(三・四)第三ラウンド・2分

文字数 2,960文字

 早速翌朝、敬七さんと共に泪橋の交差点に行き、敬七さん紹介の手配師と顔を合わせた。
「十六だって。ちょっと若いけど、林屋さんの頼みだから試しに働いてもらうか」
「はい。ありがとうございます」
 自分は緊張しつつ頷いた。そのまま現場に連れて行かれた。
 汗水垂らして、懸命に働いた。資材運び、水汲み、道具洗い、掃除……。夢中で働き、あっという間に一日が終わった。日当を現金で受け取り、林屋さんに戻った。
 待っていた敬七さんに、今度はドヤこと簡易宿泊所に連れて行かれた。玉姫公園の直ぐそばにある、若葉会館というドヤだった。その日から自分は、そこで寝泊りを始めた。あてがわれた個室に入ると、その夜は初めての労働による疲労の為バタンキュー。
 次の日以降も自分はせっせせっせと働いた。好景気の時代、仕事場は幾らでもあった。若いから物覚えが速いし、素直で機敏な自分は、何処へ行っても重宝がられた。
 そうやって自分が懸命に働くのは、生きてゆく為なのは勿論で、他にも大事な理由があった。それは、世話になった林屋さんに恩返しがしたいというもの。幾ら返せばいいのか分からなかったが、自分なりに十万円くらいは渡したいと願っていた。ドヤ代など最低限の物にだけ金を使い、贅沢など一切しなかった。その甲斐あって秋には目標額が貯まり、敬七さんに届けた。最初は受け取ってくれなかったけれど、昇くんがそんなに言うのなら、と渋々受け取ってもらった。それからは自分も一人の客として、月に一回林屋に顔を出すようになった。
 仕事とドヤ住まいにも慣れ、仕事仲間であり同じドヤに住む和田さんと洌鎌(すがま)さんと仲良くなった。和田さんは江戸っ子、洌鎌さんは沖縄出身。ところが或る日、二人に大変な場所に誘われた。
「昇は若い癖に、真面目過ぎるからいけねえ。たまにはぱーっと遊んで、すっきりしないともたねえよ」
「だーから。まだ若いから、大人の遊びを知らないって言うよ。ね、昇ちゃん。和田さん、良いとこ、連れてってくれるんでしょ」
「よし、分かった。そんなに言うんなら、昇、今週末行くか」
「行くって、何処にですか」
 恐る恐る確かめる自分に、和田さんは顔をまっ赤にして答えた。
「決まってんだろ。天下の、吉原だよ」
「ええっ、吉原……」
 自分は言葉も出なかった。見る見る顔が青ざめた。
「昇、まだはええよ、興奮すんなあ」
「興奮なんか、してないっすよ」
 自分は焦って、なんとか断ろうと懸命になった。
「だって、やばいっしょ。俺まだ、十六なんすから。そんなとこ行ったら、捕まっちまいますよ」
「でえ丈夫、でえ丈夫。俺に任せとけって」
「そうそ。昇ちゃんだって自分でちゃんと働いて生活してんだから、立派な大人って言うよ」
 断るに断れず、どうしても行かざるを得なくなった。
 二人と約束した金曜日の夜は、夕方から雨になり、激しい土砂降りが続いた。先ず工事現場からドヤに戻ると、シャワーを浴びて服を着替えた。三人揃って、南千住駅前の食堂で腹ごしらえをした後、ハイヤーで吉原へ向かった。
 ハイヤーの窓ガラスから見た雨の吉原は、目映いネオンライトがしっとりと滲んでいた。パッと灯っては消え明滅を繰り返すネオンの波また波……。チカチカ眩しいネオンの海は、すぐさま自分に留萌の風俗街を思い出させた。懐かしいにおいもした。留萌にいるような気がしてならなかった。同時にとうとうここへ来てしまったのだ、という思いに駆られた。
 ハイヤーを降りて向かった特殊浴場は、和田さん馴染みの店だった。そこに一歩足を踏み入れた時から、自分は心臓がどきどきしていた。
「こいつ、初めてなんで、良い子頼むよ」
