第30話 アンテナ保全ノルマ
文字数 4,344文字
ウメコは、さっきのメモリーを指したアンテナチェック用の情報端末を首に掛け、スクーターに、修理交換用資材や脚立など、いわゆる「保全作業セット」を積んだ荷台トレーラーを連結させてから、取り換え時期にきていた屋根カウルの上の
今日は労務中はトラメットを脱ぐひまはおろか、バイザーさえ上げられないと思うと、出発前から息がつまる。ウメコのは、最新のスクーターと違い、フロントガラスはトランスビジョンじゃなかったから、バイザーなしには、前が見えないのだ。
「・・・ったくよ」
しかも昨日までは70基ほどだったアンテナチェックの数を、結局90基に増やされてしまった。これでは、シード級クラックウォーカーで悠長にまわってなどいられない。こんなことなら、イーマの言うことに素直に従って、前もって道具と資材を持ち帰っといて、現場直行しとけばよかった。そうしたら、まんまとクロミのための少ないノルマを受け取れたのだ。
――やっぱり人の話は素直に聞いとくほうがいい――
ウメコはまず定期点検分のノルマがあるエリアへと、虫霧の中をスクーターを走らせた。
“・・・捕虫圏居住民にとって、防虫対策は身だしなみの一部です!今日も皆さん、はりきって、いってらっしゃい!防虫剤でおなじみ<蛆巻送虫社>・・・『ラジオフリー・アンダーネッツ、朝はバグバグモーニング!』・・・”
いつもの携帯チャッターボックスはあきらめて、今日は、トラメットのトランスヴィジョンでラジオ波を流していた。
現在の虫霧濃度85
スカラボウルのセグメント内に張り巡らされたトランスネット網は、そのアンテナを約100メートル間隔で設置して、刻々と変化する自然と、虫の発生と推移を観測し、虫に覆われて視界のきかないこの捕虫圏内の地表の情報を、隈なく網羅していた。
それにより、トラメットのバイザーやバグモタのディスプレイ上に映し出される、人や物の移動と良好な合成景色を提供するトランスヴィジョンは、スカラボウルにとって重要なインフラストラクチャ―である。
放射道路を進む途中、後ろから来たバグモタ乗りの他班の捕虫要員に、昨日の件でからかわれた。6班<エース・オブ・チェリーズ>のソユーコ・ワサビオロッシだ。ウメコは、クリーパーホイールで走行する、そいつのクラックウォーカーを追い抜いて前につけ、トランスヴィジョン上で自身のスクーターをスカンク風に変え、黄色く可視化したオナラを「ブブブー」と吹きつけてやった。「ざまあみやがれ!」
このトリックグラフィティを自由労ショップから仕入れたウメコは、このまえ調子に乗って遊んで、バグラー相手にまき散らしていたら、そこへ現れたウィキッドビューグルに、もろにブッかけてしまい、一週間、罰としてトラビ上の自分の
第1放射道路225線から、第7
バイザー内トランスヴィジョンのナビゲートで定期点検分、一つ目の指定されたアンテナの前でスクーターを止めると、ウメコはサイドに掛けられた幌を開けて、虫霧の中へ出た。
トランスネットアンテナは高さ約2m~10mの支柱の上に直径30cmの
ストラップで首にかけた端末機を胸ポケットから取り出し、ウメコは円盤に向かって、ボタンを押した。「ピピッ」と端末に反応して円盤の側面が点滅し、情報を返してくる。返ってきた情報は、端末を通じて、トラメットのバイザー内トラビに表示される。全ての項目で「正常」と出た。
それからトランスヴィジョンの景色補正をオフにして、虫霧濃度で視界が霞む中を、支柱に、のぼり棒の要領でよじ登り、腰のスプレーホルダーに突っ込んでいた手ぼうきでサッサッと、
全てこの調子で異常がなければ、案外すぐに終わってしまうノルマだけれど、経験上そんなことはまずない。ウメコはスクーターの幌を虫に気をつけ手早く開けてシートに腰かけ、アクセルを踏み、ブダダダダーと、さっさと隣のアンテナへ移動した。
感覚に頼ることの大きい捕虫とは違い、一つ一つに着実さが要求される、こういう単調な労務はウメコの性に合わず、好きになれない。
