フェニックス

文字数 7,681文字




(この物語はフィクションであり、登場する人物、団体は作者の創作によるものです)


「ねぇ、お母さん……あたし、このまま引退しちゃおうかな……」
 病院のベッドの上、朝倉珠央はそう呟いた。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 珠央は2年前、16歳で世界選手権とグランプリ・ファイナルで優勝し、オリンピックでも銀メダルを獲得した世界的なフィギュアスケート選手。
 スピード豊かなスケーティング、ダイナミックな動き、難しい大技に果敢に挑むチャレンジ精神が珠央の持ち味だ。
 ただ、オリンピックで銀メダルに終わってからと言うもの、国際大会での勝利はない。
 同じ18歳、誕生日も数日しか違わないカナダの選手、サブリナ・レブランクを超えることが出来なくなったのだ。
 サブリナとは同い年の上、シニアの下限ギリギリである15歳から世界大会を共に転戦して来ていて、互いの実力を認め合う仲、良い意味での本当のライバルだ。
 そして、サブリナの選手としての特徴は珠央とはだいぶ異なる。
 珠央ほどのスピードはないし、ジャンプの高さも劣る、その代わり正確性とメンタル的な強さはサブリナに軍配が上がる。
 珠央は女子では他に誰も跳ぶことが出来ないトリプルアクセル(3回転半)ジャンプを持っている、しかし、それは失敗の危険性も孕んでいるチャレンジ。
 対してサブリナは3回転までしか跳ばない、しかし3-3コンビネーションジャンプでもほとんど失敗することがない。
 珠央がより高度な技をどんどん追求して行くのに対して、サブリナは出来る事を確実に、ミスなく決めて行く事を心がけているのだ。
 2年前のシーズンは2人の独壇場だった、大技を決めて勢いに乗れば珠央が勝ち、ミスが出れば堅実に得点したサブリナに凱歌が上がる、2人のハイレベルな戦いに他の選手が付け入る余地はなかった。
 しかし、オリンピックの舞台で、サブリナは初めてトリプルアクセルを決めて見せた、グランプリファイナル、世界選手権で敗れた珠央に一矢報いるために密かに練習を積み重ねていたのだ。
 オリンピックでは珠央もノーミスの演技だったのだが、トリプルアクセルを取り入れたサブリナの得点には及ばなかった。

 ……そして昨シーズン、珠央はスランプに陥った。
『このままではサブリナに勝てない』と言う焦りが気持ちを空回りさせた。
 トリプルアクセルを超える技として猛練習した4回転は中々物にならない。
 そして、世界選手権代表選考会を兼ねた日本選手権で挑んだ4回転ジャンプ、僅かに軸が傾いたのは、テイク・オフした瞬間にわかっていた、それでもなんとか着氷をこらえようとしたのが拙かった、膝が不気味な音を立て、激痛に倒れこんだ珠央はそれ以上演技を続けることが出来ずにコーチの肩を借りてリンクを後にした。
 診断結果は十字靭帯断裂、自然治癒は見込めない、珠央の膝にはすぐにメスが入れられた。
 
 幸い手術は成功したもののしばらくはベッドから離れられない、出場を熱望していた世界選手権を珠央は病院のベッドの上でテレビ観戦しなければならなくなったのだ。

「そうねぇ……珠央の思うとおりにしたら?」
 珠央の呟きに、付き添っていた母はそう答えた。
 
 珠央は小さい頃から人一倍負けず嫌い、年上の男の子に泣かされても一矢報いるまでは決して退かなかった……オリンピックで負け、スランプに陥った末に大怪我を負っての引退など珠央らしくない。
 しかし、母親としては、娘がこれ以上苦しむのも見たくない気持ちがあることもまた事実なのだ。

 3歳で初めてスケート靴を履いた頃は、ただただ滑るのを楽しんでいた。
 5歳でフィギュア教室に通い始めた頃は、毎日のように「お母さん、今日は後ろ向きに滑れたよ!」「今日はスピンを教えてもらったんだ!」と嬉しそうに報告しに来た。
 そして7歳からはコーチの本格的な指導を受けるようになり、9歳からはノービス、13歳からはジュニアに参戦し年代別の頂点を極めて、最年少の15歳でシニアデビュー、そして16歳で世界チャンピオンと、傍目には順調そのものの栄光の日々を送って来た。
 しかし、その影ではどれほどの汗と涙を流して来たのかを、母親として見て来ている。
 同い年の女の子が屈託なく遊んでいる時も、珠央はスケートリンクでコーチの厳しい指導の下、不可能を可能にするために全てを捧げて来たのだ。
 リンクに立てなくなるような大怪我こそ初めてだが小さな怪我は絶えない、そのダメージが珠央の身体に蓄積していることも知っている。
 母親は当然、選手としての珠央の一番のファンでもある、一ファンとしては珠央らしく、悔いのないように頑張って復帰して欲しい、もう一度頂点に立って欲しいと思う。
 しかし、子供の心や身体を心配する母親としては、もうスケートから離れて自由に伸び伸びと過ごしても良いのでは? と言う思いもある。
『珠央の思うとおりにしたら?』
 ある意味、下駄を預ける無責任な言葉だ、しかし、一番のファンであり、母親でもある身とすれば、それ以外の言葉は見当たらなかったのだ。

