第4話 白髪の人の前では起立しなければならない?

文字数 5,770文字

 町の小広場と呼ばれる場所は、愛心が思っていたよりもずっと狭く、遊具のない公園くらいの大きさだった。広場は小さな丘のふもとにあり、丘、というよりも崖といった方が正しい、を背にして小さなステージの様な物があった。そのステージの上には白い刺繍の施された青い幟が立てられ、その横で白いローブを着た初老の男性が行き交う人に呼びかけをしていた。老人の前には折り畳みテーブルがあり、その上には大きな本とインク壺が置かれている。
 
 「さあさあ、ワシがカーナの町にいるのは今日で最後だ。知識だ、知識を売らんかね、普通の話は銅貨一枚、珍しい話は銀貨一枚、とびきりの知識には金貨一枚を払うぞ。誰かいないか」

 老人の声に、しかし広場を行き交う人はほとんど誰も注意を向けない。親切なおばさんは一週間前から町に来ていたと言っていた。さすがに七日も経てば売れる知識もなくなるのだろう。時計がないので時刻はわからなかったが、太陽の具合から今は三時前後だと思われた。老人は同じ呼びかけをもう一度繰り返した後、誰も知識を売りにこない事に失望したらしく横に立ててあった幟に手を伸ばす。老人は幟を掴むとそのまま持ち上げた。竿の部分と土台になっていた脚の部分が分離する。

 (あ、まずい帰ろうとしている)

 愛心はとっさに駆け出し、老人の前に立った。

 「まってください! 私に知識を教えてください」
 「ん? けったいな格好をした娘子じゃな」

 老人は幟を片付けようとした手を止め、愛心に興味を示した。歳の頃は六十代くらいだろうか。髪の毛は真っ白でだいぶ薄くなっていたが、穏やかそうな面持ちとすっとのびた背が品性を感じさせた。

 「君は知識を教えてくれといったのかな」
 「そうです。私、教えてほしいことがあるんです」
 「ふむふむ」

 珍しい動物を見ように、老人は愛心のことを頭のてっぺんからつま先まで観察し、今度はつま先からゆっくりと上に視線を戻し腰の辺りで動きを止めた。

 「ちょっと、どこを見てるんですか」
 「そのスカート、珍しい形状をしておるな。ひだがヒラヒラしておる。そんな手間のかかる服、ここらの人間は着とらんからの。お前さんどこからきなさった?」
 「私は、日本から来ました」
 「ニッポン、はて?」

 老人はしばらく考え込んでから、机に置いてあった大きな本をペラペラと捲る。

 「ふむ、それはニーボムのことかな?」

 愛心の聞いたことのない地名だ。

 「えっと、日本は東にあって、島国で富士山と四季があります」
 「四季はどこにでもあるじゃろ。ふむ、じゃがニーボムとは違うの。あそこは内陸にある砂漠の土地で海などないからの」
 「じゃあ、ジャパンはどうですか?」
 「残念じゃがニッポンという土地はしらん」
 「いえ、ジャパンなんですが……」
 「ふむ、娘子よ、おぬし少し疲れておるのか言葉が不自由なのかの。ニッポンという土地をワシは知らんよ」
 
 ここに来て愛心は一つの問題に気がついた。愛心とこの世界の住人は言葉で意思疎通ができる。だが、どうやら何かの不思議な力が勝手に通訳をしているようだった。その為か、愛心が日本とジャパンを使い分けても目の前の老人にはニーボム的な発音にしか聞こえないらしい。

 「じゃあ、タイムスリップとかワープとか知りませんか?」

 老人は再び困惑する。

 「すまんの。おぬしの言葉が良く聞き取れないんじゃ。わしも歳じゃからかの」
 「えっと、過去に戻る方法とか、遠くの場所に一瞬で移動する方法をしりませんか」
 「そんな知識、ワシの方が知りたいのお」

 今度は通じたが、結果は先ほどと大差なかった。

 「じゃあ、アメリカはどうですか?」

 愛心は昨晩みた岩のような金属に書かれていた文字を思い出した。少なくともこの世界アメリカのコロラド州で作られた何かが存在している。それは愛心にとって自分の世界とこの世界を繋ぐ細い最後の糸だった。

 「ほう」

 老人は急に背筋を伸ばし目を細めて愛心の顔を見た。

 「その名前をよく知っておるな。アメリカは神々が黒き海を渡ってこの世界に辿り着く前に暮らしていた地域の名前と言われている。神話の世界の話じゃな」

 愛心の希望は繋がった。この世界には愛心の世界に繋がる何かは確実に存在する。

 「黒き海、この世界に辿り着く、それって宇宙の事でしょうか? アメリカがあるのなら、日本もアメリカと同じ地球に」
 「待ちなさい」

 次の質問をしようとした愛心に老人が言葉を被せた。

 「ワシは知識神にお仕えする神官じゃ。知識神の神官から知識を授かるなら、あれが必要じゃて」
 「あれ?」
 「お金じゃよ、お金。ワシの持つ大いなる知識がまさか無料というわけにはいくまい」

