下ノ巻

文字数 3,626文字

 ともあれ、心が指す方角に馬を進めようと景親は思った。なんともはかない案内役だが、それ以外に術はない。
 幾日かが過ぎた。馬はやや西よりの南方、大和の生駒山に向かっていた。
 馬を麓の村に預け、心に導かれるままに景親は単身山深くに分け入った。秋の彩りが目に鮮やかだった。たたみこむような山ひだは、風が吹くたび足下で錦の渦を綾なした。
 ひときわ高い銀杏の木が視界に入った。三抱えも四抱えもありそうな老木で、頭上の高みから大きな葉を絶え間なくふりおとす。地面は光の加減で黄金色にも見える落ち葉に厚く覆われていた。そこに立ち止まって一息ついた。陽ははや西に傾いている。そろそろ野営の場所を見付けなければならないだろう。
 再び歩きだそうとした時、景親はふいに逆毛だった。
 気配が近い。
 一陣の風が吹き、銀杏の根元の落ち葉が音をたてて飛び散った。
 思わず顔を覆い、次にそこを見た時に、ひとりの男が立っていた。
 景親は目をこらした。男の姿は妙に薄い印象がある。影が無いのだ。顔の輪郭をきわだたせる陰影も、衣のひだのかげりさえも。
 澄んだ夕刻の秋山に溶け入るようなその姿に、しかし景親は憶えがあった。乱れた髪に白髪の班。姫の背後にいたものにまちがいはなかった。
「呼んでいたのはおまえか、人間」
 投げやりな調子でそれはいった。
「何の様がある。この身は人に忌まれるばかりと思っていたが」
「おまえは・・」
「天狗、木霊、魔。好きなように呼ぶがいい」
「なぜ」
 景親はようやく言葉を見つけ、かれに近づいた。
「なぜ姫に取り付いている」
「ああ、今は姫だったな」
 天狗は、薄い笑いを浮かべた。
「取り付いているわけではないさ。姫がおれを引きよせる」
「なぜだ。おまえは姫の前世に何をした」
「前世」
 天狗はわずかに眉根を寄せた。
「そうだ。遠い前世だな、人間。おれが生まれてから三百年はとうに過ぎた。あの姫も男になり女になり、獣になりして幾度か転生した。欠けた魂を持ちながら」
「なぜ?」
 景親は辛抱強くたたみかけた。
「おれも姫もひとつのものだ、もともとは」
 天狗はわびしい笑を景親に向けた。
「京がまだ大和にあった時代だ。ひとりの王が班鳩にいた。聞くか、人間。風に浮かび木の間にあそぶ天狗でも、時に話し相手が欲しくなる」
「聞こう」
 景親はためらいなく銀杏の太い根元に腰を下ろした。天狗は伸び上がり、ふわりと空に胡座をかいた。
「王の父は」
 と天狗はいった。
「帝にこそならなかったが帝を助けてよく国を治めた。仏法への思い篤く、死して後は自身仏の様に崇められた。やがて帝も崩じた。何年か後に皇位争いが起こり、対立する者たちが王を襲った。王は一族を連れてこの生駒へ逃げ込んだ」
「その話ならわたしも知っている」
 景親は口をはさんだ。
「東国へ行き軍を集めて都に攻めのぼろうといった者に王は答えた。一人の身の故を以てあに万人を煩労しめむや。そして班鳩にもどり、一族とともに自害した」
「おれが生まれたのはその時だ。天狗がなぜ生まれるか知っているか」
「いや」
「奥山の木々の精と人の念の交わりがおれたちを産みだす。おれのもともとは生駒を降りる時の王の念だ。王の父なる方は、あまりに大きな人間だった。まわりの人間は王に父親の偉大さを期待した。王もそうなることを望もうとした。一人の身の故を以て・・王にそれをいわせたのは父親の影さ」
「死を選んだのは、王の真のこころではなかったと」
 天狗はうなずいた。
「王の魂の半分は、悔いとなって生駒に残った」
「それが、おまえか」
「そうだ。それだから幾度生まれ変わろうと、完全な魂を持てるわけがない」
 冷たさを増した風が山をどよもしていた。
 足元でからからと音をたてる枯れ葉を目で追いながら、うずくまったまま景親はじっと思いにふけった。
 どうすれば姫を救うことができるだろう。満たされぬ王の念がここにこもっているかぎり、姫が魂を得ることはない。
 この天狗が消え去れば。しかし、天狗は不死なのだ。
 「何を考えている、人間」
 ひっそりと天狗はいった。
「おれを調伏する方法か」
 景親は顔を上げ、空に浮かぶ天狗を見つめた。
「呪法の心得もあるらしいが、おれを無くすることはできまい。おれはこれから先も在りつづけるだろう」
「おまえは」
 景親はいぶかしげに呟いた。
「こうしていることに満足していないようだ」
「飽いたのさ、王の悔いを負うことに」
 天狗は低い笑い声をたてた。
「とはいえ、どうしようもあるまい。もう一度王のこころに戻るしかおれが消える方法はない。三百年も昔に死んだ王の、な」
 うつむき、地面に目を落とし、はっと思いあたった。そうだ、それ以外に術はない。
 天狗を生まれる前に帰すのだ。王をこの場に呼び出して。
 気がつくと景親は立ち上がっていた。夕陽を浴びた銀杏の燃えたつような落ち葉を踏みしめて、さらに考えをめぐらした。
 師ならばできるだろう。景親は晴明の力を信じて疑わなかった。都に帰り、師の助けを借りることはできる。しかし、自分には無理だろうか? 身のほど知らずな呪法を使い命を落とした陰陽師の話も聞いている。まして景親はこれまで呪法らしい呪法を使ったことなど一度もなかった。
 それでもやってみるべきなのだと景親は思った。
 姫のために。
「天狗」
 乾いた声で景親はいった。
「わたしは王を呼び出してみようと思う」
 天狗はまじまじと景親を見つめた。
「できるものか」
「やってみなければわからない。わたしの師はいっていた。過去の者でも現在に結びついている何かがあれば、呼び出すことは可能だと。その人間が使っていた物や、書き残した書や・・その人間と深い関係があったものほど呼び掛けは強力なものになる。王の場合はまさしくおまえがそうだろう、天狗。おまえは王の一部だったのだから」
「よかろう」
 ややあって、天狗は景親の前に降りたった。
「おまえにまかせよう。失敗したところで、これまでの時がつづくだけだ。首尾よくいけば、それもいい」
 景親は天狗と向き合う場所に座り直した。目を閉じ、心を澄ます。天狗の存在を媒介として、遥か過去の一点に思念を集中した。

