくて、眉にしわを寄せる。何か考えなければ、と思い至る。
このまま、交渉しても絶対やってくれないよねえ。でも、なんて言えばやってくれんのかなあ……。
考えることは苦手だ。アサはしばらく眉間にしわを寄せたまま無言で颯の後ろを走っていたが、しばらくして口を開いた。
「アイスおごるから! とか?」
自分で言いながら首をひねると、颯に「何意味わかんないこと言ってんですか?」と馬鹿にされた。ほっぺたが膨らんでいくのが分かる。
むー……その手には乗らないか。アサだったら絶対乗るのに。
ぷぅとほっぺたを膨らましながら、とりあえず引き離されてはどうしようもないので、颯の後ろを追いかける。と、Uターンする地点に着いたらしく、突然颯は向きを変えた。
「……っうわっと」
考えながら走っていたアサも慌てて向きを変えた。すると、今度は颯の頭に思いっきりぶつかる。颯はそれほど背が高くないから、鼻をもろにぶつけてしまった。痛い。
「痛いっ! ちょっと、何でいきなり止まるのー?」
ぶつけた鼻をさすりながら颯の方を覗き込むと、目の前には腕を組んだユキと、何が何だか分からないような顔をした諒が立っていた。
「あ、ユキ! 諒!」
「あなた、負けるの本当は怖いんじゃない? 女の子になんて負けたらあなたのプライドが許さないだろうし」
ユキはその綺麗な顔に最大限いじわるに見えるような笑みを保ちながら、颯を見下ろしていた。ユキはアサより背が高い。つまり、颯よりも背が高いし、ヒールのあるサンダルを履いてきているから、まだ成長期が来ていない颯を見下ろすなんて簡単なことなのだ。
そっかあ……そうやって言えばよかったんだ。
ユキの言いように感心していると、またユキが口を開いた。足を一歩颯の方へと踏み出した。
「アサ、諒よりも全然速いわよ。ね?」
ユキは突然くるっと後ろを振り向いた。振り向かれた諒は多少面食らった顔をしたが、すぐさま言葉を繋ぐ。
「え、ああ。俺よりも速いよ、多分」
「多分じゃないよ! アサの方が速いってば!」
そこはきちんと否定しておきたいところだったので、すぐに諒に言い返す。諒は少しむっとした表情をした。
「わかんないだろ! 今は俺の方が速いかもしんねえ!」
諒の言い方に少し引っかかって、アサは口をとがらせた。
「絶対ない! アサの方が速いもん! だって階段先に下ったとき、ユキに追いつけなかったでしょ? アサはユキよりも速いもんねっ」
ユキに同意を求めると、ユキはすぐさま「ええ、アサはあたしより速い」と認めた。
「どう? アサが速いのは絶対だけど。まだやる気しない? それとも怖いから止める?」
からかい半分のような口調でユキが颯に聞くと、颯はしばらく黙った。颯の後ろにいるアサには颯の表情が見えないが、多分そんなにいい顔はしてなかっただろう。
「……いいですよ。じゃ、明日の海が凪いだときで。砂浜だと慣れてる僕じゃフェアになりませんから、海辺のコンクリの道にしましょう」
「やってくれんの?! あ、ありがとうっ」
やった! これで諒の悪口を帳消しにできる!
砂浜の上で嬉しくて飛び上がると、うっとうしそうに颯がアサの方を振り返った。
「そんなに、嬉しいですか? どうせ負けるのに」
「あ、その言い方よくないよ! それに、そんなこと言ってたら負けたとき恥ずかしくなっちゃうよ?」
ユキの真似をしてふざけた口調で颯に言うと、颯はすっとアサから視線をはずした。怒ったのかもしれない。
「じゃ、僕帰りますから」
それだけ言って、颯はさっさと海辺の壁についている石段を上って行ってしまった。
「あーあ。行っちゃった」
「アサがそんなこと言うからでしょ」
「ええ? アサはただユキの真似しただけだよ」
一瞬むくれて見せて、それからすぐ笑った。笑いたくなった。
「えへへ。アサ絶対勝つからねー!」
諒に向かって笑って見せると、諒はぱっとアサから視線を逸らした。
ん……?! 何で?
