4章

文字数 11,086文字

 アリセは家についた。赤い屋根の一軒家。スチールのドアノブを勢いよく傾けた。
「ただいまー!!」
 大声で言う。奥から靴下とスリッパの脚がどかどかと近づく。
「ちょっとアリセ、こんな時間までどこ行ってたの!!」
 エプロン姿。少しパーマがかった髪型の女性。アリセのママは怒った。
「ご、ごめんなさい。ちょっと……」
「中学生がこんな遅くまで出歩いちゃ駄目でしょ!!」
「ごめんなさい……」
「心配したのよ!!」
「ごめんなさい……」
 完全に自分が悪いだけにアリセは言い返す言葉もなくただ平謝りするしかない。
「まぁ無事でよかった。ご飯できてるから食べなさい」
 優しい顔に戻るママ。リビングに行くと、アリセのパパとアリセの弟のカケルがテーブルに座っていた。
 アリセはしょぼくれながらその横に座る。
「お姉ちゃん、こんな時間までどこいってたんだよ。迷惑かけてさ。そんなんだからいつまで経ってもガキなんだよ」
 生意気な口をきく弟のカケル。3歳年下の小学5年生で好きなものはサッカー。最近マセてきて、アリセ相手に悪口を言うことが多くなってきていて、アリセもそれが面白くなく姉弟ゲンカがたえない。
「ふん、カケル。そんなこと言ってると、お姉ちゃんの少女漫画こっそり読んでるの友達にばらすぞー」
 アリセはにひひと言ってみせた。
「ちょ、やめろよバカ姉貴!!」
 カケルは手をジタバタさせる。アリセの溜飲はしっかり下がった。
 今日のご飯はハンバーグ。アリセの大好物だった。
「うわぁ。ラッキー!!」
「こらアリセ、横に添えてあるニンジンもしっかり食べるんだぞ」
「……ふぁーい」
 パパの一言に渋々答えるアリセ。メガネを掛けたスマートな顔。化粧品会社に勤めるサラリーマン。かなりイケメンなのがアリセの自慢だ。アリセはナイフでニンジンを細切れにして、ご飯で思いっきりかき込んだ。
「アリセ、ご飯食べたらちゃんと勉強するのよ」
 ママが言う。
「今日見たいテレビあるんだけど……」
 アリセは言い返す。
「もうテストが近いでしょ。ちゃんと勉強しなさい」
「まだ1週間あるよー」
「そんな調子で前の期末テストで赤点すれすれ取ったでしょ。中学2年生になったんだから、ちゃんと勉強しなさい」
「しょうがないじゃない色々忙しいんだよ私」
「……何によ?」
「ほら、私は正義の味方クアトロ……」
 ここまで言ってアリセは口をつぐんだ。
「何!?」
「なんでもない」
 アリセは口ごもった。うっかり言ってしまいそうだった。自分が正義の戦士であるという秘密を……。わざとらしくクルリと表情を変えてみる。。
「よーしテレビは録画して置いて、テスト後にゆっくりみよう。きょうはべんきょうがんばるぞお!!」
 必要以上に明るく言って階段を登る。ママは不思議そうな顔をしてアリセの背中を見送った。

