ご近所づきあい 2

文字数 3,875文字

 地下鉄の駅を出て自宅のあるマンションに向かう。と言っても徒歩二分程度。一つ目の交差点まで歩き、大きな道路を渡った角が自宅。そこは飲み屋街の入り口でもある。飲食店の中はどこもそれなりにお客が入っている。空調を入れるほどでもない時期だからなのか、感染対策なのか、どの店も扉や窓を開け放している。
 今日は仕事が長引いて遅くなった。日付が変わるまであと二時間ちょっとって時間。もう食事を作る気力はない。少しだけ遠回りをしてコンビニへ。お弁当コーナーは清掃中なのかと思うような状態。しょうがないので冷凍食品のチャーハンと唐揚げを買った。その辺の店で食べたほうが早いし値段もそう変わらない。それは分かっているけど嫌だ。この辺りの店ではまず、「お飲み物何にされますか?」と聞かれる。知っている限りこの辺りでは、ドーナツ屋以外の店全てでお酒を置いている。当然と言えば当然のこと。でも僕はお酒を飲まない。なのでそう聞かれて、食事だけですと答えるのにすごく抵抗がある。お酒飲まなくてごめんなさいと気を遣ってしまう。
 きれいなエントランスに入る。そしてまだ新品のような集合ポストの中を確認。こう言うと新築マンションのように聞こえるけど違う。半年前に大規模修繕工事が終わったばかりだからきれいなだけ。管理組合の規約によると、二十五年ごとに大規模修繕をすることになっている。今回は何と二回目で、修繕だけでなく改修も行われた。エントランスが全面的に作り替えられ、セキュリティーがアップ。それに伴って各戸の鍵とインターホンが取り換えられた。そしてゴトゴト言っていたエレベーターも取り換えられた。安心安心。でも追加で臨時修繕費も徴収された。ほとんどの住人は分譲賃貸で住んでいる方々。家賃も上がったのだろうかと他人事ながら考えてしまう。
 九階建てのこの建物の五階に僕の自宅はある。玄関を開けて入ろうとしたら隣の玄関が開いた。隣人を初めて見た。まだ三十歳にはなっていないだろうと思われる女性だった。妻の所にいる、もとい、元妻の所にいる娘より少し上だろうか。全く会わせてくれないので二十年は会っていない。会っていないけれど今何歳なのかはずっと頭にある。どんな姿になっていることやら。同じくらいの年齢の女性を見るといつも想像してしまう。やましい想像ではないですよ、決して。
「こんばんは」
とりあえず挨拶。するとこちらに数歩近寄りながら女性がこう言う。
「あのー、ステレオの音、もっと小さくしてくれないですか? 響いてくるんですけど」
挨拶の言葉はなしなのか。
「えっと、今もですか?」
そう聞くと、何言ってんのって顔で頷く女性。
「じゃあ僕じゃないですよ。僕、今帰ってきたとこなんで」
コンビニの袋を見せながらそう返す。あ、これは恥ずかしい行為だったかな? 今はマイバックなんてものを持って買い物に行くのが常識らしいから。店の袋持ってるなんて偉そうに見せるべきではなかったかも。
 女性は申し訳なさげな顔になり口を開く。
「あ、ごめんなさい、そちらの部屋の方からいつも聞こえるのでてっきり……。すみませんでした」
そしてさっさと部屋に戻ってしまう。

 玄関を入ってベランダ側のリビングまで来ると聞こえた。
「今夜は戦争映画かな?」
音の出どころは女性とは反対側の部屋。教えてやればよかったかな? 先週くらいから聞こえだした。おそらくステレオではなくホームシアターの音。性能のいいウーハーが付いているようで、心地いいくらいに響いてくる。今は、ドン、ドン、と言った感じの効果音までかすかに聞こえている。先週引っ越して来たのか、そういう機器を設置したのかまでは分からない。もう何年も、引っ越して来ましたとか、引っ越しますとかって挨拶に来る人がいないから。

 その翌日から、今まで何で顔を合わさなかったのかと思うくらい、隣の女性の顔を見るようになった。ま、挨拶する程度で会話にはならないけれど。
 数日あとの帰宅後、インターホンが部屋の中で鳴りだす。エントランスからだとメロディー、玄関前だとチャイム。チャイムの音だったのでインターホンを無視して玄関に行った。
「はい、こんばんは」
そう言って扉を開けると同年代の女性が立っている。
「下の部屋の者ですけど、お宅何されてるんですか?」
また挨拶の言葉なしでいきなり話し始められた。
「えっと、どういう事でしょう?」
「どうって、いつもうるさいんですよ。下まで響いてますよ」
「あ、すみません、そうでしたか。もっと足音気を付けて歩くようにします」
腹が立ってた? わけではないけど、とぼけてやった。ま、身に覚えがなければ妥当な返答だろう。
「足音? 違うわよ、テレビかなんかよ」
うわ、怒ってる。
「うち、テレビ置いてないんですけど」
「はあ? そんなうちあるわけないでしょ、とぼけないで」
ま、そう言われるだろな。
「ほんとですよ、なんなら部屋の中見てってください。見られて困るようなもの置いてないんでいいですよ」
そう言うとちょっと身を引く女性。熱も引いたかな?
「いやそんな、よその部屋に簡単に入れないわよ」
「いえいえ、遠慮なく」
こう言うとあやしいやつかな? なんだか面白くなってきた。
「ほんとにお宅じゃないんですね?」
「テレビの音ならうちじゃないですね」
かなりテンションの下がった女性が最後にこう言って帰って行った。
「そうですか、両隣も下の方も違うとおっしゃるから……。すみませんでした。おやすみなさい」
最後は挨拶してくれた。
 リビングに戻ると今日は、隣は静かだった。そう、隣は。ここは飲み屋街の真っただ中。酔っぱらいの大声に、カラオケの熱唱。防音サッシなんてついていない古いマンション。外からはバンバンうるさい音が聞こえてくる。何を今更って感じだ。

