第36話

文字数 3,856文字

JR大阪駅東側の交差点を、香月は、西から東の方向へ横断しようとしていた。無論ここへ来るのは、はじめてでは、無いが横断するたびに大坂の人々の歩くスピードには驚かされる。いわゆる『大坂人の歩行スピードは世界一速い』誰が言ったかは知らないが、関西ではよく聞く言葉だ。歩行者用信号が青になると両側から多くの人々が渡り始め当然ながらドライバーは横断歩道の停止線手前で車を停止させて信号が青に変わるのを待っている。やがて車両用の信号が赤から青に変わりドライバー達は前に車を前進させ、今度は両側の歩行者が止まって信号が変わるのを待つ事になる。これが全国共通の交通ルールだが、しかし、この交差点ではそれが通用しない横断歩道を渡る人の波は歩行者用の信号が赤に変わっても、横断する事を辞めずに当たり前のように目的地へと向かい歩を進めていった。最後には痺れを切らしたドライバー達がクラクションを鳴らしながら歩国者を強制的に止めて車を発進させて行く。他にも『大坂人は、オレオレ詐欺には引っかからない』等この街は明らかに他の日本の都市とは異なる特徴が見られるが、しかし、言い換えれば日本唯一のグローバルスタンダードな土地柄だ。
 香月は、交差点を渡りきり大阪駅からえ阪急方面へと向かい更に東へと歩いた。時間にして十五分から二十分も歩いただろうか眼前に巨大な寺の建物が見えてきた。九世紀に『弘法大師・空海』が開いた由緒ある寺で、毎年大晦日には除夜の鐘を集まった一般の参拝客に突かせその様子は、毎年、年末の特番でも放送がされる大坂では有名な場所だ。香月は一年前に、大江香穂が歩いたであろう道を検証しながらトレースして来た。彼女はこの道を小柄な身体で人並みに揉まれながら、その体躯には相応しくない男物の紺色のボストンバックを、両手に抱えて此処を今の香月と同じように東に向かったに違いない。そのボストンバッグは、あの雪の日帰ってきた聖治が家に入るなりクローゼットに仕舞った、あのボストンバッグだった。

 
 香穂はJR大阪駅から、東方向の『阪急梅田駅』へと急いだ。梅田駅に着くと地下のコインロッカーへと向かい持っていたボストンバッグを預けその際にボストンバッグから、ブランド物のショルダーバックを取り出し肩へ掛けた。香穂は上下をグレーの女性用のリクルートスーツ、肩まで伸ばした髪は後ろにまとめてテレビで見る女性記者の身なりで固めた。そして、洗面室に入ると化粧の乱れと服装の乱れをチェックして、それを済ませると、近くの喫茶店に入った。喫茶店の壁に掛けられた時計は、午前十二時にあと五分を指している、香穂は飲み物を テーブルにやってきたウエイトレスに注文すると、素早くバッグからシステム手帳を取り出してカレンダーのページを捲り記された内容を確認した。『至誠会会長 徳重正也 一周忌法要』と期された文字には午後一時から始まる時間が記されており、その部分を赤色のマジックペンで大きく○で囲んであった。更にページを捲り下見に来たときに収集した寺の見取り図をもう一度見返し建物の位置などの情報を頭の中に落し込んでいった。そして、もう一つシステム手帳に挟み込んだ紙切れを取り出しテーブルの上に開き文面を呼んだ。

 至誠会会長、徳重正也を撃った、奴の死が確認出来たら、俺は、警察に自首する。

 徳重正也、桑木寛司、至誠会は潰す。

 お別れや、短い間やったけど、ほんま、おおきにな、ありがとう。

 この先、身体をいといや。

 香穂が開いた紙切れには、そう、書かれてあった。

 聖治が出て行った、あとのテーブルの上に置かれた書き置きだった。この日から一月後、聖治は金沢港で変死体となって発見された。あれから、一年超の月日が流れ聖治が撃った徳重会長は、病院のベッドで体調が還らぬまま一年前に永眠した。本来ならば聖治の思いは此処で成就される筈だった。しかし、香穂は、聖治の死後舞い戻った夜の街で勤務する店を転々としながら得た情報により、香穂自身の敵(かたき)として『至誠会、会長代行、桑木寛司』の名が浮かんだ。この抗争は本来ならば、早田組若頭、原田が山桜の栄二に殺された時点で、当時まだ存命中の徳重会長が病院から抗争を終結するようにとの指示を出していた。が、しかし、桑木はその指示を聞くこと無く握りつぶし、自信の独断と専横で抗争を継続した。その事を、香穂は働いていたクラブに出入り利していた極道関係者から聞いた。時を同じくして、この、抗争を扱った月刊情報誌にも特集記事が掲載され、記事内容は香穂が勤務先で見聞きした内容とほぼ一致していた。これが事実ならば、あの時点ではまだ生きていた聖治の本当の敵(かたき)は『桑木寛司』と言うことになる、事の真相は後日の桑木自身の口から語られた。それは、早田組組長『早田勝樹』の引退宣言に伴い行われた桑木寛司の抗争終結宣言だ、その席で桑木は一連の抗争。つまりは、大坂天保山、近江八幡、大坂浪速区、大阪政道会の、島内、占部、五嶋の幹部三人、これらに、対する殺しを桑木は抗争上必要な行為だったとして認めた。その上で、今回の抗争事件の責任は全て、伊吹会とその傘下の組織の責任であると断言して一方的に抗争の終息を宣言して見せた。この会見を見た香穂は、桑木を許せなかった。聖治の無念は自分が必ず晴らす下腹部に手を当てた、香穂の心中にあわい炎が灯り、それは、やがて燃えさかる業火となって香穂の全てを支配して行った。