 夕ご飯を食べ終わり木製の階段をのそのそ上がっていく。自分の部屋に入り込んだ途端ベッドに仰向けで飛び込む。アリセは白い天井を見上げた。円状の蛍光灯カバーが映る視界。ひょこりと水色の顔が現れた。それは静かに彼女を見下ろした。
「どうしたんだポゾ?」
 アルキメデスだった。愛くるしい顔のマスコットはにこやかにアリセに話しかけた。
「いやあアルキメデスぅ。正義の戦士はつらいなあと思ってね」
「どういうことセルビー?」
 ピンクの顔のビルビルも顔を見せる。
「こうやって秘密のヒロインやってるとさあ、人に言えない苦労っていうのが大きくてさあ。なかなか勉強やるヒマもなくてさあ」
「ミルは今でも成績優秀だセルビー」
「……あれはバケモノ。全教科ほぼ満点なんて人間のすることじゃないね」
「そもそもアリセはクアトロプリンセスじゃなくても勉強しないんじゃないポゾか?」
「そんなこと!!……あるかも」
 言っている途中で自信が無くなる。
「まぁ正義の戦士がつらいのは当然だポゾ。諦めるポゾ」
 アリセはふぅと息をつきアルキメデスとビルビルから寝返りで背を向けた。勉強机につく心の準備はまだできていなかった。
ービコーン!!ビコーン!!
 ハート型のペンダントが光を発した。
「おお困るなあ、せっかく勉強しようとしていた時にビョーマが現れるなんて」
「……アリセ、思いっきり嬉しそうな顔で言うなポゾ」
 ペンダントの点滅はビョーマが街に現れたという印だ。
「よし、今すぐ行って退治しよう!!」
 アリセは二階の窓をバッと開ける。ベッドの下に隠していた白いスニーカーを履く。いつものことなので。こっそりと家を抜け出す準備は万全だった。
 窓枠に脚を掛ける。外からの冷たい風にスカート、カーディガン、黒い髪の毛がなびいた。
「よーし行くぞー!!」
「「了解ポゾ(セルビー)!!」」
 アリセは暗闇の空に向かってぴょんと跳んだ。右脚にアルキメデスがくるまり、きらんと光った。羽根のついた水色のブーツになり、とんと空中の地面に脚をついた。
 左脚にはビルビルがくるまりきらんと光る。こちらは羽根のついたピンク色のブーツになった。空中の地面につま先がつき波紋が広がる。二匹のマスコットは空飛ぶ魔法のブーツに早替わりした。
 アリセはぴょんぴょんと飛び跳ねて夜の空を駆けていく。髪の毛とスカートは元気よくなびく。空中には光の波紋が現れ消えてゆく。
 闇夜のステージを踊るハツラツとしたプリマドンナ。
 冷たい空気を掻き分け、アリセは前髪を押さえながらにこりと走った。
 けれど、月の輝きは妖しく……


 ペンダントの導きに従って空を走る。ビョーマに近づけば近づくほどペンダントの瞬きは激しくなっていく。それが心臓の動悸のように激しくなった所で、とんとアスファルトに降りたった。
 羽根のついた二色のブーツがマスコットに姿を戻す。
「ここらへんだね」
「そうみたいだポゾ」
「へへ、一番乗りぃ。さすが私はリーダーだね」
「……アリセは私たちがついてるんだから当然だセルビー」
「きっとみんな真面目に勉強をしているから来るのが遅れているんだポゾ」
「……ふたりともきっついなあ」
 きょろきょろ周りを見回すアリセ。ビョーマの姿は見えない。ペンダントの反応を見るとこの辺りにいるはずなのに……。
 しばらくして、突如ペンダントの瞬きが消えた。
「ど、どういうこと?故障?」
 へ?と覗き込む。
「そんなわけあるかポゾ」
「じゃあどうして?」
「やっかいな能力を持ったビョーマかもしれないセルビー」
 ビルビルがしみじみと言う。
「……うう」
 うめき声が聴こえる。アリセは走ってそちらに向かう。道端でうつ伏せになっている人物がいる。
「大丈夫ですか!?」
 駆けよって抱え上げる。倒れていた学ラン姿の男子学生。街灯に照らされた顔には赤い斑点があった。
「……これは!?」
「間違いないポゾ。ビョーマのウイルスの被害者だポゾ」
「はやく変身して魔法で治してあげないと」
 ペンダントをかかげるアリセ。
「こらこらセルビー。ビョーマのウイルスによる病気は元のビョーマを退治しないと治らないセルビー」
「……えへ、そうでしたあ」
 アリセは頭の後ろを掻く。その時ペンダントが再び音をたてる。
「……来た!?」
 ふり向いた瞬間、またペンダントの反応が消える。
「どういうこと?」
 人差し指をこめかみにやるアリセ。
「恐らく潜伏タイプなんだポゾ」
「せんぷくタイプ?」
 アリセは目を小さくしぼませる。
「ペンダントの反応を誤魔化せるタイプなんだセルビー。クアトロプリンセスのペンダントは、ビョーマが街の人を襲った時、もしくはクアトロプリンセスが直接ビョーマに近づいた時のどちらかで反応するセルビーが、奴はペンダントを反応させずに人を襲ったりできるみたいだセルビー」
「それはなんと厄介な……。どうしようもないじゃん」
 アリセの口がだらしなく開く。
「……ふふ、僕たちを舐めるんじゃないポゾ。そういうビョーマへの対抗の仕方はもうすでに準備済みポゾ」
 彼はぴょんこんとアリセの肩に乗った。ごにょごにょと耳元で囁くアルキメデス。すべてを聞き、アリセはうんと頷いた。


