文字数 3,682文字

 あれは、京の南には珍しく雪の降り積もった夜のことだった――。
   *
 里中が読み始めた、あるホームレスの書いた遺稿ともいうべき小説は、そんな書き出しで始まっていた。長い間に亘って綴られたのであろう、手垢にまみれたこの原稿を持参したのは、そのホームレスの友人を名乗る土肥という人物であった。
 紳士然として静かなもの言いをする彼によると、ホームレスは、その名を吉田栄一といい、まさかのときにはこの遺稿が自分のもとに届けられるよう、原稿の一番上の紙に彼の住所と名前が書き付けられてあったのだという。
 川の中に半身を浸すようにして動かない男性がいるとの通報を受けた警察が付近を調査した。その結果、現場から少し離れたところにホームレスの住処があり、彼の所有物と思われる鞄があった。中を調べてみると、宛て先と電話番号の書かれた原稿があった。その原稿が警察の手を経て、土肥の手に渡ったというわけであった。
 原稿を読んだ土肥は、ほぼ吉田の自叙伝となるであろう、そのあまりにやるせないストーリィに胸を打たれ、知り合いの知り合いを通じて、ドキュメンタリー系の図書や月刊誌を刊行している里中のところまでやってきたというのである。
「突然やってきて、こんなことをいうのもなんですが、一度、読んでやってくださらんでしょうか。このままでは、あまりにも不憫すぎて捨て置くわけにはいかんのです」
 若い頃、クリスチャンだったと自嘲気味に自己紹介した土肥が、含羞を帯びた表情を浮かべて続ける。「これは、生きれば生きるほど不幸になり、ついには死んで行かざるを得なかった男と女の物語です。おそらく吉田は、これをわたしに読ませることで、悲しい目に遭わせた無辜の女房への贖罪の記、つまりは、懺悔を聴聞する牧師の役をわたしに担わせたかったんだと思うとります」
 里中は、丁寧に礼を言って去っていく土肥の後姿を見送りながら、律儀であった父の面影をみる思いがしていた。
 里中の父は、都立高校の校長職を最後に引退していたが、数年前に他界していた。鬢の白くなった穏やかな土肥の横顔が、父親のそれに二重写しになってみえた。おそらくは、吉田という人物も、あの男に原稿を託して救われた気がしたのではないだろうか。
 里中は、デスクに戻り、ホームレスが書いたという原稿に眼を通し始めた。彼は、持ち込み原稿を直接には読まない主義で、下読みに回し、その感想を聞いてから、読み始めるのを常としていた。
 だが、土肥という人物が自分に向けた透明な眼差しに耐え切れず、ついページをめくってしまったのであった。
 吉田は書いていた――。
   *
 妻の美貴が、折からの雪でコートを真っ白にして帰宅したわたしに言った。
「あなた、お願いがあるんだけど……」
 ドアを開けた途端、部屋の中からは彼女の得意な肉じゃがの匂いがあふれ出してきた。それを食べられるものと期待して、ずぶ濡れになった靴を脱ぎかけた矢先のことであった。
「なんや。薮から棒に――」
「そこにある荷物を持って、わたしに追いてきてほしいの」
「追いてきて、て、こんな時間に一体、どこへいくんやな」
 時計は、すでに十一時を回っている。
 彼女が指し示す玄関先には、風船のように膨らんだ大型のビニール袋が、はち切れんばかりに鎮座していた。中をみると、見慣れた寝具の温かそうな柄があった。
「ひょっとして、これ、いつも寝てるダブルの毛布ちゃうの」
「そう。だから、温かいのよ」
「これを、どうするんや」
「まあ、いいから。追いてきて」
 彼女はなにやら重そうなものが入ったペーパーバッグを手にすばやく靴を履き、空いたほうの手で忙しなくわたしを促す。
 外に出ると、雪はさきほどより太く、重くなっていた。見上げると、自分の身体がすっぽりと天空へ吸い込まれていくようだった。
「久しぶりやなぁ。雪、見んのって――」
「そうね。今日はとくに寒いらしいわ」
 美貴は、白い息を吐きながら言った。「さ、ゆっくりなんかしていられない。温かいうちに届けなくちゃ」
 彼女の後に追いて辿り着いたのは、自宅のマンションから歩いて五分ほども離れていない児童公園の中だった。
 そこには、七十歳を超えているであろうホームレスが住んでいることを、わたしは知っていた。そこを通って買い物にいく彼女も、その存在に気づいていたのだ。
