小川のせせらぎ

文字数 11,415文字

 戸締りをして部屋のエアコンを消すと、僕は一泊二日の荷物を入れたリュックサックを背負ってグローブを入れたヘルメットを持ち、駐車場に向った。駐車場に辿り着くと、僕はカバーを剥がして、白のGSR750を八月の太陽の下に晒した。
 シリンダーにキーを差し込んで、電源を入れる。メーターパネルのランプが一通り点くと、僕はミラーにヘルメットを差し込んで、手で押して目の前の道路へと運んだ。そしてサイドスタンドを賭けると、セルを回してエンジンに火を入れた。インジェクションらしいエレクトロニックな始動音がすると、一本出しのヨシムラスリップオンマフラーから低い排気音が聞こえてくる。
 僕は水温が安定するまで暫く待つと、ヘルメットを被りグローブを嵌めてバイクに跨った。サイドスタンドを払いクラッチを握ってギアを一速に落とす。このバイクは社会人になって2年貯めてお金で買ったバイクだ。高校時代にアルバイトをしながら乗っていた15年落ちのゼファー400とは訳が違う。きちんと乗ってやらないといけない。
 そんな事を考えながら僕はクラッチを繋ぎ、ゆっくりとGSR750をスタートさせた。細かい道を通って、国道254号に入る。ここをまっすぐ進めば、やがて川越に着き、そこから秩父へと繋がる国道299号に繋がる。そこに辿り着けば、僕の小学校の二年間を過ごした思い出にまた触れられる。今年の夏は僕の出た小学校主催の同窓会があるのだ。それに参加する為に、僕はこの道を進んでいるのだった。

 僕の父は実に移り気な人だった。僕が生まれて暫くすると勤めていた羽田空港の航空貨物の仕事をやめて、成田空港の航空貨物の会社に移った。そして僕が小学校に上がると書類やコンピューター相手の仕事に嫌気が差したのか、その会社を辞めて今度は親戚の人が経営する建設会社の庶務になった。そしてその仕事にも飽きると自然のある場所で仕事がしたいと、僕が小学5年生の時に埼玉の秩父にある建設会社に移った。お陰で収入は安定せず、その事で母は何時も悩んでいた様だが、まだ幼かった僕はその気持ちを察する事が出来なかった。だが父が秩父の会社に勤めるとなった時、お前達家族も一緒に来い。と言ったのを覚えている。その事で父と母は言い争ったが、僕は引越しするなら構わないと答えて、その場を取り繕い、何とか収める事に成功した。その後風呂に入ってベッドに潜り込むと、それまで育ってきた街を離れ、知っている人もまったく居ない知らない街に行くのだ。と言う事実に気付いて、急に心細くなったのを覚えている。
 それから20日程して、引越しと転校の手続きが整った。小学校を去る前の日、クラスメイト達は僕のためにささやかなお別れ会を開いてくれた。入学した時からの顔なじみのクラスメイトも何人か居たが、こみ上げてくる感情は少なかった。恐らくその時の僕は別れの悲しみよりも新しい事への不安で気分が一杯だったのだと思う。新しい学校で苛めに遭わないだろうとか、父の仕事はすんなり行くだろうかとか、現実的な心配で一杯だったのだ。
 小学校五年の夏休みに、僕は秩父の中心街から少し離れた公立小学校に転入した。夏休み中に新しい担任の先生に挨拶し、ご近所への挨拶回りも行った。そして新学期が始まって、僕は新しいクラスメイトの前で挨拶をした。そして窓際の席に案内されると、僕の新天地での生活が始まった。
 秩父の印象は緑の多い場所だなと言うのが第一印象だった。僕は周りの少年達が自然に触れて育ち、のびのびと育っているのを見て、自分の都会育ちを少し引け目に思うようになった。両親も自然の中で育ち、その子供である僕のクラスメイト達も自然で育っているのを思うと、僕の心はより一層辛くなった。何で自分はあの時引越ししてもいい、と言ったのだろうかと思うようになった。