「うわぁ、不安だなあ怖いなあ。怖い怪物とか現れないといいなあ」
 一生懸命身体を震わせるアリセ。セリフと裏腹に口元はわずかににやけている。
「……なんというわざとらしさだセルビー」
 物陰から覗くビルビルが呆れる。これでは作戦が成功しないのではないかと危惧をする。
ーむくり
 アリセの背後のアスファルトが盛り上がる。濃紺のアスファルトは徐々に毒々しい赤へと変わっていく。形も人型を形どっていく。赤い身体の怪物。アリセに背後に立っていた。
 ペンダントは沈黙したまま。怪物は両腕をアリセの小さな背中に伸ばした。
「今だセルビー!!」
 ビルビルの声を合図にアリセが後ろを向く。手元には大きな筆が抱えられていた。
 それはアルキメデスが変化したもの。大きな水色の尻尾が毛筆の部分となっている。
 【マーキング】とマスコットたちはアリセに説明していた。潜伏型のビョーマをペンダントに反応できるようにする魔法だ。
 ビョーマはこの辺りにいるはず。アリセがただの女子中学生を演じていればビョーマは必ず襲いにくる。そこを狙ってマーキングをする。それがアルキメデスのたてた作戦だった。
 アリセは危険な囮作戦を嬉々として受けた。「こういうの一度やってみたかったんだ」と緊張感のかけらもないコメントをしていた。
 真っ赤なビョーマの顔に青いペンキがぺたりとつく。奴は必死に拭おうとするが取れない。ペンダントがビコンビコンとけたたましく鳴る。ビョーマは探索から身を隠すことはできなくなった。
「ははは、うまく行ったね」
 アリセはぱちんと指を鳴らし、にこりとウインクした。
 青いペンキが顔にかかったビョーマは焦って背を向け、アスファルトに溶ける。
「あっ!?」
 追いすがるアリセ。
「ふふふ慌てる必要はないポゾ。魔法の筆でマーキングした以上、ペンダントから逃れることはできないポゾ」
 元の身体に戻ったアルキメデスが言う。アリセはうんと頷き右手に持ったペンダントを注視した。