 その言葉に愛心は愕然とした。

 「私、困っているんです。神様に仕えるなら困っている人は助けるものなんじゃないですか」
 「いいや。物事には何事も対価が必要じゃ。何か困っているようだから、最初の質問には無料で答えたが、これ以上先は有料じゃよ知識を安売りしたらワシが知識神様に怒られてしまう。ほれ、まずは代金じゃ」

 そういって老人は皺だらけの手を差し出した。

 「お金、持っていません」
 「なんと、文無しで知識をたかりにきたのか。まったくこれだから近頃の若い者は……」

 老人は大げさに溜め息をつくと立てかけていた幟を片付け始めた。

 「ちょっと待ってください」
 「娘子よ、ワシは忙しいんじゃ」

 老人は愛心の方を見向きもせず、幟の竿を折り畳む。

 「……じゃあ、まず私の知識を買ってくれませんか」
 「ふむ?」

 老人は幟を畳む手を止め愛心を疑いと好奇心の入り交じった目でじっと見つめた。

 「して、娘子はどんな知識を売るつもりなのじゃ?」
 「それは……たくさんありますよ?」

 そう言って愛心は言葉に詰まる。中世ヨーロッパレベルの人間に愛心の持つ現代の知識が通じるとは思えなかった。とりあえず、知らなそうな事を片っ端から言ってみよう、愛心はそう決心した。

 「例えば、飛行機、いいえ空飛ぶ機械ってしっています?」
 「ほう、グライダーや凧の類いかな」

 (やった、通じた)

 愛心は心の中で勝利のポーズを取った。空飛ぶ機械で通じるのであれば、愛心の現代の知識は大いに生かせそうだ。愛心は胸を張った。

 「空飛ぶ機械、飛行機っていうんです。おじいさん知らないでしょ」
 「それで、それはどういう仕組みで空を飛び、どうやって作るのかね?」
 「え?」
 「機械というからには歯車などを組み合わせて作るのだろうが、その作り方は? どこに職人がいる? 大きさは? どれくらいの距離と高さを飛べるのかね」

 立て続けに繰り出される質問に愛心は黙ってしまう。

 「ふむ、ただの娘っ子の妄想なのじゃな……それは知識とは言えんよ」
 「でも、飛行機は本当にあって、人間は空を飛べるんですよ」
 「ワシは水の上を歩ける」
 「え?」

 突然の老人の言葉に愛心は再び言葉を詰まらせる。

 (しまった、ここが異世界なら魔法とか使えても不思議じゃないかも)

 だが老人の言葉は愛心の予想とは少し違うものだった。

 「もちろん、そんな事はできんよ。だれかが水の上を歩いたという話を聞いた事があっても方法は知らん。これはワシの求めている知識では無い。自分で再現できないのであれば、妄想なのか事実なのか判断ができんからな。ワシは世界各地を巡って多くの知識を集めておる。中には娘っ子のように空を飛ぶ知識を売りに来る者もいたが、誰一人として実現できなんだ。あ、いやグライダーは見事であったがな。アレは十階建ての塔から見事地面に着地してみせたわ。まあ両足首を骨折したのはご愛嬌というやつじゃ」
 「……」
 「とにかく、再現や実物を見せられない知識に金は払えん。再現といえば凧というものも面白かった。実際に人が乗って空を飛ぼうとしたが……」

 愛心は老人の長い話を聞き流しながら必死になって自分ができる知識を探した。スマホ、コンピューター、インターネット、それらは全部この世界の人には、いや愛心自身にとっても魔法の様なものだ。車、電車、これも再現できない。自転車なら、時間をかければ作れるかもしれない。でも今すぐ証明しろと言われても無理だ。テレビ、冷蔵庫、エアコン、家電もダメ。なら学校で習った事で使えることはないだろうか。理科とか数学とかの知識なら役に立つ筈だ。

 「私、三角形の面積を求められます」

 愛心は老人が解体していた幟の竿を一本、強引に借りると地面の上に三角形の図を書いた。

 「底辺が四、高さを二とすると、この三角形の面積は四です」
 「ふむ、基本的な幾何学じゃの。田舎の娘っ子が知っているのは珍しいが、大工なら知っているような知識じゃぞ」
 「じゃあ、球体の面積とか」
 「それも知っておる」
 「……水素と酸素で水ができます」
 「娘っ子は時々舌を使うのが下手になるの。人に何かを伝える時発音はしっかりとの」
 
