第10章 囚われの野

文字数 10,386文字



 舟が進むにつれ、岸辺を歩く人の姿が見えるようになった。それは霧のはざまにもおぼろげな影だったり、姿形もはっきりしないものも多かった。目だけがぎょろんとついた人型の白い霧の塊が近づいて来た時は、アニスが怖がって動いたため、揺れた舟がひっくりかえりそうになった。
「あっちへお行き!」ヴィセトワが追い払い、それはすーっと離れて行った。
「あれは死んだ人なんですか?」
 アニスがたずねると、ヴィセトワはそうよ、と答えた。
「ここは『橋』が近いからね。船着き場にあがるといっぱいいるわよ。当たり前だけどね、冥界の入口なんだから」
 間もなく船着き場が見えてきた。アシやアヤメが茂る中に、石を組んで作った桟橋がある。ヴィセトワはそこへ舟をつけた。
「あたしはここまでしか案内できないわ。でも、ユフェリは危ないところってほとんどないから大丈夫。ただ、『囚われの野』に入る時はちょっと気をつけて。影響を受けてしまうことがあるから。でも、慣れた人がいるから、心配はしないけど」
 二人は彼女に礼を言って船から上がった。小さな舟はすべるようにゆっくりと桟橋(さんばし)を離れて帰って行った。

 前方に橋が見えた。石造りの大きな橋だ。たくさんの人が橋を渡って対岸へ向かう。
 そのそばには茶店があり、何人かの客が談笑しながらお茶を飲んでいた。
 茶店の前を通る道は一方は橋へ、一方は市場の中を貫いて、ずっと向こうの方で森の中へ続いていた。森の中からはたくさんの人がこちらに向かってくるのが見えた。
青白い顔の若い娘がいた。溺れ死んだのだろうか、全身ずぶ濡れの男が腕を抱えて歩いていく。赤ちゃんをおぶった母親。
 みんないわゆる『幽霊』なのだが、あまり気持ち悪くないなとアニスは思った。今の自分が同類みたいなものだからだろうか。
「市場……見に行く?」
「いいですか」
「まるでおのぼりさんだね」
 ルシャデールが冷やかすように言い、アニスは顔を赤くしたが、その響きにどこか楽しそうなものを感じて、手を差し出した。
「行こうよ」
 ルシャデールは仕方ない、といった表情で手をつないだ。
「こんなとこで迷子になられても困るしね」
 橋を目指す人々とぶつからないようにすれ違いながら、歩いていく。うっかりすると、彼らはアニスの体をすり抜けていくのだ。その度にギョッとしてしまい、あまり気分のいいものではない。ルシャデールの方はと見れば、すり抜けられても平然としていた。慣れているのだろう。
 アニスはあたりを見回す。茶店、絨毯屋、真鍮屋、陶器屋、スパイス屋、金銀宝石の装飾品を並べた店、魚のフライやサンドイッチ、ジュースなどの屋台もあった。向こうの世界とあまり変わらない風景だ。
 ただ、荷車や荷を運ぶ牛やロバはいない。客も死んだ人間ばかりのせいか、向こうの市場のように雑多なものが入り混じる活気はなかった。
「何売っているのかな」
 大きな紙を広げて売っている店がある。絵のようなものが描いてあるようだ。
「あれは地図屋だよ」ルシャデールが言った。
 地図と聞いてアニスの心がひょん、と飛び跳ねる。多くの男の子がそうであるように、彼も地図が大好きだった。村にいた頃は他の子供たちと宝の地図を作って遊んだものだった。山深い村では羊皮紙や紙は貴重品で手に入らないから、樹の皮を大きくはいで、細く削った木炭で描いたのだ。
 地図屋の店先に並べられている地図は羊皮紙製で、ほとんどは黒いインクでユフェリを描いたものだ。しかし、中には絵の具で彩色し、金や銀の額に入れた豪華なものもある。
「あ……」
 アニスが見つけたのは一枚の地図だった。その地図だけ木の皮でできている。描かれているのは他の地図と同じだ。ただ、書き込まれた文字が懐かしい記憶を呼び起こす。アニスは地図屋の主人に声をかけた。
「おじさん、この地図は……?」
「ああ、それかい? それは男の人が持って来たのさ」
 地図屋は二人の姿を認めて、おや?という顔をした。
「黒い髪の男の子と枯草色の髪の女の子が来たら、渡してやってくれってね。どうやら君たちのことらしい。はい、これ」
 地図屋は壁に飾られていたそれを取ると、アニスに差し出した。