 そんなある日、僕は街の大型書店に小さいころからよく読んでいた自動車の本を買いに言った。僕がその時読んでいたのは小学生向けの自動車図鑑ではなく、大人向けの改造車をメインに扱う雑誌だった。僕は小さな頃から車が好きで、小学校に上がる頃には道行く国産車の名前は全て覚えていた。そして年齢が上がるにつれて、車を取り巻く文化にも興味を持ち始めて、小学校高学年になる頃は大人向けの雑誌を読み漁るようになっていた。僕はお小遣いでその本を買い。閉塞感を紛らわすために書店入り口のベンチで本を読み漁った。すると、たまたま書店にやって来た同じクラスの熊野君が声を掛けて来た。
「やあ、佐藤。何してるの?」
 彼は屈託のない声で話し掛けて来た。
「ああ、車の雑誌を買ったんだ。新しく出たレースゲームの参考に」
 僕はそう答えた。新しく出たレースゲーム。とは僕が転校する前に出たグランツーリスモ3の事だ。僕はその世界を寄り豊かなものにする為に、実在する自動車雑誌を買ったのだった。
「それって、この前出たグランツーリスモ3?」
「そうだけれど」
 僕がそう答えると、熊野君の表情がほころんだ。
「それじゃあ、車に詳しいんだ。よかった、俺ソフト買ったのは良いけれど車の事よく分からなくってさ、教えてもらえると有難いよ」
「いいよ。俺でよければ知っている事は教えられる」
 僕はそう答えると、それまで胸の中で覆いかぶさっている何かが晴れてゆくのを感じた。
 それ以来、僕と熊野君とは車を通じて親交を深めた。更に暫くすると同じグランツーリスモ3のソフトを持つ友達同士の輪も広がり、僕は新天地での生活を軌道に乗せることが出来た。

 国道254号を川越方面に向かい、川越に入る前にある板金屋の角にあるガソリンスタンドで、ガソリンを満タンにした。そして更に進んで国道16号入り、国道299号を目指す。そして近くにあったコンビニの駐車場にバイクを入れると、ヘルメットを脱ぎ店内に入ってミネラルウォーターを買った。外に出て喉を潤すと僕はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出して、電話帳に登録してある熊野の連絡先を探した。そして熊野に電話をかけると、ベルが暫く鳴ってから電話が繋がった。
「・・・もしもし」
 電話に出たのは熊野だった。初めて会った時よりもかなり声が低くなり、社会人の貫禄を身に着けている。実家の工務店を継いだのはSNSで知っていたので、驚く程の事は無かったが。
「俺だよ、佐藤だ。いま川越の街。これから299に入ってそっちに向う」
「分かった。幹事の飯沼にはSNSで伝えとく。今川越って事は下道で二時間ぐらいか」
「まあな」
 僕は淡々と答えた。小学校を卒業して以来、僕らは買い与えられた携帯のアドレスをお互いに交換して、連絡を取り合っていた。だから感動の再会ではなく、久しぶりに会う古い友人と言った程度の感情しかなかった。
「気をつけて来いよ。299は調子乗って事故るヤツが多いから」
「安全マージンはきちんと取るよ」
「こっち来たら家に泊まるんだよな?確か」
「ああ、悪いな」
 僕がそう謙遜すると、熊野は鼻で笑うとこう続けた。
「気にするなよ。俺をカーキチにしてくれたのは誰でもない佐藤のお陰なんだから。家に着いたら一休みして、皆の所に行こうぜ」
「ああ、じゃあまた後で」
 僕はそう告げると、電話を切った。スマートフォンをジャケットのポケットに仕舞うと、僕は残ったミネラルウォーターを飲み干して、ヘルメットを被ってコンビニを出ると国道16号に入って国道299号を目指した。そして国道299号に入ると、視界の先には夏の光に照らし出された秩父・日高の緑色の山並が僕を見下ろしていた。暫く国道299号を秩父方面に向かっていると、飯能に入った辺りで道路と平行して川が流れているのに気付いた。すると、もう一つの記憶が僕の中に沸々と蘇ってきた。

 




