第8話  さくら商店街  -奈美でない名前-

文字数 6,688文字

 奈美は、1週間ぶりに出勤した。
 
 不思議なことに、あれほど辞めたいと思っていた気持ちが薄らいでいた。
 
 処方箋の効果?これが?よくわからん…。
 
 課長から嫌味の一つも、ぶっかけられるのが日常であるが、インフルエンザによる何人かの病欠の穴を埋めるのに、経理の仕事を必死にこなし、上司もそんな余裕も無いのか、職場は、とてつもなく静かなものだった。
 
 女帝もいないし…。
 楽でしょうがない。仕事がこんなに捗るなんてね。
 あのハゲも文句の言いようがないよな。
 
 人の気持ちって、自分の気持ちもよくわからないけど。
 
 変わるものね…。
 
 明日は、またどうなることやら…。
 
 
 退勤時、奈美は1件の着信に気がついた。
 
 喫茶店の女性店員からだった。写真家の河西と連絡がとれたとの事だった。
 
 おっ、仕事早いじゃん、あのおばさん。
 
 土曜日、奈美は、珈桜で写真家の河西と待ち合わせをした。
 
 
 「哲っちゃん、そこのお嬢さんだよ。」
 
 約束の時間に少し遅れて、河西が入ってきた。
 
 
 「あ、すみません、遅れて。河西哲真と言います。」
 
 河西は、ハンチング帽をひょいッと脱ぎ、挨拶した。
 
 「あ、私は、水口奈美です。」
 
 水口も思わず立ち上がり、挨拶をした。
 
 「桜商店街ですね。いくつかありましたよ。」
 
 河西は、大きめのリュックの中から、何冊ものアルバムを取り出した。
 
 「すごい、たくさんあるんですね。タブレットとかではないんですか?重いと思うんですが。」
 
 「ハハ、そうだよね、私みたいな年寄りは、紙媒体の方が、脳が理解できるんだよ。まあ見てよ。」
 
 「あら、やだ、言えばよかったね。さくら商店街の事を知りたがってる人がいるってことだけ伝えてあったからね。哲ちゃん細いのに、こんな沢山、悪かったわ。」
 
 女性の店員が、水の置き場所に困ってると、河西はアルバムをどけなから言った。
 
 「えぇっ、坂野さん、もしかして、もっと絞れたの?」
 
 「本当にごめん。25年前だっけ?」
 
 「そうです。25年前に事件があった、さくら商店街なんです。大きな桜の木があったはず。」
 
 「こんなに要らなかったな。25年前?またずいぶんと遡るんだね。大きな桜の木と事件ねえ。」
 
 思い当たるのか、それだけの情報で、河西は、アルバムをめくりながら、奈美に聞いた。
 
 「25年前ね、1995年だね。その事件に、水口さん、何か関係あるの?」
 
 「私、その時に関わった子供なんです。たぶん。」
 
 「えっ、そうなんだ。何となく覚えてる。男から、小さな娘さんをお母さんが守ったって話でしょ。事件の前に行ったことがあって、ニュースで見てビックリしたの覚えている。あの商店街だって。」
 
 「場所はどこですか?」
 
 「ちょっと待ってね。あっ、これだ。」
 
 河西は、そのページを開いて、奈美の方にに向けて見せた。
 
 「この写真はその事件の5年以上も前のだよ。左上から、順に見てみて。」
 
 「さくら商店街って書いた、幕があるわ。」
 
 「その幕に、隅っこに書いてあるよ。」
 
 「富山?」
 
 「そうここは富山。たぶんここだと思うよ。で、右側の写真は桜の木で、樹齢1000年近いエドヒガンという種類なんだけど、朽ちかけてたし、今無いんじゃないかな。」
 
 「あ、岩がある。」
 
 「そうそう、この大きな岩、何か祀られていたな。しめ縄がかかっているだろ。紙垂もついてるし。」
 
 「神聖な石ってことなのね。だから叱られたんだ。」
 
 「なんで?」
 
 「ちっちゃい頃にね。登って遊んでた。」
 
 「やんちゃなお嬢さんだったんだな。」
 
 「やっぱりここなんだね。桜の背景、山だもの。ここだきっと。ありがとうございます。でもなんで、すぐわかったの?」
 
 奈美は、たくさんの写真の中から、1分もかからずに、探し出していたことに感心した。
 
 「タブレットに負けないくらい、整理してるからね。それに、この桜の木は印象的だったから。写真撮ってたら、駄菓子屋のおばちゃんがお茶入れてくれてね。あ、そうだ、一緒の撮ったはずだ。このアルバムは桜だけで、人物写真は別にしてて…これだ。こういう触れ合いがね、記憶に残るんだよ。ほら、この写真、見てみて。」
 