「僕、お金を持っていません」
 それを聞いて地図屋は笑った。
「坊や、ここでは『ありがとう』の言葉がお金の代わりなのさ」
 アニスはほっとして地図を受け取った。
「ありがとう、おじさん」
 地図屋を出てから、その地図は何かあるのかと、ルシャデールがたずねた。
「この字は父さんの字に似ている。父さんも子供の時、地図が好きだったって話していた。父さんの家には、玄関に大きな地図が飾られていて、それを眺めるのが好きだったって言ってた」
「おまえの父さん、いい家の子だったんだ。普通の家じゃ地図なんて飾らないだろう。それに字も書けたようだし」
「うーん、わからない。昔の話なんてほとんど話してくれたことないから」
 アニスは手元の地図に視線を落とした。イルカのいた海やクホーンと会った草原、運河や橋が載っている。橋の先は三つの道があるようだ。階段と川と陸路。その先には『囚われの野』と書かれていた。分かれ道が何本もある。隅には『シリンデ』と書かれているが、意味はわからない。『囚われの野』の先にようやく『天空の庭』がある。
 地図屋の向かいは絨毯屋だ。
「こっちの世界で絨毯って……何をするの?」アニスは連れの少女にたずねた。
「ここで絨毯と言えば、空飛ぶ絨毯に決まってるよ」ルシャデールはそんなこと常識じゃないか、という口調だ。
「何に使うの?」アニスは言ってから、間抜けなことを聞いたと後悔した。空飛ぶ絨毯だから、空を飛ぶに決まっている。だが、ルシャデールは彼の質問の意味を理解してくれた。
「お遊び用だよ。私たちみたいに生きている人間が来る場合のね。あれで好きなところを見物して歩くのさ」
 楽器屋の前では楽師らしい老人がシタールを手にとって音を確かめていた。
 本屋に並べられていたのは、紺地のビロードに紅い糸で刺繍を施した美しい装丁の本だった。しかし、中は何も書かれていない。
「日記かな?」アニスはつぶやいた。
「似たようなものよ」本屋の女主人が答えた。「自分の一代記を書きたい人用。『庭』についたら時間は有り余るほどあるから、そこでどんな人生を送ったか、思い起こしながら書くの。生まれる前に計画したようにできたか、できなかったところは次に生まれ変わった時の課題として持越し。でも、あなたはまだいらないようね」
はい、とうなずいてアニスは本屋から離れた。

 橋の周辺では幼い子供も多かった。そのせいか、おもちゃ屋やお菓子屋も目立つ。おもちゃ屋には抱き人形や小さな剣、弓矢、木馬もある。しかし、おもちゃ屋で立ち止まる子供は少なく、死に分かれた親を探して泣く姿がしばしば見られた。
「ああいう子はどうなるの?」
 亡くなった妹を思い出して、アニスは切なくなる。
「ちゃんと乳母係がいるんだ。ほら、白い服にピンクのエプロンをした女がいるよ」
 言われて見ると、道のところどころにそういった女性たちが小さな子を連れて歩いている。
「あの人たちは小さな子を橋の向こうへ案内する係?」
「そう」
 ユフェリには亡くなった人が順調に『庭』へ行けるよう、手伝いをする者がたくさんいるらしかった。そういった者をソワニと呼ぶのだとルシャデールは教えてくれた。もともとはカデリでの人生を何度か送った者だという。いずれまた、生まれ変わるつもりの者もいれば、ここでずっとソワニとして過ごすつもりの者もいるという。
 橋の近くまで来た時だった。
「やあ、待ってたよ」と、彼らに向かって手を振る者がいた。
 白髪といってもいいきれいな銀髪、一見老人のようだが、よく見ると顔は若者だった。薄い水色の目が澄んでいる。アニスは朝日に輝くダイヤモンドダストを思い出した。あれを人の姿にしたらこんな感じかもしれない。
「知っている人?」彼はルシャデールにたずねた。彼女は首を振った。
「誰?」
 けげんそうにルシャデールがたずねた。
「あ、もしかして」アニスの頭にひらめくことがあった。「サラユル?」
「うん、そう呼ばれていた。サラユル・アビュー。七代目……だったかな?お見知りおきを」
「水晶の精……ってミディヤが言ってた」
「ふーん」ルシャデールは警戒心をあらわにする。「で、何しに来たの?」
