文字数 4,037文字

 敬虔なキリスト教信者だった祖父のことを、私は苦手としていた。別段キリスト教が苦手というわけではない。祖母も母も敬虔な信者だったが、特にいやとは感じなかった。私はきっと、彼のあの奥行きのある目と、くすんだ口元が嫌いだったのだ。あの真黒な目に見つめられていると、脳髄にオルガンの反響音と、聖母マリアの微笑した唇、鎖が巻きつけられた十字架が駆け巡った。要するに、私は彼に対して、生を感じることが出来なかったのである。
 私が中学に入りたてのころ、決まった時間に祖母に言いつけられて、祖父に夕飯の知らせをするという係を任されていた。
 私はいつも祖父の部屋の扉の前に立つとき、喉にしこりが出来たような感覚を覚えた。
 扉はきれいなラセットブラウンであり、剥げている場所もなく、表面には、力強い職人が額に汗をまとわせながら彫ったであろう、バラとユリが咲いていた。ユリは特に、百年の孤独をも潤してくれそうな、木から彫り出されたとは思えないみずみずしさを持っていた。茶色であるはずなのに、私はその奥に純白を見た。
 私はいつもそれを一撫でして、喉の栓を溶かしてからノブをひねるのである。
 木特有のいやな音を立てて、扉は開かれた。刺激的で煙たい柑橘系の香りが鼻についた。乳香である。
 部屋に入ると、目の前に祭壇があった。モダン風のガラスでできた扉が開かれていて、その奥には十字架があった。周りには、聖書や哲学の本で埋め尽くされた棚や、オークかラバーウッドで出来た机、ワイングラスや厳めしい装飾の施された洋皿の入った食器棚、質素なベッドなどがあった。
 その生き生きとした部屋の中では、音楽が流れていた。いつも夕飯を知らせに来た時に流れている曲。決まって私は、その曲の最後の一節しか聴くことはできなかった。幾許か早く祖父の部屋に訪れていれば曲の全容を知ることが出来たのかもしれないが、そんな気は全く起きなかった。
 部屋の真ん中には、祖父が座っていた。私はその光景が、部屋の中央にある人型の空洞に思えた。きっと、部屋に漂う生の空気が、彼の周りを避けて真空を作り出しているのだ。そう思っていた。
 彼は私の姿を確認すると、レコードプレイヤーの針を上げて曲を止めた。そして、くすんだ口元を歪ませ、徐に立ち上がって、落ち着いた容貌の机の上に置かれているティーポットに手をかけた。
 私はその祖父の行動を見て、机の前にあるキャプテンチェアに腰を落ち着けた。彼が紅茶に手を付けたとき、それは私に話をするという合図なのである。
 真白のティーカップに紅茶が注がれた。晴天のような色をしている。バタフライピーの紅茶である。その小さな水面から湯気が放たれる。しかし、その香りは目につく色とは事変わって、拍子抜けしてしまいそうなほど素朴なもので、私が瞬きをしたとたんに、バタフライピーの香りは部屋の乳香の香りと心中してしまった。
 通常、彼は決まって、私にキリスト教がらみの話をした。明智玉、所謂細川ガラシア夫人の壮絶で(彼曰く)名誉ある最期や、高山右近の国外追放と死の話など、主にキリシタンの物語を彼は好んだ。彼の声色は、歴史上の人物の状況によって目まぐるしく変わった。戦の話になると、その喉は力強く固まって大きな声を出す。法螺貝の籠った音が聞こえてくるほどに、その声は話の奥行きを生み出した。そして裏切りや国外追放などの話になると、変わって、喉はしなって、その形を歪ませながら震えた声を出した。私はそれを目を伏せがちにして聞いていた。しかし、いざ彼の顔を見てみると、眼は黒曜石がはめ込まれたように漆黒で、口元はモノクロで、端が重力に負けていた。変わらぬ面で声だけが表情豊かであるので、私は祖父のことを、レコードプレイヤーと同じような存在に思っていた。
 紅茶を自身のカップに入れた後、祖父は再び椅子に座って、茶菓子を机の上に置いた。スコーンやクッキーなどが並んだが、私は就中目立っているマカロンを手に取って口にした。
彼は俄かにその灰色の口を開いた。
「最後の審判というのを、知っているかい?ミケランジェロの……絵が有名だけれど」
 私は数秒遅れて頷いた。日本以外の話が祖父の口から出たことに驚いたのである。
「最後の審判は、キリスト教では、ディエス・イラレと同一視されるんだが、あぁ、簡単に言うと、再臨したイエス・キリストが、裁きを行て、永遠の生命を与えられる者と、地獄に墜ちる者を分けるんだ。永遠に生きれることは、謂わばご褒美なんだ」
 彼はそこまで言った後、強い咳を一度だけした。そのあと、胸を擦りながらかすれた声でつづけた。