 テレビではサブリナの演技が始まった。
 正にいつもどおり……完璧とも言って良い演技だ。
 流れるようなスケーティング、エッジワークの巧みさ、それぞれのエレメントの正確さと出来栄え、曲を全身の動きで表現する演技力、全てが完璧、そしてトリプルアクセルも綺麗に決めた。
 満足の行く演技を終えて観客に挨拶する時の晴れ晴れした笑顔……珠央にも覚えがある。
 あれこそがフィギュアスケーターにとって最高の瞬間、それまでの努力が全て報われた気持ちになり、今、この時、自分は世界で一番幸せなのだと感じることができる。
 サブリナのその姿を見つめる珠央の目からポロリと涙がこぼれた。
(サブリナ、おめでとう、優勝間違いないわ、素晴らしい演技だった……今、幸せを噛み締めていることでしょうね……あたしはもうそこへは戻れないかも知れないけど……)

 ……しかし……。
 ……優勝したのはサブリナではなかった……。

 サブリナの後に滑った、やはり同い年の18歳、韓国のリ・ソナがサブリナの得点を上回ったのだ。

(一体どうして?)
 珠央は茫然とした。

 もちろんソナも良い選手だ、同じように15歳でシニアに上がってきて交友もあり、珠央とサブリナがしのぎを削っている時も常に上位に名を連ねていた、もし自分もサブリナもいなければひとつやふたつタイトルを取っていたとしても不思議ではない。
 しかし、今見せた演技がサブリナのそれを超えるものだったとは思えない。
 確かに手の動きや顔の表情の付け方には進歩が見られる、決めポーズも新しくしてより印象的にはなった。
 しかし、スケーティングにせよエレメントにせよ、技術的な進歩は見られない、多少見映えが良くなったとしても、サブリナとの間にあった2~30点の差を一気にひっくり返せるようなものではなかったはずだ……。
 
 スピードスケートは同時にスタートして、より早くゴールしたものが勝ち、と言う明確なルールの下で競う。
 アイスホッケーならばより多くのシュートを放ったチームが敗れることもあるが、それは明確なルールの下での逆転現象、勝敗に不明瞭な点はない。
 だが、フィギュアスケートは採点競技、そこに恣意的なものが介在する事はあってはならないが、絶対にないとも言い切れない部分はある、しかも『表現力』と言う、明確な基準を定めにくい要素も存在する。
 おそらくソナはダンスのコーチに付いたり舞台演劇を学んだりしたのだろう、それは勿論、勝つための努力として評価できる、しかし、フィギュアスケートにおける表現力とは、使用する曲をプログラムの中でどう生かし、それを体全体の動きの中でどこまで表現できているか、と言うものだと教えられてきたし、そう信じてきた、そこには当然技術の裏づけがなくてはならないはずだ。
 顔の表情や決めポーズ、手の動きなどは、フィギュアスケートの表現力の一部ではあるが、末端だと考えて来た、甲乙付け難い演技を比較する時、最後に参考になる要素に過ぎないと……演技力と表現力は似て非なるもののはずだ。
 だが、今見せ付けられた採点結果はそれを覆すようなものだったように思える。
 
 珠央はすぐさまサブリナにメールを打ち、しばらくして返信が帰って来た。
 『採点結果は採点結果として受け入れる他はないわ、もし、顔や手の演技に高得点が与えられるのならば、自分もそれを学べば良い事だから』……と。
 しかし、逆転されたと知った時のサブリナの驚愕の表情、表彰台での固い表情は、サブリナも採点に納得していない事を示していた。
 採点が歪められた……。
 珠央はそう感じた。
 どんな力が働いたのかは知らないが、採点が歪められ、スポーツとしてのフィギュアスケートが貶められた、と。
 そう感じた瞬間、珠央の心の奥底から力が湧いてきはじめた。
(もう一度、リンクに戻ろう、あたしが愛したフィギュアスケートが貶められたままでは捨てて置けない、サブリナだってきっとそう思ってる)

