第37話 生き物を放すのは、一種のポイ捨てだと何故気づかん
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第13話で、生き物の放流問題については少し書いたのだが、『生き物の放すという行為が、ゴミのポイ捨てと同じ』ということを、理解できない人がいるらしいので、少し詳しく書く。
まず、いまだに、多くのご老人の中には「可哀想だから放してやれ」という感覚が根強くあるらしく、そのご老人に育てられた大人の中にも、その感覚を残す人がいるようだ。
人間の支配下に置かれるよりも、自由に自然の中で生きた方が、生き物は幸せである、とする考え方だ。そのこと自体は大きく間違ってはいないのだが、問題なのは、いったん支配下に置かれた生き物を、可哀想だから、と放す場合だ。
はっきり言って、江戸時代ならそれも間違いではなかった。
飼育技術も拙く、病気やケガの治療法も確立しておらず、餌や飼育器具も充実していない。そんな状況でなら、人間は生物に対して、ほぼ何もしてやれないわけだ。
ならば、居場所も食事も自然下で自由に選ばせてやった方が、元気になる可能性は高いだろうし、長生きもするだろう。
また、江戸時代は交通手段が徒歩か馬、いいとこ手漕ぎ船だ。
その程度の移動であれば、生物の自力移動とさして変わらない。よって、いらなくなった生き物をその辺に放す、という行為は「放してやった」=「いいことした」といってもいい状況であったと言える。
だが、今や人間の移動能力は桁違いに上がってしまった。
飛行機や船は言うまでもないが、道路事情が変わったせいで自動車や自転車であっても、昔の人間が一日掛かってやっとの移動距離を、さして時間もかからずに移動できてしまう。
そのような状況で入手した生物を、移動先で放したりすると、生物自身の移動能力を超えてしまうわけである。
熱帯産の生き物を、本州あたりの川に放しても冬越し出来ない場合が多いし、生態系もまるで違うから、生き延びる可能性は低い。
つまり、放してやっても、その生き物のためにもならないわけである。
だが、そうやって死んでくれたらまだいい。まかり間違って生き延びてしまう場合もあって、そうなるとさらに厄介なことになる。
今、西日本のため池で増殖し始めているアフリカツメガエルなどが好例で、完全水中性の大型カエルなんていう生き物を捕食する生物は、もともと日本にほとんどいない。しかも、カエルに致命的なツボカビ病も、アフリカツメガエルは発症しないのだ。
動くものは何でも食うアフリカツメガエルは、新世代の強力な侵略的外来種と言って良いだろう。
じゃあ、在来種なら買ってきて放してもいいのか? という点について言っておく。
まず、ショップで販売されている「在来種」「日本産「希少種」」などというものは、そもそもどこから持ってきたものか、店主にすら分からない、ということを知っておこう。
生き物といえども商品にすぎず、ショップは、仕入れて売るだけのこと。その出自にまでいちいち配慮していては、商売が成り立たない。
しかもそれが、例えば、どこかから採ってきたものであれば、その採集地の自然を搾取しているわけだし、その場所が、放流地と同じ地域であるなら、ただのマッチポンプだ。
業者が自家繁殖させたものであれば、少ない親個体から偏った遺伝情報を受け継いでいる可能性があるし、飼育下で他種や他亜種と交雑していたりしても分からない。
ヒメダカなどの人工品種は言わずもがなだが、それすら分かっておらずに放流しようとする豪の者もよくいるし、売られている生物の中には、同種とされるだけで、本当に同種かどうかも分からない中国や韓国からの輸入生物まで流通しているのが現状だ。
随分前になるが、皇居のお堀で外来魚駆除事業があり、これがニュースになった。
これについて、ブラックバスを釣る趣味を持つ人、いわゆるバサーのブログで、これを虐殺であると批判していたので、感想欄に反対意見を書いてやったことがある。
今にして思えば俺も若かったが、そいつもバス釣りたさに凝り固まった石頭であった。
俺の言うことに聞く耳を持たないばかりか、理屈で勝てないと踏んだのか、こちらの文章の言葉遣いやネットマナー、その他関係のない話で煙に撒こうと、『命の大切さ』まで説き始めたのだ。
中でも、そいつが美談として出してきた話が「末期がんを宣告された元魚屋さんが、これまでの殺生を悔いて、アサリを購入して浜に放流に行っている」とかいうものだったので、俺は呆れて以下のように指摘してやった。
当時から、魚屋に並ぶアサリの多くは、韓国や中国からの輸入品だった。
つまり、見た目は同じで、分類上も同種とされてはいても、今後外来種とされる可能性もある別個体群なのである。しかも、もしかすると日本にない病気を持っている可能性もある。そんなものを日本の浜に放せば、もともといたアサリにとってはただの迷惑。
それだけでも罪深いのだが、輸入アサリには、サキグロタマツメタという巻貝が混じっていることがあり、これがアサリを捕食する。この貝、日本の海にももともといて、やはりアサリを襲うのだが、何故か有明海など一部の海にしかいなかった。だが、輸入された外来サキグロタマツメタは、適応力と増殖力が強く、アサリを食べる勢いも在来サキグロタマツメタをはるかに凌ぐ。
つまりこの「元魚屋さん」は、無学、無知、無教養、不勉強のおかげで「手っ取り早く罪滅ぼし」をしようとして、アサリの大虐殺に加担し「かえって罪を増やした」という、なんとも間抜けな話であったのだ。
己の趣味のために、科学的知見から目を背けている趣味人は他にもいる。
たとえば、地域外の淡水魚や昆虫を、精力的に放流しているバカどもがいるらしいのだ。
