あの朝、空が赤かった。

文字数 7,250文字


「なぁねえさん、あんた前に、南五条の、ニューはまなすビルの居酒屋で働いてなかったか」

 カウンター席の隅で電子タバコを口にしていた細身のスーツ男性が、メロンソーダの氷が溶けて緑の綺麗なグラデーションになった頃に、わたしへとそう言った。
 何度目かの来店で初めて声を掛けられたことと同時に、懐かしいことを言われて驚き、わたしはどこかくたびれた様子の男性を見つめる。
 それをわたしが意味を理解できなかったからだと思ったのか、「名前は……忘れちまったな、オレンジの暖簾の店だよ」と言い訳するように彼は付け足した。

「もしかして『肴(さかな)・尽美屋(つくしや)』ですか? はい、二十年近くも前の話ですが、お勤めしていました。
 もうなくなってしまいましたけれど……」

 わたしが答えると彼はほっとした様子で「そうだった、つくしやだ」と電子タバコを灰皿に置いた。
 吸い殻がないので、吸ってはいなかったらしい。
 やっとメロンソーダに口をつけてから、もう一度彼は告げる。

「あの頃、常連だったんだよ、俺」

 暑い夏の日が続いた年だった。

 良い思い出も悪い思い出も、いっぱい詰まった年。
 色々なことがいっぺんに思い出されて、何と言っていいかわからなくて、わたしは曖昧に笑った。

「夢、叶えたんだね」

 落ちた言葉に息を呑み、咄嗟に何と返していいかわからなくて、わたしは「……ありがとうございます」と呟く。

 真っ直ぐにここまで来れたわけじゃない。
 本当は夢なんかなくて、ただその日その日を必死にやり過ごしていただけだった。
 それをこの人に言っても仕方のないことで、だからわたしは押し黙った。
『あの時』に夢と呼んだものが叶ってしまったからこそ、現実との境目を後ろめたくも思う。
 早く帰って欲しいような、引き留めて弁解したいような、どうとでも取れる気持ちが動いて、「お水、お取替えしますね」とわたしは手を伸ばした。

 それ以上男性は何も言わなかった。
 わたしも何も訊ねなかった。

 カウンター内でわたしはおしぼりを洗う。

 南五条。
 そう言われてすぐにあの雑多な繁華街周辺を思い出すのは間違いなく酒飲みだ。
 不夜城と言うにはどこか眠た気な、けれどネオンだけではない明るさを持った街。
「じゃあニッカおじさん前で」
 今よりいくらか若かった頃に何度も口にした。

 色とりどりの人がいた。
 わたしもその中ひとりで、まるですべてが同じことの繰り返しに思えた日々。
 けれど、想えばなにひとつ同じことなんてなかった。

「来週さ、すすきの祭りだね」

 天気の話のように男性は言った。
 その言葉にわたしは器用に涙を飲み込む。
「チケット、余ってんだ」
 伝票と一緒に出されたのは千円札とすすきの祭りの出店のもぎり食券だった。

「俺のところも、店出してるから。
 つくしや覚えてるやつ、何人かいると思う。
 時間あったら、顔出して」

 さっと身を翻して男性は店を出た。
 あっという間のことで反応できなかったわたしは、慌ててその背を追う。

「お客様、いただけません! それにおつりがあります!」

 駆け寄ろうと声をかけると、男性は立ち止まって少しだけ顔をこちらに向ける。
 一呼吸してから「どうせ余ったチケットだし、釣りは取っといて」と言い、流しのタクシーを捕まえた。
 乗り込んで発車するのを見送ってから、わたしはため息を落としつつ手にした千円札と食券を見る。

 まだ始まってもいないお祭りの食券が、余るなんてことがあるわけがないだろうに。
 男性の意図がわからず、わたしは戸惑いつつ店内へ戻る。
 わたしが名付けた、わたしの店へと。

 ――問われれば、「自分のお店を持つのが夢なんです」と答えていた時期があった。

 できることなら、あの時のわたしを抱きしめたいと想う。
 あなたの願う通りにはならないけれど、そこまで悲観するほどの将来ではないよ、と。

 そう思えるようになったのも、きっとつい最近なのだろうけども。

 伝票バインダーには名刺が挟まっていた。

『Bar Dawn  owner 阿部 和仁』

 尽美屋(つくしや)のことを知っているのなら本当に来てくださっていたお客様なのだろうけれど、残念ながら名前を見ても思い出せなかった。
 わざわざ食券を渡すためにアイドルタイムを狙って来てくれたのだろうか。
 バーの住所はすすきのの一等地で、ビル名を見てすぐにどこにあるか当たりがつく。
 あんなところでお店を持てるなんてすごいわね、とわたしは独りごちてレジドロアーに食券と名刺をしまった。

