第1話 天使に出逢ふ

文字数 1,176文字




──私は今日も、誰に読まれるとも思えぬ物を書く。



寂れたアパートの一室に、束ねただけの冊子やら、書き散らした紙が散乱している。
家具などはなく、文机が一つあるばかり。
それに向かひ、書き散らす日々。
人と交わることもせず、歌会には誘われることもない。
私は人が煩わしいのだ。
誰かと共におる位ならば、一人がいゝと思ふ。
怠惰な日々を只々を貪り続ける。



そんな私の元に、天使が舞い降りた。

「……こんにちは。あなたの描く世界が好きなんです。その世界を知りたくて来てしまいました」

光の悪戯か、臼盆槍とした面差し。
私の世界? 私の作品は自費出版で、数もあまりなく、読まれることなどあまりない。
優しい春の日差しのような、涼やかな声が人嫌いの私の心に響ひた。




──彼女は現れたときと同様、突然現れては突然消える。



人嫌いな私に彼女は異質であつた。
彼女が微笑めば私の心が躍り、温かい気持ちが支配した。
彼女は何かと私の世話を焼ひた。
腹が減ったなと思ふと、鼻を擽る香りがする。
顔をあげれば、盆を持ち、食事を私に差し出す。
これが美味かつた。実に美味かつた。
何故だらう? 私は今まで孤独と共にあつた。
一人に慣れ、一人が当たり前で、すべてが煩わしかつた。
だのに彼女はしつこく何かを聞くわけでもなし。
何と間合いの取ることの上手きひとよ。
ただただ、私の執筆を見続けているのだ。
つまらないだらうに、ずつと笑つてるのだ。
世に蔓延るとも思えないような、粗悪な私の所業を優しく見ているのだ。

窶れ乾いた私の心の安らぎになるまでに、そう時間は掛からなかつた。





ほんの数日であつたが、私にはもう何年も前から存在しているような想いに支配されていた。
冷めやらぬ想いを胸に、名も知らぬ彼女にプロポーズをした。しかし、

「私は、あなたが、あなたが見ている世界が好きなんです。……あなたにただ逢いたかっただけ、なんです」

どちらとも取れない応え。……両想いではあるはずなのに、違和感を感じた。




別れはすぐにやつてきた。……自分が流行り病に掛かつたのだ。
彼女が初めて慌てていた。

「何でないの。やっぱりここは……」

意味のわからなひことを呟いている。
私が臥せっているから、心配してくれているからか?


……死の間際、彼女は呟く。

「私はただ、あなたを知りたかっただけでした。……なのに、苦しいんです。こうなることはわかっていたのに」

涙さへも美しかつた。
完全に意識を手放す瞬間、私は目にする。

「さよなら。あなたが好きでした」

やつと聞くことが出来たのに、彼女はまた消えてしまつた。光となつて……。
彼女の涙と光を見つめながら私は瞳を閉じた。

……永遠に開かれることのない瞳を。
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