ートゥルルルル。

 ビクリとするアリセ。突如鳴り出したスカートのポケットに入れていた携帯だった。やけに場違いな響き。ポケットから電話を取り出す。
「おいアリセ、ビョーマがまだ近くにいるポゾ。電話なんかしている場合じゃないポゾ」
 画面表示。【加藤実留】。その名がチカチカと点滅している。
「……でも、ミルちゃんからで」
 アリセは文字をじっと見つめる。【加藤実瑠】。その四文字がなぜか胸を掻きむしる。コール音が追い立てるように暗闇に響く。
 嫌な予感がした。この携帯電話がひどく異質な物体に見えた。ぼんやりと視界が揺らぐ。
 言いようのない嫌悪感がアリセを電話に出ることを躊躇させた。何かが壊れてしまいそうな気がした。
 コール音が甲高く耳を触る。気持ち悪い。自分のまわりを取りまく空気にべとりとした質感を感じる。
 頭をよじらせるアリセ。前頭を押さえつける。けれど出ないというのも不自然だ。彼女はそっとボタンに手をかけた。そしてピッと電話を受け耳元にそれを移動した。
「もしもしミルちゃん?」
『良かった繋がった。アリセ、実はお前と別れてからすぐマコの元に行ったんだ』
 ミルの声。ひどくひっ迫している。彼女の声はアリセの返答を待たず、まくし立てはじめた。
『あいつはバイト先のファミレスに急いで向かったはずだった。場所はちゃんと憶えているはずだったがどうにもたどり着くことができない。なぜかという理由がある。私の認識の中の地図とこの街のかたちがまるで違う』
 月はいつのまにか雲に隠れていた。月明かりは遮られ、夜道の灯りは頼りない街灯の蛍光だけになった。
『とりあえず私はマコの家に行った。まぁなぜ認識と全く違う街にいる私がマコの家に行けたかは後述するが、想像通り家の前にマコがいた。どうしたらいいか分からなくて泣きはらしていた』
 ミルの声に混じり、マコの涙声が聞こえる。すぐ横にいて、まだ泣いているのだろう。
『近くの公園まで連れていきマコを落ち着かせた。落ち着かせるまで小一時間かかったせいでこんな時間になっちまったがな。まぁそれは置いておこう。落ち着いたマコと話をして、私とマコが同じような状態になっていることが分かった。それはさっき言った、記憶の中の地図とこの街が大きく違っている状態だ。それだけならば単なる記憶障害だが、事はさらに厄介だ。なぜか私たちはこの知りもしないはずの街についての記憶がふんだんにある。様々なそこでの思い出も含めてだ。ニセモノの家族。ニセモノの学園生活。まるで脳みそに無理やりもう一つの記憶をぶち込まれたかのようだな』
 二つの記憶が共存する。だからさっきアリセもサキも自分も、異常な気持ち悪さを覚えていたのだとミルは言う。
『そして見た目だ。私から見たマコは中学生くらいの女のコなんだよ。彼女から見た私も同様だ。けれど自分たちでは自分のその変化に気がつかない。それどころか、だんだんと頭に自分があたかも本物の中学生であるような記憶で自然と溢れてくる。気を抜くと取り込まれそうになるくらいな……』
 もっと言おう。とミルは続ける。
『そしてなぁ、溢れてくるのは、自分が中学生であるという記憶だけじゃないんだ。自分が【それ】として闘っているということがまるで事実のように……現実であるかのように思えているんだ』
「ちょっと待って。ストップストップ!!」
 アリセはようやくミルの会話を止めた。彼女は頭が痛かった。頭のいいミルが話すことはたびたびアリセの理解を飛び越える。ちんぷんかんぷんに頭をくゆらせることは多々ある。けれども、今ミルが言ったことはいつもにも増して……。
「何を言っているのかサッパリ分からないよ」
 そう返す。真顔で。
「だって、私たちは中学生じゃない」
 アリセの唇は素直な認識を吐露させた。
「マコちゃんがバイトしているファミレスって何?うちの学校そういうの禁止しているはずだし、元々中学生ってバイトできないはずだし……。ニセモノの家族とか、ニセモノの学園生活とか、もうホント何言ってるのか全然わかんないよ」
『……』
 のうのうとした調子のアリセ。受話器の向こうは絶句していた。無音の状態が続く。
『そうかそうか。お前みたいに単純だと、完全に飲み込まれるんだな……』
 しばらくして返ってきたのはそんな言葉だった。
「だから何言ってるのミルちゃん?」
『……とにかく合流しよう。今お前どこだ?』
「ええとね。3丁目の路地あたり」
『なんでまたこんな時間にそんなとこいるんだ?』
「わかるでしょ。ビョーマが現れたんだよ」
『…………っ!!』
 受話器の向こうがさらに色を失う。
『そうか……そういえばそのはずだ。迂闊だった……ペンダントが点滅したってことはそういうことだ……』
 彼女は気づかなければならなかったことに気づけなかったことを悔いているようだった。
「……ミルちゃん。またわけのわからないこと言わないでよ」
『わかった。今すぐマコを連れてそっちに行く。無事でいろよ』
「……無事って」
 その時、微弱になっていたペンダントの音が、ビコンビコンとけたたましくなった。目の前の道路がこんもりと盛り上がっていく。
『アリセ……どうした?』
「……」
 赤色のぷるぷるとした皮膚を持つ二メートルの怪物。アリセがマーキングした青い塗料を顔につけたまま突如として姿を見せた。
「……ビョーマだ」
 アリセは言う。
『おいアリセ、目の前にビョーマが現れたんだな?』
「そうだよミルちゃん」
『なあ逃げろ。私たちが着くまで無事でいろ』
「どうしてそんなこと言うの?」
『結論を言う。多分これは確かなことだ。おいアリセ。思い出せ。ここは違う。私たちの世界じゃないんだ』
 受話器からがミルからの意味不明なわめき声が聴こえている。彼女らしくもない取り乱し方だ。
『ここは……ここは……』
 その瞬間怪物の腕が振り下ろされた。アリセは身を交わして避ける。
 受話器からもう一言聴こえた。
 けれどアリセはそれを聞き流して電話をきる。
 目の前にビョーマが現れた。さてこいつを闘って倒さなければならない。街の人々の平和を守るために。それが私の使命だ。
 そう、それが私の……あれっ……?
 頭がずきんと痛む。今の自分が立っている場所に違和感を感じてしまう。
 けれど目の前に敵がいるのだ。アリセは気を取り直す。そう私はコイツを倒さなければならないのだ。

