書店にて

エピソード文字数 4,999文字

 客は誰も来ないまま時間がすぎ、もうすぐ昼になるという頃に母親が戻ってきた。

「店番、ありがとね。亮ちゃんとこに行ってきて」

「親父は?」

「まだもう少し用事があるの。お昼ご飯、亮ちゃんの分も作ってあるから」

「わかってるよ」

 俺の母親は、亮が天涯孤独になって以来、ずっと亮のために昼食を届けてきたらしい。彼女なりの気遣いなのだろう。弁当箱には亮の大好きな卵焼きと梅干しが必ず入っていて、野菜がたっぷりだ。今まで俺には、こんなにおかずのつまった弁当を作ってくれた試しがない。

 書店でバイトを始めてからは、愚息を雇ってくれたお礼の意味もこめて、果物まで追加された。小さなタッパーに旬の果物が綺麗にカットされて弁当にいつも添えられていた。

 奥田書店へ向かうと、亮はちょうど配達の準備をしているところだった。彼はずっと書店にこもりきりというわけではなく、取引先の施設などに定期購読の雑誌を届けに行くのだ。

「お疲れさん。これ、今日の弁当」

「おっ、いつも悪いな」

 弁当を手渡すと、亮はうやうやしく合掌し、ワゴンのバックドアを閉めた。

「おかず、なんだろうな」

 彼は弁当箱を開け、「今日もうまそうだ」と呟く。そして卵焼きを手で掴み、大口を開けて頬張った。まるで小学生のように、「うめぇ」と目を細めている。いつもは達観した顔つきのくせに、このときばかりは子どもの頃と同じ笑顔になった。なるほど、母親が張り切って作るわけだ。

「じゃあ、あとはよろしく」

 弁当箱の蓋を閉めながら、そう言い残して二階の居間に消えていった。
 弁当なんてカウンターの陰で手早く済ませてしまえばいいのにと思うのだが、店内に匂いがこもるのが嫌らしい。バイトに店番をしてもらっている間に居間で食べるのだ。なんでも、バイトがいない日は車のバックドアを開けて腰掛け、店先でかっこむようにして食べていたらしい。
 しばらくして、昼食を済ませた亮は綺麗に洗った弁当箱を俺に手渡し、こう言った。

「そうだ、英知がそろそろ来ると思うよ」

「え、なんで?」

「あいつ、うちで雑誌を定期購読してるんだよ」

 秋山英知というのは、高校一年生の時に本州から転校してきた男だ。
 英知はそんなに背は高くないが、顔が恐ろしく整っている。中性的とでもいうか、華奢で色白で、足もすらっとしていた。

 いつも俺は亮と英知と、三人でつるんでいた。
 亮とは長年の付き合いでも、たまに喧嘩になる。というのも俺がせっかちなせいで、彼の少ない言葉の裏にある意図を汲み取れずにカッとなることがあるのだ。
 けれど、英知が間に入ってくれるようになってから、喧嘩しなくなった。英知は穏やかな声で、うまく俺に亮の真意を教えてくる調停役なのだ。
 彼のひょろっとした姿を思い浮かべ、俺は「わかった」と頷いた。

「どんな雑誌?」

「いろいろだよ。ひとまとめにしてあるから、よろしくな」

「了解」

「あとさ、今夜、仕事が終わったら英知のところで飲もうぜ」

「お、いいね」

「じゃ、頼んだよ。今日はちょっと時間かかると思うから。何かあったら電話して」

 亮はそう言い残し、颯爽とワゴンに乗り込んだ。
 残された俺は奥田書店のカウンターに立ち、店内を見回す。棚の配置も大きく響く壁時計の秒針の音も、何一つ昔と変わらない。
 ただ、平台のところどころに昔はなかったポップが幾つか飾ってある。亮なりの努力なのだろう。見てみると、なかなかセンスがよかった。

 ちらほらと客が入ってくるが、店内をぐるっと巡って立ち去る人や、立ち読みだけして帰る人も多い。それだけに、定期購読の客は心強い。美容室では雑誌が欠かせないし、市立病院におさめる医学雑誌の値段を初めて知ったとき、あまりの高値にびっくりしたもんだ。