 写真には、若い河西とおばあさんが、桜の前のベンチに座り、ピースサインをして写っていた。
 
 「ミイばあちゃんだ。」
 
 「えっ、知ってる人?」
 
 河西は驚き、奈美を見た。
 
 「私の祖母だと思う。たぶん。母が本当の母ならね。」
 
 「さっきから、たぶんって、自信なさげだね。」
 
 「だって、小さい頃の、記憶には、ミイばあちゃんやタカじいちゃんや、母の名前も『リカ』って言うのが記憶に残ってるのよ。でも、今の母の名前は由美子、父は雅之。母も何にも言わないし、戸籍調べても、養女とかの記載もないし。小さい頃の記憶が間違っているのかと思って。でも今聞いたら、事件は確かにあったという事でしょ。ミイばあちゃんも記憶違いじゃなかった。何がなんだか。」
 
 「不思議な事もあるんだね。」
 
 「だから、この場所に行って見たいと思って。実際にこの景色を見たら何か思い出せるんじゃないかなって。」
 
 「でも、もうこの商店街ってないはずだよ。桜の木もどうなってるか分かんないし。ランドマークが無いから、分かりにくいだろうな。岩もその場所にあるのかどうか。駅から降りて、10分ほど、歩いたんだけど、場所わかりにくかったと思うよ。良かったら、一緒に行こうか?」
 
 「あら哲ちゃん、若くて綺麗な子だからって。」
 
 「いやいや、そんなんじゃないよ。良かったらって事で。」
 
 「じゃあ、お願いします。」
 
 「ハッキリしてていいね。都合の良い日、後でもいいので教えてよ。」
 
 「基本的に土日ならいつでもいいから、今度の土日なら、土曜がいいかな。日帰りで。」
 
 「じゃ、今度の土曜ね。」
 
 「お嬢ちゃん、何か分かると良いね。」
 
 「ありがとう坂野さん。」
 
 

 一週間後。
 
 水口奈美と河西哲真は新幹線で富山へ向かっていた。
 
 「あの時は、言わなかったけど、あの場所は自分にも思い出があるんだ。」
 
 「へえ、どんな。良い思い出?」
 
 「あまり良い思い出ではないね。あの商店街の近くに、大学時代の友人が住んでたんだ。あの桜もそいつに教えてもらったんだよ。昔は今みたいに、SNSみたいなのがなかったからね。地元しか知らない名所がよくあったんだよ。」
 
 「良い思い出でないって、その知り合いの人がどうかなったの?」
 
 「あの写真を撮った一か月くらいあとかな。事故で死んだんだ。それもひき逃げで。結局、捕まってないと思う。自分と駅で待ち合わせしてたんけど、近いから歩いてくよって。いくら待ってても中々来なくて。そのうちに救急車や、パトカーのサイレンが鳴って、駅に来た人に聞いたら、事故があったって。胸騒ぎってあるんだね。場所聞いて駆けつけたら、そいつが心臓マッサージ受けてるところだった。あんなショックな場面はなかったよ。」
 
 「それは忘れられないね。」
 
 「そうなんだ。。一度、来ようと思ったけど、市町村の合併があちこちあった頃で、調べたら、もう商店街も無かった。今まで、ここへ来るのも、ちょっと抵抗があったし、結局来てないんだ。でも、もういいかなって。もう30年近く経つし。当時、自分は30歳前、そいつも似たようなもんだったな。その日は、結婚することになったからって話を聞く事になってたんだ。」
 
 「えっ、それって悲しすぎる。奥さんになる予定だった人、辛かったろうな。」
 
 「そうだね。今思っても胸が詰まるよ。」
 
 駅が近づき、無言になっていた。
 
 二人は駅を降りて、河西の記憶を辿りながら、歩いた。
 
 「昔はこの駅前には、バス停と、小さなローターリーがあって、その前に喫茶店や、ちょっとしたスーパーがあったけど、今は何にも無いな。バス停と、何台か、停めれる駐車場があるだけだね。ここ真っすぐ行って、住宅街と田畑を抜けて、10分くらい歩くと、商店街があったんだけど。」
 