「自分の身体一つで永遠に生きることは、人間が追い求めた、もとい追い求めているユウトピアだけど、僕は、それは幸せだとは思えない。これは、僕がイエス・キリストの教えのアンチテーゼをあげようとしているわけじゃない。皆が言っているような永遠の生は、一種のデマゴコスだと思うんだ。小説が、物語が、歴史が、私たちを魅了するのは、それはきっと終わりがあるからなんだ。終わった後にも、彼らは私たちの手によって続いている。死に続けながら、生き続けている。これはきっと人間も同じだと思うんだ。今から話すのはどうしようもないダイアレクティックだけれどもね、人間は死んだあと、再び死ぬか、それとも生きるかという道が切り開かれると思うんだ。棺の中で、第一回の死を迎えた人間は、そのまま物言わぬゴム肉になるか、それとも、もう一つ高次的な場で生きながらえるか選択する。否、される。周りの人々が死を迎えた人間の考えや思い、感情などをかみ砕いて消化して、そして棺の中を見たとき、その肉塊は初めて人間の死体となるんだ。人間の死体として生き返るんだ。キリスト教の言う永遠の命というものは、きっとこのようなものだと僕は考えている。天国でも、神の国でもなく、現世において死体として生きながらえるんだ。これは感想にも近いかもしれない。この話は、他の素晴らしい信者たちの考えの妨げになりうるから、孫であるお前の耳だけに留めておくことにするよ」
 そう言って彼は紅茶をぐいと飲み干した。私もつられてカップに手をかける。紅茶は、すっかり冷めてしまっていた。
「お前はどう思う」
 私はうつむいたまま、なにも、分からないと口にし、その後、夕飯の支度が出来たとの通告して、部屋を出ていった。今日の祖父は、より奇妙に思われたのである。祖父がティーカップの持ち手に指を通して持っていたという事実が、その感覚を加速させた。
 部屋を出ていくとき、棚の上にある写真が目に入った。写真には、バレリーナが写っていた。にこやかな表情で、控えめに、尚且つ大胆にポーズを決めている。横には、仏頂面の男が写っていた。その男が誰だか一瞬分からなかったが、写真越しにも私を観測していそうな黒い目をもって、私はその男が若かりし祖父であることがわかった。であれば横にいるのは祖母か。その時、祖母が過去、バレリーナであったという話を思い出した。私はその写真を手に取った後、すぐに置いてその場から出ていった。
 自分の手を見ても、何もついていない薄橙色の肌のままであることに、私は囁かな疑問を抱いた。
 翌日、祖父が亡くなった。本当に突然の死であったため、祖母も悲しむよりも驚きの方が大きいようだった。
 私は部屋のベッドに置かれている祖父の動かない身体を見た。くすんだ口元は今にも動き出しそうに思われて、死ぬ前と死んだ後の彼の印象は全くと言っていいほど変わることはなかった。昼前のさわやかな空気の中に混じる静謐が、精錬されて、この部屋に鋳造されているように感じた。窓を開けると、工事の音と共に残渣が流れ込み、部屋が通常の朝を迎えた。
 祖母の部屋に行くと、知らぬ音楽が流れていた。祖母はその曲を聴きながら涙を流していた。私は何をすべきかわからなくて、その場でぼぅっと立って、スギの木の机の上に置かれている、一口かじられたレーズンパンを眺めていた。音楽は、壁にしみこんでそのまま消えてしまっていくように感じられた。
 だが、最後の一節を聞いた時、私は目を見開いた。それは、いつも祖父の部屋で流れていた音楽だったのである。私は今の空気感を忘れ、大きな声で祖母に、この曲は一体何なのかと尋ねた。
 祖母曰く、この曲は、祖父との出会いの曲であるらしかった。
 彼女がこの曲で初めて踊ったとき、客席に黒瑪瑙を見つけたという。それは祖父の熱意のある目であった。祖母はあの彼の目を忘れられずにしばらく過ごしたらしい。ただ、もう会えないのであろうと心静かに落胆したと言った。しかし、彼は幾度となく彼女の舞を見に来たそうだ。暗い客席、マネキンのような影が、風を受けた狗尾草の如く思い思いに揺れている。その中に、一際黒い丸が二つ浮いていた。それを見ると、あぁ、あの人が来ている、と緊張がほぐれ美しく舞えたのだと祖母は言った。そして会場が明るくなると、仏頂面である彼の口元は笑っていて、その後すぐに、口元を抑えながら会場を去ったのだとか。
 私は酷く驚いた。理由はあるが、ないに等しいほど些細なものだった。裁判中に裁判長が自身の感情に任せ判決を下したら、きっと驚くだろう。私の抱いた衝撃は、それに似ていた。
 祖父は毎日、祖母との出会いの曲を聞いて何を思っていたのだろうか。あの頃の祖母は美しかったと嘆いていたのだろうか、それとも今も彼女は美しいと思いながら、ただ懐かしく思っていただけなのだろうか。私は、想像した。祖父が、あの古びてはいるが、荘厳で美麗な椅子に腰かけて、目を瞑りながらその曲を聞いて、彼の瞼の上で美しく輝く舞姫を、頬を赤く染めながら目で追いかけている姿を。
 私は再び、祖父の部屋を訪れた。その部屋のベッドには、口元鮮やかで、もう動きそうもない祖父の死体が在った。
 私はポケットからハンカチを取り出し、それを目に当てた。
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