「案内人として」
「そんなものいらない」
「君はいらないかもしれないけど、僕は必要なんだ」サラユルは涼しい顔で答えた。
ルシャデールは気に入らないようだったが、それ以上は言わず、アニスに次行くよ、と声をかけた。
「次って?」アニスはたずねた。
「『囚われの野』さ。なかなか刺激的なところだよ」
 ルシャデールはそう言うが、彼女にとっての『刺激的』とはどの程度なのか、アニスは考えると少し不安になった。
 橋の上は多くの人が行き来する。先に亡くなった人たちの出迎えもあちこちで見られた。
 その一方で「来るな」と追い返す人もいる。言われた方は戸惑いながら戻っていく。きっと向こうで生き返ることになるのだろう。
 橋を渡っていくと道は二つに分かれた。一つは船着き場へ、一つは荒れ地へ続く。船着き場に泊まっている船は、さっきルシャデールたちが橋まで乗った舟よりはずっと大きい。百人ぐらいは乗れそうだ。そこはかなりの人が順番を待って並んでいた。
 だが、ルシャデールはもう一つの道へ進んだ。
 両側が切り立った崖の上に道は通っていた。右も左も岩山が続くばかりの荒れ果てた光景が遥かに広がっている。地平線の方はおぼろげにかすんでいた。木一本、草一本生えていない。そちらへ向かうのはアニスたち三人だけだ。
 船の方がいいな、アニスは後ろを振り返った。すると、サラユルが教えてくれた。
「あれは、カデリでの生を終えた人しか乗れないんだ。大丈夫、落ちたからって死ぬわけじゃない」
 サラユルはルシャデールよりも愛想よく、いろいろなことを教えてくれる。
船に乗った人のすべてが、『庭』に着くわけじゃないこと。川の中に、自分の欲望や執着するものを見出して、水中に飛び込んでしまうこと。そして、行き先は囚われの野にあるさまざまな世界だということ。
「さまざまな世界って?」
「これから見せてあげるよ。おいで」
 サラユルは崖道の途中についた分かれ道から、荒れ野へと降りて行く。ルシャデールがアニスの手をつかむ。きつい目をアニスに向けているが、怒っているというより、心配してくれているようだ。
「ありがとう」
 そう言うと、ルシャデールはさらに怒ったようにそっぽを向いてしまった。
 崖下の荒れ野は、岩山ばかりだと思ったが、その岩のあちこちに入口のような穴がいくつも口を開けていた。まるで岩を穿った住のようだ。
 生きるものの影はなく、ときおり吹きよせる砂埃に陰鬱な気分が迫ってくる。誰も何も言わない。
 サラユルはその穴の一つに入っていった。景色が変わる。
 現れたのは金貨が山積みになった大きなテーブル。それがいくつもある。
 そのテーブル一つ一つに、人が一人ずつ座って金を数えていた。男もいれば女もいる。若者も老人も。
 目の前のテーブルの男は、醜く太った体をりっぱな衣服に包み、狡猾そうな目つきで金貨を積んでいく。そばでは、擦り切れた服のやせた女が、金貨が落ちてこないかと物欲しげに待っていた。
 彼らは金貨しか目に入らないようだった。よく見ると、他のテーブルから奪ってくる者もいた。奪われた方は、またよそのテーブルから奪ってくるのだ。
「守銭奴の国だよ」ルシャデールが言った。「ああやって、金数えと強奪を繰り返すんだ。たぶんずっと」
「ずっと?」
「守銭奴か……君らの世界にはいい言葉があるね」サラユルが笑った。「彼らはお金に対する執着が強くて、『庭』へ行けないんだ」
 カデリで生活していくのにお金が必要なのはアニスもよくわかっている。そして、お金以上に大切なものがあることも。
「どうして、この人たちはお金に囚われるようになってしまったんだろう」
「恐れているから」サラユルは答えた。
「何を?」
「無になってしまうこと、かな」
「無?」
 カデリに生きる人々がユフェリの記憶を失ったのは遠い昔のことだった。ユフェリから来て、カデリでの生を送った後、再び還る。このことはおぼろな信仰と、数少ないユフェレンの経験と知識の中にのみ生きている。
「坊さんたちは、死した者の魂は天界の園へ行くと話している。でも、それをみんなどこまで信じているだろう。ユフェリの存在と魂の不死を信じていないとしたら、彼らはどうすればいい?死して無になってしまうのなら、死を一時でも遅らせるしかない。生き延びること。それだけだ。そのために、必要になってくるのが、お金や権力、武力、そういうものさ」
