第10話 魔王桜
文字数 3,263文字
ほうほうの
森。
深く暗い森。
ここはどこなんだ?
深夜とはいえ、夜とはこんなに暗いものだったか?
月も星さえも見えない。
真っ暗だ。
恐怖、そして寒さ。
彼は震えながら、暗黒の中をさまようように歩いていた。
「あ」
明かりだ。
ゆらゆらと燃えている。
近いような遠いような。
すぐに掴めそうでいて、永遠につかめないような。
こんなところに人が?
何か妙だ。
しかし違和感はあるものの、ウツロにとってはまさに、希望の光だ。
彼は不信に思いながらも、その明かりのほうへと近づいていった。
明かりは次第に大きくなってくるが、人の気配など、まったく感じられない。
得体の知れない恐怖に、ウツロは自身の心臓の鼓動が聞こえてくるのを認識した。
「う」
明かりの近くに、別な明かりが突然、浮かびあがった。
さらに一つ、もう一つ――次々と。
それはあたかも、空間上へランダムに並べられた
「まさか、これは……」
その単語がまっさきに
いけない。
何かわからないが、とても危険な気がする。
ウツロは
「な……」
桜の木――
空間を満たした鬼火を前置きとするように、とてつもなく巨大な桜の木が出現した。
おかしい、ここはどこだ?
こんな木の存在など知らなかった。
しかしこの桜は……なんと、美しい……
まず、幹の太さ。
黒ずんだそれは、岩盤のようにごつごつと硬そうで、いまにも膨らみきって
どこかしわくちゃの老人の顔のようにも見え、不気味なことこの上ない。
根は鬼の爪のように地面に食いこんで――いや食らいついているかのよう。
枝はといえば、天を
そして
雪よりも白いような花びらが、ひらひらと静かに舞い散っている。
醜い『胴体』との対照は、まるで天国と地獄が、同時にここに存在していると表現したくなる。
ウツロは
しかし不思議なことに、心から恐怖は消え去っていた。
それほどの生命力。
まるでこの桜が、宇宙の中心であるかのような存在感に、圧倒される。
「お師匠様が、いつかおっしゃっていた……この世とあの世の、
体が前方へ動き出す。
自分の意思なのか、眼前の桜の意思なのか、それすらもわからない。
あやかしの引力に吸い寄せられるように、ウツロはその桜のほうへと足を進める。
「この桜が、そうなのか?」
桜の
見れば見るほど、美しい。
何という、力強い存在。
この桜の前では、どんな存在もかすんでしまうような――
「これが魔王桜だとしたら――俺は、死んだということなのか?」
突如、体の力が抜けて、ウツロはその場へ、へたりこんだ。
「それにしても……きれいだな」
ウツロはすっかり、その桜に心を奪われて、うっとりした気分になってきた。
彼はしゃがみこんで、魔王桜の美しさに見とれた。
「……疲れた」
ふいに物悲しくなって、彼は少しうなだれた。
こんなに美しい桜でさえも、俺の心を癒やしてはくれないのか?
「お師匠様、アクタ……無事だろうか? 早く、会いたい……独りぼっちは、さびしい……」
にらめっこ
をしていた。ここにいると、時間への意識がなくなってきて、ふわふわと
こんなに気持ちが楽になるのは、はじめてかもしれない。
「なんだか、いい気持ちだ」
コクリとうなだれたところで、かすかに目を開いたウツロは、眼前に人間の腕ほどの、朽ちた一枝が転がっていることに気付いた。
「枝……枯れている」
それは桜の枝のようだが、ほとんど風化して、カラカラに乾いている。
この桜から分離したものだろうか?
「あ」
虫。
一匹の
小指の先ほどもないような、それは
ウツロにはその地虫が、苦しみ
存在していることに、この世に生を受けたことそのものについて、何か
「桜の
ウツロはなんだかおかしさを覚えるいっぽう、その地虫にどこか親近感を覚えた。
虫が朽木を這うように、自分もこの世の一番下で、這いつくばっている。
その感情はすぐに、強い共感へと変わった。
「この虫は……俺じゃないのか……?」
鏡でも見ているかのような気分だった。
もはや彼には、その地虫が他の存在とはとうてい、思えなくなってしまっていた。
こんなちっぽけな虫けらに、心が引き裂かれそうになるほど、共感してしまう自分がいる。
「……俺は、間違って人間になった……戻りたい、あるべき姿へ……」
ウツロのほほを
その
「俺は、虫だ。醜い、おぞましい毒虫」
なんで俺は人間なんだ?
毒虫のほうがずっといい。
「……お前に、なりたい……」
そっと手を伸ばす。
こいつに触れればあるいは、
彼は地虫が這うよりもゆっくりと、愛する者に対してするように、その距離を縮めていく。
もうすぐだ。
指先が触れる。
「……なるんだ」
うれしい。
こんなに幸せでいいんだろうか?
「俺は、お前になるんだ」
涙はいつしか歓喜のそれへ。
ほら、もう独りじゃないよ。
「俺は、毒虫になるんだ」
あとほんの少し、毛ほどの長さで指が届くというところで、ウツロの全身に異様な
末端神経の全部に、『つらら』をぶちこまれたような、激しい
気配――目の前だ。
彼が条件反射で顔を上げると、くだんの魔王桜が、風もないのにざわざわとさざめいている。
揺らぐようなその動きは、催眠術でもかけているようで、彼にはまるで桜の木が、意思を持ってこちらへやってくるような気がした。
いや、本当に動いている。
桜の一枝がゆっくりと、触手のようにウツロのほうへ、向かってくるではないか。
鋭い先端に咲くおびただしい花は、まるで目玉のように彼を狙いすましていて、明らかに何かをしようとしている。
わかってはいるのだが、ウツロの腰はすっかり抜けて、恐怖のあまり、後ずさりすらできず、次第に距離を詰めてくる、あやかしの桜におののいた。
「くるな、くるなっ」
そして――
「うあ」
魔王桜の枝は、ウツロの額に、ぐさりと突き刺さった。
「……が、……あが」
枝がどんどん、頭の中心に食いこんできて、まるで何かを注入されるような感覚が走る。
そして彼の意識は、奈落へと落ちていった――
(『第1章 毒虫の少年』終わり、『第2章 出会い』へ続く)