第5話 言えない気持ち

文字数 3,910文字




季節は梅雨。もう六月が始まっていた。雨ばかりの日が続き、朝に家を出るのが知らず知らずの内に億劫になっていく。

そして僕の心は、雨よりも煩わしく、雨雲と同じ鼠色をした、濃く、厚く、重苦しいわだかまりに支配されていた。


二人だけで街に出たあの日から、僕はやり切れない気持ちを抱えて過ごしていた。

園山さんはいつも僕を褒めてくれるし、応援してくれる。でも僕の気持ちに応えることはしてくれないだろう。

僕は、「彼女との友情に感謝しなければ」と思って、自分のつらさばかり気にする自分を責めた。

そして一生懸命に、自分の気持ちを「無いもの」として扱った。




ある日いつものように彼女に図書館で会った時。

その頃には、僕は自分の気持ちを抑え切るのが難しくなってきていて、彼女に会うことが少し怖かった。

またあの笑顔に会っても、僕は平気でいられるだろうか?そう思って、彼女が僕を見る顔を思い出しながら、図書館に入った。

入口から並んでいる本棚の間にある通路を横目に進む。六本目の通路に滑り込み、本棚が途切れている先を見ると、窓際にあるテーブルがちらっと見えた。そこは、いつも僕達が座っている席だった。

彼女は、やっぱりいた。教科書を開いて、覆いかぶさるように背を曲げて熱心に読みふけっていて、彼女の髪の毛を薄曇りの日光が淡く光らせ、ひたむきな瞳の潤いはそれより強く輝いていた。

彼女は僕の足音に気づき、顔を上げてすぐに手を振って笑う。


その顔は、僕が思い出していたより綺麗で、僕が望むより優しかった。


だから僕はその時、「僕はあなたが好きです!」と思わず叫びそうになり、体が熱くなった。

思うよりも美しい彼女が、「僕を待ってくれていた」と思って、気持ちが止められなくなってしまったのだ。


なんとかすんでのところで堪えたけど、自分がその時にしようとしていたことを一瞬間の後に振り返ると、首筋と背中に冷や汗が噴き出す。

顔に出さないようにと彼女に近づきながら笑ったはずが、彼女は僕を見て、「どうかしましたか?そんなに悲しそうな顔をして…」と言った。


園山さんは、僕の様子が前とは違うことに、ついに気がついてしまったのだ。


しまった!なんとかしなくちゃ!


焦りと恐怖が僕を強く襲う。

そして心の内に、「もう言わせてくれ!」という金切り声が響いた。もう一人の自分が、苦しそうに沼の底から上がってきて、必死に両手を掻いて溺れている。

僕はその頭を無理やり水の底に沈めて、それまでの人生で考えたこともなかった嘘を考えた。


「え?そうですか?なんともないですよ」


それは、友達に対して気持ちを偽るという、どうしようもない嘘だった。


「そうですか?」

「はい」

僕はまた笑ってみせる。体中が痛い。

「そうですか…」

彼女は諦めてくれたが、少し僕を心配そうに見ていた。


僕は、彼女の気持ちをわかっていて言葉を撤回をしない自分を、「熱心な嘘つき」と罵った。




僕はそれから、少しずつ彼女を避けた。彼女のそばにいるのが、つらいのだ。

僕の頭にはいつでも、「彼女に今こそ想いを伝えて、なんとかして叶えてもらいたい」ということしかなくて、その気持ちが飛び出しそうな口を、いつも全力で閉じ続けていた。

彼女の前にいたり、彼女のことを思い出してさえいれば、その気持ちは一分一秒の休みもなく僕を責め続けた。

つまり僕は、ほとんど休むことなく、大好きな彼女に嘘をつき続けていたのだ。

そして、僕自身にも。


自分の気持ちを無視して、その逆襲のように、恋心から涙によって責め立てられるのはつらい。

彼女の前で嘘をつくのも、嘘をついた自分を嘲笑うのも、つらい。


それなのに、僕は彼女と離れることには堪えられない。


僕は、幾度となく眠られない暗い部屋でスマートフォンを手にして、SNSの画面を開いては、何もせずにまた閉じた。


涙が増える分、心は干からびていき、僕は前より食が細くなった。それなのに僕の気持ちは消えるどころか、どんどん激しさを増していく。




ある夜僕は、くたびれた体をベッドに横たえて、スマートフォンをぼーっと眺めていた。六月の三週目の金曜日のことだった。


僕はその日も「哲学への道」の講義に出席して、顔を合わせた彼女と少しだけ話をした。

そして、二言三言の後で、「次の講義があるので」と言って、彼女から逃げた。


それを思い出し、僕は今、また自分を責めて、そして苦しい心をねじ伏せ続けている。

いつも気持ちを和ませてくれていたはずの、ベッドに掛けられたシーツの心地よさが、ベッド脇の照明の暖かい色が、疎ましかった。僕の心は、もう当たり前の幸せでは癒せない。