 小学校6年生になると、僕は他のクラスメイトの家にもお邪魔するようになっていた。そこで僕は車以外にもコミュニケーションの道具を手に入れ、遊び仲間も大分増えていた。
 そして夏休み前のこと、僕らは高瀬君の家に上がりこんで、小学校最後の夏休みをどう過ごそうかとコーラを飲みながら稚拙な議論を巡らせていた。ある者は久々に海に行きたいと言ったし、ある者は一人での東京見物がしたいと言っていた。肝心の僕は父の気まぐれに付き合わされるかも知れないと思っていたので何も言わなかったが、最後の夏休み位何か思い出が欲しいと思っていた。
 そんな風に過ごしていると、高瀬君の家の玄関ベルが鳴った。高瀬君は駆け足で玄関に向かいドアを開いて誰かを招き入れた。
「お帰り、司姉ちゃん」
 高瀬君はそう答えると、司と呼ばれた人を家に入れた。どんな人だろうと思ってその人を見ると、彼女はすらりと背が高くて目が大きく―だが、その瞳は何処か悲しさを湛えていた―赤味掛かったセミロングヘアをゴムで纏めた、色白の肌をした美しい少女だった。
「始めまして、高瀬君の家に居候している中学三年生の村川司です。よろしく」
 司さんは素っ気無く答えた。そして彼女が頭を下げると、僕らもやや遅れて頭を下げた。僕らと三つ程度しか違わないのに大人びて見えたのは、胸やら臀部やらに女としての肉が着いていたからだろう。僕なんかよりも遥かに人間として成熟していたのだ。僕は自室に戻る司さんの背中を見送り、彼女が部屋に入ると高瀬君にこう質問した。
「あの人、何で君のうちに住んでるんだ?」
「親戚の人。家庭の事情だよ。その辺は余り聞かないでくれ」
 高瀬君が言うと僕はそれきり司さんの事は聞かなかった。だが僕はあの大きな瞳に映る何かに心を奪われたせいで、胸に小さな穴が開いたような気分を味わった。
 家に戻る途中、僕は司さんの事を考えながら田舎道を歩いた。家庭の事情とは一体何なのだろう。中学三年の夏なら受験で忙しい筈なのに、どうして暇そうにしているのだろう。など。
 それから暫くしたある日、僕と熊野君と高瀬君は国道299号と国道140号の交差する交差点に集まる事にした。夏休みの前哨戦として、国道140号の先にあるダムへ自転車で行く事になったのだ。僕が一番乗りで他の二人の到着を待っていると、少し遅れて熊野君が、最後に高瀬君と司さんがやって来た。僕は司さんを見るなり、こう質問した。
「あれ、村川先輩も一緒なんですか?」
 僕の言葉に司さんはこう答えた。
「一応あなた達の保護者よ。それに先輩なんて畏まった言い方なんてしなくて良いわ」
 司さんがそう答えると、僕はしょんぼりと頷いた。そして暫くすると、国道140号を奥秩父方面に向って自転車を走らせた。先頭は高瀬君で、その次に熊野君、僕、司さんと言う順番。僕は司さんに後ろを見られていると感じると、視線の当たっている辺りが熱くなるのを感じた。
 途中コンビニに立ち寄って小休止し、再びダムを目指す。狭い山道を行き交う車に怯え、きつい上り坂に汗を流しながらダムに辿り着くと、僕らはダム湖の辺まで移動した。そして遥か下に広がるダムの湖面に足を震わせながら僕らは思い思いの時間を過ごした。
 暫くしてする事が無くなると、熊野君と高瀬君は持ってきた遊戯王カードで遊び始めた。僕は喉が渇いたので、司さんと一緒にダム事務所脇にある自動販売機へと向かった。
 自動販売機に向う途中、僕は司さんにこんな質問をぶつけた。
「司さんはどうして高瀬君の家に住んでるんですか?」
 その言葉を聞いた司さんは僕の方を見ると、力なくこう答えた。
「家庭の事情。ちょっと訳ありでね・・・」
 その言葉を聞いて、僕は申し訳ない事を聞いたかもしれないと思った。そうして自動販売機の前に来ると、僕はコカコーラ。司さんはグレープ味のファンタを買った。
「一人でこの街に来たからね、友達もあんまりいないんだ」
 その司さんの言葉を耳にして、僕は居た堪れない気持ちを生まれて初めて味わった。そして逃げるようにしてその場から離れようとすると、司さんは立ち去ろうとする僕にこう声を掛けた。
