消費者ダニーの憂鬱 第1部

文字数 29,570文字

消費者ダニーの憂鬱

 じいさんが死んだ。茶谷徳三は八十六歳の人生を四月三十日に終えたようだ。もしかしたら、五月一日の朝早くだったのかもしれないが、とにかく昭和を生きた人間だったから、昭和天皇の誕生日、昭和の日の翌日に静かに亡くなったような気がする。死んだのは徳三の部屋、つまり俺の隣の部屋だった。壁を破って勝手に作ったどこでもドアを通って、前日の二十九日の夜に水を飲ませた後、徳三は声も出さずに何度もうなずいたから、ああ、もう水も飲めないほどで、人生の終わりが近いのだとは思っていたが、カサカサの手で俺の手を握ると皴と区別が付かないほど目を細めて、首筋を大げさに引っ張り口角を上げた、つまり笑った表情を作ったもんだから、なんだ、まだ大丈夫じゃないかと安心したんだ。だから電気を消して「おやすみなさい。」って言ったよ。まあ、これは大きな間違いだったわけだが、つまり、最後は何も言わないで、徳三は迫りくる絶対的な暗闇に対して笑って進むことにしたんだ。今考えてみると、あれって、ようやく終わったような安堵の笑いのように見えた。まあ、こうやって、あとから付け加えた意味に、意味は無いけどね。
徳三は、年も年だから、寿命ってことで、当たり前の死を、自然に迎えたから、何にも問題が無いはずなのだが、ところが、問題だらけなんだ。まず、徳三の死亡原因なのだが、すい臓癌だったんだ。なんで癌になったかというと、年をとったから代謝機能が十分じゃなくなって、まともな細胞でなくて、不出来な細胞、癌が出来たっていう、至極当然、自然な成り行きなのだが、まあ、ここまでは問題ない。問題はこっからなのだが、徳三は、癌と判ってから、どうせ無駄だし、薬漬けになるのが嫌だったので、癌と分かった途端、それっきり病院に行かなかったんだ。「癌になって、薬をもらって寿命を延ばしたところで、寝たきりなんて、みんなに迷惑がかかる。金もかかる。だから治療はしない。」付き添った孫の俺にカッコつけた。一緒に聞いている医者は渋い顔してたけど、あいつら本音を忘れて生きているから、間抜けなことに、「また来てください。」なんて言うしかなかったんだ。まあ、比べてじいさんは、とにかく潔かった。「死ぬのヤダ」なんて泣き言ゼロで、「いいのか?」って俺の問いにもただ、しわくちゃに笑って見せて、八十過ぎて毛を刈られたばかりのプードルみたいに貧相で痩せっぽちだったけど、肝が据わってるし、存在はでかいと思ったよ。ついでに帰りに「じいちゃん、かっこいいな。」って言ったら小遣いくれたし。でもな、俺はすでに知っていたんだ。今の世の中、自然に死ぬことが許されないことになっているのを。たまにでも病院に行ってくれたほうが、よかったんだよ。でも、徳三の普通に死ぬことに対する意志は強かったし、それは俺だって尊重したかった。
ところでおまえら、知ってたか?今の世の中、病院行かずに自然死すると事件扱いで解剖されることを。腑に落ちないんだが、自然に死ぬことはいけないことになっているんだ。徳三の場合は、すい臓癌であることを知っていて、治療しなかったことが問題になるんだ。生きる努力をしなかったって扱いになるんだ。そうなると、人権弁護士が湧いている、分かりやすい優しさのみの無責任な現代社会では、医師を介さない死は自殺とも取れるし、治療をするなという人間がそばにいたのなら、延命を邪魔したそいつが殺人したことになりうるんだ。どう考えても厄介な部外者たちの言いがかりなんだけど、今の世の中はそうやっていつの間にか切っ掛けのような何かに人間が管理されているんだ。役所が暇なのか、国民が暇なのか、どっちもどっちなのだろうけど、いちいち、過剰に他人を気にかける迷惑な消費者がいることは間違いない。ここでいう消費者は国に対して国民はサービスを受ける消費者という意味から来ている。あとから付け加えた意味っぽいけど、違う。いつの間にか大勢が消費者と書かれた箱に押し込まれてしまっているんだ。今はその意味が分からないかもしれないが、それも今から話に沿って自然に少しずつ説明する。何しろユーチューブでこうやって聞いているあんたたちは既に消費者だからね。「あんたたち」って一絡げに言われてムカつく君は、遠くから見つめる黒い鳥にしっかり見張られた、相当迷惑な消費者に違いない。他人に気をかけすぎ、もっと気楽にすればいい。
もとの話にもどる。おやすみを言った次の朝起きたら、じいさんは安らかな顔をして朝日に照らされていた。白が印象に残るほど眩しく、神々しくて一目見て分かったよ。もう、この世に徳三が存在しないってことをね。ところで目の前で身内が死んでいたらどうする?現代社会においては、家で死ぬなんて少ないだろうから、病院で、脈がないとか、瞳孔が開いているとか医療従事者に確認してもらうんだろうね。それから医療従事者、いや、医療生産者とでも言ったほうがいいかもしれないが、とにかくそいつらに死亡診断書を書いてもらう。つまり身内の死を他人の判断に委ねるんだ。出生から没まで管理システムがそうなっているんだ。それから、生ぬるいビールみたいに気が抜けたころに、死んだという事実を突き付けられて、すでにいまさらという感じもあるのだが、人生に数度しか起きない死に立ち会うという衝撃を受けた演技をする必要がある。いや、これは、あくまでも年老いて往生した場合であって、当たり前でない死、例えば、突然事故で亡くなったり、若くして運悪く聞いたことが無いような病気で突然死んだ場合は別だよ。そういった場合の衝撃は半端じゃないだろうし、当分冷静ではいられない。こういう断りを入れないと思わぬ具合に太陽がまぶしいアルジェリアの「異邦人」にされちゃうからね。
多くの消費者を相手にするにはとにかく「お断り」が多くなる。そんなのいらないって人には迷惑だけど、一応、不特定多数の消費者に発信しているので、面倒でもお断りを入れる。内容がどうであれ、消費者にとっては単純明快、わかりやすければそれが正しいことになる。説明不足は面倒を生む。分かりきったことさえ描写しないと納得してもらえない。だいたい、消費者慣れした人たちはクレーム探しに躍起だからね。無料のサービスにさえ、文句を言いたがる。そのうち、街で知り合いに微笑みかけても、「もう少し楽しそうに笑えないかな?」なんて物言いがつくかもしれない。それはとても笑えないことなんだけど。
話しが進まないね。進まないとクレームつくから頑張ります。で、じいさんが死んでいて、いったいどうしようかと思ったけど、本当は病院に電話でもすれば良かったんだけど、しなかったんだ。孫である俺は隣の部屋に住んでいるけど、同居しているわけではないから、微妙にもろ手上げての身内じゃないんだ。つまり、ここで、警察が出てくる。いろいろ聞かれ、無職の俺が金欲しさにじいさんを見殺しにしたのではないかと疑われると、つい思ってしまったんだ。俺のように四十歳目の前にして働いたことがないってのは、社会的にアウト、当然のように「明日の犯罪者」にカテゴライズされる。そうなると、信頼がない、発言権がない、生産者でない、ただの消費者。この辛さ、一般人には解らないだろうね。一般人は組織に属したがるだろうけど、俺みたいなのは組織とか怖くてしかたない。駅前とかの何か同じものを身に着けている人の集まりを見ただけで、背筋が凍る思いがする。この考え方って、消費者団のメンバーは分かってくれるんだ。でも、消費者団という団体を作って所属しているってどういうことなんだろう。自分で矛盾していると思うよ。消費者団についてはあとでウィキ的に解説を入れるので待ってて下さい。
それで、じいさんの安らかな死を目の前にして、その崇高な死を役人仕事の警察とか無機質な病院とか、そんなのに首をどっぷり突っ込まれ、臭い二酸化炭素を吹き付けられたりして、人肌程度の世情に汚されたくないって思いもあったんだ。とにかく面倒なのが七割、静かにしてほしいってのが二割。それに、もしかしたら、必要のない奇跡によって生き返るかもしれないって思ったんだ。そうなると私的に通夜を設ける必要がある。二十四時間死体を見守って、それから燃やすわけだから、ここで病院に行って、引っ掻き回されるよりも、確実に死んだことを確認して、消毒液くさい、表面の菌が死滅した色白な病院の奴らに「お前ら意味無し!」って意地悪に引導を渡す必要があるって考えた。完全な死体を目の前にどうやって延命するか見せてもらおうじゃないか!って気分、あんたたち分かるかい?じいさんの為にも分かってほしいんだけど。
