◆九「崩壊のエスノグラフィー」
文字数 5,468文字
「チーリンは、おそらく私の知っている人物です。こうした絵図を描けて、似た名前の人間が何人もいるとは思えません。それに平原くんが言っていた外見にも一致しています。ジラフとは、那珂麒麟 という男です。先ほど平原くんが話した図書部員ですよ。彼は仲間内でジラフと呼ばれていました。彼は美形で、口が上手く、周囲の信頼を勝ち得ていました。しかしその実態は、悪賢く、他人を食い物にして生きる人間です。私はその正体を、被害を受けてしばらく経つまで見抜けませんでした。彼も自分たちと同じ、被害者の一人だと信じ込んでいたのです。仲間内の中で、彼の悪事に気づいたのは私だけです。あとのメンバーは、今でもジラフのことを信用できる仲間だと思っています。彼は私たちのあいだで、絶大な信頼を得ていました」
そんな人間がいるのか。人の信用を易々と得て、その信用を手形として、友人を罠にはめるような悪人が。
「にわかには信じられないですよね。でも、いるんです。そうした人間が」
九地はゆっくりと歩きながら、自身が体験したジラフとの日々を語りだした。
その年、九地は横浜の進学校に入った。そして図書部に入部した。彼がその部活に入ったのは自然な流れだった。軍学者の家系で育った九地は、幼い頃から漢文や古文を読んできた。普通の家庭にはない兵法や軍学の書物。そうした生活を送ってきたため、本に囲まれるのが当たり前だと思っていた。
「きみは本のにおいがするね」
図書館の広いエントランス。窓から陽光の入る場所。そこで九地は声をかけられた。振り向くと美しい男が立っていた。柔和な笑み。光をまとった姿。九地は灯りに誘われる虫のように心を奪われた。その男は九地と同じ新入生だった。
――本のにおいがするね。
その言葉で、九地はジラフに引き込まれた。ジラフには、そうした他人の心の内を探り当てる嗅覚があるのだろう。九地は彼から目を離せなくなった。二人は親友といってもよい間柄になる。ニックネームはナインとジラフ。図書部には、もう一人一年生がいた。早瀬あかり。彼女は二人のあいだで、いつも笑顔を振りまいている存在だった。
ジラフとの友人関係は、自然に発生したものだと思っていた。しかし全てを知った今ならば分かる。彼は教室で九地の話す言葉に耳を澄ませていたのだ。何でもないような会話でも、情報を組み合わせれば相手の素性や内面を探れる。当時の九地が本に耽溺していることを見抜いて声をかけた。自分の周りに配置する人間を、ジラフは選んでいたのだろう。
彼は他の生徒の心も似た手法でつかんでいた。自身の魅力と演出。思春期の青年が抱える、自分を理解して欲しいという願望。しかし、その力が功を奏する相手と、奏さない相手がいた。早瀬あかりは後者である。彼女は理解者を必要としていなかった。裏表がない早瀬には、内面と外面の差がなかった。だからジラフに特別な何かを感じなかった。そうした結果をジラフは楽しんでいた。彼は自覚的に、自分の能力の輪郭を確かめようとしていた。
九地はジラフと行動をともにした。そして親友となった男が、多くの女性の心を奪うことを知った。美しい外見、的確なやり取り。多くの女性たちがジラフに告白した。しかし彼は誰とも付き合わなかった。九地は、その理由を尋ねた。
「適切な距離を保つ練習をしているんだ」
九地にはジラフの答えが理解できなかった。
高校二年生になった。受験のことを考えないといけない学年。九地は進路に悩んだ。漠然と、家系の軍学を研究するのだと思っていた。文学部。それも史学科。しかしそれでは食えない。そもそも現代に軍学は求められていない。いったい誰と戦うのか。そうした悩みをジラフに相談した。
「今の時代、きみは情報工学に向いていると思う。論理的思考という奴かな、それと内的世界に没頭できるのが、きみの強みだ」
まるで考えていなかった進路だ。少し興味を持ち、図書館の本を読んでみる。すぐにプログラムを書いてみたくなった。蔵書管理のコンピュータを利用して、簡単なプログラムを作成する。ジラフは、他人の能力を的確に計量できる才能を持っていた。また、適切に言語化できる能力も有していた。
九地とジラフと早瀬は高校を卒業して、それぞれ違う大学に進学した。九地は工学部に進み、早瀬は教師になるために教育学部に入った。ジラフはビジネスの勉強をしたいと言い、経営学部を選んだ。大学時代、図書部の三人は疎遠になった。新しい友人もでき、たまに地元に戻ってきたときに顔を合わせる程度の交流になった。
大学を卒業した九地は、ポータルサイトを運営しているIT企業に就職する。会社での仕事は楽しかったが満たされぬ思いを抱えた。自分の力を試してみたい。若者特有の気質。九地はさらなるチャレンジを求めて機会を探った。
プログラミングの研究会などに参加しているうちに知り合いが増えた。そうした仲間たちと集まって、ベンチャー企業を作るという話を始める。情報技術の世界ではよくあることだ。この時期に両親が亡くなり、自分の生き方を考え直したというのも大きかった。
プログラマー仲間で会社を作りたい。とはいえ技術者だけでは、いずれ行き詰まるのが目に見えている。営業や経営が分かる人間が必要だ。それも情報技術を理解していなければならない。なかなか厳しい条件だ。九地と仲間たちは、それぞれの人脈でいくつかの人材に当たった。