 ここに雇われたとき、亮からは「ただカウンターでレジを打ってくれればいいよ」と言われていた。だが、すぐに「時給をもらっている以上、そうはいかない」と、亮のやり方を邪魔しない程度に、あれこれ手伝いをするようになった。
 最初のうちは本棚の掃除や雑誌の整理だけにとどめていたが、今では明日入荷する本のリストをまとめたり、定期購読の客に入荷連絡もできるようになった。他にも、文庫や文芸書にかけるカバーを折ってストックし、亮が帰ってくる頃にはレジの現金チェックもしておく。

 この日は、売上スリップを半分にカットして出版社ごとに分類してまとめる作業をすることにした。
 レジのそばに置かれた籠の中には、レジを打ったときに本から抜き取った売上スリップが貯められている。半券を送ると報奨金が出る出版社もあるらしい。
 溜まった半券を輪ゴムでまとめ終わると、カウンターの端に冊子が幾つか出しっぱなしになっているのに気づいた。手にとってみると、表紙に『通常総会議案書』とある。一番下には『高瀬市商店街振興組合連合会』の文字が印刷されていた。

「あぁ、あいつ、商店街の役員だっけ」

 資料は昨年度のものだ。今年の通常総会に備えて何か調べ物でもしていたのかもしれない。
 ぱらぱらと中を覗いてみたが、事業報告だの収支決算書だの、俺が見てもさっぱり理解できない。

「よくやるなぁ」

 小さなため息を漏らし、カウンターから店内を見渡した。
 働かせてもらってこんなことを言うのもなんだが、書店の作業は俺にとっては単調で地味にしか思えない。発注から入荷、検品、陳列、宣伝、販売、返品という作業が延々続く。扱う本は目新しいものが出ても、やることは一緒だし、そもそも俺が本に興味ないからかもしれない。どの本も一緒に見えるんだ。

 活字中毒の亮には天職なのかもしれないが、正直言って、彼がこの書店のどこに居場所を見出したのかわからなかった。確かなことは、不倫にかまけた挙句に定職もない俺よりはるかにまともだってことだ。

 またため息が出そうになったとき、書店の自動ドアが開いて一人の男が入ってきた。

「あれ、本当に憲史が店番してる」

 穏やかな声でそう言いながら歩み寄ってきたのは、英知だった。東京から戻ってすぐ、年明けに亮と三人で飲んだが、会うのはそれ以来だ。俺がいることは亮から聞いたのだろう。物珍しそうに、カウンターの俺を見ていた。

「よう、いらっしゃい。定期購読の本だろ?」

「うん、三冊あると思うんだけど」

「ちょっと待って」

 カウンターの下に屈み、あいうえお順に並べられた取り置きの本を見ていく。『秋山英知様』と付箋のついた雑誌を見つけ、カウンターに置いた。一番上の雑誌は、ウイスキーのグラスが表紙だった。

「なにこれ、酒の雑誌?」

「うん、ウイスキー専門誌」

「へぇ、そんなのあるんだ。勉強熱心だな」

 半ば感心して、英知を見た。こいつは学生時代からコツコツ精進するタイプだ。
 俺が東京から戻ってきて、驚いたことはたくさんある。父親の老いた姿、亮の母親の死、商店街の斜陽っぷり。そして英知の選んだ仕事にも驚かされた。

 大学を卒業した彼は、十代からの夢だった教師になったはずだった。けれど、再会したときには、なんとバーテンダーに転職していた。
 何故そんなに驚くのかというと、英知は酒がからきしなんだ。一口飲んだだけで、体が傾くくらいの下戸だった。
 彼はどうして教師を辞めたのかは話そうとしない。その理由は亮も知らないようだった。ただ、どうしてバーテンダーになったんだと訊くと、彼はこう答えた。

「なんでもよかったんだ」

 答えになっていないとは思ったが、問い詰めることはしなかった。英知が転職の理由を自分から言わないということは、確実に何かあったけれど心の整理がついていないということなのだ。彼は大事なことはきちんと話してくれる男だから。

