1.金木犀(きんもくせい)の祈り

文字数 1,294文字

子供を寝かしつけながら、虫の音を聴く。
涼しく乾いた秋の夜風。
首のあたりに感じる息子の規則正しい寝息と、柔らかな頬。

9月。
私は、金木犀の香りを今か今かと待っている。

愛用している化粧品ブランドから、金木犀のオードトワレが発売されるというDMが届いた。ここ数年、少なくとも妊娠してからは香水を付ける習慣はなくなった。それなのに、この金木犀の香りに惹かれ、オードトワレを予約してしまった。

若い頃は毎日のように香水をつけて出掛けていた。
匂いは強烈に記憶に刻まれる。


大学に入学してすぐに付き合った先輩は、香水をつけていた。その人をとても好きだった訳ではないけれど、別れたあと、同じ香水をつけた男の子と遊んだときには、懐かしさと寂しさと、そしてなぜか後ろめたさを感じた。

今でも、大学生のときにつけていた香水がほんの少し残っている。1年に1度くらい、気まぐれにその香りをそっと吸い込む。

すると、必ず浮かび上がるのは、冬のはじまりの学園祭の夜の場面。

いつも遊んでいた男友達たちと通行禁止の大学の門に登ってとび越えていた。私は襟元にファーのついたアウターを着て、膝上丈のベージュのミニスカートを履き、網タイツにブーツだった。誰かに手を引っ張ってもらったのか、押し上げてもらったのか、何かしら手を貸してもらってその門によじ登り、なんとかジャンプして地面に着地した。

そのとき、ふわりと自分の香水の香りが立ち昇った。冬の夜の冷たくツンとした空気と、みんなで門を越えて熱くなった自分の吐息と少しの興奮と、仲間たちの明るい声と学園祭の喧騒、それらすべてを香りと一緒に吸い込んでしまったようだ。


今の私は間違いなく幸せだ。

それでも、あの香水をつけていたあの冬の私もまた、幸せだったんだろう。懐かしさと切なさに少し胸がチクッとなる。もう戻れないこともわかっているし、私は自分の意志で今の生活を続けていくこともわかっている。何かを変えたいわけでもない。

ただ、そんな頃もあったんだよ、子育てに追われる平凡な主婦になってしまった自分の人生にもそんな瞬間があったんだよと、たまには思い出して胸を締め付けたくなる。だから私は、ほとんど空のその香水瓶を捨てられない。

夏の空気が初秋の空気と入れ替わるころ、こうして毎年センチメンタルになる自分を、私はけっこう気に入っている。

金木犀のオードトワレが届いたら、自分にしかわからないようにそっと身に纏ってみよう。
その香りと一緒に、今の私の幸せを全部吸い込んで、記憶に刻みつけよう。

ママ、ママと腕をひろげて抱っこをせがんでくれる息子。
覚えたばかりのひらがなで「ままだいすきだよ」と毎日のように手紙を書いてくれる娘。
平日はほとんど家事育児を手伝ってくれないけれど、私の誕生日と結婚記念日には必ず休みをとってくれる夫。

慌ただしい日常が、きっとすべて宝物になる。

そうして、10年、20年経ち、幼かった子供たちがすっかり成長したころ、この香りをかいで私は思い出すのだろう。子育てに必死だった幸福な時間を。

少なくなった金木犀のオードトワレを、ひとりそっと吸い込む未来の私もまた、どうか幸せでありますように。


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