文字数 2,047文字

 一晩待ってもヒトミは帰ってこなかった。
 どうして出て行ったのか、なんとなく想像はつく。
 今思えば、花火を見ながら流した涙の意味も。もちろん、息子の身を案じる気持ちもあるだろう。だけどあのとき泣いたのは。
 たぶん、後悔の涙だ。
 計画外だったのだ。聡介や、この町の人との関わりは。想定はしていたかもしれないけれど、思いがけず彼女は動揺した。
 何を犠牲にしても構わないという覚悟は揺らいでしまった。非情になりきれなかったのだ。恐らく。
「めんどくさい女だな、まったく」
 一刻も早くヒトミを探したいところだが、聡介はまず、母の泊まるビジネスホテルに向かった。今日の約束を断るためだ。
 待ち合わせよりもずいぶん早くロビーに聡介が現れたことで、母は不信感いっぱいの顔をしている。まだ部屋でのんびりしていたのだろう、髪は下ろしたままで、化粧もしていなかった。
「どうしたの。今日は三人で出かけるんじゃなかったの。ヒトミさんはどうしたの」
「ごめん、出かけられなくなった」
 説明はできない。たぶん納得はしてもらえないだろう。聡介が黙り込んでると、母は深いため息をつき、肩にそっと触れてきた。
「ヒトミさん……何か訳ありなんでしょう。聡介、何か危ないことに巻き込まれているんじゃないの。彼女、怖い人の娘か何かじゃないでしょうね」
 当たらずも遠からずだ。女の勘というやつか。
 動揺を顔に出さないよう、聡介はもう一度言う。
「母さん、本当にごめん。今日は帰ってくれないか。今度、俺から会いに行くから」
 その言葉に、急に母の顔つきは変わる。不安そうに眉を下げ、頬が強張る。
「嫌よ。ヒトミさんと会わせて。聡介に相応しい人かどうか、お母さんが見極めてあげる」
「そんなことしなくていい」
「どうして。あの人、きっと何かあるわ。あとで困るのは聡介なのよ」
「俺はもう子どもじゃないよ、母さん。自分のことは自分で決める」
 優しくそう言うと、母は悲しみを堪えるように唇を噛み締めた。
 子どもの頃、何度この顔を見ただろう。
 この人にこんな顔をさせたくなかった。
 だから、平穏な日常を送らなければいけないと思っていた。
 子どもの頃にはたくさん心配をかけた。
 この町で喫茶ブレイクを継いだときには母の反対を押し切った。
 だからこそ、ここでの暮らしは穏やかなものでなくてはいけない。
 祖父の喫茶店を経営しながら、いつか帰ってくるかもしれない父を待つ。そんな静かな暮らしを続けていきたかった。
 その考えは変わらない、だけど。
「母さん。俺、行くよ」
 そう言って聡介は走り出す。
 振り返ることはできなかった。母の悲しげな顔を見ると、決心が鈍ってしまいそうだったから。
 もしかしたらヒトミが帰っているかもしれないと思い一旦店に戻ると、ふいにピンポンパンポンという脳天気な音がスピーカーから町内放送が聞こえてくる。
『本日、緑地公園にて発見された不発弾の処理が行われます。住民の皆さんは、速やかに避難してください』
 単調な声でそれらしく喋っているが、恐らくヒトミだろう。住民を巻き込むまいと知恵を絞ったというところか。
 確かにさっきから人影が見えない。この辺りの人はすでに避難をしたということか。
 やはりヒトミは緑地にいるのか。
 すぐに向かおうとしたところで、店の電話が鳴った。慌て受話器を取ると、聞こえてきたのは堤の声だった。
『聡介さん? まだお店にいるの、早く避難をしなさい。ヒトミさんはどうしたの』
「大丈夫です、今出ようとしていたところですから」
 なるべく冷静な声で答え、電話を切った。
 本当は緊張で吐きそうだ。冷たい水をグラスに入れ、一気に飲み干す。
 それから、聡介は再び走り出した。
 ヒトミがいるであろう、緑地公園に向けて。


 人気のない住宅街を抜けると、木々の生い茂るエリアが見えた。テニスコートが二面あり、春には桜が咲いて花見客で賑わう。町民憩いの場だ。
 広場の中央に、女が一人立っていた。白いビキニ姿で、マントと長い髪が風に靡いている。
 彼女はこちらを凝視し、腕を組んでいる。唇を引き結び、その澄んだ目は苛立ちを孕んで聡介を見つめる。
「聡介どうしたの。お母さんとの約束は」
「断った」
 短く答えると、ヒトミは背を向け、堅い声で告げる。
「聡介は帰って。今からでも遅くない、お母さんと一緒に過ごしなさい」
「一人でどうする気だよ」
 彼女の背に問いかける。その肩に触れようとした途端、ヒトミはくるりと振り返った。
 片方の手は腰に当て、もう片方は額の前でピースサインを作っている。
 どこかで見たような美少女戦士のポーズだ。
 最初に美少女どうこうと言っていたのは、何か変な情報でも仕入れて真似していたんだなと今さらながら悟る。
「ごめーん、聡介。実はわたし、本当はすっごく強いんだ。ヒーロー初心者の聡介なんかよりずっと!」
「ふざけんな……っ!」
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