目をぱちくりすると、諒は先に行ってしまった。後ろ姿だけが目に付く。
「あ、諒ー?」
「早くしろよ! 駄菓子屋のところ行かねえのかよ!」
こっちも見ずに諒は大声でそう言い、そのまま海岸を走って階段を上っていってしまった。
「アサ、おいで」
ユキに手招きされて、小走りでユキの横に行く。
海はもう赤くはなかった。太陽は海の中に沈み込み、ただ沈んだところだけぼんやりと空や雲が赤く光っている。その様子を見ながら、ユキの横を無言で歩く。波打ち際に寄っては引き、寄っては引いていく白く泡立った波の音だけが響く。近くの港から、船の汽笛がポーと高く鳴り響く音がした。夕方の船が来たらしい。それだけ。ユキはアサに向かって何も話そうとしない。
「えっと……? ユキ? どうした?」
ユキの方を向いて、長い髪で隠れている顔を覗きこむようにして見た。
ユキの姿は夕暮れの浜辺の上で恐ろしいくらい綺麗だった。太陽はもう沈んでしまったけれど、空気全体にほんのりと茜色が漂っているなかで、ユキ自身も空気と同じくらいその色の光の粒を纏っているように見えた。
「……アサ、もし、あたしに好きな人できたらどうする?」
「……っ?! 好きな人できたの?!」
慌てて意気込んで聞くと、ユキは顔をアサの方に向けないまま苦笑した。
「もしだってば。でも、やっぱり何でもないわ」
そのまましばらく二人で黙って歩く。
好きな人……なんでそんなこと聞くんだろう。そりゃあ、寂しくなるけど……っていうか、あんまりそういうの想像できない……。
ユキは黙ったままだ。アサはユキに好きな人ができてしまったときの想像を頑張って思い描いてみた。
まず、多分ユキは綺麗だからユキから告ったら誰だって一発オッケーするよね。そしたら、学校行くときも、家に帰るときもバラバラで帰っちゃうのかな……。それに、お昼も別々で食べようって言われて、お休みの日も一緒に遊ぶんじゃなくて、彼氏とデートってなるのかなあ。
こう考えると、自分がどれだけユキに依存しているのかわかる。まさに、依存だ。仲がよいとかそういうレベルじゃない。そこまで考えて、はっと思いいたった。
アサは、ユキがいないと困るけど、ユキはアサがいなくても大丈夫……。
だって、そうだ。ユキは何でも一人でできるし、面倒見てもらっているのはいつもアサの方。いつまでも、甘えて続けているのはアサだ。
ユキ、本当はアサのことが重い?
心臓が小さく鳴り始める。まさか、ありえないと、余裕で笑うことはできなかった。ユキがそう思っている可能性が全くないと言い切れるほど、アサはもう子どもじゃない。時間が過ぎれば変わらないものと、変わるものが現れる。それぐらい、アサだってもうわかっている。
海の砂の上でちっちゃなカニがよちよち歩いているのが見えた。ユキが隣にいてうつむいて歩くことなんて、初めてかもしれない。赤いような、茶色いような色のカニはしばらく波打ち際を歩いていたが大きく伸びてきた波に一瞬で海の中に引きずり込まれた。
でも、もし本当にそうだったとしても、アサがユキを好きなのは変わらないよね。今さら、ユキに何言われたって、嫌いにはなれないよ。
そこまで考えて、ふうっと息を吐いた。
「ユキ、さっきの話だけどね」
「ん? 何?」
「アサは、ユキが楽しいなら別にそれでもいいよ。ちゃんとよかったねって言うから」
いつもの口調でにっこり笑って見せる。すると、ユキはアサが想像していた顔と全く別の表情をした。アサがそう言って笑ったとたん、ひどく傷ついたように、顔をゆがめた。
「……ユキ?」
「……あはは、何言ってんのよ。だからもしもの話よ。あ、諒が上で待ちくたびれてるわよ」
「え? あ、本当だ」
ユキが指す方向を見ると、諒は公園のブランコに暇そうに座っていた。もう中学三年の男子が黙って夕方の公園のブランコを揺らしているのは、何だか無理のある光景だった。笑いがこみ上げてくる。
「何あれ! なんか変だよ! おぉーい、諒っ」
大声で叫んで何となくセンチメンタルな顔をしていた諒に呼びかける。
「早く、行ってあげなさいよ」
「ん? じゃあ、そうする。先行ってるね」
ユキのさっきの様子は気になったけど、それよりも、買い物中に母親と別れてしまった子どものような顔をしている諒の方が気にかかった。だから、アサはユキを残して一人で先に走っていってしまった。そのとき、ユキがどんな顔をしているかなんて、想像しようとも思えなかった。
