トンネルの向こう

文字数 2,515文字


 不況の煽りを受け、病と放漫経営が重なり夫の営む鉄工所は倒産した。夫は病と心労で倒れ救急搬送された。健の生誕五日後のことである。命を落とすことはなかったが、未来像を描くことが出来ず、一家は出口の見えないトンネルにズルズルと入っていった。
 朝が来るから起きる。日が落ちると「カヤ」を吊って床に入る。
何と行っても野蛮なランプ生活だ。それに「カヤ」を吊れば蚊取り線香が節約できる。意志のない人間が根無し草のような暮らしをしていた。何の取り柄もない簿記三級ではライセンスが有るとはいえないし、勤めに出る自信もない。半端な針仕事では生計が立たない。
 知人のFさんは夫婦でN生命へ勤めていた。どん底生活の続く夏、保險の仕事をしないかと誘われたが「乳児を連れている」それは不可能な話だとお断りしていた。ところが
「子連れでもよい、出勤さえしていれば固定給が支給される。」Fさんは何度も熱心に囁く。
「お金が欲しい」
月給泥棒ではないと、屁理屈を盾に昭和三十九年の秋も半ばの頃、三歳と生後五カ月の子供を連れて二カ月の給料泥棒に入った。出勤簿に捺印、朝礼を済ませてFさん夫婦と私たち三人は会社を後にする。お金が貰えると思うだけで、先輩たちの好奇な眼差しにも耐えられた。耐えたというより開き直っていた。Fさんの提案通り、知人、友人、親類とFさんを伴って訪問した。Fさんは不思議な話術を持っていた。次々と保険の契約が成立した。気がついてみると、驚くほど保険に加入して貰っていて、今更もう後へ引けなくなっていた。それは会社やFさんの最初からの思惑どうりだったのだ。こうして計らずもN生命保険の契約社員に登録され、津田を集金地区として与えられた。漁師町の津田のご婦人は
「歯に衣着せぬ」の諺の通りで、郷に入り郷に従うのにあまり時間はかからなかった。
中古のスズキのバンを買い、後部席に健を寝かせ、湯たんぽで暖をとり娘に子守りをさせながら母子三人で流離の勤めに出た。娘に
「ちょっと前の家へ行くけん健と自動車の中で待っといて」
「うん。はようもんてきて」
訪問先で話が長引くと
「母ちゃん健が泣いている」と娘がご注進に来る。三歳の子供のこと、怒りもできず、情けなくて立ちすくんだ。雨の日も風の日もスズキのバンは津田の町を巡っていた。
暫くして子供連れでは不可と会社が言い出した。会社は最初から容認していたのではないらしい。Fさんの思惑があって私には伝わってこなかったようだ。車も買い、既に契約いただいた方々や手帳のリストも膨らみだした今となっては、辞めるわけにはいかん。一カ月の猶予を貰い保育所と乳児託児所を捜した。娘の保育所は見つかったが、健を預ける託児所はどこにもなかった。預けっ放しなら乳児院があった。愛しい子供を手放すより他に生きる道はないのか。自問自答を繰り返した。木枯らしの吹く師走も終わりの頃、断腸の思いで、健を連れて乳児院の門をくぐった。寒風が吹き込む、おんぼろの車には、健が暖を取っていた湯たんぽだけが残り、寒風は心に髑髏を巻いて居座った。

「健ごめんな」「泣かないぞ」決心しているのに涙が出る。この子への負の思いは死んで
肉体が物体にっても償えるものではない。生涯、背負うて生きる小さい十字架は重い。
その頃、夫は徳大病院へ措置患者として入院中だった。電気も水もない工場の二階で長男と娘と三人の暮らしは未だ続いていた。
 一年後、夫も退院し、健も帰り久しぶりに家族五人が鉄工所の二階に揃った。
「おねーちゃんが抱っこしてあげる」と抱くのだが、姉より弟の方が太くて重い、なぜか
そこだけ写真が残っている。五人の命は私の双肩にかかっている「槍でも鉄砲でも持って
来い」とひとり相撲していた感は否めない。いつか腹から笑える日も来る。きっとくる。未知のその日は顕在意識の中にあり、懸命に働いた。働くことは生きることだった。台風がきてみんな家にいた。ささやかな団欒を子供たちはよろこんだが、がらんどうの工場の二階は、嵐がぶつかる度に揺れに揺れる。板をガラスに貼り付けたり、手当たり次第そこにあるもので、夫と長男と三人で窓を抑えながら嵐の過ぎるのを待った。突っ張りにしていた消化器の栓が何かの弾みに抜け、慌てた長男は消化器を振り回した。あれよあれよと騒いでいるうちに、消化器の中は空っぽになった。騒ぐことも、大笑いすることも久しかった家中が、てんやわんやの大騒ぎ。個々の力は微々たるが三人合わせると嵐をのりきれたのだ。泡の後始末は大変だったが、嵐が陰りの心に風穴を開けてくれた気がした。
 そのころ、四年生の長男の絵が親善を担って徳島市の姉妹都市サギノー市へ海を渡っていった。それだけのことが、我が家を灯してくれた。貧しくても、どの子も底抜けに明るかったのは唯一の救いであり、やがて娘と健、二人を同じ保育所に預けることができ、心身共に楽になった。夫は健康を取り戻しつつあり、私もなんとかノルマをこなしていた。挫折から三年。トンネルの出口の小さい明かりを微かに捉えた気がした。
 長男の中学入学を機に転居。夫は初めて徳島に上陸したボーリング場のメンテを任されて職に就いた。同じころ私もN生命を退職した。二度と戻りたくない職場ではあったが、三年間、沢山の方々に支えられたN生命との出会いを今も感謝している。退職し転居と同時に八百屋を始めた。小さい賃貸の店舗だったが親子五人、明日を煩う事なく暮らせた。長男は中学一年生、娘は小学三年生、そして健が幼稚園に入園式の日。店をパートの人に委ねて流行りの黒い羽織を着て、健の手をとり出掛けようとしたら
「カッコ悪い。ひとりで行ける」 私の手を払い先にさっさと歩いていった。以来、手を取る事もなく健はあっけらかんと親離れした。

 上を向いて歩こう。涙がこぼれないように… 。トンネルの出口が見えて来た。夜が明
ける。長男は志望校に入学した。夫の起業も、めどが立ったようだ。日が沈みまた陽が昇
る。自然の摂理だ。とうとう転換期が来たのだ。明日への希望が湧水の如く湧いて来る。
 遂に長いトンネルを出た。現世は眩しくて開眼できない。閉じた目から熱いものが… 。






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