第4話 キャンプイン

文字数 4,558文字

 翌年二月、シーガルズのキャンプが始まった、当然雅美も参加している。
 シーガルズのバッテリーコーチ、小山雄太は雅美にかかりきりだ。
 小山はピッチングコーチではなくバッテリーコーチ、どちらかと言えばキャッチャーの指導が主な仕事だ、だが新人や伸び悩んでいた若手ピッチャーに的確なアドバイスを与えてぐんと成長させた実績がある、今年45歳になるが、今でもブルペンでボールを受け、シーガルズの正捕手だった経験を元にした実戦的な指導ができるのだ。
 まして初めての女性選手、しかも過去に例のないナックルボーラーと来ては従来の指導法は当てはめられない、いかに実績のあるピッチングコーチでもどう育てたら良いものか見当もつかないのだ。
 雅美を託すとすれば小山しかいない、それがシーガルズフロントの一致した見解だった。
 
「どうだい? お嬢さんは」
 今年から就任したピッチングコーチの高橋が、雅美の球を受けている小山の後ろにやって来た。
(やっと来たか……)
 キャンプが始まって3日目、高橋が雅美を見に来たのはこれが最初だ。
 高橋はずっと年上でコーチとしての経験も充分だが、実は小山は高橋をあまり高く評価していない。
 昨年までのピッチングコーチは非常に熱心だった、だが、少々教え魔的なところがあり、細かいアドバイスをやたらと多く与え過ぎるきらいあった。
 それが功を奏したことももちろんあるがマイナス面もあった、あまりに細かくアドバイスされたことで結果的にフォームを崩してしまったり故障してしまったりと、シーズンを通してピッチングスタッフが揃わない状況が続き、それがチームの低迷につながったことは否めない、そこでシーガルズは、かつての名投手で一昨年優勝したチームのピッチングコーチだった高橋を招聘したのだ。
 だが、高橋はベテラン至上主義で、若いピッチャーを育てることに熱心ではない、彼の元で育ったピッチャーがいないわけではないが、小山に言わせれば、それだけの素質とやる気を備えていたピッチャーが出てくるべくして出て来ただけのこと、高橋は手駒を上手く使うことには長けていて、ある程度駒が揃っているチームの投手陣を上手く廻して行くのは得手だが、駒数が足りない今のシーガルズにはあまり向かない、小山はそう考えている。
 もっとも、雅美の近くに中々来なかったのは当然のことでもある、キャンプインして間もないこの時期、ベテランは肩慣らし程度だが、まだ実績の乏しい若いピッチャーはアピールする時期でもある、そしてピッチングコーチとしては、ドラフト6位の雅美よりもドラフト上位で指名した新人ピッチャーや、今年一軍に定着して欲しい若手を重点的に見なければならない、ただし文字通り見ているだけでアドバイスらしいこともしていない、育てようと言う気はなく、使えるか使えないか、使い道をどうしようか考えているだけのようだが。
 そして、高橋は雅美の獲得をあまり良く思っていないのは編成会議で明らかだった。
 女は女子プロ野球でやっていれば良いのであって、日本における野球の最高峰であるプロにまでしゃしゃり出て来るものじゃない、それが高橋の本音なのだ。
 
「遅いなぁ……」
 高橋は吐き捨てるように言う、雅美のストレートは120キロそこそこ、確かにそれではプロでは到底通用しない。
「確かにストレートは無理でしょうね、でもナックルは見所あると思いますよ」
 小山はムッとする気持ちを抑えて、勤めて平静に言った。
「そうかい? もう変化球を投げてるのか?」
「ええ、女子ワールドカップがありましたから秋季キャンプはパスさせましたけど、体はすっかり作って来てますよ……ナックルを見ますか?」
「ああ、見せてもらおう」
「わかりました、おい、ナックルだ」
「はい」
 ストレートも男性に混じれば遅いが、ナックルは更に30キロほど遅い90キロ、だが、そのボールを小山はミットの土手に当てて落球してしまった。
「確かに不思議な変化をするな……でも、どうした? 捕れないようなボールじゃないだろう?」
「変化の予測がつかないんですよ」
「どういう意味なんだ?」
「ミットに入る瞬間まで変化し続けてるんです、俺の後ろじゃなくてバッターボックスに入ればわかりますよ」
「そうかい? じゃぁ……」
 高橋はバットも持たずにバッターボックスに入り、一応構えだけして見せる。
 小山は雅美に大きく頷いて見せた、『本気で投げ込んで来い』と言う意思表示のつもりだった、雅美もそれを理解したらしく、大きく頷き返すと、渾身のナックルボールを投げ込んで来た。
「ほう、確かに面白い変化をするな、だがこのスピードじゃ少々芯を外したくらいじゃ持って行かれるぞ、高いバウンドの内野安打もありそうだな」
 高橋が言うように、少々バットの芯を外しても、このスピードで男のパワーなら大きなフライくらいは打てるのも確かだ、バットの下っ面に当たったとしても高いバウンドのゴロにはなりそうだ、内野安打になる確率も高いし、内野の頭を超えることもありそうだ。
 だが、三振を取れる確率は現在のエース並みに高いとも思えるのだ、少々ではなくはっきり芯を外せば飛ばされないし、そもそもバットに当てること自体が難しい。
「ま、お嬢さんはお前に任せる、俺はあれこれ口出ししないしそのつもりもないよ」
 そう言い残して高橋は背を向けた。
 望むところだ……小山はほくそ笑んだ。
 別に高橋に恨みはないし、ぎゃふんと言わせたいなどとも思っていない、だが、小山にとっては、今までに類を見ないピッチャーを育て上げるのは魅力的な仕事だし、頭の固いコーチが余計な口出ししないでくれるのなら有難いくらいだ。