「だから、何で僕がそんなこと、あなたとしないといけないんですか」
心底迷惑そうに、颯は言った。
「僕、自分より弱いやつとやる気しないんで」
「だから、アサ、結構速いんだってば!」
アサは何とか自分に興味を持ってもらおうと、必死で颯が走っていくのにくっついていく。黄色く見える砂がビーチサンダルの中に紛れ込んできて気持ち悪い。
「そんなこと、僕は知りませんし。仮にそうだとしても、僕は今忙しいですから」
今度はアサのことを見向きもしないで言った。
悔しくて、眉にしわを寄せる。何か考えなければ、と思い至る。
このまま、交渉しても絶対やってくれないよねえ。でも、なんて言えばやってくれんのかなあ……。
考えることは苦手だ。アサはしばらく眉間にしわを寄せたまま無言で颯の後ろを走っていたが、しばらくして口を開いた。
「アイスおごるから! とか?」
自分で言いながら首をひねると、颯に「何意味わかんないこと言ってんですか?」と馬鹿にされた。ほっぺたが膨らんでいくのが分かる。
むー……その手には乗らないか。アサだったら絶対乗るのに。
ぷぅとほっぺたを膨らましながら、とりあえず引き離されてはどうしようもないので、颯の後ろを追いかける。と、Uターンする地点に着いたらしく、突然颯は向きを変えた。
「……っうわっと」
考えながら走っていたアサも慌てて向きを変えた。すると、今度は颯の頭に思いっきりぶつかる。颯はそれほど背が高くないから、鼻をもろにぶつけてしまった。痛い。
「痛いっ! ちょっと、何でいきなり止まるのー?」
ぶつけた鼻をさすりながら颯の方を覗き込むと、目の前には腕を組んだユキと、何が何だか分からないような顔をした諒が立っていた。
「あ、ユキ! 諒!」
「あなた、負けるの本当は怖いんじゃない? 女の子になんて負けたらあなたのプライドが許さないだろうし」
ユキはその綺麗な顔に最大限いじわるに見えるような笑みを保ちながら、颯を見下ろしていた。ユキはアサより背が高い。つまり、颯よりも背が高いし、ヒールのあるサンダルを履いてきているから、まだ成長期が来ていない颯を見下ろすなんて簡単なことなのだ。
そっかあ……そうやって言えばよかったんだ。
ユキの言いように感心していると、またユキが口を開いた。足を一歩颯の方へと踏み出した。
「アサ、諒よりも全然速いわよ。ね?」
ユキは突然くるっと後ろを振り向いた。振り向かれた諒は多少面食らった顔をしたが、すぐさま言葉を繋ぐ。
「え、ああ。俺よりも速いよ、多分」
「多分じゃないよ! アサの方が速いってば!」
そこはきちんと否定しておきたいところだったので、すぐに諒に言い返す。諒は少しむっとした表情をした。
「わかんないだろ! 今は俺の方が速いかもしんねえ!」
諒の言い方に少し引っかかって、アサは口をとがらせた。
「絶対ない! アサの方が速いもん! だって階段先に下ったとき、ユキに追いつけなかったでしょ? アサはユキよりも速いもんねっ」
ユキに同意を求めると、ユキはすぐさま「ええ、アサはあたしより速い」と認めた。
「どう? アサが速いのは絶対だけど。まだやる気しない? それとも怖いから止める?」
からかい半分のような口調でユキが颯に聞くと、颯はしばらく黙った。颯の後ろにいるアサには颯の表情が見えないが、多分そんなにいい顔はしてなかっただろう。
「……いいですよ。じゃ、明日の海が凪いだときで。砂浜だと慣れてる僕じゃフェアになりませんから、海辺のコンクリの道にしましょう」
「やってくれんの?! あ、ありがとうっ」
やった! これで諒の悪口を帳消しにできる!
砂浜の上で嬉しくて飛び上がると、うっとうしそうに颯がアサの方を振り返った。
「そんなに、嬉しいですか? どうせ負けるのに」
「あ、その言い方よくないよ! それに、そんなこと言ってたら負けたとき恥ずかしくなっちゃうよ?」
ユキの真似をしてふざけた口調で颯に言うと、颯はすっとアサから視線をはずした。怒ったのかもしれない。
「じゃ、僕帰りますから」
それだけ言って、颯はさっさと海辺の壁についている石段を上って行ってしまった。
「あーあ。行っちゃった」
「アサがそんなこと言うからでしょ」
「ええ? アサはただユキの真似しただけだよ」
一瞬むくれて見せて、それからすぐ笑った。笑いたくなった。
「えへへ。アサ絶対勝つからねー!」
諒に向かって笑って見せると、諒はぱっとアサから視線を逸らした。
ん……?! 何で?
