肥えた・・・

文字数 1,806文字

「あーなーたー。ちょっときてくれる」
 妻が平坦な口調でボクを呼んだ。
 凄く良い笑顔を浮かべている。しかし目は笑っていない。
 逆らうと後々面倒になると、ボクの超高性能妻のご機嫌センサーが激しく警報を鳴らしている。
 ボクは緊張を隠しつつ返事をして、ダイニングテーブルで待っている妻の正面に座った。
 ウチは4人家族で、一男一女に恵まれたごく普通の家庭だ。夫婦仲も良く、8歳と4歳の子供の相手も良くしている。
 家事だって手伝っている。出来る限りで・・・。
 ハッキリ言って妻の機嫌の悪さの原因が分からない。
 明日明後日の土日は2日とも家族で出かける予定がある。家族サービスもバッチリだ。
 妻は黙って、テーブルの上に1枚の紙を置いた。もちろん離婚届ではない。なんども言うが、夫婦仲は良いのだ。
 しかし、置かれたA3の紙を見て、妻の機嫌が悪い理由をボクは覚った。
 そして迂闊だった。
 まだ言い訳を考えていない。
 1ヶ月前にあった健康診断なんて、すっかり忘れていた。
 健康診断結果が会社から郵送されてきたのだ。
 妻より先に結果を見て、言い訳を考えるつもりだった。
「肥えたわね」
 妻の冷たい声が、ボクを極寒にいるかのように感じさせる。体感温度は零度を下回っている。それなのに冷汗が流れる。
「ちょっと体重が増えたみたいだけど、誤差の範囲じゃないかなー」
 震えそうに声をコントロールしながら、惚ける方向で誤魔化そうとする。しかし妻は甘くなかった。
「太ったじゃなく、肥えたって言ったんだけど。どうしてなの?」
 理学療法士の妻は、健康診断結果の数値が何を意味するのか詳しく知っている。その妻が太ったではなく、肥えたといったのは、体重以外の数値に着目してだろう。・・・というより絶対にそうなのだ。
 昨年も同じように肥えたと言われた。
 そういえば・・・。妻の目が笑っていない、恐い意味での凄く良い笑顔を見るのは実に1年ぶりだ。その時も健康診断の結果が原因だった。
「うーん、仕事が忙しかったからかな。ほら、ボクはストレスで太るタイプだから・・・」
「食事には気を遣ってたけど?」
 そう、昼は妻の手作り弁当で、朝晩も家で食事をしている。飲み会は少なく、外食は休日に家族でするぐらい。盆と正月で暴飲暴食したとしても、しばらく日常生活を送れば数値は元に戻る。
「他に何を食べてたの?」
「食べてない」
 反射的に答えた。
 しかし嘘は言っていない。
「ふ~~~ん。じゃあ、何を飲んだの?」
 やはりバレてるのだろうか。証拠はないはずだが・・・。
 購入には最新の注意を払っている。電子マネーでなく現金で、しかも会社の自動販売機を利用してだ。
 絶対に証拠はない。
「病気になりたいの? それとも死にたいの?」
 そこまで言うか、と思わなくもないが言い返せない。
「四十前にして、血圧、脂質、肝機能の詳細項目がオールレッド。体重は結婚前の1.7倍。今年も総合判定が要治療になってるわよ」
 妻が目に涙を浮かべる。
「私はあなたに健康で長生きしてもらいたいの。太っててもいいけど、肥えたら内臓がダメになるわよ。だからコーラだけは止めて欲しいの。止められないなら、せめて減らして。私と子供たちのためにも・・・。ねえ、お願いだから・・・」
 涙声で必死に訴える妻に心を揺さぶられ、自分の行いを反省した。
「わかった。減らす。約束する」
 一瞬で妻の醸し出す雰囲気が変わった。悲壮から憤りへと。
「やっぱり飲んでたの、コーラ。会社で?」
 背筋に悪寒が走る。
「は、話の流れ、つい間違えて・・・」
「飲んでたの?」
 バレた。
 せっかく証拠を残さないよう工夫していたのに・・・。
 まさか自白してしまうとは・・・。
 ここは素直になるしかない。
「はい、ごめんなさい」
 去年はコーラを会社で飲まないと約束させられ、今年はコーラを会社で飲んでいると告白させられ・・・ボクは何度トラップにかかれば成長するのか。
 と言っても、これは夫婦のお約束の流れで、仲良しの秘訣と考えれば・・・。
 それに、家で1日1杯のコーラは許されている。
 妻の愛情のこもったお説教を聞きながら、思考を逃避させ、夜の1杯のコーラに思いを馳せる。
 しかし妻は非情だった。
「今日のコーラはなし」
「えっ、なんで」
 心底驚いて、ボクは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「会社で飲んできたわよね?」
「はい、飲んできました・・・」
 ボクの希望は潰えた・・・。
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