 雅美をモノにするために、小山にはもうひとつ大きな仕事がある。
 キャッチャーの育成だ。
 雅美はクイックモーションをしっかり身に着けている、と言うよりもランナーなしでもクイックでしか投げない。 コントロールを安定させると言う意味もあるのだが、クイックを磨いているのは遅いナックルを武器にしているので盗塁を狙われるからだ。
 女子プロでも狙われるくらいだから、男子ならば当然狙ってくる。
 現在の正キャッチャーは田口幸次、打力に優れ、キャッチングとリードにも安定感のある大ベテランだが、年齢と共に肩が衰えて来ている、雅美の『女房役』には適しているとは言えない。
 シーガルズにはもう一人、3年前に大学野球からドラフト2位で獲得した大型キャッチャー、武内もいる。 長打力が魅力の選手だが、守備力には少々疑問が残る、下手と言うほどでもないのだが、プロで正捕手を長く続けるにはキャッチング、フットワーク、リードとまだまだ改善しなければならないと小山は考えている、だが本人は打力でアピールしようと考えているらしく、守備練習にはあまり熱心ではない、いくら指導しても本人の意欲がなければ上手くはならないものだ。
 田口の年齢を考えればこの2~3年の内に正捕手交代の必要に迫られる、その一番手は武内だろうが、小山は別のキャッチャーに目を付けている。
 高校卒でプロ入りして4年目、くしくも雅美と同学年の松田隆、まだ一軍での実績はゼロだが、昨年二軍では最も出番が多かったキャッチャーで、ドラフト外入団ながら小山がずっと指導してきた。
 誰を正キャッチャーとするか、それを決定するのは監督だが、小山は打撃を度外視して守備力、リード力で選ぶべきだと考えている、そして、そんな小山の眼鏡に最も適うのが松田と言うわけだ。
 雅美がローテーションに入るには松田のような守備力に長けたキャッチャーが必要だ、逆に言えば、松田にとっても雅美が一軍で投げることは松田も一軍の試合に出場するチャンスになるのだ。
 
「松田、ちょっと受けてみてくれ」
「はい!」
 松田は、自分がこうして一軍キャンプに参加できているのは小山の進言があったからと知っている、そしてかつては守備とリードでレギュラーの座をつかみ取った小山のアドバイスには真摯に耳を傾ける。

「おっと……」
 雅美の一球目を松田はミットに当てて落としてしまった、手元まで変化し続けるナックルに対応しきれなかったのだ。
「どうだ? 確実に捕れるようになれそうか?」
 小山にそう訊かれた……その瞬間、松田は小山の意図を理解した。
 つまり、このプロ野球界初の女性ピッチャーを生かすには自分が必要と思われている。
 このキャンプでの目標は一軍に定着すること、田口と武内に次ぐ三番手になることだった、だが、三番手の出番は極端に少ない、田口も武内も打力があるだけに代打を送られることはまずないのだ、だが、このナックルを生かすには自分の守備力が必要、小山はそう考えているのだと悟ったのだ。
「手元まで変化し続けるんでキャッチングが難しいですね」
「俺も半分落としちまうよ」
「ストレートはどれくらいですか?」
「120キロくらいだな、受けてみた方が実感できるだろう」
「ええ」
 次のストレートはやや鈍い音を立てて松田のミットに収まった。
 受けたミットをしばらくそのままに保持し、感触を自分の中に取り入れてから、松田は構えを解いて言った。
「特注のミットが欲しいですね」
「確かにな」
 小山は微笑を浮かべてそう答えた。
 松田は全てを理解していると確信したからだ。

 翌日、松田はクッション材をほとんど抜いたミットを用意して来た、新しいミットは昨日のうちに特注したが、届くまでには一週間程度かかる、そこまで待ってはいられないのだ。
 パァン。
 乾いた音を立てて雅美のストレートが松田のミットに収まった。
「あんこを抜いたのか」
「ええ、ほとんど」
 いくら120キロしか出ていないと言っても硬球を素手に近いほどクッションを除いたミットで捕れば骨まで響く、だが、松田はそれをやろうとしているのだ。
 しばらくストレートを投げさせた後、ナックルを試す。
 やはりまだこぼすことも多いが、ミットがついて行けないと言うことはない、相当に軽量化した効果だろう。
 キャンプが進めば小山は他のピッチャーの相手もしなくてはならなくなる、小山は腹を決めた。
「二人とも良く聴いてくれ、石川、お前が心置きなくナックルを投げ込むにはこの松田が必要だ、ナックルがどれだけ有効でも捕れるキャッチャーが居なくちゃ出番はない、松田、知っての通り現状では一軍の三番手にほとんど出番はない、お前が一軍の試合に出るには石川が必要だ、お前たち二人は運命共同体だ、二人とも日の目を見るか、二人とも二軍でくすぶるかのどちらかしかない、俺もできるだけお前たちを見るが、かかりきりと言うわけにも行かない、二人でよく話し合ってどうしたら良いか考えてくれ、俺はいつでも相談に乗るから」
 雅美と松田は力強く頷いた。
「良くキャッチャーを女房役と言うが、お前たちの場合は男女が反対だな、でも今の時代、そんなバッテリーがあってもいいだろう」
 小山はそう言って笑い、松田の尻をポンと叩き、雅美の尻を……叩くのを止めて肩をポンと叩いた。


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