エピローグ

文字数 1,714文字


 それから。
 あたしは荷物を載せ、バスに乗り込んだ。
 急いで出発したが、追っ手はやってこなかった。
 日下さんから聞いた話によれば、朱矢の因習については警察も手が出せないが、それも黒露市市街地まで入ってしまえばもう追いかけることは出来ないのだという。
 裏を返せば、もう朱矢には立ち入ることは出来ない、ということだ。
 あたしはぼうっと、スマートフォンに映し出されるケーキの画像を見つめていた。

「……どうしたんだい、何かあの集落に未練でもあったかい?」
「……ケーキを食べさせてあげたかったんですよ」
「ケーキ?」

 日下さんは首を傾げる。

「ええ。そのケーキを、外に出たら食べさせてあげるって約束したんです。けれど、だめだった」
「悪いのはあんたじゃあないよ。悪いのは朱矢の神だ」

 はっきりと、日下さんは言い放った。

「朱矢の神には、あたしもずっと疑問を抱いていた。実は、朱矢の生け贄は女児だろうが男児だろうが関係ない。偶然選ばれるのさ。そして、その世代が洋平の世代で、それが偶然大類家だった。けれど、大類家の『生け贄』に選ばれた人間はそれを拒否し、代わりの人間を『生け贄』に捧げた。あたしもそれぐらいしか詳しい話を知らないけれど、いずれにせよ、朱矢の神はそれじゃあ物足りなかったってことなんだろうねえ」
「朱矢は……これからどうなると思いますか」
「分からないよ。いずれにせよ、日下家はもう朱矢に住んでいない。洋平が大学に行ったのを機に朱矢の物件を売り払って市街地に引っ越したからね」

 徐々に市街地の明かりが見えてくる。
 あたしはそれを見て、漸く日常へと帰還出来たのだと実感する。

「じゃあ、もう朱矢に戻ることは」
「無いね。未だに怖いと思ってしまうもの。だけれど、仕事だからねえ。この路線が廃止でもされない限りは続けていくつもりだよ」
「そうですか」

 そして、あたしたちの会話は駅に着くまで続いた。他愛も無い話だった。基本的には少年――洋平についての事ばかりだったけれど、それでも現実を想起させるようなことばかりで、一安心させてくれた。
 とはいえ、未だ痛みは残っている。小指を切り落とされた痛みは、少し引いたとはいえ、未だ歩くのは難しい。
 その日は日下さんの家に泊まることとなった。聞いた話によると旦那さんは仕事で帰ってこないのだという。だから一人暮らしなのも暇だから少しは話に付き合ってくれ、とのことだった。あたしは素直に応じた。明日は休みだったからか、酒を飲んで盛り上がった。
 次の日は病院に行った。指は切り落としてどこかに行ってしまった、とはぐらかすこととした。流石に因習で切り落とされたなんて言っても誰も信用してくれないだろうし、誰も理解してくれないだろう。
 結局医者には怒られたが治療はきちんとしてくれた。有難い医者だ。もしかしたら朱矢のことも知っていたかもしれない。だが、それは言わないでおいた。医者も医者だ。仕事でやっているのだから、それぐらい聞かずに仕事をこなすのが職業というものだろう。
 そうして、あたしは事務所のある東京へと帰るのだった。


 ◇◇◇


 さらに、未だ物語はちょっとだけ続くのだが。

「洋平、ねねさんにあたしが行くのを伝えたのは何故だ?」

 事務所で仕事をしている洋平に声をかけた。
 洋平は頷いた後、

「それなら簡単ですよ。夏乃さん、いつも手際は良いけれど、最後で失敗しちゃいますからね。だから助け船を用意したんです。どうでした? 成功しました?」

 それを聞いたあたしはふん、と鼻を鳴らして、

「大成功だったよ、確かにね」

 そしてあたしは思い出したかのように立ち上がると外へ出て行った。

「な、夏乃さん? いったいどちらへ?」
「ちょいと野暮用だ、直ぐ帰ってくる」

 今日は冠天堂に行かなくてはならない。
 三人分のゆるふわロールケーキを購入してこなくてはならない。
 え? 一人多いんじゃあないか、って?
 いいや、そんなことはない。
 最後の一つは――最後まで朱矢を出ることが許されなかった亜貴の分なのだから。
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