「お母さん、あたし、やっぱりリンクに戻る、このままじゃ終われない……まだまだ心配かけたり迷惑かけたりするかもしれないけど……ごめんね」
 珠央は母の目をしっかり見つめながらそう言った。
「今更何よ……」
 母はそう言って笑ったが、内心安堵していた、このまま終わったのでは寂しすぎる、珠央は全てを出し尽くして、晴れ晴れした気持ちで競技を退くべきだ……今はまだその時ではない、と。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 リハビリは長く辛いものだった。
 長期間ギプスをつけていたせいで筋肉は細くなり、体力も落ちていた。
 歩行練習から初めてウォーキング、ジョギングと、身体を元の状態に戻すことから取り組み、リンクに立てるようになってもしばらくは膝に負担のかかるジャンプは跳ぶ事を医師から禁じられている、ダイナミックなジャンプが持ち味の珠央だ、これで本当に競技に戻れるのか不安になることもある、無駄な努力を払っているのではないかと。
 しかし、そんな珠央を支えたのは、家族、コーチもさることながら、サブリナとのメールのやり取りだった。
 サブリナも不可解な力に屈したままで終わるつもりなどなかった、誰もが文句を付けようのない勝ち方をしなくてはならない、と決意を持って演技を磨いている。
 ソナもまた昨年と同じ場所に留まってはいないだろう、チャンピオンとしてそのタイトルを守ることに難しさは知っている筈だ。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

「無茶よ、女子では今まで誰も成功していないのよ、また膝を痛める可能性だってあるのよ」
 珠央の申し出にコーチは当惑した。
 珠央は新しいプログラムに再び4回転ジャンプを取り入れたいと言い出したのだ。
 スケーティングのスピード、スピンやステップにはもう何の問題もない、しかし、ジャンプは膝への負担が大きい、コーチは今シーズンに限って言えばトリプルアクセルすら封印させるつもりだった、ジャンプ練習が出来ない間、ステップやスピンを重点的に練習したので怪我の前よりレベルが上がっている、トリプルアクセルや4回転なしでも充分表彰台には上がれる、オリンピックシーズンは来年だ、4回転はそれからでも遅くないと。
「でも、今こそ4回転が必要な事はわかってもらえるでしょう?」
 コーチはそれ以上反対できなかった、コーチもまた、フィギュアスケートを愛し、健全な採点が戻ることを望んでいたのだ。
 珠央の思い、それは自分自身のためだけではない、サブリナのためでもあり、ひいてはフィギュアスケートと言う競技そのもののためでもあるのだ。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 珠央の挑戦が始まった。
 再び痛めることのないようにテーピングでぐるぐる巻きにした膝での4回転への挑戦だ。
 空中で4回転するためにはより高く飛ばなければならない、陸上のハイジャンプもそうだが、スケートで高く跳べる能力は平地でのジャンプ力とは異なる。
 速度エネルギーを跳躍するエネルギーに……すなわち、今まで以上に速く滑って来て、一瞬でブレーキをかけ、水平方向のエネルギーを垂直方向に変換することが必要になる、そのためには脚力を鍛えなければならない。
 珠央はこれまでは取り入れて来なかった筋力トレーニングにも取り組んだ、ただ筋肉を太くすれば良いというものではない、しなやかさ、速さを失わずにより強い筋力を手に入れる必要があるのだ、専門のコーチに作成してもらったメニューを黙々とこなした。
 しかも着氷で無理は出来ない、再び膝を痛めれば選手生命に関わる可能性もある。
 より高く跳び、速く回り、その上出来る限りスムースに着氷しなくてはならないのだ、練習でジャンプする度に転倒する珠央の体からは青痣が絶えない。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