「遅らせようとしたって死はやってくる」
 ルシャデールは無情な口ぶりで言った。
「そうだね。だから、みんな自分の分身を残そうとするんだ」
「ああ、なるほどね」ルシャデールは皮肉な声音でうなずく。「自分の地獄に自分以外の者も引きずり込みたくて、親になるんだ。自分が親にされたように、自分の子供を罠にはめるんだ」
「君は憎んでる? お母さんを」サラユルがたずねた。
「……別に。どうでもいいよ、あんな女」
 ルシャデールは刺すような目でサラユルをにらんだ。しかし、彼はそれを柔らかく受け止め、微笑んだ。彼女はぷいと顔をそむけた。
「君の中で種はとうに芽吹き、花を咲かせる準備をしている。咲けなかった花は一番美しいけど、これから咲く花はもっと美しい」
「……」ルシャデールは納得できないようだ。
(御寮様は、本当はお母さんが好きなんだ)
 だが、アニスはそれを口にはしなかった。
「ミディヤが似たようなことを言っていました。」
 サラユルはにっこり笑った。
「かわいいミディヤ。僕がカデリで生きたのは、あの一回きりだけど、彼女は一番素敵な子だった。」
「あー……そうかもしれません」アニスは少し無理をして同意した。
 サラユルはそれには頓着せず、
「さあ、次へ行こう」と、みんなを促した。
『囚われの野』巡りは続く。次に訪れたのはその隣の穴だった。
 目の前の平地で二手に分かれた兵士たちが戦っている。その数、数千人はいるだろう。縦横無尽に振るわれる剣に槍。放たれる矢。
 雄叫びが空気を振動させる。
「なぜ、この人たちは戦っているの?」誰にというわけでもなく、アニスはたずねた。
「さあね。当の本人だって覚えていないかも」ルシャデールは素っ気なく言った。「領土を広げようとか、そのくらいのものさ。さっきの守銭奴とたいして変わりないよ。ただ、こっちの方が規模がでかいだけ」
 よく見ていると、兵士たちはいくら切られても、矢を打ちこまれても戦い続けていた。首を落とされても剣を振り回している兵士もいる。どちらの兵士もあとからあとからわいて出て来る。
 サラユルによると、半分以上は幻影だという。残りの半分がその幻影を作り出して、戦い続けているようだ。彼らの中にはガシェムじいさんのように、死んだことに気がついていない者もいるが、多くは『戦え』という王や将軍の命令に縛られていた。そのために、死してなお戦うのだ。
 腕や足がなくなっている兵士もいる。
(これを向こうの世界で見たら、正気でいられないだろうな)


「カッコウが他の鳥の巣に卵を産むって、知っているかい?」サラユルが聞いてきた。
「うん。ホオジロやオオルリの巣に産みつけて、孵った雛は養い親の卵を巣から出してしまう」
「ずるいと思わなかった?」
「うん、思った」
「自然の生き物には『自分』と『他者』の区別が、人間ほどにははっきりないんだ。だから、仮親のホオジロは必死で育てる」
「間抜けだからだ。自分の卵を壊されたことも気づかない」ルシャデールは言い捨てる。
 それを無視しサラユルは続ける。
「ホオジロやオオルリ並にというのは無理だろうけど、もう少しカデリの人間が、自分の欲を捨てて他人も愛せるようになってくれればいいんだけどね。カズックが自分から神を降りたのは知ってる?」
「降りた?」アニスは聞き返した。ルシャデールも初耳だったらしい。目を見開いてサラユルの方を向いた。
「あいつは……カズクシャンの人間に見捨てられて、精霊に落ちたんじゃないの?」
「違うよ。彼は大きな神殿の奥深くに座して、人々の祈りを受けていた。でも、大多数が自分と身内の安泰と繁栄だった。物質的な欲望をかなえることばかり。嫌気がさしたんだ。そして、より人間に関わることができるよう、半肉半霊の身となった」
「だからって、たいしたことしてないじゃないか。私と会った時はボロい祠で丸くなって寝てただけだよ」
「君はカズックと出会ってなければ、とうに死んでいた」サラユルは静かに言った。
