第40話 結心さんの恋の行方

文字数 2,989文字

 夕方、帰りにパンを買いに結心さんのお店に寄って、講習会とレッスンの話が(まと)まったことを天野さんに伝えて欲しいとお願いした。
「結心さん、今日はデートあるの?」と小声で聞いたら、
「昨日したから、今日はお休みよ」と寂しそうに答えた。
「よかったら、連続だけど、うちに来ない? 色々と話したいことあるの。……急がないけど」
「いいよ、うちでご飯食べてから行く。天野さんには、電話しとくよ」
「うん、じゃ、あとでね」
 私は、パンの袋を抱えて、家に帰った。

 先日の踏み込み過ぎ発言で結心さんに涙を流させてしまったので、そのことを謝りたかったし、その後も気になったのだ。
 昨日、学校に天野さんと一緒に来てくれたとき、いつもどおりだったので心配はしていなかったが、それでもやはり謝りたかった。
 結心さんが来るまでに、服を着替えてから、食事と後片付けも済ませておいた。

 結心さんが、一人でやってきた。

「ごめんなさいね。最近、貴方を引っ張り回してばかりで、申し訳ないわ」
「ううん、大丈夫よ。母が『最近は忙しいなぁ』と言ってたけど、『若いから大丈夫』って言ったら笑ってた」
「あはは、お母さんよりは若いものねぇ」
「そうそう、ふふふ」
 結心さんは屈託なく笑った。

「本当に、この前は、ごめんなさいね。勝手に深入りしてしまって。昨日も謝ったけど、結心さんに直接謝りたかったの」
「大丈夫だよ」
「だって、結心さん涙出てたもの。言っちゃいけないことを言ってしまったと焦った」
「彼も、帰りに『嫌な思いをさせたね』って言ってくれたけど、覚悟してたことだから。でも、直接聞くと少しね」
「そうだよね。それが気になってたの」
「もう平気。それよりも、彼が1つ約束するって言ってくれたこと、私を大事に思ってくれてると嬉しかったよ」

「正直言うとね、貴方たちがもう長い付き合いの恋人みたいに見えて、既にかなり深い関係じゃないかと想像してたの」
「あはは、彼、私を凄く大事にしてくれているから、本当に手を繋ぐだけだったのよ? 詩織さんのあの発言は過激だった」
 と結心さんが笑う。
「だって、彼が求めたら処女を捧げるって言ってたじゃない」
「だから、まだ求められてないって」

「今、『手を繋ぐだけだった』って、過去形じゃなかった?」
「もう、細かいところに気が付くなぁ」
「そりゃ、こういう話は聞き逃したりしません!」
「う~ん、……」
 結心さんは笑いながら、きっとどこまで喋っていいかを考えているのだろう。

「彼に叱られない程度でいいよ、プライバシーだから」
 と言いながらも、私は身を乗り出す。
「ちょ、ちょっと落ち着いて! そんな大したことじゃないよ」
「でも聞きたい」

「あの日の帰り、外へ出てから、彼が私の手をとって自分の腕に絡ませてくれた」
「わぁ! ……って、いつも手を握ってるくらいなんだから、珍しくない」
「ううん、ああして腕を組ませて貰ったこと、まだ無かったから、嬉しかった」

「ウブなんだねぇ、この高校生め!」
 私が(はや)してやる。
「えへへ、でも、これが案外楽しいのよ。恋愛に年齢は関係ないの」
 彼女は恋愛の先輩だから有難く拝聴しておく。
「エレベーターの前で待ってるときに、前を向いたまま『今夜は、……』って、言ったときにエレベータが着いたから彼は黙ってしまったんよ」

「え? なになに? 気になるじゃない?」
 野次馬の私。
「私も、『なぁに?』と言って彼を見たけど、彼が前を向いたまま黙ってるから、私も黙って彼の腕をぎゅっと引き寄せた」
「わぁ~! 熱いなぁ! いいなぁ!」
 私は、それだけでドキドキする。