 英知はウイスキー専門誌の他に、食がテーマの雑誌を二種類も買った。

「お前、そんなに料理好きだった?」

「好きだよ。それに、ほら、お客さんに出すお通しの参考になるからさ」

「頑張ってるんだな」

 感嘆とともに浮かんできたのは、羨望だ。夢だった教師ではないけれど、こうして仕事に打ち込む熱意を持てる英知が眩しく見えた。

「亮は配達?」

「え、あぁ」

 不意に聞かれ、俺は慌てて言った。

「今日、店に飲みに行くよ」

「本当? ありがとう」

 英知はくしゃっと目を細めて嬉しそうに笑った。恐ろしいほど綺麗な顔をしていても冷たく感じないのは、穏やかな物腰とこの笑顔のせいだろう。

「おう、亮も一緒に行くから、八時くらいかな」

「あ、亮も来てくれるんだ」

 英知が雑誌を小脇に抱え、嬉しそうに白い歯を見せた。

「今日のお通し、楽しみにしてて」

「おう。じゃあ、あとで」

「うん。仕事、頑張ってね」

 自動ドアの向こうに遠ざかる華奢な背中を見送り、俺はカウンターのそばにある椅子に腰を下ろした。

「俺が頑張ることって、本当はなんだろうな」

 そうぼやくと、カウンターの前に陳列された雑誌が目に入った。ネイチャー写真を主に扱う有名雑誌が陳列されている。
 この雑誌に載っているようなネイチャー写真を撮ることに憧れた時期もあった。けれど、東京での暮らしに追われ、大自然と向き合うどころではなかったし、技量もお話にならないし、かといって努力する熱意もなかった。

 美月さんのスタジオでは七五三や入学、結婚、いろんな記念写真を撮っていたけれど、本当に客が満足する出来栄えになっているか、いつも不安だった。

 俺が美月さんに惹かれたきっかけは、尊敬だった。彼女はプライベートでは奔放だったけれど、カメラマンとしての技術は確かなものだ。客は何を望んでいるのか、その人らしさが出ているか、そんな表現まで気を配り、相手が言葉の通じない子どもでも素早く最高の一瞬を写し取る。物覚えの悪かった俺には、魔法のように見えたもんだ。

 飽きっぽい俺が六年もあのスタジオにいたのは、美月さんみたいに撮りたいって願望を持てたからだった。そして、カメラマンとしての憧れは、いつしか恋にすり替わっていた。

 でもさ、世の中には努力したって報われないことってあるんだ。バランスのいい写真が撮れるようになっても、俺に『その人らしさ』は撮れなかった。
 美月さんから手ほどきを受けて、スムーズに記念写真を撮ることはできるようになったけれど、出来栄えに自信が持てるかは別の話だ。だって、俺が相手しているのはカメラじゃない。被写体という人間なんだから。

 誰だって、綺麗にライトがあたって、美しく撮れればいいだろう。けれど、どんなに時間がかかっても、自分の納得する写真がいいって人がいる。俺が「これ、いい写真だ」って思っても、首を横に振られることだってあるんだから。
 そのうち、俺は自分が何を求めて、何を切磋琢磨していけばいいか、わからなくなった。

 もちろん記念写真を撮らせてもらうことはありがたい。人生の節目を残すという、大事な役回りなんだから。撮影しながら客とやりとりするのも楽しい。写真の出来に喜んでもらえるのも嬉しかった。でも、やりがいと感動が繋がらなかったんだ。
 俺が求めていたものは、熱量だった。衝動的にシャッターを切り、その出来栄えに震えるほどの感動だった。でも、自分自身が何に対してそんな風に燃えるのかわからないまま時は過ぎたんだ。

 本当はカメラが好きだ。また写真の仕事がしたいって気持ちはある。けれど、怖いんだ。東京での無味乾燥な日々が、ここでも繰り返されるんじゃないかって。
 亮や英知が地に足をつけているのを見て、その思いはますます強くなった。カメラマンの仕事をして、また中途半端なままだったら、それこそ情けない。
 今も昔も、彼らは俺のそばにいて、真っ先に手を差し伸べてくれた。亮は仕事をくれたし、美月さんへの失恋でそれなりに落ち込んでいた俺を励ましてくれたのは英知だ。

「しっかりしろよ、俺」

 両手で顔をこすり、深いため息をついた。亮と英知が心強いと思うほど、まるで二人に置いてけぼりにされたような気がして焦るのだった。
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