シュレディンガーさんちのねこくん(テーマ:猫)

文字数 1,868文字


「ねこくん、ちょっと今日は実験に協力してくれるかね」

 ある日ぼくがいつもの縁側で日向ぼっこしていると、シュレディンガーさんはそう言ってぼくを抱っこし、テーブルの上の白い小箱の中に入れた。
 ぼくは日当たりのいい場所も好きなのだけれど、狭くて暗い場所も好きなので、その中でごろりと寝転がった。
 するとシュレディンガーさんがぱかりと蓋を閉めてしまったので、小箱の中は真っ暗になった。
 とんとん、と脚で蹴り上げてみるのだけれど、鍵がかかってしまったみたいで開かない。

 シュレディンガーさん、今日はどんな実験なのですか?
 箱の中にぼく以外にも、何か入っているようだけど。
 ぼくはにゃあおと訊いてみる。

「今日は量子論の実験だよ、ねこくん」

 シュレディンガーさんの声がそう答える。

「箱の中に、ねこくんと、ラジウムと、ガイガーカウンターと、青酸ガスの発生装置を入れたんだ。ラジウムがアルファ崩壊して、アルファ粒子が発生すると、それをガイガーカウンターが検知して、青酸ガス発生装置が作動する。ねこくんには一時間、箱の中に入っていてもらうんだ」

 つまりぼくの命は風前の灯なのですか? シュレディンガーさん。

「そこが問題だ。一時間後にねこくんが生きているかどうかは、ラジウムのアルファ崩壊が一時間以内に起こるかどうかに依る。つまり、私が箱を開けたとき、ねこくんが生きている確率は半々。つまりねこくんは今、私にとって、生きてもいて死んでもいる状態なんだ」

 えええ。ぼくまだ生きてますよ? 死んでませんよ? ぼくは憮然とそう鳴いた。

「喋っては駄目だ、ねこくん。ねこくんが喋ると、ねこくんは生きていると確定してしまう。蓋を開いてねこくんの姿を見るまで、私はねこくんが生きているか死んでいるかわからないんだ」

 そういう設定なの?

「そういう設定だ」

 仕方がないのでぼくは黙った。シュレディンガーさんの鼻歌が聞こえる。
 シュレディンガーさんの考えることは難しすぎて、ぼくにはちょっとよくわからない。でもちょっぴりミステリアスで、面白いような気もしてくる。

「さて、まだねこくんは生きているのかな」

 シュレディンガーさんの声が聞こえる。生きていますよ、と言いかけてやめた。シュレディンガーさんが怒ると思ったからだ。
 シュレディンガーさんによれば、ぼくはいま自分では生きているつもりなのだが、同時に死んでもいるらしい。
 ぼくってばゾンビになったのか? なんだかわくわくしてきてしまった。

「ねこくん、ねこくん、アルファ崩壊は起こりそうかね?」

 ぼくは返事をしないことにする。にゃあおと鳴いた瞬間に、ぼくは生きていることになってしまって、シュレディンガーさんとの遊びは終わってしまう。
 シュレディンガーさんは忙しくてなかなか構ってくれないものだから、こんなときくらい遊びたいんだ。

「ねこくん、ねこくん、青酸ガスは発生したかね?」

 ぼくは真っ暗な小箱の中にじっと横たわったまま、にやにやしてシュレディンガーさんの呼びかけを聞く。

「ややや、ひょっとするとねこくんは死んでしまったのではないか。おおい無事かねこくん。ちょっと返事をしてくれないか。心配なんだよ」

 いやだよシュレディンガーさん。ぼくは生きていて死んでいるんだぞ。

「今箱を開いて……いや待てよ。今のままだったらねこくんは、死んでもいるが、生きてもいる。でも箱を開いて観測した瞬間に、ねこくんは死んでしまうかもしれない。私は箱を開けないべきなのか?」

 シュレディンガーさんがおろおろとしている。日頃平静なシュレディンガーさんが慌てているのを聞いているのは、なんだか珍しくて面白い。ぼくは意地でも声は出さないで、箱の中でじっとしている。
 シュレディンガーさんは焦りに焦り、なんてことをしてしまったんだと泣いたあと、決意の声で呟いた。

「決めた。開けるぞ。ねこくん無事か?」

 シュレディンガーさんの声とともに、鍵がかちゃりと外されて、箱の蓋がぱかりと開いた。
 生きていて死んでいる面白い時間は、それであっけなく終わりになってしまった。
 でもこんな珍しい体験をできるなんて、なかなか無いことだ。ぼくは幸せ者のねこである。シュレディンガーさんには感謝感謝だ。

 ぼくは箱の中に横たわったまま、にゃあおと感謝の言葉を伝えようとしたのだが、なぜだか声が出なかった。
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