 このお客様が何を思って名刺等を置いて行ったのかはわからない。
 レジ横のカレンダーをちらりと見た。
 思い出ばかりが詰まったすすきの祭り。
 それなのにもう何年も足を向けていなくて、その理由はわたし自身の気持ちの問題だとわかっている。
 ……ふと、夕方からはお店を閉めて行ってみようか、と思う。
 どの日なら行けそうか考えた。

 誰もいない店内で、わたしは少しだけ昔を思い出した。

「みーちゃんの笑顔が見たいから、また来るわ」

 まだ柔らかな心だった十代の頃。
 そう言ってくれるお店の常連さんたちと、少しだけ怖いマスターと、気のいいママさん。
 初めてのアルバイトで右往左往して失敗ばかりのわたしに、「あんたは笑ってればいいの、それが仕事よ」と、発破をかけてくれたのはママさんだった。
 真に受けたわたしはいつも笑っていた。
 辞める時にはわんわん泣いたけれど。
 あまりにも、いただいたものが多過ぎて。

 あの夏のすすきの祭りは、とても暑くて、とても楽しくて、忘れ難くて、大切だった。

 問われれば、「自分のお店を持つのが夢なんです」と答えていた。
 本当は夢なんかなくて、ただその日その日を必死にやり過ごしていただけだった。
 それなのに、そんなわたしにお客様は「将来は何になりたいの」なんて訊く。
 その度にわたしは笑ってそう答えたけれど、きっと本心じゃないのは、ママさんにはばれていたと思う。
 それでも何も言わずに、要領の悪いわたしに仕事を叩き込んでくれた。
 なんの御恩も返せぬままたった一年半で辞めてしまったけれど、社会人としての初めての経験が、すべてあの店で本当に良かったと今でも思う。

「自分のお店を持つのが夢なんです」

 初めて心からそう言えたのは、すすきの祭りでだった。

 願いを持ち続けるのは難しくて、時間に埋もれた記憶になってしまった。
 だから今わたしがこうしてわたしの店を持っているのは、ただの現実的な選択であって、あの夏の言葉の成就ではない。
 それを理解はしていても、それでも言えることがある。

 遠回りをし過ぎたけれど。
 あの夏がなければ、今のわたしはきっと存在しない。

 ――せっかくだから、初日に行ってみよう。

 あの暑い夏を思い出しに、常連だった人からもらった食券を持って。
 真っ直ぐに歩むことはできなかった、わたしの人生の出発点。
 あの時には見れなかった花魁道中を見て、いろいろな出店を回って、いつもとは少しだけ違う、いそいそとしたススキノの熱を感じに行こう。

 わたしはわたしに謝らなければならない。
 無為に過ごした時間の分だけ。

 こんな冷めた大人になって、ごめんなさい。

 できることなら、あの時のわたしを抱きしめたいと想う。
 あなたの願う通りにはならないけれど、そこまで悲観するほどの将来ではないよ、と。
 あなたが見たかったものだけを見て、あなたが願ったことだけを行えたわけではなかったけれど。
 それでもわたしは今、わたしの足で立っている。

 そう思えるようになったのも、きっとつい最近なのだろうけども。

****

 すすきの祭り初日、十六時に店を閉めてぶらぶらとススキノへと赴いた。

「みーちゃん? みーちゃんだろ?」

 まだ火おこしをしている出店が殆どで、歩行者天国の人垣もまだまばらだった。
 ドリンク販売を始めている店を探して路地中を行くと、眺めた出店のメニュー札の奥から声がかかった。
 屋号を見ると『Bar Dawn』。
 わたしは声の主へと顔を向けた。

「カズヒトから聞いてたよ、来るかもしんねぇって。
 うわー、嬉しいな、これ。
 みーちゃんに来てもらえた」

 親し気に話しかけてくる男性はまさに鉄板に火を入れている最中だった。
 見知らぬ人でわたしは戸惑い、どう返事をするべきか考えあぐねて首を傾げる。

「ああ、ごめん。
 昔、カズヒトと『つくしや』に通い詰めてた野郎のひとりだよ。
 あの頃、『つくしや』カレー三百円だったろ? 金のない俺らにとっちゃ、天国みたいな場所だった」

 リーマン・ショック前の、不景気ながらもゆったりとした時代だった。
 笑うとえくぼがはっきりと出て、とても親しみやすい男性に、わたしは「ごめんなさい、わたし、憶えていなくて」と返した。

「そりゃー憶えてないでしょう。
 カラス族だったから、俺たち。
 皆おんなじ格好して、髪形も似せてた。
 憶えられるわけねーって」

 声を上げて笑う男性に言われて、確かに当時ススキノの風物詩だった『カラス族』と呼ばれる黒服の男性たちがよく来店していたことを思い出した。
 若い女性に声をかけて、風俗店やアダルトビデオへの出演を斡旋するスカウトマンだ。