人は死ぬと筋肉が弱まって、体液があふれ出すって聞いたことがあって、このまま、じいさんを放っておくと糞尿まみれ、ゲロまみれになると思ったから、尻の穴に綿を詰めるってのは出来そうになかったけど、おむつなら代えたことがあった、新しいのに代えようと思ったんだ。日差しが入る明るい部屋で、じいさんは固まったように眠っている。死体ってのは、蛇とか蜘蛛とか害虫なんかと一緒で、悪い影響を恐れて本能的に触りたくないもんでしょ?だから、とりあえず出来そうなことから始めたんだ。まず布団を剥いだ。死体を覆い隠した清潔な白い布団を手品師のように瞬時にはぐると、敷布団の真ん中に向かって、全体の六分の一ぐらいしか面積を占領してない薄っすらとした乾いた塊、水色の寝間着姿のじいさんの体は思っていたよりずっと小さかった。色は白くて、干からびたカエルのような体が簡単に想像できた。近づくとじいさんの匂いが微かにした。髪の毛の油のような匂いだが、死体だからか、とても薄いんだ。それに水分が無いみたいでカサカサした感じだった。水気がないとミイラみたいで、なんだが、人形の様で、ずっと腐らずに、そのまま置いていてもいいんじゃないのかと思ったよ。
死ぬと同時に腐敗が始まる。そうなるとドア窓締め切って、生き物の死を喜ぶ最終消費者のハエを入れなかったらいいだろうし、そうやって、窓を閉め切れば部屋が暑くなることを考えて、エアコンを入れっぱなしにしよう。という結論に行きつく。壁に据えられたリモコンの扉を開き暖房を冷房に切り替え、エアコンのスイッチを入れた。考えてみれば、この季節にクーラー入れても効かないだろうけど、腐敗を呼ぶ湿気は取れる。思った通り、乾いた風が低いうなりとともにエアコンの吹き出しからあふれ出てきた。シャワワワと機械的な音が聞こえると少し間を置いて首筋に風が走る。ひんやりした風のせいか死体を目の前にして少しゾクッとした。しかし、するべきことは済ますべきだと考え、しゃがみ込んで、どっから体を触ろうか考えた。おむつを替えるわけだから、足を上げる必要がある。窓から差し込む朝日が眩しい。手元の用意した成人用おむつも白さを輝かしている。その眩しさに視神経を剥き出しにして、すべての感覚を麻痺させたい。感覚が伝わらなければ死体を触ることはわけがないと思った。しかし、いくら眩しくても感覚は消えない。
壁にかけた時計の秒針が進むカチカチという乾いた音が、寺の巨大な釣鐘を打ち鳴らすように響き渡る。重い音で、それが、まるで行き先の無い出発を急き立てているかのように煩い。喉元にまで迫ってくる音に堪らず思い切ってじいさんの足を掴んだが、その感触に驚き、思わず声を上げて手放した。持ち上げられた右足は一瞬浮かんで、音も立てず布団に落ちた。想像していたよりも、あまりにも軽かったのだ、死んだじいさんの足は異様に軽かった。その予想に反する軽さに俺は驚いた。死体というのはダラリと全身の力が抜けて、溶けた鉛のようにもっと重いものだと思ったが、じいさんの足は工作で飛行機の材料となるバルサ材の棒切れのように軽かったんだ。あまりの軽さに持ち上げた腕が九十度の角度をつけたまま固まってしまった。軽いから影響が少ないはずだが、その軽量な感触が体を巡り心臓に不用意な負担をかけた。しかし、よく考えてみれば、軽くて当然だ。ミイラのように干からびて水分なんてありそうになかった。すい臓がんで腹の方は一時、水が溜まって、餓鬼のように腫れ上がっていたが、死ぬ二週間前にはでっぱりもすっかり消えていた。それに、ここ一週間、ほとんど何も食べていなかった。これはもう、生き返ることはない。水気も無いので、じいさんを消費する菌も増えづらいだろう。じいさんは、その体で生き尽くしたということが良く解った。自分の人生を、体を、きっちり消費したのだ。もう、蝉の抜け殻のように中には何もない。亡くなるということは、無くなることなんだ。そう考えると安心して、じいさんの、徳三の体を触ることが出来た。魂が無いからか、試に抱えた両足は羽が生えたように軽い。もしかしたらと思い、両手でお姫様抱っこするみたいに抱きかかえてみたら、拍子抜けするほど軽かった。それに体は思ったより冷たくなかった。温度を決定する水分が少ないので、乾いた紙を触るように、温度を感じにくかった。だが、その軽さは、やはり、悲しかった。じいさんが死んだ現実だったんだ。口数も少なく、ほとんど会話もなかったが、朝晩にちらりと様子を見る相手がいなくなったことは、寂しい。しかし、後から調べたんだけど、延命治療した死体はずっしりと重いらしい。薬漬けで、生かすために管を通して点滴を入れ続けているから、不自然に水気を吸って、薬品は体に溜まり、死ぬほどの痛み苦しみも溜まって、それをさらに強い薬で誤魔化して、でも苦しみぬいて、とにかく、詰め込めるだけ詰め込んであるから、濡れたサンドバックのように、ずっしりと悲しくなるほど重いらしい。付け加えると、自然死に向かうと痛みも苦しみも神経が最後の働きをして、つまり、都合の悪いことは体が消して、たぶん、乾燥して体が軽いのもあるんだろうけど、もしかしたら神経が先に死んでしまうのかもしれないが、とにかく楽に、気が付かない様に死ねるらしい。徳三の顔は安らかに眠っているようだったから、たぶん、安らかな死は間違いないと思う。これだけ軽かったら、紙で出来た抜け殻のように痛みなんて感じることが出来ないだろう。だから、こういった延命治療の無い自然な死に方は徳三にとってはよかったと思う。生き抜き、果てた。それは結構なことだ。
もしかしたら、徳三が最後まで生き延びる努力をしたかったのかもしれないと思う方もいらっしゃるとは思いますが、それは残念ながら、無い。結局詳しく聞くことはできなかったが、概要からすると徳三は太平洋戦争でゼロ戦に乗っていた。神風特攻隊になるはずだったが、終戦で命を救われた。しかし、本人は多くの戦友を失っており、生き延びたことを恥じていたところがあった。本人いわく「死に損なった。」らしい。この発言には参っていた。まるで、俺の存在が間違いのような印象を受ける。徳三には悪気はなかったのだろうが、結果的に俺は死ぬべきだった人間の孫という面倒な立場に立たされていたのだ。まあ、その悩みも、徳三の死によって過去へ過去へと忙しく箒で掃くみたいに俺の知っている世界の隅に追いやられることになった。変な話だが、じいさんが死んだことによって、ようやく自分の人生を始めていいという気にもなった。生きるのに誰に許可を得る必要があるのだろうと思うが、ちょっとした一言が呪いになることは多々ある。
数時間、日が傾くまで、じいさんの隣に座っていた。エアコンは乾いた風を送り、体の表面は冷え切り、季節が逆戻りしたみたいに寒いぐらいだった。雰囲気を出すためにカーテンを閉めて薄暗くした。それに世間からじいさんの遺体を隠したかった。そのぐらいじいさんはすっかり死んでいた。一向に動き出す予定が無い血のつながった身内、それを見ていると、なんだか自分の時間さえも止まったように思え、呪いにでもかかったように、その場から動くことが出来なかった。時折、隣の部屋の老人がトイレに行ったり、蛇口をひねったりする生活音が聞こえ、悪いことをしているわけでもないのに、勝手にビクつくこともあったが、基本的に住人が半分もいないこのアパートは静まり返っていて、住宅街に位置することもあって、徳三の部屋は生産世間の動きと切り離されていた。だから周囲の音に心惑わされることが少なかった。しかし、考えてみれば、本当はうるさい方が良かったのかもしれない。となりの部屋の住人が毎日のように当然の権利を行使するように厚かましく覗き込んでくれた方が良かったのかもしれない。壁一枚、これが厄介なのだ。
いつの間にかうつらうつらして、映画館に並ぶ夢を見ていた。チケットは偽物で、ばれたら行列から離れてチケットを買い直す必要に迫られる嫌な夢だった。なんとか言い逃れする方法を列に並ぶ間に考えているが、中々いいアイデアが浮かばなかった。当然のように正規のチケットで館内に入っていく連中が憎らしかった。あいつらは何の苦悩もない。当然のように映画館に入っていく。なのに、俺はどうだ?偽物のチケット一枚に、それがばれた時の恥ずかしさに、惨めさに、びくついている。半人前の消費者の憂鬱を心底感じている。いよいよ、入口が近づいてきた。ゲートの女はチノパンに紺のポロシャツといったツタヤの制服みたいな格好して、華やかな世界に向けた笑顔で接客している。俺は、その当たり前に行われるサービスを受けることができるのだろうか、いや、出来ない。あの美しく作られた笑顔が、俺の番になって、水気を奪われた花が萎むように崩れていくのだ。笑顔の下にばっちりわかる困惑の視線で、チケットを持たないものは丁寧な言葉によって否定されるのだ。崖の突端に立ちすくむ恐怖の瞬間だ。列から逃げるしかないが、ここまで並んで、逃げるのはもったいない。なんとか人情のようなもので、館内に入れてもらえないだろうか?そこでは優良な消費者として最善の振る舞いをする自信がある。だが、それを説明したところで、理解してもらえないだろう。そこで目が覚めた。すっかりあたりは暗くなっていて、時計は夕方六時を過ぎていた。徳三は薄暗い部屋でじっと目を瞑って死んだままだった。それを確認すると、すっかり、今後の行動を決めてしまった。とりあえず、ここから逃げよう。死んだ徳三を放っておくことは何となく気が引けたが、もう死んでいるのだから、恨まれることはないだろう。
