第25話◇自殺
文字数 3,062文字
勉強をした。
勉強をしていた。
1年間、予備校に通い、勉強をした。
もう1度、大学受験をするために。
受験日の前日、不安と緊張で眠れなかった。寝ておかないと、当日、調子が悪くなる。だから眠らないと。
そう考えると、余計に眠れなくなる。
ベッドの中でごろごろ、ごろごろ。
明日の受験に合格すれば、1年遅れるけれど、なにもかもがうまくいくはず。すべて元にもどる。完全では無いけれど、元のようになれるはず。
大学に通う弓子から、何度か連絡はあった。なんて言えばいいのかが、わからなくなって、返事を返さなかったり、私からメールを出さなかったりしてるうちに、疎遠になった。
弓子の他には、親しく話ができる同級生もいない。予備校でも友達をつくる気は無くて、父さんと母さん以外の人とは話をしない1年間だった。
大学受験のために浪人することを許してくれた父さんと母さんには、感謝している。だからこそ、落ちるわけにはいかない。
万全の体調なら合格していたはず。今回は頭痛薬に眠くならない風邪薬も用意している。風邪はひいてないけれど。
大学に合格したならば、もう1度、弓子と話をしよう。1年先輩になった弓子に、大学のことを教えてもらおう。
連絡しなかったことを謝ろう。メールの返事を返さなかったことを、ごめんなさいと、謝ろう。
そんなことを考えて、ごろごろとベッドの中を転がっていると、窓の外が明るくなった。一睡もできずに、朝になった。
なにが、悪かったんだろう。今度は、何を失敗してしまったんだろう。移動する電車の中、座席が空いたからって、座らなければよかった。立ったままでいれば、よかった。
今、私は見知らぬ駅にいる。試験会場に向かう電車の中で、座席に座っていた。電車の振動に眠気を誘われて、居眠りをしていたみたい。
目的の駅を乗り過ごして、随分遠くまで、来てしまった。時計を見ると、私は2時間近く、電車の中で眠ってしまったみたい。
そして、見たことが無い駅に慌てて降りた。折り返しの電車は、なかなか来ない。いや、来てもここからまた約2時間、試験会場までかかってしまう。
戻って訳を話せば、試験を受けさせてもらえるのだろうか?
私は、いったい、何をやっているんだろう?
あぁ、疲れた。なんだか、疲れてしまった。もう、いいや。なんだか、もう、どうでもいい。
駅を下りて、見知らぬ街をぶらぶら歩く。
楽しかったことを、思い出す。小さい頃のことを思い出す。
あの頃は、そんなに難しくはなかった気がする。笑うことが、楽しむことが、生きていくことが。
今は、どうすれば笑えるのか、どうやれば楽しめるのかが、わからなくなってしまった。
弓子とふたりで見る映画は楽しかった。だけど、ひとりで部屋で見るDVDは、楽しくなかった。楽しむ余裕もなかった。
同じものを見て、あのシーンは良かったね、とか、ここはかっこよかったね、とか。
私の感想がなにかずれてるって、弓子は笑ってた。私も弓子のセンスはおかしいって、笑ってた。ふたりで笑ってた。ふたりだから、楽しかったんだ。
今になって、そんなことに、やっと気がついた。
目についた高いビルに入る。ふらふらと入っていく。
階段を上りながら、携帯を開く。
弓子が送ったメールを見る。私を心配して、いくつも送ってきたメール。
『インフルエンザかかったー。静香は大丈夫?』
『今度の土曜、暇だったらまた映画、見に行かない?』
『予備校がんばってる? 無理しすぎないで』
いつから、返信しなくなったのか。私が、おかしな引け目を感じてないで、ちゃんと返事をしていれば、今も仲良くやれていたのだろうか。
遅くなってしまったけれど、弓子にメールを送ろう。
『弓子、ごめんなさい。今まで本当にありがとう』
父さんと母さんにも、メールを送ろう。
ありがとう、と。ごめんなさい、と。
携帯の電源をオフにして、バッグにしまう。階段を上り続けて、屋上に出た。屋上の扉は、開いていた。
このビルは、なんのビルなんだろう? 誰も人がいない、廃墟のような。
ふらふらと入っても、誰にも会わなかった。
屋上から、街を見下ろす。人がいる。車が動いている。
気がついたら、高いところにいる。誰も、生まれる時代を、生まれる場所を選べない。生まれたときには、もう、高いところにいて、落ちないように、堕ちないように、がんばっている。落ちたら終わりだと、堕ちたら生きていけないと。
だからみんな、落ちないように、がんばって、高いところにしがみついている。
私は1回、落ちた。取り返そうとがんばったけれど、落ちたまま、戻れそうにない。
この世界は難しくて厳しくて、私がしがみついていくのは、無理だったみたい。
私が生きていける世界はあるのかな。私が生きていける時代はあるのかな。もしかしたら、どんな世界のどんな時代も、私には難しくて厳しくて、無理なのかな。
見える街の風景が、遠い遠い世界に見える。私は、高いところにしがみつくのに、もう疲れた。
落ちていきたい。ずっとずっと下の方へと、堕ちていきたい。もう、こんな高いところには、居たくない。私には無理。もう無理。目がくらくらする。頭がふらふらする。
だから、高いところから、落ちて終わるのは、私にふさわしい最後なんじゃないかな。
終わろうか。終わってしまおうか。
どこまでも、どこまでも、落ちて、堕ちて、墜ちて、下の方に、ずっとずっと、下の方に。
『地下の世界には、本当の友達がいる。水晶の月が昇る地下の世界には、本当の友達が待っている』
なんの映画だったかな。この歌が流れていた映画。頭の中で、サビのメロディーが繰り返す、繰り返す。
思い出すのは、弓子とよく行った映画館。その帰りのドーナツ屋。ドーナツ二つとカフェオレで、ずいぶん長々といたものだった。
父さんと母さんにも、迷惑ばかりかけてしまった。二人とも、私を心配して気遣ってくれた。私も心配させないように、してたつもりだった。それが、互いに気を使い過ぎて、距離感がわからなくなっていった。
昔はなにも考えずに話ができたのに、どう話をすればいいのか、どんなことを話せばいいのかが、わからなくなった。
私が居なくなれば、父さんも母さんも悲しむだろうけれど、これ以上、失望させるよりはずっと良いような気がする。
錆びた手すりに、足をかけて乗り越える。
目が眩むような高さ。でも、だれもかれも、みんな、そんな高いところにいる。そんな高いところにいるのが、当たり前だと、普通に暮らしている。
1度落ちて、気がついてしまったらもう終わりなのかもしれない。
下の方に見える地面に、吸い込まれるように、膝から力が抜ける。手すりから、手が離れる。
落ちる、墜ちていく、
終わる、終わっていく、
下の方に、下の方に、落ちていく。
終わる、私が終わる、やっと終わる、
これで私が私を終わらせられる。
不安も、心配も無く、
ぐっすりと眠ることができる。
水晶の月が昇る地下の世界に、
行きたいなぁ。
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こうして、過去シミュレーター内の、私の遺伝子標テスト体、平成日本の楠静香は死亡した。
あーぁ。