「……どうやって?」

 アリセはそう呟いた。藍色に染まる瞳。愕然とした顔。こめかみをつたう汗。改めて考えて放心した。自分はいったいどうやってこの怪物を倒そうというのだろうか?
 怪物はキュピキュピと奇妙な足音でアリセに近づく。ヌメヌメとした赤い肌から液が滴る。
 なぜ自分はこのおぞましい化け物を倒せると思っていたのだろうか?
 考えれば考えるほどわからなくなっていく。自分の横にいた小さな二匹に助言を求めようとした。
「え……?」
 いない。先ほどまで口うるさく自分をさとしていたはずの二匹は影も形もない。ぐるぐると視線をまわしても暗い街並みには猫一匹見えない。
 なぜいない……?そうではない。なぜ私は当たり前のようにあの二匹と一緒にいたのか……?
 アリセは頭を押さえた。見えるもの全てに疑問が生じる。視界が揺れはじめる。世界がぐゆんぐゆんと回る。
「……ここはどこ?私は誰?」
 アリセの身体がよろめく。歪んだ世界がブラックアウトし、ざらめきと共に映像を映し出す。
 居酒屋の風景。タバコを加えるミル。豪快に日本酒の徳利を次々と飲み干すサキ。酔いつぶれて泣くマコ。最初は不鮮明だった映像。灰色でザーザーと波が入り、ボヤけていた映像がだんだんと像を成していく。やがてピントが合ったカラー映像となった。
「……私は」
 アリセは震える声で呟く。
「私は川村有瀬……23歳、声優……」
 それがわかった瞬間先ほど最後にミルが言った言葉が脳内で再生された。はっきりとした言葉として。

『ここはクアトロプリンセスのアニメの世界だ』

 そんなことって……。
 確かに一度自分は現実世界で変身を果たしている。けれど世界そのものが変わってしまうなんてことが……。
ーキュピキュピ。
 足音が彼女の思考を中断させた。顔をあげるアリセ。
 彼女を見下ろす化け物。手を振り下ろそうとしていた。
 恐怖で顔がひきつる。「ひぃ」と声が漏れる。ただ恐ろしかった。
 背を向けた。すぐ横にあったゴミ袋を投げつけて一目散に走り出した。しばらくして背後からはまたキュピキュピと足音が鳴りはじめた。
 涙がにじむ頬。どうして……?。彼女は必死に脚を動かした。


