あそこから

文字数 3,431文字


 ITバブルが世間を席巻していた時、実は、IT会社には不況の波が訪れていた。
 世間が感じていたバブルは、”ITを語った商社のバブル”だったのだ。この世の中は、”商社”が儲かると金が回るように思われているが、IT関連の商社の場合には、上が儲かればそれだけ下が圧迫されるのだ。ゼネコンと同じ図式になると考えて貰えれば良いだろう。

 私が在籍していた職場にも、歪んだ”バブル”が押し寄せてきました。
 今では、珍しくない”企業内企業”として運営していた会社でした。それまでは、親会社からの資金投入でうまく回っていたのです。

 親会社の屋台骨が傾き始めます。
 簡単な話です。企業内企業としてやっていた部署の切り離しを始めたのです。非生産部門を必要ないと切り捨てたのです。裏方で、テスト部門や外部との折衝を行っていた場所や、コールセンターの役割を持っていた部署を外注に出し始めたのです。
 親会社は、IT商社との繋がりを求めて、商社からの執行役員を招き入れたのです。それが崩壊の始まりでした。つぎに行うのは、体質改善という名前の資金投入が始まります。いくつかの銀行から融資を受けて、融資の見返りとして銀行出身の者を更に執行役員に加えます。
 そして、数字だけで部署をパージし始めます。企業内企業だったので、簡単に話しが進みます。お情けの融資を渡して終わりです。

 私が属していた”企業内企業(部署)”は対象にはなっていません。システム開発を生業にしていて、ほぼ唯一と言っていいほどの特殊な隙間技術を持った集団なのです。
 そんな部署にも、リストラの噂は流れてきています。

 こんな状況の中で、主人公君は精神を壊していきました。
 真面目だった主人公君は、会社のやり方が間違っていると憤慨していました。しかし、主人公君は私と同期のいわゆる新人と呼ばれる経歴なのです。
 入社3年目で、部下は居なかったが、オンリーワンに近い技術を持つ特殊な集団に配属される程度の力は持っていました。主人公君も、同期の中では自分が一番優秀だと思っている状態だったのです。
 その優秀な自分が、会社に苦しめられている同期を救えない状況に精神を蝕まれていったのです。

 最初は、言動の不一致が目立つようになってきたな程度でした。
 それから、仕事中に会社や上層部の悪口をブツブツ言うようになってきました。

 ある休日出勤の日、主人公君は腕から血を流して出社してきたのです。

 自傷行為を行ったまま。それが当然であるかのような顔をして出勤してきたのです。
 私たちは慌てて、救急箱で応急処置をします。

「何をした?」

『え?あっ僕は、僕が許せなくて罰しただけだから、気にしなくていいよ』

「はぁ罰した?なんで?何をした?」

『え?カッターで、僕の罰を刻んだだけで、迷惑はかけないよ?』

 ネジの数本が飛んでいるような感じです。
 どうやら、会社のトイレで持ってきたカッターで傷を付けたようです。

 真面目な彼は、上司の命令には服従します。しかし、同期である私は自分よりも下だと思っていて、何を言っても聞きませんし、逆効果です。
 上司が出社してきて、やっと手当を受けたのですが、上司は彼を帰しました。仕事にならないと判断したのです。

 しかし、この上司の判断が間違っていました。

 翌日も、次の日も、彼は出社してきました。
 自傷行為はしていません。トイレに入る前に、誰かが付き添っていくのです。手荷物を持っていれば、上司が命令して手荷物を没収します。

 主人公君は、真面目な性格です。どこかに行く時に、上司に許可を求めるという命令を忠実に実行します。
 上司がタバコ休憩に入った時には、喫煙所まで上司に許可を求めに行きます。