「『もう少し一緒にいたいのだけど、時間は大丈夫?』って聞かれたから、『うん! シンデレラタイムまで』って答えた」
「この前の私のセリフを聞いてたのね?」
 思わず笑ってしまった。
「それで、なんとなく市内をドライブしてたら岡山ドームの辺りにきたから中に入った」
「へぇ~。夜に入れるの?」
「駐車場というか道路だから、大丈夫みたいだったよ」
「それで?」

「広いところで、車が止まった」
「うんうん」
 私はまた身を乗り出した。
「彼が車から降りたから、私も車から降りて傍に行ったんよ。そしたら、彼が両手を広げて、おいでって言ったように思った」
「お~!」
 思わず興奮する私。――私が興奮してどうするのよ?

「思わず反射的に彼の胸に飛び込んでたんよ。……彼がぎゅ~って抱き締めてくれた」
「おお~! それ初めてのぎゅ~?」
「うん! 私、頭の中が真っ白になってしもた。嬉しくて、涙が出てきた」

「え~? それだけで、涙が出るものなの?」
「詩織さんのところで私が涙ぐんでいたのを、彼も分かってたみたいで、『今夜は、ぎゅ~っと抱きしめたいと思ってた』って」
「エレベータの前で、それを言おうとしてたの?」
「そうだったみたい」
 結心さんは、にこにこしながら話してくれた。
「よかったねぇ」
 私の過激発言が、結果的に二人の関係を前に進めたのね。
 じゃ、良かったんじゃない? と反省しない私。

「ぎゅ~っと抱きしめられて、彼の胸に顔を埋めて目を(つむ)っていたら、幸せで幸せで、もう何も考えられなかった。気が付いたら、脚の力も抜けてしまって、一人では立っていられなかったの。彼の背中に手を回して、私もぎゅ~って、抱きしめていたわ」
「…………」
 私は無言で目を瞑って、その場面を想像した。素敵! ――恋人っていいなぁ。
「…………」
 結心さんも、思い出したのか、頬を少し赤くして黙ってしまった。

「こら! 思い出に耽るな」
 結心さんの目を覚ます鬼の私。

「ああして抱きしめられていると、愛されているんだって実感が泉のように湧いてくるの。もう、あのときは、このままずっと抱きしめられていたいと思ったんよ。本当に、何も話をする必要がないし、安心感のような充実感に満たされて、何も考えられない。今のままでいいって。だから身体の力が全部抜けたようになってしまった」
「…………」
 私は何も言えない。だって、経験ないのだもの。
「幸せを感じるときって、これからもたくさんあると思うのだけど、あの時はあの幸せな瞬間がずっと続いてくれたら良かった。そして、今、思い出しても、幸せを感じているの。私は、大好きな人に愛されているんだって思えるの。あの日は、ああして抱きしめられて幸せを貰ったの」
 結心さんは、幸せオーラを出しっ放しだった。

 恋をするって、こういうことなんだと思い知らされた。私もこういう恋をしてみたい。
 今まで、男なんて興味ないって思ってたけれど、恋ってこんな幸せな気持ちになれるんだ。相手が既婚者だったとしても、幸せになれるんだ。
 それは、私が余分な望みを持ちさえしなければ、そしてそう思える男性に巡り合えたら、幸せが得られるのかも知れない。
 どうせ、結婚したとしても、いずれ愛は冷めていくかも知れないのだから、今得られる幸せがあるのなら手にすればいい。
 
「それから、……見つめ合って……キスしたの?」
 野暮な私は聞いた。
「ううん、そこまでで、お仕舞いよ」と結心さん。
「え~? それはないでしょ?」私が残念がる。
「あのねぇ、大人はガツガツしないの。ドキドキする楽しみを、当分楽しまなくっちゃね」
 結心さんがウインクした。

 この二人、思いのほか健全なお付き合いなのだ。私の想像のほうが、ちょっと危ないのかも知れない。
 
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登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

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