いいですか皆さん?死んだ人に感情は無いんですよ。お葬式なんてものは、死んだ人の為にするものではないんですよ。間違いなく、生きている人が区切りをつける為に行う一方的な消費活動なんですよ。そんなことを言ってしまうと、何を消費するのか説明しろと言われそうですが、それは人それぞれになるでしょうね。人にとっては時間と金を消費するだけかもしれないし、くすぶった思いを無理やり消費させる人もいるでしょう。考え方としては、世間体を維持するための場当たり的な消費活動と捉える方も大勢いると思います。最終処分までの一連の消費活動の一部でもある。こんなことを言うと自称常識人に嫌われてしまうと思うけど、匿名の場所では「そういえばそうだね」という返答を期待できると思ってます。おおっと、重要なことを忘れていた。葬式って、黒い鳥を飼っている当局により生き死にを管理されているってことを誤魔化すためのものって意味合いも強いと思います。カモフラージュです。本当はね、書類さえ揃えばいいんですよ。死亡届と住民票の消去、戸籍の記述変更。それがこの世のシステムでは一番重要。優良な消費者としては何となくムカつくけどね。でも、仕方ないだろうね。
「ここから逃げよう。」それだけは決まった。そのためにはこれまでとこれからの時間的、精神的に区切りをつけるための葬式が必要だった。徳三の部屋の壁につけられた、ベニヤに木目がプリントされている一箇所にしか行けない「どこでもドア」を開けた。暗い部屋にパソコンの電源やルーターの電源、などの小さな緑と赤い光が蛍のひかりのようにチカチカしている。見慣れた自分の部屋に移ると急いでどこでもドアを閉めた。塩を撒く必要があるかと考えてみたが、バカバカしく、そのうち、まとわり付いた死臭から解放されて、ほっと息を落ち着けることが出来た。床まで伸びる紐を引っ張って天井にぶら下げたプラスチック製の木組みで飾られた神社仏閣を思わせる蛍光灯の明かりをつけると、昨日までと同じように、壁沿いの本棚には希少なDVDと厳選されたマンガのコレクションが通し番号に沿って、統一感を持って色とりどりに並び、飾り棚の一番上に死んだように動かないジョジョのフィギアが波紋カッターのポーズを決めている。CDのコレクションも並んでいる。もちろんMP3に変換済みだが、数百枚の音楽ディスクは知的財産であり、捨てることはままならない。
自分を形成してきた知的財産の集合体であるこの部屋はナイト2000のように生きているようだが、そのうち隣部屋の死が、閉め忘れたコックから漏れた毒ガスのようにゆっくりと、しかし確実に音も無く侵食してくる。その毒にやられると色を抜き取られた写真のように彩を無くす。それは想像に容易い。人は味の無いカレーライスを何処まで我慢できるだろうか?大半は一口目で絶望する。作り上げた俺の生活は、じいさんの死によって、簡単に失われる。
だからこそ葬式をする必要があったが、空気を入れ替えるための葬式をしたところで、やはり、間違いなく今までの生活は変質してしまう。壁の白さは、粉を吹いたようにわざとらしくなり、蛍光灯の影にうっすらと緑色がかかってくる。ガラス戸は飴細工のように歪み、もろくなる。こうなると同じと思おうとしても駄目なのだ。歯車の足りない時計では時は刻めないのだ。もう、これまでの様式はすっかり消費されたのだ。
消費されたものに消費者はいちいちかまってはいるべきではない。
魚屋が魚の白い腹に包丁を入れることに躊躇うべきでないように、鳥が大空に羽ばたくのを躊躇うべきではないように、消費者は消費に躊躇ってはいけない。それは分かっている。しかし、空が密度を代え、発色さえ青から薄紫に、すっかり変質したら、鳥は羽ばたけるだろうか?魚屋は突然変異の毛むくじゃらの魚の腹に包丁を入れることが果たして出来るだろうか?だから、逃げる必要があるのだ。いや、これは必要ではなく、必然であり、一方通行の狭い路地裏の道のように、鼻っから行きつく所が決まっていて、もう、それしか方法がない。つまり、ずっと前のはじめから巧妙に逃げ道しか用意されてなかったのだ。俺はまんまとその道を選ぶ。なにしろ従順な消費者だから。消費者なんてものは、立ち向ったりしない。大勢に流されたりして、ちょっとだけ振り返り、後悔するものなのだ。
自分が組み立てた消費の城の王座に座りこむ。イスは嘘の革張りの黒い高級な座椅子。あぐらをかいて背もたれによっかかる。一センチほど沈み込み、そのあたりから応力が発生し、クッションはつぶれることなく、満員電車で誰かにもたれるように、心地よいほどに体を支える。立派な肘掛の先に小さな専用テーブル、その手の届くところに各映像機器のリモコン、各テレビゲーム機のコントローラー、ティッシュ、スマートフォン、目薬、ミントのタブレット。必要なものは座ったままで使用できる。この椅子は、堕落の砦、消費者の特等席、いや、独房なのかもしれない。座ると、イスに捕まったように、そこから動けなくなる。心地よい場所、生乾きの棺桶なのかもしれない。気が付いたら沈み込もうとしていた。イスの周りにはパソコン本体、ルーター、WIFI、充電器のコード、ゲーム機とその接続、とにかく黒いコードが畳の上に網羅され、それが、壁沿いのコンセントめがけてだんだんと集まり、最後には太い束となって、コンセントを終点に結ばれていった。イスからコンセントまでの黒い血管は毛細から動脈へ変化してエネルギーを居場所であるイスに供給している。そのイスに安心して丸まりじっと息を潜める。まるで子宮に閉じこもる胎児のように。黒い電源コードは、そうなると、へその緒だ。へその緒が繋がっている間はココで生きていくことが出来る気がする。もっとも、電気が止まったら、そうは行かないだろう。消費が止まれば、その存在も費えるのだ。だが、イスの外に逃げることが果たして可能なのだろうかといつも思っている。しかし、逃げる必要があるのだろうかと同時にいつも考えている。居心地のよいイス、出ていく気が無い胎児、濁った羊水に身を浮かべる。次第に劣化する子宮。
居心地よい子宮、世間から切り取られた静かな場所、そこに別世界の情報を与えてくれる覗き穴とも言えるモニターが三台、一台は四十二インチの液晶テレビ、その少し手前にパソコンの十五インチモニター、もう一台、二十五インチのブラウン管テレビ。この三台の中で使用頻度が高いのは薄型テレビだった。トイレに入ったらチャックを下げるみたいに戸惑うことなく当たり前にテレビのリモコンに手を伸ばし、無意識に鼻をほじるようにスイッチを入れた。唐突に一メートル先の大画面にビールの広告で笑顔のタレントが軽快な音楽に沿って飲み食いしている映像が流れた。鼻の奥に透明な蛇が体をくねらせたような嫌な異物感がして、とっさに吐き気がした。隣でじいさんが死んでいるからかもしれないが、そのわざとらしい笑顔が、不必要な飲食が、不快極まりない映像に見えて仕方がない。肉にかぶりつき、笑顔で琥珀色の偽物のビールを喉鳴らして流し込む仕草に品がなく、ゴミをあさる皮膚病の野良犬のように不快にしか思えない。よくもまあこんな醜悪な映像を垂れ流しにできるものだと怒りさえこみあげてきた。これを見てビールを飲みたくなるとしたら、それは脳が致命的な病気にかかり、正常な判断が出来なくなったとしか思えない程だった。広告代理店の連中は電波を使って何を企んでいるのだろう?急いでチャンネルを変えるとNHKになった。精巧に作られたアナウンサーが神妙な顔して、その後ろに老人の後姿の写真と明朝体の「無縁社会」という文字が躍る。単なる都内の老人の孤独死を取り上げ、わざとらしくドラマチックに「無縁社会」という言葉を流行語にのし上げるかのようなプロパガンダが繰り広げられていた。死んだ老人は宣伝材料の為にその巣穴、墜果てた寂しい寝床を一般公開され、アナウンサーは躍起になって「無縁社会」というどうでもよい、しかしなんとなく格好がよい言葉を繰り返していた。となりで死んでいるじいさんも広島地方版のニュースで「無縁社会」という言葉に括られるのだろうかと思うと憂鬱になった。死んでからも大衆の消費の材料にされるなんて食べきられず半分形を残したまま折れた割り箸を突っ込まれて捨てられた一折三千円程度の高価な行楽弁当のように無残に感じる。テレビに対して視聴者としての目の前で終わる短い怒りを育てていると、テレビなんてものは無償のサービスみたいなものだから、それに文句をいうのは自意識過剰の消費者行動となることに気が付いた。いつの間にか、消費者であることが骨の髄まで刷り込まれていることに今更ながら震えた。なんだかそれが恥ずかしかったので、デッキに入ったままのエロDVDを再生して無駄なカロリー消費活動を自らを慰める様に励んでみる。スコスコと大画面に映し出される余り記憶に残らない淫らな映像に食い入って右手を上下させていると、いい具合に「どうでもいいや。」といった脱力感が後頭部を支配して、目の裏は真っ赤に弾けて疲労感が溜まり、陰鬱な気分は鼻先あたりになりを潜めた。一人セックスで気分を紛らわすことができるのは人間が優秀だからに他ならないと思ってみたが、薄暗い部屋のガラス戸に映るちんぽ丸出しの自分の姿は極彩色の熱帯に生息する毒虫のように醜悪で、毛むくじゃらの太ももの欲求のいやったらしさは自尊心を傷つけた。オナニーしている自分を見たら、いっそのこと、死にたい。この気持、解るでしょ?
