あじさいの咲く頃に

文字数 1,750文字

 今年もあじさいの咲く季節がやってきた。私は鏡の前でわざとらしく微笑むと、傘を片手に家を出る。最近、よく眠れない。雨はまだ降っておらず、道端のあじさいが濡れた地面に反射して光っていた。ふと、頬に冷たいものが流れた。目をこする。あじさいがぼやけて見えた。
 そろそろ夢を見る。私はこの時期になると、決まって弟の夢を見るのだ。もう十年も経つのに、まだ昨日のことのように思い出す。
 弟は、自ら命を絶った。
 年の離れた弟は、小さい頃から虫すら殺せないほど優しくて、少ないお小遣いで親にプレゼントを買ってあげたり、泣いている子を慰めてあげたり、進んで人のために動く子だった。帰り道に転んで、起こしてくれたときのあたたかい手は、今でも忘れることができない。
 でも、私は弟を見殺しにした。友達からなんとなくの噂は聞いていたけど、本人がなにも言わなかったので、私は特に気にしていなかった。長い間、歯を食いしばって耐えていたのだろう。両親に心配をかけたくなかったのか、最後までなにも言わなかったそうだ。
 いつしか私は上京した。仕事で眠る暇もなく、家に帰ることもできず、苦しかったのを覚えている。そんなある日、珍しく弟から電話があった。
「無理してない? 大丈夫?」
 そんな感じの内容だった。特に用事もなく、ただ心配だったと言われ、一言二言話して切った。それだけで救われた気がした。その晩、夢を見た。どこか見覚えのある神社。草木がきれいで、風がそよそよと吹いている。鳥居をくぐる手前に、弟が立っていた。目が合う。なにか言った。聞こえなかった。朝、起きたら泣いていた。親からの着信。そこで弟が自殺したと聞いた。もっと電話すればよかった。話を聞いてあげればよかった。そうしたらもしかして――。
 それが私の後悔。一生消えない心の傷。
 ――雨。
 傘をさす。緑道のあじさいが喜んでいるように見える。小鳥の声が聞こえる。歩く速度を少し緩める。地面から土の匂いがする。ふと、道の上にあじさいの花が等間隔に並べられていた。私は無意識にあじさいについていく。脇道。木々が揺れている。迷子になった子供のように、少しだけ不安な気持ちになる。それでも、不思議なことにこの道で間違っていないという確信があった。風。こずえから大粒の雫が落ちて傘を叩く。顔を上げる。ドキッとした。目の前に弟が立っている。当時とまったく変わっていない。きっとこれは夢だ。弟が歩き出す。その後ろをついていく。弟の背中は小さかった。当たり前だ。弟の時間は止まったままなのだから。あじさいにかこまれた長い石段。ところどころ苔で青く光っている。私たちはカタツムリを横目に、ゆっくりと登っていく。息が切れる。長い。先が見えない。まるで永遠のように感じられる。どれぐらい登ったのだろうか、弟が振り返った。笑顔だった。スッと手を伸ばす。相変わらず優しい子だ。私は少し躊躇したけど、傘から手を出して、弟の手をそっと握った。あたたかい。自然と涙がこぼれ落ちた。
「元気だった?」
 私がそう言うと、弟は少し困った様子で「うん」と頷いた。頂上。そこは夢の中で見た神社だった。境内の中心には大きな炎が燃えている。周りには大勢の人が集まっていた。
「お祭り?」
「うん、毎年ここで、僕と同じような人たちが集まって、神さまに祈りを捧げるんだ」
 誰かが弟の名前を呼んだ。私は、なんとなくもう弟には会えない気がした。
「ねえ」
 少しの間があった。
「なにもできなくて、ごめんね」
 弟は泣いているような顔で微笑んだ。
「そんなことないよ」
 と言った。
「また、会える?」
「きっと」
 弟は境内の中央に歩いていった。私はそこに行けない。行くことはできない。弟の後姿を眺めながら、
「ありがとう」
 とつぶやいた。耳元で、弟の声が聞こえた。
「こちらこそ、ありがとう」
 ああ、そうか。それが言いたかったのか。きみは本当に優しい子だ。私の自慢の弟だ。――風。火の粉が空高く舞い上がって、瞬きをした瞬間、私は元の緑道にいた。
 雨が上がっていた。あじさいがキラキラと光っている。傘をたたんで大きく深呼吸。そうして、また歩き出す。
 今日は弟の命日。緑道を抜ける。父と母は先に到着していた。私は両親の元に駆け寄って、お墓の前で静かに微笑んだ。
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