「ねえ、佐藤君。携帯持ってる?」
 意外な言葉に、僕は「はい」と答えてしまった。
「それじゃ、メールアドレス教えてくれる?折角だから、色々話そうよ」
「いいですよ」
 僕は言われるまま携帯をバッグから取り出し、司さんとメールアドレスを交換した。
「勉強は得意じゃないから見られないけれど、人生相談ならして上げられるよ」
「人生相談。ですか・・・」
 僕は鷹揚に答えた。
 それからと言うもの、僕は司さんの事が頭から離れなくなった。司さんの事を考えると、胸が縮こまるような痛みを覚えて僕に圧し掛かった。好きだった車の事もそっちのけで、僕は司さんの事を考えるようになった。
 夏休みに入ると、僕は暇な時間を見つけて司さんにメールした。生まれて初めて、異性に送るメール。内容はどんな物だったか覚えていないが、当たり障りの無い文章だったと記憶している。メールを送ると、その日の夜にメールが届いた。内容はこの前会った交差点で待ち合わせして、何処かに行こうというものだった。
 約束の日になると、僕と司さんは約束の場所で待ち合わせた。司さんは黒のTシャツにデニム地のホットパンツという格好だった。だが東京などと違って、近くにゲームセンターなどがある訳ではなかったので、徒歩で歩いて羊山公園に向った。
 羊山公園に着くと、僕と司さんは眼下に広がる秩父の街並みを見た。山の中に小さいながらもコンクリートの建物が犇めき合っているのを見ると、自分達が押し込まれた場所にいるような錯覚を覚えた。
「ここにはよく来るんですか?」
「ううん。来るのは初めて。私元々地元じゃないから」
 司さんが悲しそうに呟くと、僕は慌てて助け舟を出した。
「僕も地元じゃないんです。東京から転校してきたんです」
 その言葉に反応した司さんは、僕の顔を覗いた。僕も彼女の方に顔を向けると、お互いの視線がぶつかった。
「じゃあ、私達似たもの同士だね」
 その言葉は甘い余韻を伴って、僕の耳に響いた。そして戸惑いと嬉しさが入り混じった感情が僕の中を駆け巡った。
 それから僕と司さんは定期的に連絡を取って会うようになった。会うと言っても中心街にあるマクドナルドでハンバーガーを食べたり、図書館で好きな本を読むといった他愛も無いことばかりだった。そんな事を繰り返していると、司さんから定鉢峠の麓に行こうとメールで誘われた。僕は二つ返事で返信すると、定鉢峠に繋がる道の入り口にあるガソリンスタンド前で待ち合わせた。自転車に乗って待っていると、司さんがこの前と同じように自転車に乗ってきた。僕らは簡単な会話を交わすと、そのまま道を定鉢峠に向って進んだ。
 麓にある小さなカフェの傍まで来ると、僕らは道をそれて森の中に入った。森の中は蒸し暑く、蝉時雨が響いて美しいグラデーションに彩られた木々が出迎えてくれた。
 森の中を暫く進むと、周囲に人の気配がまったくしない事に気付いた。僕は司さんと世界で二人きりになったような奇妙な感覚を覚えて、心臓が高鳴った。
「何しますか?」
 僕は司さんに尋ねた。
「そうだね、何しようかね」
 司さんは空虚な感じで答えた。一応僕は遊戯王カードやらゲームボーイアドバンスなどをバッグに押し込んできたが、司さんがそういった僕たちの道具を持っているかは分からなかった。
 すると、目の前から水の流れる音が聞こえてきた。僕と司さんはその音がする方向へと足を運び、小さな小川の淵に立った。
「ちょっと足でも冷やそうか」
 司さんがそう漏らすと、僕と司さんは淵に座って靴を脱ぎ、素足を流れる清流に浸した。川の流れは思ったより冷たく、夏の日差しに火照った身体を冷ましてくれた。
 暫くそうしていると、気まずいような重苦しいような空気が辺りに立ち込めてきた。僕はその雰囲気を打ち破るべく、遠くを見つめているような司さんの瞳を覗き込んだ。
「司さんは高校何処に行くんですか?」