 「田畑はあまりないけど、家は建ってるね。」
 
 「雨?なんか顔に当たった。傘持ってないわ。」
 
 「折り畳みならあるけど、まだ、大丈夫かな。」
 
 「ねぇ、ねぇ、あそこ、丸いポストだ。面白―い。」
 
 「あぁ、そうそう、そうだった。この辺だよ。あのポストが商店街の入り口付近に立ってたんだよ。」
 
 二人は、気持ちが早まった。
 
 「ねぇ、河西さん、商店街ってほどではないけど。お店が何軒か見えるよ。」
 
 「片側だけお店残ったんだな。」
 
 足早に歩きながらの会話に、河西は、息が切れていた。
 
 「ふう、ここだね。あの、やっぱり、水口さんって若いね。全然、息切れてない。」
 
 「お店の向かいって、桜の木?」
 
 河口は、会話がかみ合わない奈美のペースに少し戸惑っていた。
 
 「そ、そうだね。桜の木だねこれ。ソメイヨシノだ。まだ植えたばかりのようだ。桜並木にするんだろうね。」
 
 その桜並木の裏手に、柵に囲まれた岩が見えた。
 
 奈美は急に走り出した。
 
 「水口さん、ちょっと待って。」
 
 「岩が見えたのよ。」
 
 奈美が桜並木の裏側に回ると、そこには、柵に囲まれた奈美の背丈ほどもある岩があった。
 
 その岩の隣には、枝と身を失い朽ちたその桜の木があった。苔が生え、そのいびつな姿で、その自らの歴史を語っていた。
 
 河西がいつか見た時のように、岩には、しめ縄が斜めにかけられていた。
 
 ただ、違うのは、桜の木と岩が、老いた身をいたわり合う夫婦岩のように、紙垂の付いた縄で繋がっていたのだった。
 
 「なんかここだけ、違う空気が流れているみたいね。やっぱり、桜の木無くなったんだね。」
 
 「そうだね。本当に神様がいそうだ。自然に朽ちて折れたのかな。」
 
 奈美は目を閉じてみた。
 
 「景色がまるで違うけど、山の方向とか、岩の感じ、桜が元気だったころを想像すると、ここで、間違いないわ。でも…この光景の中の、私は誰?」
 
 「水口さん、向かいの時計屋さんに聞いてみよう。確か、駄菓子屋さんの向かいが、時計屋さんだったと思う。その時からある店かどうかわからないけど、何か知ってるかも。」
 
 まだ幼い桜並木を背に、道路を渡ると、いくつかの店が並んでいた。その店の並びの中に、小さな時計屋はあった。
 
 「すみませーん…。すみませーん。」
 
 何度か、呼んだあとに、店の奥から、背を屈めた高齢の男性が、出てきた。
 
 「はい、はい、修理ですかね。」
 
 「いえ、ちょっと聞きたい事があって。私、水口と言います。」
 
 「ほう、何かね。」
 
 「あの、25年前の事なんですが、事件があったのを覚えてますか?」
 
 「25年前?ずいぶん昔のことやな。」
 
 「まだ、ここが商店街で、そこの駄菓子屋があったと思うんですが、その前で、三輪車に乗ってた女の子が男に襲われて、かばった母親がケガをしたという事件なんですが?」
 
 「あぁ、なんかあったかの。ばあさんの方が分かっとるかも。ちょっと待っとって。」
 
 「ばあ、ばあ、ちょっと、来てや。」
 
 5分ほどして、奥から、妻だと思われる高齢の女性が、お盆にお茶を載せて出てきた。
 
 「あの時のことなら、覚えとるわ。お客さん、なんか関係あるんか?はい、お茶どうぞ。」
 
 「ありがとうございます。そうなんです。あの時の子供が私なのかと思って。」
 
 「おかしなこと聞くね。なんや、記憶喪失なんか?」
 
 「なんか…そう…みたいです。」
 
 「可哀そうに。あの時に襲われたのは、向かいにあった駄菓子屋のお孫さんや。」
 
 「私ミイおばあちゃんって呼んでた。」
 
 「そうやね、牧野、美佐子さんやったわ。きれいな人やったよ。あんた覚えとるがいね。」
 
 「お母さんの名前聞いたら?」
 
 今度は河西が聞いた。
 