 翌日の夜、一階でエレベーターを待っていると、昨夜の下の方と一緒になった。一度縁が出来ると続くものなのか?
「昨夜はすみませんでした」
顔を合わすとそう言ってきた。
「こんばんは、いえ、いいですよ」
すると話し掛けてくる。
「テレビ、ほんとにないんですか?」
「ええ、地デジになった時に捨てました」
これは本当のこと。
「テレビ観ないんですか?」
「実はパソコンで観てます」
昨夜はテレビ観てないとは言ってないから嘘ではないよな。
「ああやっぱり、テレビ観ない人なんていないわよね」
感心はそっちだったか。
「まあ、でもパソコンの小さなスピーカーしか付けてないんで、ご迷惑かけるほどの音は出ないと思いますよ」
それなりの音響機器を揃えればかなりの音が出せるんだけど、そこまで言う必要は無いだろう。
「そうですか、ほんとにすみませんでした」
 その後、この方は顔を合わすたびに話しかけてくるようになった。

 そしてさらに数日経つと、会話するほどのものではないけど、顔を合わすと挨拶するくらいの住人がもう一人出来た。きっかけは同じ。上の階に住む男性、三十代後半くらいの方だった。一人になってここに住み始めて二十年くらい経つ。初めてのご近所づきあいだ、一応。

 近くのスーパーで買い物をして戻った日曜日のお昼頃。五階でエレベーターの扉が開くと、ドンドンと音が聞こえる。共用通路に出ると、うちの一軒奥の部屋の前に人だかりが。そこの玄関扉を誰かが叩いている。インターホンのボタンも連打で押されている。
「この部屋でした」
自宅の扉の前まで来ると、見知った同年代の女性がそう声を掛けてきた。
「そうですか」
そう答えて玄関を開ける。
「お宅、隣なのに平気なの?」
同じ声でそう言われた。僕は皆さんの方を見てこう言う。
「まあ、外もうるさいんでそんなに気にならないですから」
全員に見つめられてしまった。やめてよ、照れるじゃないか。でも全員呆れ顔だ。ご近所づきあいは終わったかも。

 リビングに入る前に聞こえた。昼間は外が静かなので良く聞こえる。あんなに玄関を叩かれ、チャイムを鳴らされているのに大したもんだ。惣菜コーナーで買った弁当を温めて食べる。リビングのテーブルを隣の壁の方に寄せて。
 セリフまで聞こえてくる。いつもより大音量だ。玄関前が騒がしいから音量を上げているのだろう。知っている映画だった。吹き替え版。まだ始まってそんなにたっていないシーンだ。
 その昔、世界中で大ヒットしたSFの名作。でも映画館では見ていない。中学生だった僕は、ノベライズか原作か知らないけれど、小説でまずその作品に触れた。少年と宇宙人が出会う話。宇宙的な生物学の権威であるその宇宙人が、地球の植物の調査に来た時、取り残される。そして出会った少年たちの協力で仲間と連絡を取り、迎えに来てもらう。そんな話。小説では多感な感性の持ち主である宇宙人の心の中が沢山描かれていた。少年の母親を見て、宇宙でも稀なほどの美しい人だと惚れてしまうところなんかはおかしかった。
 なのでレンタルビデオで初めてその映画を見た時は少しがっかり。そういう宇宙人の感情があまり描かれていなかったから。でも結局ビデオを買い、何度も観た。音や映像がおかしくなるまで観た。

 食べ終わるころ大音量で、有名なテーマ音楽が聞こえてきた。そして少年の歓声。一番有名なシーンだ。
 宇宙人を自転車の前カゴに乗せた少年が、初めて空を飛ぶシーン。美しい印象的な背景と共にはっきり覚えている。少年と宇宙人が指先を合わすシーンも有名だけど、こっちの方が上、だと思う。二回目に飛ぶときの背景は夕日だったかな? なんて、シーンを先取りして思い出す。
 ところで、この隣の人は会ったことないよなあ。


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