しかし、しっかりと射精して、ぶら下がる蜘蛛の糸を引っ張り、白い明かりをつけて、手に届くティッシュですっかり拭いて、よく晴れた日に屋上で背伸びをするような気持ちよさによく似た、下半身丸出しのままの開放感を楽しみながら永遠のイスに体を伸ばしていたら、抗うことが出来ない眠りが俺をすっかり引っ張り込んだ。真上に見える丸い蛍光灯が真夏の太陽のようにまぶしさを増した。目の奥が真っ白に染まり、急激に景色がぼやけてきた。どうも、死を目の前にして思った以上に精神がくたびれていたのだろう、そのまま、夢の無い眠りに付いた。
眠りすぎると頭が重く、割れる様に痛い。蛇口が壊れたみたいに鼻血が出そうだった。顔が強張っている。もう一度眠ったところで解決しない。変質したからには元には戻れない。一瞬、ここがどこなのか分からなかったし、椅子で眠ったせいか、体が強張っていた。付けっぱなしの蛍光灯で時間の経過が分からなくて少し焦った。手さぐりで見つけた携帯電話の時計を見ると午後一時だった。寝たのは昨日の夜、九時ぐらいだっただろうか?半日以上眠っていたことになる。腹の奥が乾いたように痛んだ。カロリーを消費していないのに、腹が減っていた。冷蔵庫の中身は覚えていた。わさびとマーガリンしか残っていない。隣の部屋の徳三の冷蔵庫にはリンゴがあったが、仏壇のリンゴを盗んでかぶりつくみたいなことはしたくない。財布の中身は二百三十三円であることは覚えていた。今日の日付は五月二日、明日は五月三日の憲法記念日。そうなると中学校の教師やってたリベラル両親が何べんも俺に言い聞かせ、洗脳したことが、すぐに出てくる。これはもう、おはようとかこんにちはレベルですっかり覚えている。
憲法第二十五条(国民の生存権、国の社会保障的義務)
「すべての国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障、及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
分かっていただけるだろうか?つまり、端的に言うと、基本的人権っていうのは、消費者保護のことなんだ。つまり日本に生まれた以上、生きているだけで丸儲けだから、好きなことをすればいい、健康的で文化的な素敵な生活をする権利があるわけで、わがままOKって内容だろ?それに対して、国は排泄物の処理もするし、金が無い人間には金も配る。死んでいないか気にかける必要がある。こうなると国民というのは、言いかえれば、お客様、つまりは消費者なんだ。その消費者が権利を行使することを国が保障するって内容、これって、奇跡だよね。最低限文化的、漫画が読みたいと消費者が言えば、それを国が保障する。小遣いくれて、漫画が滞りなく出版されているか調査までしてくれる。
そんなわがまま坊やの要求を国家の理想として憲法に掲げ、「働くな!」「手を汚すな!」「したいことをしろ!」って日教組漬のしょっぱい教師連中が喜んで子供たちに消費者根性、人権万歳を刷り込んでいるわけだし、聞いてる子供たちも、何もしないで恵んでもらえるもんだから、それが当たり前になってくるし、「好きなことして輝こう!」なんて言われたら浮き足立つよな。楽な思想はすぐにでも定着する。だから俺らみたいな無職の生活保護受給者はこれからもっと増えるだろうし、年金を心待ちにする身内が大量生産されたって、おかしくないんだ。だって、最低限の文化的生活を送る権利が生まれたときからあるわけだし、だったら死ぬまでその権利をむしゃぶりつくして消費しつくすまでのこと。
じいさんが四月三十日の夜?五月一日の朝?に死んで、大往生とは思ったけど、正直、もう少し生きておいて欲しかった。もう少しっていうのは、五月二日までだったんだけど、それって言うのは二ヶ月に一度の年金支給日は毎月五日で、五月は祝日のこどもの日に差し掛かるので、連休前の五月二日である支給される。この発言を聞いて最低と思う奴も多いと思うけど、生きているだけで金をもらえる状況に立ってみたらよくわかるよ。公園で首を振って、善良な爺さんが撒く餌を待つ鳩の頭の中を考えてみろよ、餌もらって当然になるんだ。こういう習慣は、うんこをしたらけつを拭く、外に行くときは服を着る、みたいな生活の上での当たり前のことになるんだ。
それに、俺はじいさんの面倒を看ていたわけだから、その報酬はもらって当然だろ?二日に一度、骨ばったから体から寝巻きを剥ぎ取り、鶏がらのような体を拭いて、洗濯したしわだらけの寝巻きを素早く着せたり、ゆっくりとトイレ行くのを転ばないかと気にかけたり、立ち上がるときたまに肩を貸してやったりと、俺の両親が放棄したことを、代わりにやってきたんだ。だから仕送りも多少もらっているけど、じいさん宛の年金だってもらって当然なんだ。これは報酬なんだ。身動きできない徳三の代わりに使う必要があるだろ?
とにかく今日は年金支給日で、俺の財布の中は空っぽに近い。じいさんの死に様を看取った。この条件からすると、俺が郵便局に徳三の年金を下ろしに行くことは、当然のことだろう?そのあたりは、誤解が無いようにここで証言しておきたい。聞いた人たちは、俺の身の上話の消費者となるし、同時に、これが年金を目当てとした殺人事件ではないという俺の無実の証人となる。
玄関は昼を過ぎても、冷蔵庫を開けたみたいにひんやりとした空気を漂わせていた。このひんやり加減は、じいさんの死から発せられて、部屋中に充満して、温度を奪った結果に違いない。履き慣れたスニーカーだが、足がすっぽり入る前に、立ち上がって急いで玄関を開けた。ドアを開けると、白い光が差し込んできて、一瞬、世界が蒸発したように真っ白に消えていったが、沸き立つように、青い空が、白い雲が、風に揺らめく新緑が、太陽の光で焦がされた住宅の黒い屋根の並びが目の前に現れた。唐突な日常の景色の出現に、戸惑ったのか、玄関から差し込む日の光がじいさんに当たって爺さんの遺体が劣化することに敏感に反応したのか、とにかく俺は動揺していたが、急いで後ろ手で玄関を閉め、体を捻って鍵を掛け、履きそこなった靴に躓くように前に倒れそうになった。もつれる足から、前進への一歩が、反射的に突き出て、曲芸を見せるかのように、倒れこむ体を見事に支えた。「タン」と錆びた鉄板の通路がブリキの太鼓を弾いたような音を響かせた。目の前の赤いペンキで塗られた手すりを掴むこと無く体を支えることが出来た。目の前に檻のような手すりが立ちはだかり、その向こうには薄く輝く太陽に照らされた初夏の住宅街と眼下に広がるほとんど車の止まってない、このあたりのアパートの駐車場、この時間は、誰もいない。みんな社会生活を営むために、会社とかそのあたりに出て行っている。誰もいないから気楽と思う人がいたら、それは間違いだ。誰もいるべきでないところに、いるところを見られるのは、必要以上の緊張が生じる。「僕には用事があります。」と全身でアピールする必要がある。「消費者として立派に生活しているのに、なぜ、生産者のフリをする必要があるのか!」これは消費社団のテーマのひとつになっている。
転げるように階段を下りるが、器用に爪先立ちで猫のように音を立てずに気配を消して駆け下りる。これはちょっとした俺の特技で、見かけた通行人にとっては、音と映像がバラバラに見えるだろう。鉄の階段を踏み鳴らす雑な音は、周囲の注意を引くことになる。それは避けた方がいい。いつでもそうだが、今は特に、世界から気配を消したかった。一階に下りてアパートを振り返り見上げたが、自分の部屋と徳三の部屋の玄関のドアだけが残り六つより色が濃く見えた。紙やすりで表面を削りたい。すすけた感じで周囲の風景になじませる必要がある。しかし、二つ並んだ玄関のドアは、その動脈血のような鮮烈な赤を発して、住宅街の穏やかな昼下がりと正反対に位置することをアピールしていた。憂鬱になるが、現実は目の前に根付き、俺を逃がさないように枝を広げ葉を茂らせ、ついにはツタまで伸ばして意地悪く立ちはだかる。黒い鳥がどこかで見ている気がしたが、離れたところから聞こえるアスファルトを削るタイヤの音が緊張を忘れさせ、見上げることなく、音を頼りに地続きのアスファルトを辿ることになる。背後にアパートの存在を強く感じ、その中に隠れるじいさんの死体から練られた思念の気配を感じていたが、アスファルトを割り、道端に芽を出す、名も無き小さな花の可憐さに注意を向けて、心配事を現実の景色で埋め合わせた。忘れることは出来ないが、都合よく誤魔化すことは簡単で、その逃げ道は、いたるところ、無限にある。