 公園は誰も踏み入れていない所為もあって、新雪のまま、水銀灯の光の下で燻された銀のように鈍い光を放っていた。足首まで雪に埋まりながらようやくたどり着いた目的地に立って、わたしは妻と顔を見合わせた。老人はベンチの背と立てた段ボールを壁代わりにし、その狭い空間の中で凍てつく身を屈めているに違いなかった。
 彼女はしゃがみ込み、雪をかぶって小山のようになっている、本来は青テントであろう足元の屋根の下に向かって叫んだ。
「おじさーん。起きてー。温かい肉じゃがと毛布を持ってきてあげたわよー」
 何度か大声で呼びかけられるうち、声の主の意図がわかったのであろう。老人がその細い手で青テントを押しのけ、黒ずんだ顔を出すと、つんと鼻をつく饐えた臭いが辺りに拡がった。
「あああ、すみません」
 くぐもり、掠れがちな、上ずった声。あるいは耳が遠いのかも知れない。老人には、今日初めて口にしたことばのようだった。
 彼女は、これまた嫌というほど膨らんだペーパーバッグから肉じゃがの入った発泡スチロール製のどんぶりや箸や、お茶や、海苔で巻いた自家製おにぎりの入ったプラスチック容器などなど、まるで手品師がするようにつぎからつぎへと取り出すと、彼女を見つめるホームレスに頬ずりをせんばかりにして言った。
「温かいうちに食べてね、おじさん。これ、作りたてだから、美味しいわよ。それと、この毛布も使ってね、おにぎりも、お菓子も、おミカンもあるからね」
 降り積もった雪道に足をとられないようにして帰る二人が気配を感じて、ほぼ同時に振り返ると、いつの間にか雪の穴から出、何度も何度も深いお辞儀を繰り返している老人の姿が、一面の雪を背景に黒いシルエットになって見えた。
「よかったな、美貴。あんなに喜んでくれて」
「ほんと、よかったわ。これで、安心して眠れるわ。こんな雪だから、心配でしようがなかったのよ。といって、独りでいくのもなんだか不安だしね」
「そうか……」
 わたしは、後の句が継げず、口を噤んだ。
「わたしたちも例外じゃないわ。明日はわが身よ」
 彼女の言うとおりだった。
*
 里中は、そこまで読んで、原稿から眼を離した。
 結局は、この奥さんの言うとおりの事態が現実化してしまったというのか――。
 土肥の話によると、吉田は、川の中に半身を浸すようにして冷たくなっていたという。
 明日はわが身とはいうものの、幸せなときは誰しもホームレスにまで落ちるとは思っていない。おそらくこの奥さんも、そこまで実感していなかったに違いない……。
 ここ数年、ホームレスの老人たちが少年や青年に襲撃され、ねぐらどころか命までも奪われる事件が後を絶っていない。ひょっとして、この吉田という男もそのような目に遭ったことがあるのだろうか……。
 里中は、これを部下の三田に読ませてみようと思った。
 ワーキングプアー、二極分化、団塊の世代……。若い三田が彼らの行き着いた、救いようのないこのような死をどう断ずるのか、それが知りたくなった。この小説が出版に値するかどうかは、この先を読み進めてみないとわからない。
 しかし、この出だしからすると、不幸な事態が待ち受けているのは予想できる。ただ、土肥の言っていた「無辜の女房への贖罪の記」ということばが里中の心にひっかかっていた。こっちのほうに読者の望むテーマ性があるとすれば、自分の考える月刊誌の新企画「あるホームレスの死」シリーズはボツとなる。
 里中は、斜め前にいる女性に吉田の原稿をコピーさせたあと、三田を自分のデスクに呼んで言った。
「これは、さっきわたしを訪ねてきた人物が置いていった原稿だ。ずいぶん汚れた手書きの原稿だが、先入観をもってもらわないためにも、なにもコメントしない。期限は四日間。ただし、無理はしなくていい。なにも言わず、虚心坦懐に読んでみてほしい」
「わかりました。四日間ですね」
 三田は、最近の若者にはない謙虚さと律儀さがあり、そのわりに穿ったもの言いをする男であった。
 どちらかといえば勇猛さに欠けるところのある里中には、それが頼りになった。任せるものは任せる。無理強いはしない。だが、最終責任は長としての自分が取る。
 どこかの政治家のような責任転嫁は間違ってもしない――。そんな矜持が、編集長としての里中にはあった。
「ちょっと出かけてくる」
 里中は、斜め前の女性に言い、行きつけの図書館に向かった。土肥が言っていた十二月十七日の夕刊か翌日の朝刊で、吉田の死の状況を確かめてみようと思ったのである。
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