「彼は寝場所を提供してくれただけでなく、仕事のメドまでつけてくれたじゃないか。そして、トリスタン・アビューを連れてきた」
「カズックが仕組んだことだったの?」アニスはたずねた。
「そのくらい、彼には簡単だよ。フェルガナへ行く予定の商人を見つけて、行く前にちょっと君が辻占いをしている広場に足を向けさせる。フェルガナに着いて腹痛を起こさせ、アビュー家の施療所に行かせる」
「あいつ……」ルシャデールがうめくようにつぶやいた。「人を木偶(でく)か何かみたいに動かして、そしらぬ振りをしていたのか」
「神は人間の使い走りじゃないからね。傀儡子(くぐつし)はなっても。彼にとっては、みなし子や未亡人の一人や二人助けるなんてどうってことないよ。でも、一人一人の幸福は、カデリでの生とともに終わってしまう。畑を耕し、種を植え、雑草を取り、肥料をやって、やっと実をつけても、収穫する前に洪水で押し流されるようなものだよ。人間は同じことを繰り返す。他人を蹴飛ばし、突き落としても、自分が生き残ろうとする」そう話すサラユルは哀しそうに、相変わらず戦い続ける人々を見やる。
「カズックは」彼はルシャデールとアニスの方を振り向いた。「洪水でも流されない種をまこうとしているんだ」
 カズックがカデリで過ごした何千年、何万年という長い歳月、その目に何を映してきたのか、アニスの想像を越えていた。ただ、神にも悲しみがあるのだろうと、思うと、何かが胸に重く響いていた。
 彼らは戦場を出ると、次の洞窟へ向かう。
「人の欲望の行き着くところはこれだ」サラユルは一歩踏み入れた。

 禍々(まがまが)しい赤い花のような巨大な雲 
 白い閃光が一面を支配する。
 体が吹き飛ばされる。熱く、苦しい。
 引き裂かれる 自分がばらばらに砕かれてしまったようだ。
息ができない。
 アニスには何が起きたのかわからなかった。
 空気が重くて息苦しい。
 あたりは白い熱が充満し、陽炎に歪む景色の中、石の建物が溶けていく。
 人も動物もちりのように細かく吹き飛ばされるのが見えた。
 土くれみたいになった人間。動物なんて見当たらない。
 あちこちの土の中から悲鳴が聞こえる。
 赤い雨が降る。血?
 空は真っ暗になった。夜のような闇。恐怖? 絶望? いやそんなものでは表せない。
 叫びだしそうになった時、誰かがアニスを抱きとめた。暖かい。
「大丈夫。全部幻みたいなものだから」
 声が聞こえる、というよりも、思いが直接胸に伝ってくるような感じだ。姿は見えなくても、ルシャデールだということはわかる。
 今は形などないようだ。『アニス』『ルシャデール』という個人の枠すら取り払われて、二人の魂は一つに混じり合う。少年の中へ、少女の記憶や感情、さまざまなものが入っては出て行く。同時に、彼女の中へ自分が流れ込んでいく。
 どれほど時間が経ったのか、それとも全然経っていないのか。アニスにはよくわからなかった。ゆっくりと彼らは再び分離する。

 気がつくと、むっつりしながらも少し優しい顔の彼女が見えた。心配しているのがわかる。
「大丈夫、ありがとう」
 そう言ったら、彼女は不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。照れているらしい。
 しばらくして、サラユルも見つかった。
「サラユル!」ルシャデールは彼に怒りをぶつけた。「アニスは初めてなんだ! 何もこんなところに連れてこなくてもいい!」
「ルシャデール、僕は大丈夫だから。そんな怒らないで」
 自分のことを心配してくれたのはうれしかったが、アニスはサラユルに掴みかからんばかりの彼女を押しとどめ、引き離すとたずねた。
「ここはどういうところなんですか?」
「大昔の戦争の記憶だよ。とても文明が進んでて、夜でも昼間のように明るくできたり、冬でも夏でも寒くなく、暑くなく快適に過ごせる世界だった。だけど、人を殺す道具もひどく進化、というのかな、今よりずっと強力なものができていた。ピスカージェンの街一つ、人間もろとも一度に破壊してしまえるだけのものだった。人間の根本的な部分はあまり進化していないんだ。あるときそれが使われてしまって……そしてこうなった」