 そこで、上司と先輩が話している内容を聞いてしまったのです。

 主人公君の蝕まれていた精神は崩壊の一歩手前まで来ていたのです。そして、その話が、主人公君の最後のプライドとなっていた枷を壊してしまったのです。

「次の仕事から、主人公を外すか?」

「そうですね。俺としては、主人公よりも()が欲しいです。()は、真面目では無いのがいいです。俺に近い感じがします」

「たしかに・・・。()が一番、ここの水に合っているだろう」

「はい。主人公は真面目ですが、次の仕事には向きません。ギリギリの案件ですからね」

「わかった。チーム編成を考える」

「すみません。お願いします」

 主人公君は、この話を聞いてしまったのです。
 同期の中では、優秀だと自負していた主人公君のプライドは砕け散ったのです。

 普段は、私に話しかけるようなことがない主人公君が私の後ろに立って、話し始めます。
 正直な感想として、怖かったです。いきなり刺される可能性まで考えました。

 しかし、主人公君の行動は私の想像できる物では有りませんでした。

『ねぇあそこから僕を狙って、何か飛んで来ているのだけど?あれが何か解る??』

 主人公君は、部屋の隅を凝視した状態で、私の耳元で囁いたのです。
 後ろを振り向けないほど近くで、私が使っているディスプレイには主人公君の顔が映っています。薄ら笑いを浮かべた顔は恐怖を掻き立てるのには十分な表情です。椅子の背もたれを掴んで、押し込まれているので、立ち上がることも出来ません。肘掛けが邪魔で横にも逃げられません。

 主人公君はニヤリと笑います。
 私がディスプレイに映る自分を見ているのを認識したのでしょう。話を続けます。

『ほら、見えるでしょう。あそこから黄色の光が僕まで来ているのよ?君が命じているのでしょう?』

 主人公君は1線を越えてしまったと感じました。
 椅子を押し出そうにも、押し出せない。彼は本気なのです。目が本気(まじ)のです。彼の声から抑揚が消えます。機械音のように平坦な声で、耳元で囁くのです。私の背中にはなんとも言えない汗が吹き出して来たのです。

『あれをやめて。僕には解るよ。あれを命じているのは君でしょ?君が、僕の才能を妬んでやらせているのでしょ?』

『ねぇ僕が何をしたの?優秀なのが気に入らないの?なんで僕ばかり攻撃するの?ねぇ・・・。ねぇ・・・。(意味が判断出来ない言葉の羅列)』

 まわりを見渡しても、周りには聞こえない様に囁いているので、周りは気がついていません。周りには、同期私に内緒話をしているように見えたようです。
 その時なのです。

 主人公君が・・・『(解読が不明な絶叫)』を発して、壁に突進していったのです。すごい音が部署に鳴り響きます。主人公君は頭から血を流して倒れます。

 それから、私も事情が掴めないまま、その場で立ち尽くしていると、上司と先輩が戻ってきました。

 倒れた主人公君を見て、救急車を呼びます。

「遅かったか・・・」

「そうですね」

 上司と先輩は、主人公君の異常性を感じて、療養を進めようと思っていたのです。

 到着した。主人公君を乗せて走り去る救急車を見送ったのですが、私はディスプレイに映る主人公君の歪んだ顔が脳裏に焼き付いて離れません。

 私が、次に主人公君の名前を聞いたのは、二日後でした。
 主人公君は、運ばれた病院を抜け出して、行方不明になってしまったのです。

---後日談

 主人公君は、その後、とある県の病院にいる事が解り、家族を田舎から呼び寄せて、上司と先輩と関係者で、病院まで迎えに行きました。

 落ち着いては居るのですが、やはり仕事関係の事を連想する物を見ると、情緒が不安定になってしまうのです。
 主人公君はそのまま、親元に帰る事になりました。幸いな事に、親御さんは理解のある人で、同じ仕事をやっていた私が無事なのだから、『息子が向いていなかったのだろう』と理解を示してくれました。私には迷惑をかけたと謝罪の言葉を残してくれました。
 上司も先輩も、親御さんと相談という名前の苦情を覚悟していたので、そうならなかった事を単純に喜んでいました。

 その後、主人公君がどこで何をしているのかは解らない。親元に帰った次の年は、年賀状も届いたが、それ以降は音信不通になってしまっています。

 元気にやっていてくれる事を、主人公君の信じる神に祈る事にしました。
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