 愛心は必死に頭を回転させたが出てくるのは中学校でならった理科や数学の知識ばかり。どうせ文系だからと理科系の勉強を真面目にやってこなかったツケが回ってきていた。
 押し黙った愛心を見て、老人は諦めたと思ったのか、銅貨を一枚愛心の手に握らせる。

 「よくわからんが、これはワシに話しかけてくれた礼じゃ。さあ、早くウチに帰りなさい」
 「私、家への帰り方が分からないんです。迷子なんです」
 「ふむ、そういう知識ならば、この町の人間に聞いた方がよいと思うぞ。ワシはつい先日この町に来たばかりで地理には不案内じゃからの」
 
 老人は子供をあやす様に、それでいて完全に愛心に興味を失ったらしく折りたたみ机と椅子を片付けそれをひとまとめにし始めた。
 愛心が見つけた現代への細い糸はあっさりと潰えようとしてた。

 「待ってください! 私、きっとおじいさんの知らない事を知っています。だらか私に質問してください」
 「とはいってもの、何か証拠がなければな。そうじゃ、おぬしの着ているその服は珍しいの。それを見せてくれぬか」
 「別に、構いませんけれど」
 「ほうほう」

 老人は嬉しそうに手を伸ばし愛心の服を触ろうとした。老人は単に珍しい繊維への好奇心からだったのだが、ちょうど愛心の胸元にあったベストの校章を撫でた。

 「きゃあ、何をするんですか!」

 愛心はショルダバッグで老人を追い払う。

 「なんと、触ってもいいといったのはおぬしではないか」
 「胸を触るなんて、許していません。このスケベ爺!」
 「知識神の神官たるワシになんたる無礼か。これだから若い者は嫌いだ。もっと老人を敬い、神を恐れなさい」

 老人は少し怒ったが、すぐに気を落ち着かせ、今度は愛心が振り回したショルダーバッグに興味を移した。

 「その中には何が入っておるんじゃ? まるで本のようじゃったが」
 「この中ですか?」

 愛心は尋ねられるままショルダーバッグを開け、中から聖書を出した。それを見た瞬間、老人が驚愕のあまり目を大きく開いた。

 「なんと、少し見せてくれんか」
 
 愛心が聖書を手渡すと、老人は手を震わせながらその黒い表紙をめくった。

 「なんと薄い紙じゃ。こんな神は見たことがない。それにこの文字も、いったい何が書かれているのか」

 老人は小さな字がぎっしりと書かれたページをめくり、その字がどれも同じであることに再び驚く。

 「これほどの印刷技術、初めて見たわ。おぬし、これをどこで手に入れたんじゃ? どの街に行けばこの印刷工に会える? そしてこれには何が書かれているんじゃ?」
 「それは、学校の図書館の本で、印刷はどこでしたのかわかりません」
 「学校とな。どこにあるのじゃ」
 「だから、日本です」
 「ふむ」

 老人は少しだけ考えこみ、それから折り畳み机の上に置いてあった本を開く。そこには海岸線らしいものや街や街道の絵が描かれている。どうやら地図のようだ。

 「おぬしの言うニッポンはこのどこかにあるかね」

 愛心は地図をじっと見つめたが、日本はおろか知っている形の地形すら見つけられなかった。そもそも、ここは地球とは違う惑星のようなので老人の持っている地図に日本があるはずがない。愛心が首を横に振ると、老人はまた何かを考え始めた。

 「ふむ、おぬしは伝説に聞く迷い人なのかもの。ここではない違う世界から突然降ったように現れ、意味の分からない言葉を話す人間がいると聞いたことがある」
 「その人たちは、どうやって家に帰ったんですか」 
 「さあの。昔そういう人がいたという噂を聞いたことがあるだけじゃ」
 「そうですか……」

 愛心は失望して肩を落とした。そんな愛心に、老人が控えめに声をかける。

 「ところで、その本には何が書かれておるのかな。おぬしなら読めるのじゃろ?」
 「これは、昔の人が書いたおとぎ話集みたいなものです。多分、おじいさんが欲しい知識は書いていないと思います」
 「そうなのかもしれんが、取りあえず最初のページを読んでくれんかね。礼に銀貨を一枚やろう」

 そういって老人は懐から少し汚れた銀色の硬貨を取り出した。愛心は気が進まなかったが、これからこの世界で生活をするにはお金が必要だと考え、しぶしぶ聖書を読むことにした。
 愛心は最初のページを開き、先頭から読み上げた。

 「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた……(日本聖書協会『旧約聖書 1955年改訳版』 以下、聖書からの引用は同じ)」
 
 聖書を読みながら愛心が老人の様子を伺うと、老人は目を瞑ってじっと愛心の言葉に耳を傾けていた。愛心は切りのいいところまでと決め創世記の第一章を読み続けた。
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