気が付く頃には郵便局の出張所前についていた。気温はそれほど熱くなかったけど、ずいぶん歩いたので、午後のけだるい日差しが髪の毛を焦がそうとしていた。頭に篭る温度を逃がそうと手を髪に突っ込むと、頭皮がじんわりと汗をかいている。汗は暑さが原因だけではなかった。胸を張って息を吸い込み、腹圧で深く吐いてみたが、胸の高鳴りは消えることが無かった。近づくたびに、住宅街に埋もれる見た目より小さな白い四角い豆腐みたいな郵便局の建物は、スケールが逆転して堅牢で自分のサイズにそぐわないほど大きく立派に見えてきた。今まで、そんなことを感じたことは無かったが、今は、自分には手におえない、入る資格さえないように思わすぐらい格上で、郵便局ごときに俺は勝手に打ち負かされそうに感じたのだ。それに実のところ、深呼吸で呼吸を整えたはずだが、緊張感で酸素が足りない血が沸騰して、心拍数が上がっていた。
理由は簡単である。これから引き落とす年金は、徳三のものだからだ。俺は今まで、じいさんの代理として年金を受け取りに来ていた。いつもなら、面倒な仕事を頼まれて仕方なく出向いてやってるわけだが、今は違う。立場がすっかり外的要因によって変わってしまっている。つまり、徳三という依頼主、年金の所有者が死んでいるのだ。国にとって、死んだ人間に出す年金は無いだろう。とにかくズレてしまったのだ。ほんの数日、いや、数十時間達してないだけでもらえないものに変質してしまったのだ。だが、俺は、お金を、十二万円をもらえないと困るのだ。徳三の年金は、俺の収入サイクルに入っている。それが生活の骨の一部となり、しっかりと社会に立つことを支えているのは間違いないのだ。だから、これは消費者として、いや、最低限の健康的文化的生活を保障されている個人の権利を尊重される国民にとって、主張していい当然の権利だろう。
突然、上空に空気を劈く音が距離の丸みを帯びて響いた。音によって空は青さを増して、雲はその緩やかな印象を捨てた。岩国の米軍戦闘機が西の方を飛んだのだろう。もしかしたら、こっちをじっと見つめる黒い鳥の正体なのかも知れない。黒い鳥が途方も無い正体をちらつかせてくれたおかげで、消費者としての落ち着きを取り戻すことが出来た。
心拍数が降りてくると、太陽のまぶしさは半減し、遠くの山は青から緑に変色し、通りに自分以外に人がいることを確認できるぐらい余裕が出来た。ハット帽をかぶった七十過ぎのグレーのズボン、グレーのシャツ、グレーのスニーカー姿の吠えない室内犬のようなじいさんが俺の目の前を通り過ぎて、背中を丸めて、その存在を自ら殺して郵便局のドアをそっと開けていた。その次に、髪を後ろに一つ結びした四十過ぎのよく痩せた蟷螂のようなおばさんが小走りで日差しから逃げるように白い郵便局に駆け込んでいた。あいつらは、おそらくまともな用事で郵便局に来ている。俺は自分の行おうとしていることを昼寝から目覚めたみたいにはっきりとした頭で理解している。これから何食わぬ顔で行おうとすることが詐欺まがいの行為だということを。だから、四角い建物の前で、ママチャリ数台、軽自動車三台ならんだ白く輝く四角い建物の前で、窓ガラスに跳ね返り射し込んでくる鋭い明かりに目を細めながら躊躇いの思案に暮れている。
一歩踏み出さないと、アパートの空っぽの冷蔵庫に呼び戻されることになる。金がないと路頭に迷うのだ。しかし、道徳的に、死んだ人間の金を横取りしてもいいのだろうか?もしバレて捕まったら、「無職」と大手マスコミに報道され、中学時代に俺のことをあざ笑い、高校時代に俺のこと無視した連中が「茶谷って、やっぱりダニだった。役に立たない害虫だ。っていうか、ダニのくせにまだ生きていたのか!」なんて携帯電話でうわさになり、自分の肖像が豚のような連中に行儀悪く消費されることが思い浮かんできた。そう思うとだんだん悔しくなってきて、ついには泣きそうな気分に叩き落された。自分はまっとうな消費者であるのに、なぜ、恥をかくかもしれない恐怖を味わう必要があるんだろう?消費者は匿名でそっとしておいてほしいから、消費者でいるのに。静寂に身を隠してそっと、人畜無害を旨として生きてきたのに、世間から勝手に俺の歩みが覆されてしまう。
意を決して、粘つくアスファルトから足を引っぺがし前進する。足の筋肉が当分前から異常があるかのように重く感じる。太ももの裏辺りが簡単に攣りそうになったが、気が付くと自動ドアが開いていた。まだ冷房は効いてないのか、生ぬるい空気が紙の臭いを含んで目の前で開いた。そのあと大勢の人がひしめくのが見えた。野球帽をかぶったグレー色に身を包んだ老人と赤茶けた沈んだ色に身を包む老人の太った妻、五歳の男の子を連れた自分より年下であろう上下スウェットにサンダル履きの偏差値低そうな母親。白いカッターシャツを着た経理畑の五十年もの、座って女性週刊誌を必死に目で追う青いワンピースを着た婦人、その横で下を向いて決して周りを見まいとする大学生。毎月見る光景のはずだが、今日は、すっかり景色が違って見えた。なんだか、うっすらとしたガラス越しの景色みたいで、人の表情がはっきり見えない、いや、実のところ、見ることが出来ない。突然うなぎの皮が気になりだして、蒲焼が食べれなくなったような、気持ち悪さを感じていた。人が異質に見えた。目や鼻が飛び出して見える。体温や汗ばみさえ遠くから感じられる。それは自分の持っているものと違うので、公共のイスに座り、前に座った人の生暖かい体温を尻で感じるほどの気持ち悪さを感じるのだ。どうも刺激が強すぎるし、周りの人に同じ空気を吸っているような親近感を感じることが出来ない。
人々は奇妙に映るだろう、君が見知らぬ人のとき
顔は醜く映るだろう、君が一人ぼっちのとき
君が見知らぬ人ならば、誰も君を相手にしないだろう。
ドアーズの「まぼろしの世界」の歌詞を思い出した。原題は「ピープル アー ストレンジ」まぼろしの世界とは人々が奇妙なことらしい。だとしたら、俺は今、まぼろしの世界にいることになる。今までもまぼろしの世界にいたと思っていたが、徳三の死によって、世界は、まぼろしの世界に変わってしまったようだ。
まぼろしの世界に立っていると、黒い鳥の視線に敏感になる。部屋の天井、角からこっちを狙っている。振り向いてもいいが、黒い鳥の飼い主は、離れた部屋のモニターからこっちを見ているに違いない。頭の右後ろに黒い鳥の視線を感じながら、そのことに気が付いてないように自然に振舞う必要がある。黒い鳥の飼い主は手ぐすね引いて、俺のミスを待っている。少しでもキョロキョロしたりすると、キョド減点されるのだ。その減点がある範囲を超えると、俺の映像が挙動不審者として保存される。黒い鳥が俺を視線で威圧する。ハットかぶった老人や肌の張りにしか興味がもてない主婦なんかは、俺のことなんて気味悪く思うぐらいで、覚えてもないし、覚えようともしない。近所にずっと住んでいるはずなのに、他人のままだ。しかし、黒い鳥は俺のことをすぐに発見してくれる。見逃してくれない。注目してくれる。親近感とは一方的には起こらない。双方の意識が結んでくれる。まぼろしの世界の住人となってしまった俺には、もはや黒い鳥しか相手にしてくれない。
黒い鳥が見逃すことなく、しっかり見ている自動支払機の前にやってきた。当たり前のように茶谷徳三名義のキャッシュカードを取り出し、機械に入れ、見た目には震えていない指で、間違えないようにさっと暗証番号を押す。暴れる心臓が喉から這い上がる緊張の一瞬だが、当たり前のように十二万円の残高が表示される。タッチパネルに表示される出金の文字。押してしまえば、黒いパネルに映る自分が住んでいるまぼろしの世界に引き込まれてしまう。もう、元の世界に戻れなくなる。ここではっきりしておきたいのが、俺は、罪悪感を持って、まぼろしの世界に旅立つことを覚悟した。もし、旅立たなければ、消費活動は封鎖され、自分なりの社会貢献が出来なくなることが判っていた。それに、こんなの、誰でもやっている。俺だけ出来ないなんておかしい。これを聞いて、みなさんは俺が体のいい言い訳をしているとしか、思えないかもしれないが、よく考えてみてくれ。消費活動に対して、犯罪者になる覚悟をもって挑む熱心な人間がどれだけいるかを。自分を消費しなければ、真の消費は不可能だ。これはあとで考えた意味だから、あんまり意味が無いことかもしれない。
出金のボタンを頭では躊躇い、指先は間違いなく押した。その瞬間、目の前にクリムゾンレッドの暗幕が落ちた。おそらく血圧が下降したのだろう。めまいがして、足元がグニャリと死体を踏んだように滑った。劣化した肉の上の乾いた皮がずれた気色悪い感触が靴の先から全身に伝わった。卵の白身が頭から顔を伝って流れるような寒気が走り、骨まで冷えた。思わず肩をしぼめそうになったが、黒い鳥が見逃さないことは承知していたので、平静を装い、ぐっと堪えた。その後、まぼろしの世界に来たはずだが、まぼろしは精巧に出来ていて、何が変わったのか言い表すことは不可能だった。