目をぱちくりすると、諒は先に行ってしまった。後ろ姿だけが目に付く。
「あ、諒ー?」
「早くしろよ! 駄菓子屋のところ行かねえのかよ!」
こっちも見ずに諒は大声でそう言い、そのまま海岸を走って階段を上っていってしまった。
「アサ、おいで」
ユキに手招きされて、小走りでユキの横に行く。
海はもう赤くはなかった。太陽は海の中に沈み込み、ただ沈んだところだけぼんやりと空や雲が赤く光っている。その様子を見ながら、ユキの横を無言で歩く。波打ち際に寄っては引き、寄っては引いていく白く泡立った波の音だけが響く。近くの港から、船の汽笛がポーと高く鳴り響く音がした。夕方の船が来たらしい。それだけ。ユキはアサに向かって何も話そうとしない。
「えっと……? ユキ? どうした?」
ユキの方を向いて、長い髪で隠れている顔を覗きこむようにして見た。
ユキの姿は夕暮れの浜辺の上で恐ろしいくらい綺麗だった。太陽はもう沈んでしまったけれど、空気全体にほんのりと茜色が漂っているなかで、ユキ自身も空気と同じくらいその色の光の粒を纏っているように見えた。
「……アサ、もし、あたしに好きな人できたらどうする?」
「……っ?! 好きな人できたの?!」
慌てて意気込んで聞くと、ユキは顔をアサの方に向けないまま苦笑した。
「もしだってば。でも、やっぱり何でもないわ」
そのまましばらく二人で黙って歩く。
好きな人……なんでそんなこと聞くんだろう。そりゃあ、寂しくなるけど……っていうか、あんまりそういうの想像できない……。
ユキは黙ったままだ。アサはユキに好きな人ができてしまったときの想像を頑張って思い描いてみた。
まず、多分ユキは綺麗だからユキから告ったら誰だって一発オッケーするよね。そしたら、学校行くときも、家に帰るときもバラバラで帰っちゃうのかな……。それに、お昼も別々で食べようって言われて、お休みの日も一緒に遊ぶんじゃなくて、彼氏とデートってなるのかなあ。
こう考えると、自分がどれだけユキに依存しているのかわかる。まさに、依存だ。仲がよいとかそういうレベルじゃない。そこまで考えて、はっと思いいたった。
アサは、ユキがいないと困るけど、ユキはアサがいなくても大丈夫……。
だって、そうだ。ユキは何でも一人でできるし、面倒見てもらっているのはいつもアサの方。いつまでも、甘えて続けているのはアサだ。
ユキ、本当はアサのことが重い?
心臓が小さく鳴り始める。まさか、ありえないと、余裕で笑うことはできなかった。ユキがそう思っている可能性が全くないと言い切れるほど、アサはもう子どもじゃない。時間が過ぎれば変わらないものと、変わるものが現れる。それぐらい、アサだってもうわかっている。
海の砂の上でちっちゃなカニがよちよち歩いているのが見えた。ユキが隣にいてうつむいて歩くことなんて、初めてかもしれない。赤いような、茶色いような色のカニはしばらく波打ち際を歩いていたが大きく伸びてきた波に一瞬で海の中に引きずり込まれた。
でも、もし本当にそうだったとしても、アサがユキを好きなのは変わらないよね。今さら、ユキに何言われたって、嫌いにはなれないよ。
そこまで考えて、ふうっと息を吐いた。
「ユキ、さっきの話だけどね」
「ん? 何?」
「アサは、ユキが楽しいなら別にそれでもいいよ。ちゃんとよかったねって言うから」
いつもの口調でにっこり笑って見せる。すると、ユキはアサが想像していた顔と全く別の表情をした。アサがそう言って笑ったとたん、ひどく傷ついたように、顔をゆがめた。
「……ユキ?」
「……あはは、何言ってんのよ。だからもしもの話よ。あ、諒が上で待ちくたびれてるわよ」
「え? あ、本当だ」
ユキが指す方向を見ると、諒は公園のブランコに暇そうに座っていた。もう中学三年の男子が黙って夕方の公園のブランコを揺らしているのは、何だか無理のある光景だった。笑いがこみ上げてくる。
「何あれ! なんか変だよ! おぉーい、諒っ」
大声で叫んで何となくセンチメンタルな顔をしていた諒に呼びかける。
「早く、行ってあげなさいよ」
「ん? じゃあ、そうする。先行ってるね」
ユキのさっきの様子は気になったけど、それよりも、買い物中に母親と別れてしまった子どものような顔をしている諒の方が気にかかった。だから、アサはユキを残して一人で先に走っていってしまった。そのとき、ユキがどんな顔をしているかなんて、想像しようとも思えなかった。