日本産のタナゴは、非常に多くの種類がいて、それぞれ大変魅力的な種であるのだが、それぞれ分布域が違っている。だが、これを自分の行動範囲内で釣りたい、と、ただそれだけのために、放流して回っているバカがいる。
それの何が問題なのか? タナゴはブラックバスや、前述のサキグロタマツメタのように貪食ではないし、植物を食い尽くしたり、水面を覆い尽くすほど殖え過ぎたりもしないのに。
まあ、そう考えるから、バカは放したがるのであろう。
だが、さすがにバカは浅知恵である。問題は大ありなのだ。
まず、タナゴ類は生きた二枚貝に産卵するわけだが、ここでタナゴ同士の競争が生じてしまう。二枚貝を中心に縄張りを作る種もいて、攻撃的な種が増えれば、それ以外は衰退していく。
縄張りを作らない種では、仲良く一つの貝に産卵する種もいるが、そんな調子でどんどん産み付けられれば、貝は呼吸が出来なくなって死ぬ。貝が死に絶えれば、どのタナゴも産卵などできなくなる。
また、別種とはいえ近縁種も多いから、交雑もあり得る。交雑した場合、二代目以降の生殖能力が著しく低下する場合が多いのは、様々な魚種で確認されている。
生物地理学的にも問題で、自然分布でない場所にいるということそのものが、混乱を招きもする。たしかに、それで生態系が崩壊したりはしない。ただ、その場所がどのような進化を遂げてきた生物で構成された、どのような生態系なのか、ということを知る手がかりは永遠に失われるわけだ。
そのことは、将来、生態系を正しく理解し、持続可能な社会を人類が構築する上で、大きなマイナスとなる可能性がある。
実害が少なそうな、タナゴですらこうだ。
植物食性の昆虫や、魚食性の淡水魚などは、これにプラスして実害もあるわけで、生き物を連れてきて放流してよい理由などどこにもない。
たかが趣味で、かつ確信犯で、自分及び同好の士さえ楽しければいい、などという考えで、生物を移動させ、放流するバカには、三分の理すらもないのだ。
そういう行為が続けられるとどうなるか。
答えは簡単だ。趣味自体が「弾圧」されるようになる。
敢えて「規制」でなく「弾圧」と書いたのは、法だけでなく、社会の目も敵に回るようになるからだ。社会のすべてから、その趣味が蔑まれるようになり、その趣味を持つ者に対する態度が冷たくなっていく。
先日の、無許可飼育ニシキヘビの脱走事件では、まともにやっている爬虫類飼育者の多くに対して、いわれのない迫害が始まったらしい。中には、べつに違法でも契約違反でもないのに、住居を追い出された者もいると聞く。
バカな釣り人が迷惑駐車をし、フェンスを乗り越え、禁止区域にまで入り込むせいで、全域が立ち入り禁止となった港もある。ドローンの飛行が許可制となったのも、無節操にあちこちで飛ばし、得意げにSNSに載せ、あまつさえ落下事故まで起こしたバカどものせいだ。
犬の散歩禁止の公園も、自転車乗り入れ不可の遊歩道も、ゴルフの練習禁止の河川敷も、そのほとんどが、一部のルールを守らないバカのせいである。
「SDGs」が声高に叫ばれる昨今。勝手な生物の放流は、それに反した行為であることは疑いがない。つまり、違法ではなくとも、ルール違反であるのだ。取り締まられることはなくとも、弾圧されるようになる。
手前勝手な自己満足と、楽しみのために、同好の士すべてに迷惑をかけ、趣味そのものを貶める事態になるわけだ。
少しでもまともな感覚のある人間ならば、そのような行為は慎むはずだ。もし、注意されてもあれこれ言い訳して言うことを聞かないのであれば、そいつはダンゴムシ以下であろう。
仏教の行事に『放生会』というものがある。
生き物を、寺社内の池などに放して、自由にしてやった=助けてやった ということで功徳を積む、という宗教儀式だ。
お釈迦様の前世とされる流水が、水の枯れそうな池で死にそうだった魚たちを助けてやったところ、三十三天に転生して流水長者に感謝報恩したというのがその由来である。
奈良県の興福寺で行われてきたのが有名で、金魚や錦鯉を猿沢の池に放す行事であった。
しかし、金魚や錦鯉などを放逐するのは、生態系に対して問題があることから、2020年から、近畿大学農学部と協力して在来種を放すことにしたとのことだ。
しかしまあ、この放流される在来種。猿沢の池にいたものを前もって捕っておき、放す、ということだから、魚たちにしてみれば、平穏に暮らしていたところを網で捕獲され、また同じ場所に戻されるだけのこと。
いかに伝統ある儀式であろうと、魚たちが恩義を感じるとは思えないが、それでも、生き物を放流する行事としては、精いっぱいの妥協点ではないだろうか。
もともと、猿沢の池はカメが多いので有名な池だった。
二十年以上前に行ったことがあるが、無数に甲羅干しをしているカメがいて、それもクサガメやアカミミガメばかり。在来種のイシガメの姿は、俺には見つけられなかった。
そんな状況で金魚やコイの稚魚など放っても、カメに餌をやるようなものであったろう。
それが、2014年に護岸工事を行ったのをきっかけに、外来種の駆除を始め、生態系の正常化に努めて来たらしい。
そうしたことを考慮すると、功徳を積めるかどうか、生き物が感謝するかどうかはさておき、宗教儀式が生態系に配慮されているという、稀有で有意義な事例だと思う。
「生き物を放す」ということは、こうした特別な事例をのぞいて、もう「やってはいけないこと」になりつつある。
そのことを、もしご存じなくて、考え方を受け入れる覚悟があるのならば、そして生き物たちとともに次の百年を生きていこうと思うならば、生き物を放すのは、もうやめていただきたい。
その方が、はるかに『生き物たちのためになる』のであるから。