いつのものようにATMに据え置いてある紙封筒を引っ張り出してフッと息を吹いて封筒の口を開いた。紙の乾いた匂いが跳ね返ってきた。その匂いが消えないうちに金を数えることなく押し込んだ。封筒の口を折り返し、財布の中に突っ込んだ。この一連の動作をいつものように終えてATMから素早く見えない様に急いで離れた。黒い鳥の視野から離れたところで安堵感が胸のうちから沸いて出てきた。いつもと行動は同じだが、条件が違う。そのため、ひどく精神がまいった。財布とカードを懐に入れ、その場に自分の臭いが染み付く前に郵便局から出ようと急いだ。足は向かう方へ空回りし、リノリウムの床は鏡のように摩擦抵抗が少なかった。自分では平静を装っているつもりだったが、周りから見れば、ずっと俯いて忙しなく行動する不審者に見えたかもしれない。
「おい、茶谷くん。何しとるの?」
いきなり背後から聞き覚えのある声で呼び止められた。すぐには誰だか分からなかったが、頭の中に黒い霧に包まれて声の主の顔がぼんやり浮かび上がった。白い大きな歯、長い顔、まるで馬みたいな老人。髪は白髪でべったりとポマードで後ろに撫で付けられている。名前が出なかったが、徳三の元部下で、困ったことにやたらと声がでかい。悪い人ではないと思うが、好きにはなれない人だった。
「ゆうすけくんじゃろ?上田だよ。徳三さんは元気かいね。」
振り返るとやたらと顔の長いトーテムポールのような色の黒い男が白い大きな歯を剥き出しにしていた。半そでのからし色のシャツにベージュのズボンを穿いている。口角を上げいかにも愉快そうに笑った顔をしているが、上田の目は、黒い鳥そのものだった。じっと疑いの目でこっちを見ている。ちらりと目を上げたが、急いで視線を足元に落とした。上田は茶色い上等な革靴を履いていた。トーテムポールの化け物に狙われて、恐ろしさに足がすくむ。何か言い返さないといけないが、上田は以前の上田には見えなかった。ああ、これがまぼろしの世界だったのか。これまで使用した言語で会話が成り立つのか心配になったが、それ以外の言語を知る由もなく、しかたなく、勇気を振り絞り声を出したんだ。
「ああ、こんにちは上田さん・・・祖父は相変わらずですが、ここのところ寝てばかりです。昨日からじっと寝ています。で、代わりに年金を下ろしに来ました。」
トーテムポールは俺が話している間、大きな目でじっと見て、心配そうにうなずいて見せていたが、その目の奥には黒い鳥がじっと潜んで、その真っ黒い真珠のような瞳でこっちを映していた。親しくもない変な生き物相手に一端の世間体を演じてみたが、落とした定期券を普段歩かない薄暗い路地で時間を潰すように探しているみたいで、その行動に意味は見つからない。しかし、そういった意味の無い演技、これを聞いているみんなだって普段強いられているはずだ。覚えが無いなんて言わせない。
「そうか、徳三さん、ずいぶん弱っとるんじゃのう。でも、まあ、雄介君みとうな優しい孫が面倒見てくれるのなら、安心よのう。」
こういった俺の立場を、上田は郵便局内の数えるほどの人間に大声で解説する意味はあるのだろうか?窓口に立つ女性職員は聞き耳を立てているように見えた。奥のほうで机にかじりついてパソコンのモニターを険しい顔で見ている男性職員もふっと顔を上げて俺の姿を確認して、すぐに顔を元に戻した。隣にいた灰色のじいさんはほんの一瞬だけ顔を上げてこっちを見たが、すぐに郵便局から出て行った。比べて五十過ぎの太ったおばはんはじーっと穴が開くほど俺の顔を見ていた。興味を表に出すと人の顔は間抜けに見える。子連れの三十代の色白で綺麗な母親はなるべく俺のことを見ないように子供を抱えて座っていた。注目を浴びた俺は、足の先から白くなるような恥ずかしさを勝手に覚えていた。
なんでも知っていると勘違いしている大声のおせっかいな老人に対して、殺意を持つことは自然だと思う。上田の爺さんを殴り倒して、その馬顔を真っ二つに引き裂いてやりたかった。馬刺しにしてやる。強く思ったが、すぐには行動に移せない。腹が立って仕方が無いので、この場から離れる必要がある。
「ごめんなさい。急いでいるもので、祖父が起きたら上田さんに会ったことを伝えておきます。」
へどもどしながら何とか言葉を表に出して逃げるきっかけを作った。しかし、上田は俺の手を掴んだ。弾力のない柔らかな老人の手は、俺の体温より低くて、トカゲのしっぽを握ったように気味悪かった。それに、フラッシュバックで昨日死んだ徳三を触った感触を思い出してしまった。体中の筋肉が強張った。顔の前で強い光が開いたように目を強く結んだ。
「なに、急いどるんよ?雄介君も今年で四十歳ぐらいになるんかいねえ?そろそろ結婚とか考えてもええんじゃないんか?いつまでも徳三さんの世話を見ている場合じゃなかろう?そういえば、仕事しとらんかったのう。いい若いもんが恥ずかしゅうないんか?徳三さんも立派な商社マンで、東南アジアにゴムなんかを買い付けに行っとったし、お父さんお母さんは中学校の先生じゃったよな。おじさんは茶谷家のことはなんでも知っとるぞ、親戚みたいなもんよ。どうだ、昼飯でも一緒に食わんか?」
これは公開死刑といっても過言ではない。上田によって、俺は、この場で殺された。見知らぬ連中に四十歳迎えて、無職で独身、じいさんと二人暮らしの気の毒な境遇ということを明かされてしまった。黒い鳥の視線だけではなく、職員やら客やら、どうでもいい連中から、憐みとか蔑み、呆れ顔を頂戴することになった。俺はひっそりとしておきたいのに、なんで、下衆な見世物小屋の不具者のような扱いをされなくてはならないんだ!お前は優越感に浸って俺に餌をあげる気分でいるんだろうが、お前だって国に金をせびっている年金生活者じゃないか!似たようなもんだろ?上から目線で偉そうにすんな!怒りがこみ上げたが、ここで爆発させて上田を徳三のいる世界に連れて行ってもしょうがない。それに、上田が同じ消費者ならば、消費者同士の身分比べをしてはならない。それはルールなんだ。しかし、お前よりマシだって言いたくなるものだが、それを我慢できなくては優良な消費者になれない。しかし、昼間から郵便局にいるような連中はたいがい消費者で、俺みたいな優良なのはいない。だから、俺を見下した視線を向ける。しかし、俺は反論できる材料を持ち合わせていない。確かに上田が言うとおりなのだ。俺は何にも生産していない。他にもそんなやつは山ほどいるのだが、事実には変わりない。
「急ぎますんで、失礼します。」
屈辱で顔が真っ赤になっていたと思うが、ここでキレても周りは「やっぱり無職の人はダメなんだな。」となるに違いなく、泣き寝入りするしか思いつかなかった。しかし、腹の虫が収まらない。上田をダメ人間ワールドに引きずり込む必要がある。必死に何か思い出そうとする、そこでひらめいた。徳三じいさんから聞いた上田の弱みをここで披露しよう。
「上田さん、そういえばホステスに入れ込んで横領した丸菱商事のお金、四千五百万はもう返済終わりました?退職金から充てたって聞いてましたが、それでも足らなかったでしょう?年金でまだ払っているんですか?息子さんが引き継いでいるんですか?それともお孫さん?とにかく執行猶予で済ませてもらってよかったですね。」
上田の顔がみるみる蒼くなった。それから信号機みたいに真っ赤に急変。唇震わせて脳溢血で泡吹いて死ぬんじゃないのかと思ったが、目に怒りの色を浮かべ大声で反論する。
「何を言っとるんだ!馬鹿言うな!あれは横領じゃない。恵子は気の毒な女だった。お金が必要だったんよ。わしは会社の金を黙って借りただけじゃ。ちゃんと返しよるわい。いらんこと言いよったらぶち殺すぞ!」
上田が無駄にプライドを持ち出してくれたおかげで形勢逆転した。ダメな老人と、そいつから言いがかりをつけられる気弱な無職の男。ダメな老人が必要以上にヒートしてくれたおかげで、周りの連中は見て見ぬふりのオンパレードとなった。視線が絡まることが無くなれば、そっと生きることができる。ようやく籠からだしてもらった蝶のように、多少傷ついたので捕まる前と同じようにとは行かないが、世界に飛び立つことが出来た。
「上田さん、ぶち殺すとは行儀が悪いですね。祖父にはよく言っておきます。なんか、郵便局で見苦しく騒いでいたってことを。じゃーな、うまくそじじい。」
最後は言うだけ言って郵便局を飛び出した。外の光は眩しかったが、入る前と比べて、その光はずいぶん柔らかく感じられた。黒い鳥の視線は相変らず感じていたが、気分が良かった。足取り軽く、あまり人がいない通りを歩いた。