 時計を確認した。

 あと五分で午後一時になろうとしている。香穂は、今居る地下街の喫茶店を出て階段で地上に出、寺の門が見えるファミリーレストンの窓際の席を確保して寺の様子を伺うと、寺の周辺は組関係者や来賓、それを取り巻く夥しい警備の警察官やマスコミ関係者などでごった返している。香穂は、ハンドバックを開けると中に手を入れバックの中身の感触を確認し、咄嗟に取り出せるように方向を変え感触を確かめた後、テーブルに設えられた呼び鈴で従業員を呼んだ、従業員にカレーライスとサラダバーのセットメニューをオーダーした。それは、生前聖治と香穂が十三のアパートで二人で過ごした折り決まって聖治がリクエストしたメニューだった。香穂は席を立つと入り口近くに置かれた本棚に向かい女性女性情報誌を取り出し、そのまま、サラダバーに向かい規則正しく置かれた野菜を好みで皿に盛ると席に戻った。程なくしてカレーがテーブルに運ばれて来た。さほど空腹では無かったが最後の食事は、聖治が好きだったカレーにすると前から決めていた。それを口に運ぶと何気ない聖治との思い出が蘇ってきた。『CLUB 冬華』で始めて出会った頃、香穂はどちらかと言えば極道者の聖治の事は敬遠していた。しかし、いつの間にか香穂にも理解出来ないうちに聖治に惹かれ、男と女に墜ちていくまでは、それ程の時間は要しなかった。訳を聞かれれば自分と同じ匂いを聖治に感じたからとしか言いようが無い。香穂は、再度ショルダーバッグを開けると、聖治の残したメモとは別の一枚の二つ折りの便箋を取り出し開いた、そこには、『穂乃香・勇治』と、男と女の名が記されており、この名前を目にした香穂は目頭が熱くなり全身が震えるのを覚えた。香穂は心拍数の乱れと動揺を必死に押さえつけながら平静を装い便箋をバックの中に戻し、情報誌に目を落として間もなく訪れるその時を待った。

 ゆっくりと取った食事を終えその後にオーダーしたホットコーヒーを飲み終えると、壁に掛けられたアナログ時計で時間を確認する。時計の針は午後一時五十分を指しており、ここから確認できる寺の門前も慌ただしくなってきた。どうやら、式も終わりに近づいたようでマスコミ達が門前で桑木を捕まえようと一カ所に集まり始めた。香穂は立ち上がるとレジに向かい支払いを済ませると向かい側の門前からは死角になるレストランの建物の影に何気に身を潜めた。暫くすると門前のマスコミ達の群れが寺の方向へ向かい一斉に動き始め、それを追うテレビカメラもそれに習い一カ所に集中する。『来るぞ!』見えない誰かが叫んだような気がした。香穂は物陰から出てゆっくりと歩き出すと同じような姿をしたテレビ局の女性レポーターの近くに歩み寄り息を殺して現場に溶け込んで肩に掛けたバッグの金具を外した。マスコミの波は益々寺の方へと強く流れていった。そして、香穂の前についにボディーガードの組員に守られた桑木が現れた。その方向へと向かう勢いに身を任せて香穂は桑木へと近づいて行く、その過程でバッグに右手を忍ばせると、バッグに入れてある冷たい金属の塊のグリップを握り引き金に人差し指を掛けた。徐々に桑木が香穂の近くに寄ってくる。香穂は正面の桑木から回り込んで彼の後方へと移動する、小柄な香穂の動きに桑木の脇を固める人間達は気付いてはいなかった。

「桑木ー・ー・ー」香穂が叫んだ。同時に渇き切った銃の咆哮が鳴り渡り、その場の全ての音とと言う音を飲み込み周りの高層ビルに反射して木霊が千里を走っていった。
「ギャーッ!」辺りを阿鼻叫喚が支配していった。その叫びが終わるか終わらないうちに、「この、女 (あま)ー・ーッ!」と怒号が起こり別の銃声が二発叫び声を上げる、背中に焼けるような感覚を覚えながら遠のいて行く意識の中で桑木が目にしたものは、赤い血吹雪の中にむき出しになった香穂の背中だった。

『鬼子母神の女』 それは、桑木の脳裏に深く焼き付いていった。  
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