 その姿は皆一様にどこか虚ろに見えてしまって、わたしは変わらずに笑うことしかできなかったけれど、無言で食べて無言で去っていく背中に、「ありがとうございました!」と励ますような気持ちを乗せて言ったものだった。

「よし、火入った。
 みーちゃん、なに食べる? 俺のおごりだから何でも頼んで」
「いえ、そんな! オーナーさんからチケットをいただいています。
 それ使ってもいいですか?」
「なんだよカズヒト、自分だけイイカッコしやがって。
 わかったよ、ドリンクは一枚ね。
 何がいい? つぶ焼こうか?」
「はいお願いします、ありがとうございます」

 プラカップの生ビールをもらって、わたしは近くの長テーブルに着いた。
 まだまだ日は沈んでいなくて、こんな明るい時間から飲めてしまうススキノという街に同化した気分だ。
 色とりどりの浴衣の女性たちが、結い上げた髪に少しはにかんだ微笑みを浮かべて歩いている。
 出店はどこも準備にせわしなくしていて、ウェイトレスのバニーガールたちが楽しげに言葉を交わして笑い合う。
 いつも往来が多い場所なのにさらに人通りは増えて、封鎖された車道に几帳面に並べられた沢山の長テーブルにもちらほらとビール片手のお客さんが見えてきた。
 わたしもその内のひとりなのだと思うと少し笑えて、ぐいとカップを傾けた。

「みーちゃん、いける口なの?」
 器用につぶと焼きそばの紙皿を片手に持ち、もう一方の手にはビールを持って、先ほどの男性がわたしの隣に座った。
「カズヒト呼んだんだけど、なんかごちゃごちゃ言って来ねーみたいだ。
 何を恥ずかしがってんだろうね、いいおっさんが」
「わたし、チケットのお礼を言えてなくて……」
「あー、いーのいーの、どーせなんかカッコつけやらかしたんでしょ、わかる。
 飲もうや、とりあえず」
「お店はいいんですか?」
「若いのに任せた。
 みーちゃんのが大事」

 笑いながらビールを煽って、「俺エイジ、今更なんだけど、よろしく」と彼は言った。

「なんでカズヒトがみーちゃんとこ行ったか、わかる?」

 わたしは首を振り「いいえ」と答えた。
 昔馴染みの店の元アルバイト店員、わたしはそれだけの人間だ。

「『つくしや』はさ、ホント、いいとこだった」

 どこか遠くをじっと見つめ、エイジさんはぽつりと言う。

「マスターもママさんも、俺らみたいのを嫌がらずにさ。
 カレーだけ食ってく嫌われもんのカラスなんて、ホントは嫌だったかもしれねーけど。
 それにみーちゃんがさ、いっつも笑ってくれた。
 俺たち、ホントそれに救われてた。
 だから皆で、みーちゃんだけは引かねえぞ、って約束してたんだよ」

 今になって明かされた事実に驚く。
 だからなのか、わたしはカラス族の勧誘に遭ったことがなかった。
 何度か声をかけられたことはあったのだけれど、わたしの顔を見たら慌てて去って行くので、そんなにわたしは魅力がないのかと当時本当に落ち込んだものだった。

「ススキノ条例できて客引きできなくなったから、カラスやめてさ。
 別に好きでやってた仕事でもないし。
 琴似とか北二十四条に流れてカラス続ける奴もいた。
 すぐまた禁止になったけど。
 あいつら今どうしてるんだろうな。
 ろくなことになってない気がするけど、下手すりゃ俺たちもそうなってただろうな。
 次の日のこととか考えてなかった。
 ただ流されて生きてただけだから」

 それはわたしも一緒です。
 言おうとしたけれど言えなかった。

「俺らバカで、みーちゃんみたいに夢もなかった。
 でもいーよなって話してて。
 俺らも店持ちたいよな、て、カズヒトが言い出したの。
 だから今あいつがオーナーなんだけど」

 泡の消えたビールに目を落として、思い出したように笑うエイジさんの言葉に、「そんな立派なものじゃなかったんです」とわたしは自嘲した。

「他になにかやりたいことがなかった。
 でも、お仕事は楽しくて。
 あの年のすすきの祭りで『つくしや』が出店して、いろんな方にお会いして、やっと初めて本気で言えたんです、お店を持つのが夢って」

「立派じゃん、そう思って、叶えたんだろ?」

「でも、ずっとそうしようと思って生きてきたわけじゃない。
 たまたまお店を持つことになって、たまたま『あの時』の夢が実現したように見えるだけです。
 わたしがこれまでやってきたことは、あの時のわたしが願っていたことじゃない」