 路地に立つ電柱。その脇の光の当たらない場所。身体を体育座りで縮こませたアリセがいた。ペンダントの点滅は止んでいる。
 ぜぇぜぇとあらぐ息を口を抑えて殺している。あれから十数分は経過していた。けれども恐怖はまるでおさまらない。彼女は混乱する頭で考えていた。
 あの時病院に行ってからだ。気がつくと感覚がおかしくなっていて、そして記憶も曖昧になっていた。
 先ほど自然と会話した家族たち、彼らはなんだったのだろうか?考えれば考えるほど気味が悪くなっていく。
 何より、この世界は……さっきまでの当たり前のような自分の行動は何なのだろう?自分はなんであのように振舞えたのだろう?疑いは自分自身にも向けられる。
 強烈な疑問は心細さと結合しアリセの心をぎゅうぎゅう締め付けた。それに抗おうとアリセは自らの頭蓋をぎゅっと握った。ぜぇぜぇ。動悸はとても殺しきれない。
 
ーとんとん

 アリセの肩が静かに叩かれた。
「ひぃいいい!!」
 顔を背けるアリセ。恐怖を塗りたくった表情。これ以上下がりようない身体を下がらせようと、壁にがしがし身体をなすりつけた。
「……アリセちゃん、まるで私みたいなリアクション」
 月明かりに重なって、金髪のサラサラとした長い髪の毛を両脇で二つに縛った、碧眼の女のコが立っていた。
「マコ……ちゃん……?」
 アリセはそこにいた中学生の女の子をそう呼んだ。
「まぁ良かったよ。無事で……」
 横には黒く長い髪をさらりと流したきれ長い瞳の女の子。
「ミル……ちゃん……」
 数時間前と比べすっかりと幼い顔だちになったふたり。現場でよく見たアニメ画のふたり。それが目の前に実態として存在していて生身の人間として喋っている感覚は本当に奇妙だ。
 けれどふたりは紛れもなくふたり、マコとミル、なのだ。
「よかった……」
 ただただ嬉しい。先ほどまでひとりで抱えていた多大な孤独と奇異への恐怖。一気に開放され、アリセは腰が抜けそうになった。


「おう、お前らなにひに来たんだ?」
 街の繁華街にある小さな居酒屋。客は彼女ひとり。目の前の皿には枝豆の脱け殻が山を作り、空いたグラスが列を成していた。
「飲んでも飲んでも全然違和感がなほらなひんだよ。そうしてるうちにすっかり飲み過ぎちまったじぇ」
 サキの息はウイスキー臭い。3人はぽかんと立ちつくした。
「なぁ、サキ、お前いくつだ?」
 ミルが聞く。3人の目には若い店員の戸惑い顔が映っている。
「はぁ?木塚咲。花の23歳ですよーん」
「なるほど。酒のおかげか。一切自覚がないのだな」
 ミルの目から見えるサキの姿は短髪に薄手の長そでシャツ。デニムのショートパンツにニーソックスを履いたあどけない中学生の少女だ。
「まずいよ。ダメだよ。いけないよこれ。クアトロプリンセスが未成年飲酒しているなんて良いコのみんなにバレたら、なんて言い訳すればいいの?」
 アリセは、少しずれたことで慌てている。
「サキ、とりあえずポケットを漁ってみてくれ」
「なんだよ。さっきから変なこと言うなお前」
 サキがガサゴソとポケットをまさぐると青いスペード型のペンダントが顔を出した。
「ん?にゃんだこれ?」
 3人はやはりという顔になった。
「ねぇねぇミルちゃん」
 マコが静かにミルの脇を小突いた。さっきまで遠巻きに見ていた店員の姿がなくなっている。さらに奥の方から「やはり家庭か警察に連絡した方が……」と話し声が聞こえる。
「おいサキ。取りあえず出るぞ」
 ミルはサキの腕を取る。
「にゃに言ってんだよ。夜はまだ始まったばかりだろうが」
「いいから出るぞ。捕まりたくなければな」
 ミルはテーブルに札を置き、無理やりサキの腕を引っ張った。