 僕は何気なく尋ねたつもりだったが、司さんは意外な所を突かれたのか僕の事を見て目を丸くした。僕はその瞬間、悪い事をしたかも知れないと思った。司さんは再び足元に視線を落とすと、力なくこう漏らした。
「私、高校には行かないんだ。働きに出るの」
 僕は言葉を失った。何で言葉が出ないと自分に問いかけてみたが、僕の胸の中は空っぽのままで何の反応も起こさなかった。なんでこんな事をしたんだ。と言う後悔の念が高まってくると、突然司さんが僕の身体を抱き寄せた。僕は一瞬何が起こったのか分からなかったが、彼女に抱きしめられた感触が伝わると、僕は身体の芯が熱くなるのを感じた。
「・・・なんで自分の望んだ通りに行かないんだろうね。人生って不公平だよね」
 司さんは涙ぐんでいた。表情は読み取れなかったが、きっと自分の辛さを始めて表に出して泣いているのだろう。僕はその中で彼女に深い哀れみを抱きそっと身体を抱きしめてあげて、辛い彼女の気持ちを支えてあげた。蒸し暑い森の中では、小川のせせらぎと彼女のすすり泣く声だけが響いていた。
 それから何日かした、小学校最後の夏休みも終わりに近づいたある日、僕は司さんから居候している高瀬君の家まで来てくれと言うメールを受け取った。この前の一件で司さんの事で頭が一杯になっていた僕は、すぐさま家を飛び出し自転車に飛び乗って高瀬君の家に向った。玄関のベルを鳴らすと、ややあってからドアが開いて、司さんが僕を招き入れてくれた。彼女はホットパンツにオレンジのキャミソールと言う夏らしい格好だった。僕はその格好に少し動揺しながら、司さんの部屋に入った。
 司さんの部屋は散らかり放題だった。カーペットの床には衣服等が散乱し、机には書き掛けのノートや教科書が散乱していた。恐らく夏休みの宿題を放り投げているのだろう。そんな様子に呆然としていると、司さんは僕の肩を掴んで、無理矢理自分の唇を押し付けてきた。僕は何が起こったのか分からなかったが、抵抗する事が出来なかった。冷静になって拒否しようと思ったが、初めて触れる唇の柔らかさに頭が蕩けて何も出来なかった。
 司さんは僕の唇を何回か吸うと、僕を抱きしめて乱れたベッド押し倒した。ベッドに横になった瞬間、僕は全身が高潮し息が乱れている事に始めて気付いた。彼女はまた何度か口づけを僕にすると、何も言わずに着ていたキャミソールを脱いで、僕に覆いかぶさってくる。司さんは無抵抗な僕の腕を掴んで、自分の胸に引き寄せた。
 その日の夕方、僕は家に戻った。僕は自分に何が起こったのか理解しようともせずに、ただ家に帰って宿題をする事に集中した。司さんに会ったのは、それが最後だった。
 小学校を卒業すると同時に、僕は東京に戻って杉並の中学校に入学した。小学校5、6年を過ごした友達とはメールで付き合いがあったが、司さんとはメールをしなかった。あの時の記憶―彼女の闇の部分が余りにも脳裏にこびり付いて、僕の中で忌まわしい記憶になってしまったのだった。
 司さんが成人式を迎えた年、僕は携帯に残しておいた司さんのメールアドレスに成人式おめでとうのメールを送った。だがメールアドレスは無効になっていて、メールは届かなかった。その後僕は高校、大学へと進学し、地元の小さな会社に正社員として入社する事が出来た。だけれど司さんと過ごした時の記憶は鮮明に残っていて、今でもこうやって何かの拍子に思い出してしまうのだった。

 国道299号をひたすら進んで、定峰峠に繋がる道と交差するT字路の前で信号待ちする。中心部に繋がる道は思ったよりも混んでいて、様々な車が並んでいた。国道140号と交差する信号で詰まっているのだろう。僕は羊山公園に繋がる坂道を左手に見ながら、信号が青に変わるのを見ると、GSR750と共に街の中心部に入った。交差点で右折して国道140号を長瀞方面に進むと、道の駅ちちぶの前で左折して、熊野の実家を目指した。