 落日が厚い雲に紫のふちどりを残していた。やがて山は色あせ、夜を迎えた。
 天狗は銀杏の下に立ったまま景親を見守り続けた。降る星の冷たい光をうけた景親は、身動きひとつしなかった。
 手ごたえはない。景親はさらに力をふりしぼり、思念の糸を繰り出した。
 と、熱い痛みが頭を襲った。それはいや増し、脳髄を焼け焦がすかに思われた。
 景親は頭を抱えて倒れ伏した。痛みは耐え切れぬところまで達していた。ようやく正気をとどめている冷めた意識の片隅で、彼はちらと自嘲した。
 身の程知らずの陰陽師。
 あの夜以来忘れたことのない姫の白磁の面影がことさらくっきりとよみがえり、もやがかるように消えていった。
 意識はうすれた。力つきかけたその時、天狗が短い声をあげた。
 消え入りそうな気力をはげまして景親は目を開いた。
 天狗の側にかすかに白い光があった。その部分だけ、銀杏の木は妙な具合にゆがんでいた。
 白いものが雪であることに気づくまで、一呼吸ほど時間がかかった。空間に彼の背丈ほどの裂け目がひろがっている。裂け目の向こうは雪景色だった。銀杏の木は今ほど巨木ではなく、降りしきる雪に凍っていた。
 その元に、男がひとり立っていた。物憂げな表情の、冠をつけているほかは天狗と寸分姿形の違わぬ男だった。
 彼はおどろいたようにこちらを見つめた。
 天狗が彼に手をさしのべるのを見た。
 それが最後で、意識がとぎれた。

 几帳の影に姫は座していた。燈台の明かりが姫の影をほのかにゆらした。
 姫のもの思わぬ横顔は、あの時のままである。胸をふるわせ、姫のもとに景親はいる。
 京に帰った景親は、いっさいを晴明に話した。晴明は無言の理解をもってひとつうなずき、その日のうちに景親を連れてこの邸に赴いた。姫の父卿の名はすでに調べてあったのだ。
 例の白髭の老人と乳母のほか、室には姫の両親もいた。彼らは息をころして景親と姫とを見守った。
 晴明に命じられるまま、景親はためらいがちに姫の名をその耳もとでささやいた。
 一度、二度。
 姫の長いまつげがわずかにふるえた。
 姫は身じろぎした。静かなまばたきをくりかえし、やがて姫の目はゆっくりと見ひらかれた。
 姫は顔を上げ、首をめぐらした。みなの視線に気づき、頬を桜色に染めて袖に隠した。
 景親の胸の高なりは、その時ひたとやんでいた。
 そこにいるのはきわめて美しい、ただの少女にすぎなかったのである。
                             

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