第89話 クラーケンの墨パスタ
文字数 2,207文字
ヤースミーンが茫然として見ている前で、ヤヌス村の城壁は火災が激しくなり正面から崩壊が始まった。
幸い、城壁の上で戦っていた村人たちは避難できたようでそれだけが救いだ。
リヒターがヤースミーンを慰めた。城壁をよじ登って乗り越えようとしていたクラーケンの大群は大半がヤースミーンの火炎の魔法で燃えて死体となって城壁の下に転がっている。
生き延びたクラーケンはヤヌス村の攻略をあきらめた様子で海の方向に逃走していた。
貴史は逃げていくクラーケンの群れの行方を見ていたが、不意に服の袖を引っ張られて我に返った。
貴史は城壁にとりついてウニョウニョと蠢いていた白い生き物を思い出して鳥肌が立ちそうだったが、タリーが差し出した肉片は表面がほのかに茶色に焼け、スルメを焼いたような香ばしい香りが漂っている。黒っぽいソースがかけてあるのが妙においしそうに見える。
貴史は断ろうとしてタリーに両掌を向けていたが、気が変わって掌を上に向けて肉片を受け取った。
口に入れると、弾力のある肉片はあっさりかみ切ることが出来る。かみしめると甘みを感じさせるイカの味とソースの複雑な旨味が口いっぱいに広がった。
リヒターはコックとしてドラゴンハンティングチームに随行しているとはいえ、タリーには一目置いている。
ドラゴンハンティングチームの本体が到着すると手の空いた者たちはタリーの指示を受けて、黒焦げになっていないクラーケンを集め始めた。
炎上を続けているヤヌス村の城壁を前にして、チームのキャンプ地が設営され、タリーはクラーケンの調理を始める。
貴史が声をかけると、タリーはちぎった雑草の茎みたいなものを貴史に差し出した。
草の茎をしげしげと眺める貴史にタリーが笑いながら教える。
貴史はタリーに言われるままに、小川に向けて歩き始めたがヤースミーンが俯いて泣いていることに気が付いた。
根が生真面目なだけに城壁を燃やしてしまったことで、自責の念に駆られているのに違いない。
貴史は、ヤースミーンの肩に手を回すと小川に向けて歩き始めた。
村を振り返ると正面の城門がある部分が炎上しているので今は村の人たちは外に出ることが出来ない様子だ。火勢が収まって村の人々が外に出てきた時にどのような態度をとるか気になるところではあった。
もしも苦情を言われたら、リヒターの言葉どおり、クラーケンに滅ぼされるよりは城壁が焼けた程度で済んでよかったと言い張るしかない。
貴史はその時はその時で考えようと思って小川に向かった。
小川の岸辺でクレソンを探すのは簡単だった。
浅瀬の岸辺にこんもりと茂ったクレソンを採み取っては集用の籠に集めていると、ヤースミーンも気分が明るくなったようだ。
ヤースミーンがいつもの調子を取り戻したので貴史は苦笑しながら彼女の言うとおりにした。
ドラゴンハンティングチームの宿営地に戻るとタリーは特大サイズの鍋を使って、つぶして刻んだニンニクを大量のオリーブオイルで炒めていた、そしてその上にオニオンとクラーケンのぶつ切りを大量に投入し、ワインと塩を加えると最後に黒っぽい内臓の中身を絞り出している。
貴史の問いに、タリーは手を止めずに答えた。
クラーケンの墨袋だ。中身はイカ墨と同じだと思っていいだろう。そっちで茹でているパスタ麺と合わせたら美味しいイカ墨パスタの出来上がりだ。さらに、こっちで揚げているクラーケンのフリッターにお前たちが採ってきたクレソンを添えてクラーケン尽くしのメニューが完成だ
貴史はタリーが持っている両手の上に乗る程度の大きな内臓を見て微妙に不安を感じる。
タリーは振り返って貴史の顔色を確認してから言った。
その横で、タリーの助手は茹であがったパスタをイカ墨ソースに投入して、大きな棒でかき混ぜていく。
クラーケン尽くしの夕食の完成はもうすぐのようだった。