 店のフロントに和田さんが頼んだ。ここで和田さんが、三人分の料金を前払いした。
「悪いっすよ、自分払いますよ」
「こら、俺に恥掻かせんな。でも延長したら、自腹だぞ」
 その店の名を、交響曲第五番と言った。店内には確かに、クラシック音楽が流れていた。
「マーラーの交響曲第五番って言うんだよ。今流れているのは、その中の第四楽章ってやつだ。マーラーってのは外国の作曲家の名前だから、勘違いすんなよ」
 和田さんがにやけながら、教えてくれた。
「分かってますよ、そんなことぐらい。でもそれで店の名前が……」
「そういうこと。この店のオーナーが、熱心なファンなんだってよ」
「へえ、オーナーがねえ。世の中いろんな人がいるもんですねえ」
 自分は、泪橋のお峰のことを思い出した。そして流れる音楽に耳を澄ました。
 へえ、割りといい曲だな。クラシックなんて学校じゃちっとも興味なかったけど、この曲は好きだなあ。なんて言うのか、やさしいって言うか、切ないって言うか、好きな人に会いに行きたくなるような、そんな曲だ。マーラー、交響曲第五番、第四楽章かあ……。
 三人で静かに待合室で待っていると、和田さん、洌鎌さんと順番に呼ばれ消えていった。後にひとり残された自分もしばしした後、個室に案内された。また心臓がどきどきした。
「いらっしゃいませ」
 ドアの向こうから女の人の声がして、自分は中に入った。相手の女性は二十代前半位だった。
「初めてなんだって、おにいさん。わたし、雪って言うの」
「ゆき……」
 自分はドキッとした。幸子の源氏名と同じじゃないか。
「どうかしたの」
「あ、ううん、なんでも」
 自分はゆきさんに、母親である幸子を重ね合わせた。ところがゆきさんは早速店の制服を脱ぎ、さっさと下着だけになってしまった。げ、まじかよ。焦った自分は目のやり場に困るばかりで、興奮などしなかった。
 やっぱり無理だ。自分にそんなこと、出来る筈がない。激しい拒絶と後悔とが胸に込み上げて来た。なぜならこの人と交わるということは、幸子と交わるということなのだ。この人の体をお金で買うということは、幸子の体を買うということなのだから。ガキの頃軽蔑していた汚い大人の男たちと、これじゃ同じになっちまう……。
「俺仕事の先輩たちと付き合いで、今日来ただけだから」
「うん」
「だから、何もしないで帰ります」
「えっ」
 ゆきさんは自分を見詰めた。大方緊張からそう言っているのじゃないかと、思っているのだろう。
「でももう、料金もらっちゃったし」
 ゆきさんは自分の肩に腕を回すと、自分の顔にふっと息を吹き掛け、にこっと微笑んだ。唇に塗られた赤い口紅が眩しかった。
「かわいい。ね、おねえさんに任せて」
「でも」
 心では抵抗しながらも、体は拒めなかった。ゆきさんに言われるまま、されるままに任せてしまった。そして何が何だか分からないうちに、自分はさっさと終わってしまった。後は時間まで、ゆきさんの肩に抱かれていた。自分の体を包み込むゆきさんのぬくもりの方が、その時は確かに罪悪感よりも勝っていた。
 待合室に戻ると、和田さんたちはもうそこにいた。
「どうだった、昇ちゃん」
「延長すんのかと思って、帰るとこだったぞ」
 ふたりの笑顔は、無邪気な少年のそれだった。ふと留萌での仲良し四人組、昇、利郎、ガイコツと自分のことを思い出し、懐かしさが込み上げて来た。行きは付き合いで来たつもりだったけれど、帰りは、吉原に来て良かったと思っていた。和田さん、洌鎌さん、そしてゆきさん、ありがとう。胸の内で三人に、そっと手を合わせる自分だった。
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