 細い道を進むと熊野の実家の工務店が見えてきた。僕はその家の前にバイクを停めてエンジンを切り、サイドスタンドを下ろしてヘルメットを脱いだ。玄関の前に移動してベルを鳴らすと、ややあってから玄関の鍵が開いて、ドアが開かれ中から熊野が現れた。
「よう、久しぶり」
 僕は簡単にそう言った。
「久しぶり。思ったより早かったな」
 Tシャツ姿の熊野は笑みを漏らすと、サンダルを履いて外に出てきた。すると玄関の奥から熊野の奥さんと小さな息子が顔を出して、僕の方を見た。僕は小さく「どうも」と挨拶すると、外に出てきた熊野と目を合わせた。
「バイクは何処に置けば良い?」
「こっちの駐車場に停めてくれ」
 僕は熊野に言われるままGSR750を押して、隣の砂利引きの駐車場に向った。駐車場には熊野がファミリーカーとして使っているランドクルーザーシグナスと、セカンドカーの後期型S14シルビアが停まっていた。僕は二台の間辺りにGSR750を停め、玄関に向った。家に上がらせてもらってリビングに通されると、僕はソファに座った。そしてグラスに入った冷たいペットボトルの緑茶を出されると、僕は熊野の奥さんに小さく礼を言った。
「S14さ、サスペンション変えたんだ。HKSからヤシオファクトリーのやつにして、今セッティングを出している所なんだ」
「セットは何処でやるんだ?定峰峠か?」
 僕がそう言うと、熊野は笑いながら「まさか」と漏らした。
「サーキットで出すよ。あそこはシャコタン殺しもあるし道が狭すぎる。ワインディングと言うよりラリーのスペシャルステージに近いからな」
 僕は「確かにな」と相槌を打った。
「お前のバイク、何かカスタムしてるのか?」
「ヨシムラのスリップオンとエンジンスライダー類を取り付けた以外は特に改造はしていない。特に過激な性能は求めていないからな」
 僕はそう答えて、グラスのお茶を飲んだ。科学的に美味しいと感じるように煎じられたお茶が、夏の日差しに温められた身体に妙に染み入る。
「仕事の方は順調か?」
 僕は熊野に尋ねた。
「まあな、そっちは?」
「こっちも普通」
 僕はそれだけ答えた。すると、熊野の子供が僕の元にやって来て「いらっしゃいませ」とたどたどしい声で挨拶した。
「こんにちは」
 僕は微笑みながら熊野の子供に挨拶した。

 それから二時間ほど熊野の家で時間を潰すと、同窓会の会場となっている飲み屋に向う時間になった。僕と熊野は家を出て徒歩で会場となっているチェーン居酒屋に向うと、西に傾き始めた太陽を見上げた。山からは蜩の鳴き声が響いてきて、遊んでいる子供達に家に帰るように告げている。僕が小学校を過ごした時期はこの位の時間が帰宅の合図だったのに、今では外出の時間になってしまっている。齢は取りたくないと思った。
 ぶらぶら歩きながら目的のチェーン居酒屋につくと、熊野がアルバイトの店員に予約している者だと伝えた。すると店員は僕と熊野を一番奥の部屋へと案内し、腰を低くして「どうぞ」と呟いた。中には先についたかつての女子生徒数人と担任の先生が待っていた。
「ああ、佐藤君久しぶり!」
 クラスメイトの相羽が声を上げた。SNSで知った情報によれば、今は地元を離れて群馬の旅館で仲居をしているらしい。
「久しぶり」
 僕は鷹揚に答えて、熊野と一緒に席に着いた。暫くして店員が紙のお絞りを持ってくると、僕は袋を破って手を拭いた。
「今何してるの?」
「地元の小さな会社に勤めてる。お給料はぼちぼち」
 僕は相羽の質問に、当たり障りの無い言葉で答えた。
 そんな風に適当にクラスメイト達と会話をしていると、もう良いだろうという事になって、各自飲み物と食事を注文する事になった。僕は緑茶割りとたこわさび、それにししゃもの塩焼きを頼んだ。