どうでもいいことかもしれないが、みんな気が付いていたか?これは地方だけの事なのかもしれないが、最近、歩いている人間が少ないように思う。日の光を浴びて、二本の足で大地を踏みしめて進む人間って減ったよな。いや、確かにいるよ、キャップとタイツみたいなズボンはいて、シャツもタイツみたいで、ヘッドホンつけて走っている連中はいるよ。でも、それって、生活感が無いよな。生きる為に仕方なく歩くって悲壮感が無くて、無駄に体力を消費するだけの運動をしている。そのことが少し恥ずかしいのかサングラスして、匿名性を大事にしている連中。昼間から結構見るけど、なんか、俺も消費者なんだけど、ああいった、余裕のある消費者って、殺してやりたくなる。それに、やっぱりタイツ着込んで無駄に早い自転車を車道で飛ばしている連中も、匿名でありながら、周囲から見てほしいような、自意識過剰の気持ち悪い連中で、おなじく殺してやりたくなる。あれなら上田の方がましだ。
俺は五日市駅に向かって歩いていた。この町のメインである通称コイン通りには人は歩いてないが、車がひっきりなしに走っていて、みんな時間とガソリンを無駄に消費している。たぶん、どこかに行く必要があるわけではない。どちらかといえば、動く必要が無い。必要なのは、動いている必要があるフリが必要なのだ。
通りに並んだ商店は、半分ぐらいシャッターが閉まって、たまに古い建物が壊されて歯が抜けたように更地になっていて、そこだけが太陽に照らされた白い土が眩しかった。そのうちコンビニが立って、広めの駐車場として利用されるのだろう。コンビニは商店街にとっては天敵だと思う。食料品店、酒屋、煙草屋、雑貨屋、本屋、弁当屋、宅配取次店、銀行、思いつくだけで八個の店が、コンビニという化け物に飲み込まれてしまうんだ。そりゃ、便利かもしれないけど、八店舗にいた事業主や従業員は皆殺しだ。そんな便利な化け物、気が付くとどんどん増えている。セブンイレブン、ローソン、ファミリーマート、ポプラ、サンクス。ブランドを持った消費をあおる化け物がいたるところに立っていく。いや、占領されているのかもしれない。そのうちコンビニ同士が食い合いを始める。いや、もう始まっている。
消費者にとっては便利になって嬉しいってことになっているが、本当にそうだろうか?消費者団でもこのことは議題に上るが、意見が割れる。団長の俺としては、消費が限定されて良くないと意見を出すが、他のメンバーたちは、消費することが目的であって、それが手軽で、便利で、質も高いのであれば、歓迎すべきだと主張する。これは、消費者団にとって今後の重要課題となるに違いない。
そういえば、コイン通りの端ではレンガ造りの立派な造幣局があって、そこでは一円玉や五円玉を毎日生産しているらしい。もし、この町に小さいころから住んでいれば、小学校の社会見学で見ることが出来たかもしれないが、今見に行こうとすれば、すぐに黒い鳥に見つめられてしまう。消費の引換券であるお金が作られる様子ってのは本当に見てみたいのだが、その機会には今のところ恵まれてない。消費者団で見学を申請したが、諸事情により断られたとメンバーから報告を受けている。もしかしたら申請なんてしてないのかもしれないが、メンバーの行動については詮索はしない。知りたくも無い。
腹が減ってきたので、通りにある飲食店を目で追ってみた。ファミレス、定食屋、ハンバーガー、ラーメン、牛丼、回転すし。どれもこれも全国チェーン店ばかり。たまには変わったものが食いたいと思っても、マーケティングは許してくれない。指標に沿ったもので我々消費者の好みが規定されている。お好み焼きでさえ、広島のみのチェーン店が増えてしまった。チェーン店は、確かに、思わぬ外れはないだろうけど、あまりにも味気ない。もしかしたら消費者なんてものは・・いや、そんなことは無い。消費者こそが王様である。昭和の時代から、「お客様は神様です。」ってミナミハルオもアジっていた。もっと飲食チェーン店は消費者のために頑張るべきだ。
お金があると消費者は水を得た魚になる。金さえあれば店員、いや、それどころか見知らぬ人とコミュニケーションが簡単に取れる。お金、最高。
そんなお金が手に入ったので閉経マダムが集う小洒落た創作フレンチレストラン「ムルソー」で二千五百円のランチでも召し上がりながら、金持ちの会話に耳を傾けてみようと思ったが、店の前を通りかかると「準備中」の札が掲げてある。時計を見ると午後三時なので、ディナーに向けて準備中もありうる話なのだが、二度と行くか!って消費者である俺は思うんだ。消費者である俺が食いたいときに店を開けてないなんて、信じられない。傲慢もいいところだ。殿様商売しやがって!フランス国旗がはためく白く塗られた店先の壁を睨み付けて心の中で悪態ツイートしてみた。でも、この店の前菜、メイン共に絶品だ。特にチーズと子牛が使われたもの。たまに行くが、店員も愛想がよく、店内も雰囲気がいい。実のところ文句の付け所はない。
しかし、六時まで待つわけにはいかない。仕方なく三件先の牛丼竹の屋に入る。勢いのある「いらっしゃいませ!」を聞いて、一番近い席に座って、すかさず「牛丼並、生卵」とだけ機械的に単語を並べた。「かしこまりました。ご注文を繰り返します。牛丼並と生卵ですね!」若い頃の加山雄三に似たイケメン店員がマニュアルどおりに繰り返す。寸分たがわぬ忠実さに、彼はもしかして黒い鳥に監視され、それを必要以上に恐れているのではないかと勘繰ってしまった。
さすがにこの時間だと客なんて数人しかいない。昼飯が遅くなった印象に残らないサラリーマンがカウンターに、暇そうな大学生が二人がテーブル席にいただけだった。カウンターのサラリーマンは無言で並みの牛丼をかきこんでいたが、紅しょうがの量が尋常でなく、遠目から見ると紅しょうが丼を食べているようにも見えた。それに七味もしょっちゅうかけている。あれは味覚障害にでもなっているに違いない。味がわからない男が真っ赤な丼飯を箸をかんかん言わせながら、かなりのハイペースで消費している。見ているだけで喉に砂を押し込まれたような苦しさを感じる。こういった手負いの状態で逃げ場の無い路地裏に追い詰められた犬のような消費者を見るとウンザリしてくる。あれは「キャウン」と鳴くのだろうか?それとも咳き込みでもするのか。
突然、「ごへえ」嗚咽と共にのけぞったサラリーマンの口から赤と白のしぶきが噴出した。カウンターの中の紙の帽子をかぶったイケメン店員は目を丸くして手の平をかざした。俺も余りにも注視したので、その様子がスローモーションのようにゆっくりはっきり見えた。イケメン店員は涙目のサラリーマンが顔を歪めて吐き出された紅しょうが飯の顔面シャワーをもろに受けた。声にならない悲鳴が表情から見て取れた。床に敗北者のようにへたり込む店員、蟻の大群に全身たかられたように、恐怖と嫌悪感に引きつった顔で振りかかった汚物を狂ったように手で振り払い、なんとか精巧に作られた笑顔の店員フィギアに戻ろうとする。が、一度剥ぎ取られたサービス提供者の仮面は衝撃により落ちた皿のように見事に砕け、その中に潜む店員の人間としての表情を剥き出しにした。確かに怒りに満ちている、確かに屈辱を受けている。やりきれない思いを抱えている。しかし、どこかで理性的に、模範生でいようとしている。目を光らせ、生き生きとして、立ち上がろうとしている。俺はその様子に正直、興奮した。奴はやり場の無い感情を、暴力に変換し、その矛先をしょうがをぶちまけたサラリーマンに向けるはずだ。この場面を閲覧消費できることに感謝した。剥き出しの劇場はストリップだけではないのだ。身を乗り出してカウンターテーブルから生産者の現場に捻り込もうとする。すごく見たい。本物を見たい。みんな、分るだろう?通りで事故があれば野次馬になるだろう?日常にはない剥き出し劇場が見たいだろう?さっきまでの鬱積とした気持ちが晴れるギラギラとした裂け目を見つけたような気になったんだ。
「お客様、大丈夫でございますか!」
その時だった。奥のほうから九十年代初頭のF1のスピード感で紙の帽子を被った温和な表情の顔も体も石塚似の男がステンレスで出来た厨房施設のシケインを駆け抜けてきた。その勢いで俺は顔に風圧を感じた。
「わたくし、店長の黒川と申します。お客様、大丈夫でございますか?佐々木君、君も驚きすぎだよ。さあ、立って、片付けて。」
イケメン店員の佐々木君は一瞬、目を見開き、場の空気を読んでしまった。あの、生々しい目つきは変質した。結局、屈辱に潤み、諦めの色を湛えた。石塚に似た黒川店長は泣いたような卑屈な笑顔を見せていたが、目だけは殺人者だった。古いイケメン佐々木君は見事にその目つきで問答無用にメッタ刺しされた。店長のお客様絶対主義的な対応は、どうせ黒い鳥の仕業だろうし、何事も無かったように、済んだことに収めようとする、消費者的気分によって世界のいたるところで作られた「不毛なる力」に、やりようの無い絶望的な気分になる。なんで判ってくれないんだろう?黒い鳥は消費者にとって、あるとき、やりすぎになるんだ。普段は、消費者側に立ってくれているからいいけど、ここまでくると、もう、息苦しいおせっかいにしか思えない。