けれどだいぶ慣れてはいた。8班再結成の最初のひと月近くは、皆が毎日このノルマを課されていたし、謹慎中にもこの労務だけにはしばしば駆り出された。それは8班に限らない。連合開拓労民の中で、特に全ての前線開拓要員にとって、このノルマは副労役のようなものだった。
保全ノルマのペースは思いのほか
そんなわけで、ウメコは定期点検の75基のうち60基分を、昼までには終わらせた。
ここから5分くらいのところに、<休息スポット>があったから、誰もいないのが確認できると、トラビで予約して、そこまで行って昼休みときめた。
<休息スポット>は、密閉されたバグモタの中や、トラメットの圧迫感から解放されるための息抜きと、生理現象の
この施設は、ユニットルームの使い古されたものか、これならまだ上等な方で、おもにバグモタクラックウォーカーの腰殻の使えないものや壊れかけのものに、屋根をつけたり開口部を塞いだりして再利用したものだった。
ウメコがいま入ろうとしているスポットも、天面の開口部に、かさ上げしたフタのような屋根を置いて、1・7mの腰殻を2mほどの高さにして、中で背を曲げなくても立っていられるようにしたものだった。ドアにあたるところは、左側の補給口にあたる円形の開口部を塞いで作られていた。
トランスヴィジョンで再構築された外観は、それでも鮮やかなクリーム色のカボチャのような恰好をしたおとぎ話の小屋みたいだった。<Seg8・
さすがに除虫エリアなどないから、ドアの周りの塞ぎ板の上方に
室内は、トランスビジョンの合成景色による、<休息スポット>おきまりのインテリア、よくある丸太小屋のバージョンだ。どんなに暑い日だろうと、暖炉の中ではいつでも火がメラメラと燃えている
バイザーをあげトラメットを脱ぐと、室内はまだ真っ暗。天井で捕虫喇叭が虫を吸い取り始め、すぐに外のバグモタがブンブン唸り出した。その効果の最初にまず照明がついた。さっきまでの暖かみのある丸太で作られた室内は当然、跡形もない。実像は、バグモタエンジンで焼かれた跡に、雑にペンキを塗っただけの腰殻の内壁に、無機質なプラスティック床を敷いただけの窮屈な部屋だ。
ウメコは暑苦しい労民ツナギのジッパーを胸元で下ろし、ベンチに横になろうとしたけれど、空調機能やらが作動したあと、その機能の準備が整ったしるしのランプが着くやいなや、早速トイレに駆け込んだ。
配給弁当は、定番の混合ビーフ缶と真空パックパン。これが文字面から察せられるとおり、まったくもって味気ない。それから合成ミルクと。ウメコはいつもこれにコーヒー粉末を混ぜ込んで飲んでいた。
食事を終えると、眠りこんでもいいように、トラメットのタイマーをスピーカーモードにセットしてベンチに横になった。
またしばらくこのノルマが続くと思うと、張り合いがないな、とウメコはぼんやり天井を見つめた。それに地味に疲れる。しかも疲労のわりに、派手な成果も得られない。これでは手柄も見込めず昇級もずっと先だろうけど、それでも謹慎を食らうよりかは、まだマシか、とあくびをした。
出発前、班長から午後には昨日の処分が決定する、謹慎処分はないと思う、と聞いた。ウメコからしたら「当たり前だよ!」と怒鳴りたいくらいだったけれど、あっさり「そうすか」と応えた。まだグズグズ残っていたワイナが「ホンマは、なにしはったんですか?」と横からしつこく聞いてきたから、包帯芋虫の捕獲をしくじったからだよ!と応えてやった。それから、いまにも泣き出しそうだったクロミの顔が浮かんだ。――私のせいで急に捕虫ノルマが回ってきて、
そうして、つれづれなる断想の落ち着く先は、ノルマをとっとと終わらせ、<小梅>を早く修理に出しに行こうという、個人的な今日の達成目標だった。
さっさと終わらせたい気分はするけれど、あんまり早く終わらせて、また明日のノルマを増やされるのもつまらない。かといって、バグラー8年目の、実質<ハミングバード>級であり<バグパイパー>級の実力があるという自負が、捕虫以外の労務といえど、やはり、おろそかにできないウメコであった。
「さてと、」ウメコは起き上がり、労民ツナギのジッパーを首元まであげた。