「どうしよう、これから?」
 マコが不安げな顔で聞く。アリセとミルはうつむいて何も答えられずにいた。
「どうしようって何がだよ?」
 ホロ酔い気分で全く状況がつかめていない幸せなサキ。
「はぁーあ。全く人生何が起こるかわからんもんだな」
 ため息をつくミル。ハイライトメンソールの箱を取り出し、一本咥えて火をつけた。
「ちょっとミルちゃん!!」
 アリセが慌てる。
「ああすまんな。考える時はこれがないとダメなんだよ」
 すました顔でミルは答える。
「いつの間に買ったのタバコ……?」
 マコが目を点にして言う。
「大丈夫、他人の見てるところでは消すよ」
「そういう問題じゃありませんっ!!全国の少女たちの希望、クアトロプリンセスが喫煙っ!!飲酒っ!!……嘆かわしいですっ!!」
 アリセがミルとサキを順番に指を指して言う。
「あいあい」
 ミルはやれやれという表情で、タバコを踏み消すと、いつのまにか持っていた携帯灰皿にポイと入れた。
「とりあえず、あいつらを見つけよう」
 ミルが顔をあげて言う。
「あいつらって?」
「あの小動物どもだ。こうなったのはあいつらの仕業だろう」
 アルキメデスとビルビルのことだ。
「でも見つけるっていってもどうやって?」
「決まってるだろう。あの病院に行くんだよ」
 ミルがそう言った瞬間だった。
ービコーン!!ビコーン!!
 4人のペンダントが大きな音を出して鳴った。
「うるせえな!!」
 サキが叫ぶ。他の3人は身体を硬直させていた。
「これは……」
 ミルは走り出した。3人に目をくれることもなく。
「ちょっとミルちゃん!!どこ行くの!?」
「さっさと病院に行って元の世界に戻る!!大変なことになるぞ」
 アリセも走ってミルを追いかける。
「はわわ、待ってよお」
 マコも追いかける。
「おいお前ら。人を勝手に引っ張っておいて、今度は勝手に行くのかよ……ったく」
 サキが最後によろよろと追いかけた。

 薄暗い小道。電灯の光が十分に行き届いていない。息をせき駆ける3人。鳴り続けるペンダント。
 いつのまにかサキの姿は消えていた。多分途中でふらついている間にはぐれてしまったのだろう。けれど先頭を行くミルはそれを気にする様子はない。彼女にしては珍しく焦って早急になっているようだった。
 何度目かの角を曲がった時ミルの目に奇妙なものが映った。前方から幽鬼のごとくゆらゆらと近づいてくる人影。だんだん、それとの距離が近づいていく。説明できない不安感がミルを襲う。何事もなくすれ違いたい。嫌な予感を払うように早歩きになる。
 だが、そうはならなかった。
 それはミルの身体に自らの身体をなだれ掛けさせた。
「な、何をする!?」
 ミルは大声をあげた。
「……た、助けてくれ」
 小さくか細い声。
 ミルは至近距離でやっと視認できた顔をまじまじと見た。その人物は老人だった。街灯が当たった顔には無数の赤い斑点が見えた。
「これは……」
 ミルは黒目を小さくしてたじろいだ。前方に目を移す。ミルはさらに愕然とする。
「ミルちゃん……なに、あれ?」
 マコも前方に広がる異様な光景に気がついていた。
 無数の人間が倒れていた。
 男、女、そして子供が倒れて呻いていた。まるで排水溝が詰まった流しのようにぐちゃぐちゃと置き捨てられていた。彼らの顔には無数の赤い斑点がある。
「うーん、うーん」
 彼らは一様に苦しそうな声をあげていた。そこにただ1体。人ではない何かが立っていた。
「あっ!!」
 アリセが何かを思い出したかのように声を出した。その声に反応し彼女たちの方を向いたそれ。キュピ。キュピ。奇妙な足音をたて近づいてきた。
「はわわ……」
 それを見たマコの顔は恐怖のあまり凍りついた。アリセが気づいたこと。倒れている人たちの様子は先ほど見た被害者と同じ状態だった。
「また現れたか。愚かな人間どもよ」
 それは内蔵に響くような低い声をしていた。ビコーン!!ビコーン!!ペンダントの点滅がだんだんと速くなっている。ミルはそれを確認し冷や汗を流した。
「我はビョーマ。名はジンマ。さぁお前らも死ぬがいい」
 全身が赤くブヨブヨした質感の、2メートルほどの大きさ。顔に一文字の青いペンキのような跡。それは明らかに【化け物】だった。
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