「やったわね!」
 コーチが叫んだ。
 珠央はスピードに乗ったバックスケーティングからまっすぐ上に跳び上がり、4回転してスムースに着氷したのだ。
 大怪我を負った昨年の未完成だった4回転とは違う、完璧な4回転ジャンプの成功だ。
「タイミングとコツを掴んだ気がします」
 珠央も晴れ晴れとした気持ち……観客の歓声に応える気分が少しだが蘇った心持がする。
「さあ、後はこれを百発百中に高めて行かないとね」
「はい」
 練習で一度成功したからと言って、それを試合で使えるものに高めるにはまだまだ練習が必要だ、しかし、大怪我を経験して耐える事を学んだ珠央は以前よりずっと粘り強くなっていた、こうした地道な練習の積み重ねがサブリナの強さを生んでいることも実感するようになった……一皮剥けた珠央がそこにいた。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 グランプリ・シリーズは6戦中2戦を選択して出場し、順位点を多く獲得した上位6人がファイナルへの切符を手にすることが出来る。
 それゆえ、強豪選手は重複を避けてエントリーするのが通例、3強と看做されていたソナ、サブリナ、珠央は通常ならグランプリ・ファイナルまで顔を合わさないのが普通だ。
 しかし、その年のシリーズではソナがエントリーした2戦に珠央とサブリナが1戦づつエントリーした。
 結果はソナの2勝、サブリナも珠央も良い演技だったが、得点でソナに及ばなかった。
 特に珠央と当った試合では転倒もあり、良い出来ではなかったのだが、僅差でソナの勝ちとされた。
 スケート連盟は口を閉ざしていたが、韓国を除く各国メディアでは疑問の声が上がった。
 だが、厄介なことにソナの演技は一般受けする。
 演技力と表現力の区別が出来なければ、ソナの演技は魅力的に見えてしまうのだ。
 出来栄えに関しても、一般のファンには並べて見せなければその差は明確にはわからない、珠央との対戦でも、技の珠央と演技力のソナ、と言う比較をされてしまう。
 ただ、サブリナの母国カナダでは疑問の声は大きかった、プロトコル(スコアシート)をつぶさに分析すると、演技終盤までサブリナの得点が上回っていたことがわかる、しかし、ジャッジはサブリナの最後のジャンプを回転不足と判定してサブリナのスコアを抑えたのだ、カナダのテレビではその着氷をスローで何度も放映し、『何故これが回転不足なのか』と断じ、逆に回転不足判定を受けなかったソナの着氷のスローも並べて放映した。
 映像を並べて見れば明らかにソナの着氷の方が怪しい、カナダではスケート連盟会長への批判が高まり、それは次第に世界中へと広がって行った。

 相変わらずだんまりを決め込む連盟の下、3人が顔を合わせたグランプリ・ファイナルもソナが制した。
 そして、そんな不透明な空気の下、シーズンを締めくくる世界選手権で、3人は再び顔を揃えた。

 元々完成度で勝負するサブリナの演技に改善の余地はあまり多くない、しかし、そんな中でもサブリナは指先まで神経を行き渡らせて表現する事を会得していた、その事で腕全体がしなやかに見え、より表現の完成度が高くなっている。
 ……それでも次に滑ったソナの得点が僅かにサブリナのそれを上回った。
 最終滑走は珠央、落胆の色を隠さずにリンクから引き上げて来るサブリナに、珠央はすれ違いざま声をかけた。
「見ててね……」
「ええ、お願い、勝って……」
 サブリナはリンクに降りて行く盟友、珠央を見送った。
 燃えるような赤の衣装は珠央の闘志を現しているかのよう。
 そして、その背中に縫い取られた不死鳥……それは珠央自身の復活を期する刺繍であると同時にフィギュアスケートの未来を照らそうとする火の鳥であるかのように思えた。

「頑張って、珠央……」

 サブリナの思いが後押ししたのだろうか、珠央のスケーティングはいつにも増してスピードに乗って行く。
 そして、それはまだ女子では誰もなしえていない4回転ジャンプへの助走でもある。
 珠央のエッジが氷を深く噛み、体が宙高く舞い上がった。
 不死鳥は今、再び大きく羽ばたいたのだ。



▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽



 その後、スケート連盟への批判が高まる中、会長は勇退を表明した。
 選挙となれば敗北は明らかだった、地にまみえる前に勇退を表明する事で体面を保ったのだ。
 そして、ソナも古傷の悪化を理由に引退した。
 当事者2人が去った事で、疑惑は闇に葬られてしまった形だ。
 しかし、翌年からは疑惑の採点は影を潜めることにはなった。
 珠央もサブリナもその事についてはノーコメントを通している、会長はともかく、ソナはかつての友人でもあったから……フィギュアスケート界が公正を取り戻せばそれで良い。

 2人は共に20歳、フィギュアスケート界では既に中堅からベテランの域に入り、若い選手の追い上げも受けている。
 しかし、まだこの2~3年は2人の一騎打ちの様相に大きな変化は起きないだろう。
 今シーズン、グランプリ・ファイナルのタイトルは僅差でサブリナに攫われた。
 しかし珠央は、世界選手権に向けて練習に励んでいる。
 ディフェンディング・チャンピオンとして、タイトルを譲るわけには行かないから……。


           (終)
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