「……ホント変わんねーなあ、みーちゃん」

 にやり、と笑んで、「二杯目、何にする? ビールでいい?」と言われ、「はい、お願いします」とわたしは食券をちぎった。
 わたしにカップを渡しつつもう一度座り、エイジさんはわたしに向き直る。

「みーちゃんのカフェ、俺も一度行ったよ、あいつと一緒に。
 あいつが見つけてきたんだけど、オシャレカフェとか、俺らみたいなおっさんが入るのハードル高いし。
 もう一人、ヒロトっていうのがいるんだけど、そいつと三人で行ったの。
 窓の方の、テーブル席に座った。
 感動したよ、なんかさ。
 ああ、みーちゃん、変わんねえなって。
 にこにこしてて、一生懸命で。
 バカだよなー、男三人、でかい図体で、ただアイスコーヒーすすって金払って、出てきた。
『みーちゃん変わんなかったな』って、店出てから話して、なにしに行ったんだろうな、ほんとバカ。
 でもさー、行ってよかった。
 そういう所、ホントそのまんまで、嬉しかった」

「食べようよ」と差し出された割りばしを受け取る。
 十代の頃と変わらないと言われて、喜べるほど若くもない。
「少しは大人になったつもりです」とつぶ貝をつつきながら言うと、「違いねぇ、イイ女になった」と返され、きっとわたしは酒によらずに赤面した。

「たぶんみーちゃんは知らないけど。
 すすきの祭りの前かな、後かな? どっちか。
 俺たちでろんでろんに酔っぱらってさ、朝方、ここらへん歩いてたの。
 ヒロトなんか排水溝にリバースしまくるし。
 そんでさ、つくしやの近く通ったのよ。
 びっくりしたよ、みーちゃんが、あんな朝から仕事してんの。
 ごみを外に出してたんかな、そこらへん掃いたりして。
 俺らにとってはさ、朝なんて夜なの、仕事するような時間じゃない。
 でもさ、みーちゃん、誰が見てるわけでもないのに、いや、俺ら見てたけど、一生懸命仕事してたの。
 そんでさ、めっちゃ、空が赤いわけよ、すんごく、綺麗なわけ。
 びっくりしてさ。
 空が綺麗なんて、ずっと思ったこともなかった。
 でもさ、そん時みんなおんなじこと思って。
 カズヒトが『空、綺麗だな』て言って、ヒロトがしまいにゃ泣き出して。
 あの朝、空が赤かった。
 それに気付かせてくれたの、みーちゃんなんだよ」

 驚いてわたしは何も言えなかった。
 朝の仕込みの時のことだ。
 当時、昼のパートタイムの方と当番制で早朝の仕込みをしていた。
 前日は二十二時まで働いていても、どんくさい自覚のあるわたしは仕込み当番時はかなり早くから店に来ていた。
 今思えば若かったからできていた芸当だ、と本当に感じる。

「みーちゃんは、きっとそうやって一生懸命にこれまでやってきたんだろう。
 自分の思い通りにいかないことだって、そりゃ沢山あるだろうさ。
 でもさ、それでいいじゃん。
 俺たちは、なんでも一生懸命なみーちゃんに、すっげー、励まされてたんだよ。
 そしてそれが全てだ」

 泣きそうになって奥歯を噛む。

「それからみんな、みーちゃんが呆れるぞって言って、バカみたいに働いたよ。
 やっぱりバカだからときどきはめ外して。
 正直夢とかはよくわからんくて、でも、みーちゃんがやりたいって思ったこと、俺らもやってみてえなって。
 最初の店は潰しちまった、でも楽しかったんだよ。
 もう一回やるかってなるまでに、時間かからなかった。
 今六年目、よくやってる方だろ?」

 わたしは深く頷いた。
 ススキノの顔として、すすきの祭りで出店できることが何よりの証拠だ

「みーちゃんは、俺らの恩人なの。
 だから、見て欲しかったんだ、俺ら、頑張ったぞって」

 照れたようにエイジさんは「ガキみてえだな」と笑った。
 その笑顔につられて、わたしも笑った。

 太鼓の演奏が始まった。
 すすきの祭りの始まりだ。

 一生懸命だった、あの夏のわたしに言えたらいい。
 あなたの願う通りにはならないけれど、そこまで悲観するほどの将来ではないよ、と。
 あなたが見たかったものだけを見て、あなたが願ったことだけを行えたわけではなかったけれど。
 それでもわたしは今、わたしの足で立っている。
 それを肯定できるように、これからも歩いていければいい。

 つぶ焼きは甘くて、普段飲まない銘柄のビールは、美味しかった。
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