はずれくじをつかまされた気分で、何の変哲も無い牛丼をテーブルに卵の白身が落ちないようにとか、紅しょうがを散らさない等、ミスが無いように牛丼屋の様式美に沿って平らげていく。消費には行儀よく生産者側の意図に触れるような取り組み方がある。そのベストな方法には様式美が宿り、それを実行することによって、消費する充実感、自己満足、社会とのかかわりを強く感じることが出来る。そうやって消費すると、生産者の思いが、味が深く全身に染み渡る・・はずだったが、期待にそった味わいを感じたことは無かった。正直、あんまり美味しくない。もう、この味にはとっくに飽きていた。仕方のない消費、確かに三百二十円の価値しかなかった。しかし、空腹は満たされ、活動するためのカロリーは十分に摂取された。あとは、この得たエネルギーを、どうやって消費させるかだった。
店を出るとバス停に滑り込んできた馴染みのある赤い線の入った路線バスに乗り込み、ガラガラの座席から一番近い窓際に座り込み、午後の街並みを流して眺めた。床下のジーゼルエンジンが唸ると供に、さっきまでいた竹の屋の黄色い看板が遠いかなたに消えていく。青空の下、じっと小さくなる看板を見つめていると、その看板の文字の意味が遠くの国で行っている戦争のように印象がぼやけてくる。バスに乗っている間、ひんやりした窓ガラスに額を押し付けて頭を冷やした。吐き出される息でガラスは少し曇ったが、その方が自分にとってありがたい風景に見えた。消費者に徹することによって、自分は世界と深く関わろうと考えていたが、どうも、正直、しっくりこない。徳三の死も、それに拍車をかけたような気がする。ただ疎外感だけが、半端なく巨大に育っている。その疎外感は黒い鳥におびえ、腹を空かせている。今だって、食べたばかりで牛肉と生姜の臭いが喉の頭らへんまで満たしているが、ジグソーパズルの数ピースを紛失したみたいに、永遠に満たされないような喪失感を始終抱えているし、窓ガラスから黒い鳥が狙っているのではと勘繰ったりして、精神が勝手に消耗戦に突入している。
くたびれた精神を癒すとすれば、そこには女神の存在が必要となる。白い肌に体を埋め、首や胸元に吹き付けられた安めの香水を胸いっぱいに吸い込み、欲望に赴くままに相手を蹂躙する。死んだ祖父の年金を支給日に受け取り、昼間から風俗に行くのだ。風俗街には黒い鳥が多く生息するが、そのほとんどが片目を潰している。生活保護支給日にも風俗に行く。国からせしめた金をバックグラウンドにダークなストーリーを持つ女のために一肌脱いで、ついでに抜くのだ。そうしている間だけは、不足の事態に陥ってもチェンジなしで対応できるし、いや、それどころか、地雷相手でさえ心から紳士的になれる。俺は風俗では博愛的に一時の女性にありったけの愛情を注ぐことが出来る。優良な消費者として振舞える。牛丼のカロリーを消費する必要もあったからね。
(風俗店での様子は言論のみでもユーチューブでは削除されてしまう可能性があるので、省きます。ユーチューブ利用者であり、私的報告の生産者であるから、厳重にルールを守ることにします。)
そんなことを考えながらバスに乗って、行き先の繁華街入り口のバス停まで死んだ徳三じいさんのことはすっかり忘れていた。その後、お店でプレイしているときも、やはり徳三の死体なんて思い出すことなんてなかった。思い出したのは、風俗店を出てから立ち飲み屋に入って、はじめのビールを飲みながら仕切りの入ったステンレスのおでん鍋に浮かんだ、煮込まれすぎて色が黒ずんだ縮んだちくわが目に入ったときだった。琥珀色したつゆから透明な湯気が浮かび、熱さに耐えてちくわはじっとしていた。部屋の徳三は季節外れのクーラーの冷気を硬直した体で耐えているのだろうかと思うと、やはり、徳三に対して申し訳ない気持ちになった。この気持ちは、隠すことなく、この場で述べようと思う。
焼酎水割りを目の前にして、私は、確かに、罪悪感を持っていました。
薄暗い店内には、俺以外には客がいなかった。店主の七十近いだろう赤ら顔のばあさんは無愛想で、誰が食べるのか行き先不明な酒の肴を調理しながら埃をかぶったブラウン管テレビに映る野球中継をじっと見ていた。この薄紫の割烹着を着たばあさんは、毎回、つまらなそうな顔して、野球中継を見ている。いや、もしかしたら、儀礼的にテレビをつけて野球中継のチャンネルにして、本当は、シリアの情勢とか地球温暖化なんかの、そこらへんの個人が考えても仕方の無いことを憂鬱に答えを避けるように考えているだけなのかもしれない。その上、まったくの無駄を知らないうちに反復している可能性が大いにありうる。面倒くさそうだが、いつも少しだけ話しかけたい衝動に駆られたが、何を話してよいものやら分からなかったし、単純に天気や何度も使用された擦り切れたカープの話題を出されるとウンザリしそうだったので、いつものように縮まることのない一定の距離をあけることにした。
見えない予防線が張られたせせこましい茶色ばかりの店内、カウンターにひじを突っ立てて頬杖をついている。カウンターの上、爪楊枝入れの透明なカバーが不潔に濁っている。七味の瓶だって油と埃で出来た垢にまみれている。切符があれば終着駅だと勘違いしそうな薄暗い店の中、あおる焼酎はこめかみを痛めつけて思考能力を半減させ、精神の自由を手に入れることが出来た。そうなってくると、じいさんのことで悩む必要も無いように感じてきた。たしかに、逃げたことは間違いかもしれないが、決して悪いことではない。選択技の一つに過ぎなかっただけだ。と、また逃げてみる。
それより、これから、何処に帰ればいい?あのアパート、二階のすすけた赤い扉、その向こう側に眠るじいさん。あれは、隣は俺の名義で入っている部屋だから、別に帰っても問題ないはずだ。しかし、扉を開けると濃紺の夜がすっかり色を奪ってしまい、部屋の中は死に絶えたようにひっそりしているはずだ。夜によって死体は存在感を増して、壁の向こうから黒い鳥の力を借りずに、俺を圧倒している。そんな場所で眠れるのだろうか?悩んでみたが、答えは初めから当たり前のように出ていた。もう、家に帰ることはないだろう。あの扉を閉めた瞬間から、これまでの生活を消費したことになったのだ。今まで何度も読んだ「十四歳」「わたしは真悟」「ジョジョ」の第三部まで「ドラゴンボール」いましろたかしの傑作選などのマンガ類は、もう、ページをめくることはないだろう。スタンリーキューブリックの「博士の異常な愛情」「2001年宇宙の旅」「シャイニング」を眠りながら見ることはないだろう。六十年代から九十年代にかけてのザ・フーから出発してキングクリムゾンに立ち寄り、イエス、ピンクフロイドのプログレに染まり、ついでにセックスピストルズ経由で、なぜかたどり着いたオアシス、ブラーまでの英国ロックミュージックを正座して聞くことはもうないだろう。いままで読んだもの、見たもの、聞いたものはしっかりと記憶の中に刷り込まれている。読み終えた本や聞き終えた音楽は、すでに俺によって消費されているのである。あれは空箱、あれは食いカス。考えてみれば、そんな消費されたものを並べ、眺め、宝物のように扱ってきたのである。いや、縋ってきたのかもしれない。人が作ったものに頼ったふりをして、食い散らかしていただけなのかもしれない。まあ、兎に角、捨てる覚悟は出来た。消費したものに捕らわれてはいけない。消費されたものはゴミなのだ。ゴミにまみれて生きていては、窒息する。消費者は強靭な意志で消費し続けなければならない。じゃないと、その存在意義を見出すことが出来ない。
ここで第一部を終わりとする。この声を聴いてくれた方に感謝するとともに、俺がしたこと、いや、これからすることなのだが、そのことについて、一定の理解をお願いしたい。それと、じいさんが死んだことは単なる寿命であり、事件ではない。これは警察諸君に宣言したい。俺は死体を見捨てたかもしれないが、遺体遺棄はしてない。べつに犯罪に手を染めているわけではない。罪状にこのことが付け加えられたら、甚だ遺憾である。この証言が証拠になるはずだ。それと、俺は狂っていない。精神鑑定は必要ない。そのために経緯を話したつもりだ。第二部に続く。シーユーネクストタイム。
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