「もうこれ以上は無理だ。」


「そう思いながらも、僕はまだ続けようとしている。」


「もう彼女を目の前にしていられないのに。」


「だってせめて彼女のそばにいたいから。」



その四つの文句の上をぐるりぐるりと回りながら、やがて目を回して倒れてしまったかのように、僕はベッドの上で、死んだように動かなかった。

時刻は、午前二時四十三分だった。スマートフォンの画面右上にある小さなデジタル時計は、壊れているんじゃないかと思うほどに、進みが遅かった。


僕の目には、彼女とのメッセージ画面が映っている。

そこには、彼女がちょっと恥ずかしそうに微笑む顔写真があって、僕はそれを見ながら、少しだけ泣いた。


どうして友達になってくださいなんて言っちゃったんだろう。友達のままで好きになることが、こんなにつらいんだなんて思わなかった。

だって「好き」って言っちゃったら、もしかしたら彼女はその時から僕を見てくれなくなって、僕達はまったく離れ離れになるかもしれないんだ。



僕は涙を拭い、痛む心を抑えながら、彼女のアカウントにメッセージを送った。


『すみません、実は最近、家のことで忙しいんです。しばらく図書館での勉強会はお休みしてもいいですか?』。


画面に写った、味もそっけもない文字。

それは無機質な嘘のはずなのに、カラカラに渇いてしまったはずの心から、今までで一番強い痛みが噴き出し、涸れたはずの涙がいっぺんに流れて枕へと吸い込まれていった。

もう何も考えたくないと震える指で送信ボタンをタップして、すぐにスマートフォンを充電器に繋ぐと、布団に包まって身を縮める。

気が抜けたからか、少しだけ眠くなったけど、結局僕の頭は夜明けまで休まずに堂々巡りをし、何度も泣いた。


本当は、今すぐに彼女を呼び出してでも、想いを伝えたかった。




彼女は僕が送ったメッセージに、翌朝になってから返信をくれた。


『そうなんですね、わかりました。また上田さんのお時間が空きましたら、メッセージをください。あまり無理しないでくださいね。』


そういった文章の後で、「がんばれ」と応援をしている絵文字が添えられていた。

返信はしなかった。本当のことを言ってしまわないように。そのまま僕はメッセージ画面を閉じて、それまでしていた勉強に戻った。




僕の毎日はだんだんと退屈になり、青葉に雫を乗せた紫陽花も、窓をはしゃぎながら流れ落ちる雨粒も、水たまりに映る空でさえ、その唯一の色を失い、彼女の面影だけが残った。




僕はその頃、買ってきたパンなどを学内の見つからないところで食べて、昼食を済ませていた。

でも、その日は久しぶりにすごくおなかがすいて、カレーライスが食べたくなった。仕方なく、彼女とあまり会わないだろう時間帯に、学食に向かう。

彼女はいつも休憩の時間になるとすぐに食堂に来るので、もうこの時間なら、食べ終わって席を立つくらいだろうと思った。


そこで僕は、大変なものを見ることになる。


うちの学食は、半面がすべてガラス張りになっていて、全体が広く、天井も高い。雨雲の影が溶けた鈍色の光に満ちていた。テーブルや椅子の影も弱い灰色で、どこか陰鬱な空気が漂っている。それから、梅雨の湿気と人いきれで、僕は肌が汗ばむのを感じた。

それでも学生達はお喋りをやめることはなく、食堂は賑やかだ。カウンターの奥からも、おたまやフライパンのカンカンと当たる音や、食器の擦れる音、水の流れる音がしている。

わけもなく懐かしさが湧いて、僕は人心がついた。そして、少し元気が出てきた。

なんとなく、そのへんに座っている生徒にでも、「ひどい天気だよねえ」と話しかけて、「そうだねえ」と返ってくるのを想像する。

もちろんそんなことはしなくても、それでやっと、「ああ、雨だけど、頑張らないとな」と、思えるのだ。


食堂にいる間はずっと俯いているつもりだったのに、カウンターに進む時に僕は顔を上げて、辺りを目だけで見渡してしまった。

手前にいる生徒に、奥にいる生徒の姿が重なり、そうやって群れになった人々の真ん中で、僕の目が止まる。食堂を横切る通路に面したテーブルの端に、彼女はいた。

僕の心臓はそれを見て、痛みと喜びに起き上がる。まるでこの痛みなしには生きられないように、僕の心臓は強く脈打った。

彼女はいつも通りに、長い髪をシンプルなポニーテールにして、黒のスーツを着ていた。僕は、彼女があの日に髪を編み込んでいたのが、「花冠のようだ」と思ったことを、思い出す。


予想通りに、すぐに食べ終わって口の回りを拭う彼女が遠くに見えた。ちょうどその時、彼女のテーブルのそばを一人の女子生徒が通る。


僕は、彼女が立ち上がってこちらを向くかもしれないと思って、目を逸らしかけたけど。

その時、それは起こった。


彼女のそばを通った女子生徒は、彼女の座ったテーブルの前で一瞬だけ立ち止まり、自分のトレーに乗せられていたカレーライスの銀色の皿を片手で取り上げた。



そしてその生徒は皿を返して、彼女のテーブルに置かれたトレーの上に、カレーライスをぶちまけたのだ。








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