 「美佐子さんの娘さんやね。里香ちゃんやろ。」
 
 「やっぱり…。でもなんで、戸籍の母の名前は、里香じゃない。」
 
 「そんな、おかしなことあるんか。あんた、名前は?」
 
 「私、水口奈美と言います。」
 
 「奈美?いや、あの時の里香ちゃんの娘さんは、確か、なんだっけ。ハナ…。うちの娘と同級生で、同じ呼び方だったんだよ。ハナちゃんって呼んでた。」
 
 そう言うと女性は、どこかへ電話をかけた。
 
 「あ、華ちゃん?ほら、向かいにいた、ハナちゃんって、名前なんだっけ?―あぁ、そうか、花香ちゃんか。ありがと。」
 
 「花の香で、はなかちゃんだって。」
 
 「そうなんだ…。私の記憶がおかしいの?」
 
 「あの、里香さんは、その後どうなってって知ってます?」
 
 「私の記憶では、あの事件のあと、亡くなってるんです。」
 
 河西の問いかけに、奈美がそう補足した。
 
 「その通りだよ。里香ちゃんはね、あれから、しばらくだったね。山の中で亡くなってたって。」
 
 「えっ、自殺…ですか?」
 
 水口が聞いた。
 
 「発見した時は、白骨化してて、死因は分からなかったそうだけどね。それで、花ちゃんは、里香ちゃんがいなくなった時と同時期に行方が分らないんだよ。美沙子さんと、隆行さんは、そりゃ落ち込んだんだよ。二人とも、もう亡くなったけどね。本当に可哀そうだった。」
 
 「花ちゃんって子のお父さんっていたんですか?」
 
 「あんた水口さんやったね。それは知らなくて当たり前だよ。里香ちゃんは、未婚の母だったし。美佐子さんに聞いた話では、結婚する予定ではあったんだけど、相手が事故で亡くなったらしくて。結局、未婚で花ちゃんを産んだんだね。」
 
 「事故って、もしかして、ひき逃げとかじゃないですよね。」
 
 「あら、知ってるのかい。美佐子さん言ってたよ、犯人が憎いって。」
 
 「もしかして、河西さんの友達じゃない?」
 
 「その事故って、いつですか?30年くらい前になりますか?」

 河西がすかさず聞いた。
 
 「そうだね、私も身ごもってた時だから、そんなものだね。」
 
 「やっぱり、あいつだよ。晃だよ。そうだったんだ。子供がいたんだ。」
 
 「あの時、それ言いたかったんじゃない?」
 
 「そうだな、きっと。これを聞いたら、犯人が許せなくなったよ。」
 
 「でも時効でなんでしょ?」
 
 「そうだけど。水口さんも、もしかしたら、本当の父親かもしれないんだよ。」
 
 「そう、言われても…。」
 
 「これから、どうする?自分探し。ここでは、女の子は花香ちゃんだってわかったし、君ではなかった。」
 
 そしたら、あの記憶は、何なのよ。私、夢の中で、奈美って呼ばれてるし。
 
 とても納得が出来る気持ちにはならず、ますます、疑問が奈美の頭の中を支配した。
 
 「あの、あばさん、私、その里香さんに似てますか?」
 
 「似てると言えば、似てるかね。ちょっとわからないね。」
 
 「そうですか。分かりました。ありがとうございます。」
 
 「不思議な話だけどね。今度、うちの華がくるから、もう少し何か聞いてみるよ。」
 
 雨が本降りになってきた。
 
 「折り畳みは厳しいか。」
 
 河西は、そう言って折りたたみ傘を取り出した。
 
 「相合傘もいいけど、二人で、それだとびしょ濡れになってしまうよ。この傘、持って行って。返すのはいつでもいいから、なんだったら、そのまま持っていても良いから。安もんだから構わないよ。」
 
 「ありがとうございます。また来ます。できたら、華さんとお話がしたいです。」
 
 「わかったよ。話しておくよ。気いつけて帰るんだよ。」
 
 連絡先を渡し、奈美たちは、お礼を言って店を後にした。
 
 
 
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