6章 ー 祈り ー
文字数 4,203文字
確か、「聞くことが即ち祈りだ」みたいなことも言っていたと思うが……正直、何のことやらわからない。わからないながら、恐らくその神という存在をよく知っているであろう牧師さんの言葉に倣ってみよう。美沙はそう考えた。
美沙の部屋は淡いピンクを基調としてまとめられた、女の子らしい部屋だった。パステルピンクのベッドには、抱くのにちょうどいいサイズのクマのぬいぐるみが座っている。木製の勉強机の上はこぎれいに片づいていた。本棚には少女マンガや小説、CDラックには邦楽と、洋楽が少々。棚の上には手の平大のクマのぬいぐるみが3体かわいく並んで座っていた。壁のコルクボードには友達と撮った写真や、美しい風景の切り抜きがコラージュして貼ってあった。
美沙はパステルイエローのゆるやかな部屋着を着て、自分の部屋の中央にお気に入りのクッションを置いて正座した。柔道をする父の影響もあってか、正座は嫌いではなかった。普段座らない位置から見る部屋の風景はちょっと新鮮で、自分の部屋なのに少し不思議な感じだった。
思い出したように最後に付け加えた。そういえば、学校でもこの祈りの文句は何度も聞いていたと気付く。自分から口にするのはもちろん初めてだった。
そのまま美沙はしばらく目を閉じて、静かに呼吸を続けてみた。
普段、こんな風に何もしない時間を取ることはないので、なんだかそわそわする。別段、声が聞こえてくるわけでも、何か神秘的な体験をするわけでもなく、ただ時間だけが過ぎていくようだった。
しばらくすると、まるで炭酸の泡が下から湧いて、水面で弾けるように、色々な事が次から次に思い出されては消えていった。
小学校の友達で、喧嘩して疎遠になったまま引っ越しちゃった愛子ちゃんのこと、小さいころ両親とよく行った公園の思い出、千尋の快活な笑い顔、こないだ行ったカフェの雰囲気とかわいいドリンクのこと、中学に上がる時に不安で不安で眠れなかったこと(そんな心配無用だったけど)、昨日話をしてくれたお父さんの真剣な面持ち、ショッキングな地下鉄サリン事件のこと……とめどもなく、思いついては消えていく感情と思考の泡を、美沙はどこか距離を保って眺めていた。
カフェのドリンク、おいしかったなあ。いいとこだったな。また行きたいな。
お父さんの若いころ……なんか不思議な感じ。お父さんは生まれた時からお父さんだもん。その前なんて考えたことなかった……。)
やがて、不思議な光景を見た。
さわやかな風が吹き抜ける草原に、美沙はいた。あたたかく、やさしく、安心できる雰囲気に、張りつめていた心が少しずつほぐれていく。まるで心が温泉につかっているような不思議な安堵を感じながら、美沙は座り込んでいた。
ふと、側に気配を感じてふり返ると、足まで長く垂れた白いローブのような服を着た人が立っていた。表情は見えなかったが、その人は美沙のことを喜び、微笑んでくれている。なぜかわからないが、そう感じた。
* * * * *
弱々しく返事をして、大きく伸びをする。部屋を出ようとして、鏡に映った自分に思わず渋い顔になる。右のほっぺたにじゅうたんの跡がついていた。
軽い睡眠後の心地よさを感じながら、足元に気をつけて下に降りて行った。
そう言って手渡されたのは、手紙だった。封筒には
「美沙ちゃんへ 笹木愛子より」
とあり、封は切られていなかった。
「美沙ちゃん
元気ですか?卒業おめでとうございます。
5年生になって、些細なことで美沙ちゃんとケンカして、そのまま、なんとなく仲直りのきっかけをつかめないまま引っ越してしまい、とうとう小学校卒業を迎えてしまいました。引っ越す前に謝ろうとして、何度か美沙ちゃんの家の近くまで行った事もあったんだけれど、勇気がなくて、ついにできませんでした。
美沙ちゃん、美沙ちゃんはまだ私のことが嫌いですか?私は美沙ちゃんのことが好きです。そして、仲直りできなかったことをこうかいしています。どうかゆるして下さい。5年生の終わりに私が引っ越して、もしかしたら美沙ちゃんは私のことをもう覚えていないかもしれないけれど、私は美沙ちゃんのことが忘れられません。
この手紙を渡してもらうよう友達に頼みました。もし私のことをゆるしてくれたら、ぜひ連絡を下さい。待っています。本当にごめんなさい。美沙ちゃんとはいつまでも友達でいたいです。
笹木 愛子より」
美沙は母に、【神】に向かって【祈った】こと、そして静まる中で愛子ちゃんの事を思い出していた事、また、不思議な夢を見た事などを話した。
興味深そうに聞いていた母は、聞き終わって一言、
ほどなくして美沙は愛子に手紙を書いた。手紙が遅れて見つかったいきさつについては簡単に書いただけで、詳しくは触れなかった。
数日して、愛子から電話がかかってきた。昔よりも少し大人びた声と言葉遣いになってはいたが、話しているうちにいつの間にか昔の二人に戻っていた。お互いに謝罪し合い、ゆるし合っていることを確認し、涙し合った。仲が良かった頃の思い出話をして笑い合った。いつか家まで遊びに行く、と約束し合った。お互い、胸のつかえが取れて、晴れ晴れとした気持ちで受話器を置くことができた。