 飲み物と料理が各自に運ばれると、担任の先生が音頭を取って、めでたく乾杯となった。僕はグラスを持ってクラスメイト達と杯を交わすと、注がれた緑茶割りを一口飲んだ。かつては炭酸飲料と化学調味料の味がする安っぽいスナック菓子がコミュニケーションのツールだったのに、今ではアルコールと冷凍のおつまみが道具だ。昔の僕らが見たらどう思うだろうか、嘆くだろうか、それとも成長したと関心するだろうか。
「人数はこれで全員か?」
 僕は幹事の松崎に尋ねた。
「あと細田と高瀬が来るよ」
 松崎はそう答えると、手に持った生ビールのジョッキに口をつけた。高瀬が来るのか・・・僕はそう思うと、さっき思い出した司さんの事が気になった。高瀬が来たら、何気なく聞いてみようか、もうあれから14年の月日が経つが、司さんが何処で何をしているのか知りたい。そしてもし連絡先が判明すれば、今まで溜め込んできた事や当時言えなかった事を話してみたい―。
 酒が回って各自の口の周りが良くなって来ると、高瀬が現れた。彼は皆に挨拶すると僕の左斜め向かいに座り、店員を呼んでレモンサワーを頼んだ。そして彼にレモンサワーのグラスが渡されると、僕らはもう一度乾杯をした。
「久しぶりだな。皆元気にしていたかよ」
 高瀬はレモンサワーを飲みながら、そう漏らした。
「皆それぞれ頑張っていたよ。高瀬は?」
 僕は彼に尋ねた。彼はSNSをやっていないから、情報の知る手はずが無かった。
「工業高校を出て、浦和の会社に勤めてる。実家からは独立したよ」
「そうか」
 僕はそう答えた。そして高瀬が別の話題を振ろうとした瞬間、「あのさぁ」と僕は口走って、高瀬の意識をこちらに向けさせた。
「司さん、村川さんは今どうしてる?」
「何?」
 高瀬は僕の質問が分からないようだった。
「居候していたお姉さんだよ。中学生だった・・・」
「ああ、あの人?」
 高瀬は面倒くさそうな表情をすると、こう続けた。
「あの人、親が借金取りに追われててさ、中学出てすぐ働きに出たよ。そしたら齢誤魔化して風俗で働いて、歌舞伎町のホストと出来てしまったとよ」
 その言葉を聞いて、僕は胸の中から何かが腐って、ぽとりと床に落ちる感覚を覚えた。僕はその落ちた何かを拾おうとしたが、それは完全に腐っていって指の間からそぎ落ちてしまった。
「それでまた借金背負わされて、今じゃ何処かに消えちゃったって話だぜ、まあ、何かの形で生きてはいるだろうけれど」
 その言葉を聞き終えると、僕は呆然とした。あの時僕を求めたのは、僕が司さんよりも遥かに恵まれた環境にあって、その環境に憧れていたからだ。それが恋愛にもにた狂おいしい感情となって、僕に降りかかってきたのだ。
 それから僕は呆然とした気持ちを引きずりながら、同窓会を過ごした。三時間ほど経って同級生達は二次会のカラオケに向ったが、僕は熊野と一緒に分かれた。

 次の日、僕は熊野の家で目覚めると、熊野の奥さんが用意してくれた朝食を平らげた。そして午前九時を少し回った所で荷物をまとめ、熊野と奥さんに挨拶すると、停めておいたGSR750に跨り、熊野の家を後にした。
 国道299号に入ると、定峰峠に繋がるT字路に差し掛かった。僕は左折してT字路を曲がり、定峰峠の麓へと向った。
 麓にあるカフェから少し離れた所にバイクを停めると、僕は森の中に入って、かつて司さんと一緒の時間を過ごした。場所へと向った。
 そこはかつて僕と司さんが過ごした時と変わらない風景が広がっていた。森の中を抜ける小川のせせらぎと、蒸し返すような森の匂い。そして鳴り響く蝉時雨―何も変わらないはずなのに、そこに立ち尽くしている僕だけが大きく変わってしまっている。
 すると、背後で誰かの気配を感じたような気がした。僕は振り返って名前を叫ぼうとしたが、あるのは緑のグラデーションに彩られた景色と、すぐ傍を流れる小川のせせらぎが聞こえるだけだった。

                                      (了)
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