 溶けた瓦礫(がれき)はガラスのようになっていた。土と石くれしか残っていない。荒涼たる風景が広がる。
 一つの世界の死。土くれに還っていく。すべてがなかったものとして。
ヒューヒューと風が泣き叫ぶ。
「これは、僕らが住んでいる世界で大昔にあったことなの?」
「うん。今の君たちの歴史はせいぜい五、六千年ってとこだろうけど、一万年ほど前に、カラヌート人が海の果てから来て、野生のケモノと変わりなかった君たちの先祖に知恵をつけた。そのカラヌート人が来る二万年ほど前だ」
「……人間は二万年前の人たちとあまり変わっていないのかな?」
「あまり、ね」
「いいじゃないか、きれいさっぱりなくなって」
 ルシャデールは他の二人に背を向け、意味もなく歩を落とす。
「よくない!」思わずアニスは大きな声を出していた。「醜いものと一緒に、美しいものもすべてなくなってしまうなんて」
「美しいものなんてどこにある?」
「どこにでも。どんなところでも」ルシャデールの冷めた目をアニスは見つめ返す。「美しいものは……あるよ」
 彼は今まで見た美しいものを思い浮かべた。笑っている家族の姿。隣の家に生まれた仔犬。早春の木の芽、草の芽。あんずの花。夏のたぎる瀬。色づく麦の穂。雲を染める朝日と夕日。渡り鳥。暖炉の火。雪の降った朝。
 それらは両親の愛を核にして、今のアニスを創っていた。だが、ルシャデールには核となるものがない。それに気づいて、アニスは黙った。
「わあ、すごいな!」
 サラユルの声にアニスは振り返ると、足元に雲海が広がっていた。彼らは小島のような山の頂に立っていた。
 夜の彩を残した空に金色の陽が昇り、雲を染める。逆光になった山の峰は黒々としてよく映えている。しばらくの間、みんなでそれを見ていた。
「なんで、急に変わったんだ?」
 ルシャデールが我に返って言った。
「エルパク山だよ」アニスは言った「昔、父さんや近所のおじさんとヤマウギソウを採りに登ったんだ。その時に見た日の出だよ」
 あの時、父さんは言っていた。
『時は過ぎていく。いい思い出も、悪い思い出も、記憶の中にうずもれてしまうが、最上の思い出っていうのは永遠なんだ。思いだしさえすれば、いつでもその瞬間に戻ることができる。アニス、このすばらしい風景が、おまえにとって永遠であるように祈っているよ』
 あの時は小さくて、父さんの言ってる意味がよくわからなかった。でも、こういうことかもしれない。
 アニスはルシャデールに微笑んだ。彼女は戸惑いの色を浮かべ、日の出に視線を移した。彼女がどう思ったのか、アニスにはわからない。ただ、彼がきれいだとか、素敵だと思うものを、彼女もそう感じてくれればと、望むだけだった。
 『囚われの野』巡りは続く。
 海の真ん中で難破した船の甲板で救助を待ち続ける人。
 ずっと火あぶりになったままの人。
 高い塔から何度も飛び降り自殺を図っている人。
 寺院もあった。そこでは僧が生きていた頃と同じようにお祈りをしていた。
 病気でずっと寝たままの人は、すでに死んでいるのに「死にたくない」と生気のない目でつぶやいた。
 みんな死んだことに気が付かずに死んだ時のままだ。
「この人たちはずっとこのままなの?」アニスはたずねた。
「いいや、少しずつソワニが『庭』へ送り出している。でも、彼らは僕たちが見えないらしいんだ。見えないだけでなく、話しかけても聞こえない。だから遅々として進まない上に、新たに死んだ人たちがここへ囚われていくから、全然追いつかないよ」
「中でも自死した人は難しくてね。だけど、『庭』の本質は愛。すべての魂は『庭』を目指し、最終的には、遥かな始源の地へ還っていく。だからいつかは彼らも解き放たれていくよ、必ず」
 さ、行こうか、と言ってからサラユルがルシャデールにたずねた。
「寄らなくていいのかい?」
「いいよ。何度行ったって同じだ」
 御寮様のお母さんもきっとここにいるんだ。自殺したって言っていた……。
彼らは『庭』へ向かう。アニスの心は日陰から日向に出たように、鬱屈したものが払われた。
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