最初、九地はジラフのことを忘れていた。高校を卒業して長い時間が経っている。その後多くの人間を見て来た。ジラフを思い出したのは、両親の財産の整理で地元に戻ったときだった。高校時代の友人たちとの交流。ジラフには会わなかったが、その噂を聞いた。コンサルタント会社で働いている。既にいくつものビジネスを成功に導いている。
ジラフと連絡を取ってみよう。メールアドレスは知らなかったので、彼の実家に電話をした。ジラフの親は、息子に知らせると約束してくれた。その日のうちに折り返しの電話がある。「両親の件は聞いたよ。残念だったね。話を聞こう。前向きに検討するよ」ジラフは、優しい声で言った。
九地はジラフを仲間たちに紹介した。全員がジラフを絶賛した。ビジネスのことが分かり、情報技術も詳しい。大学在学中に事業を興して売却した経験もある。卒業後はコンサルタント会社に勤めており、様々な現場を知っている。これほど条件に合う人間はいなかった。九地は鼻が高かった。
起業の準備が始まる。ジラフは人の輪に入るのが上手かった。角砂糖に水滴を垂らすように、九地たちのチームに浸透した。ジラフの力はすぐに発揮された。彼は複数のベンチャーキャピタルから、ほとんどノーリスクで資金を集めた。営業や広報にも力を発揮した。開発者だけでは成し遂げられなかった成果を会社にもたらす。九地たちはジラフを信用した。
「ジラフ、ありがとう」
「ナイン、僕ときみとの仲じゃないか」
居酒屋の席で、九地は自分の夢を語る。ジラフは宝石をながめるような目で、九地を見つめた。
会社崩壊の遠因は、開発の一部を外部に発注するようになったことだった。安価で質のよいプロダクトを求めて、九地たちは海外に協力先を求めた。そうしたやり方は、誰が提案したのか分からないまま自然と決まった。あるいはジラフが誘導したのかもしれない。ジラフは他人に決断させるのが上手かった。周囲を意のままに動かす話術に長けていた。
アジア圏の複数のベンチャー企業。それらに発注した仕事に、納期の遅れが発生した。上がってきたプロダクトはゴミだった。ベンチャーキャピタルから得た金の多くが垂れ流された。進捗の管理は、社内の開発者が持ち回りでやっていた。ジラフはタッチしておらず責任の外にいた。
会社の金がショートし始める。社内に怒号が飛び交うようになる。オフィスは荒れ果てた。床にはゴミや食べ物が転がっていた。悪臭が漂っていた。髭を剃らず服を着替えない者が多かった。目の焦点が合っていない者もいた。ぶつぶつと独り言を唱える者、間欠的に怒鳴り声を上げる者。躁鬱が入り乱れる、すさんだ空間。社員は疲弊し、ちょっとしたことで喧嘩が起きた。その最悪の人間関係の中で、ジラフは唯一のまともな人間として、献身的に仲間のサポートを続けた。
ジラフは慈母のような態度で人々を慰めていく。悲しみや苦しみを訴える社員たちの言葉を涙とともに聞く。そうしたある日、九地はジラフに声をかけられた。
「ありがとう、ナイン。僕は今、貴重な体験をしているよ」
苦境の中で、親友が笑みを浮かべて言う。この悲惨な境遇を、貴重な体験と言ってくれる。すまないジラフと九地は思った。九地は、ジラフの心の広さと優しさに感動する。
しかし全てを知ったあと、ジラフの言葉の意味は裏返った。僕は今、貴重な体験をしている。それは嘘偽りなき彼の気持ちだった。ジラフの言葉は、真の喜びから出たものだった。
最終的に会社は倒産した。海外発注した際の契約書に穴があったからだ。そのためプロダクトの不具合を追求できなかった。それに管轄裁判所がシンガポールになっていたことも問題だった。九地たちの規模と経験では、海外で裁判を戦える自信はなかった。
会社は倒産して仲間はばらばらになる。メンバーは全員、ジラフに感謝していた。九地もそうだった。親友に迷惑をかけて経歴を汚してしまった。九地は自身を恥じた。そして心身ともに傷つき資産も失った。
ベンチャー企業を始める前には、両親が残した土地があった。しかし、終わったときにはなくなっていた。会社の存続のために売却して資金に当てたからだ。そのことで伯父夫婦と対立した。土地を手放した九地は、小さなアパートで暮らしていた。エスポワールという名の、くたびれた集合住宅だ。
九地は回復のためにアパートに引きこもる。九天が伯父夫婦の家から来て支えてくれた。しばらく経ち九天が、電脳探偵事務所を開くことを提案した。定期的な仕事ではなく短期的な仕事。専門知識を活かした納期に追われることのない働き方。
ぽつぽつと依頼が入り、少しずつ取り組んだ。そうした経験が溜まったあと、過去を振り返ってみたいと考えるようになった。自分の心に区切りをつけたい。九天に相談した。それでおにいちゃんの心が晴れるならと、妹は言ってくれた。
倒産の原因となった発注先は、いずれも海外のものだった。情報を集めることは容易ではない。旅行の費用を貯めて、アジアの諸国を回る。当時の関係者に会い、可能な限り話を聞いていく。そうしているうちにキックバックという言葉を耳にした。末端の社員の話。その会社の社長が口にしていたそうだ。耳を疑う。九天のいた会社では、そうしたことは一切おこなっていなかったからだ。
キックバック先は、九地たちの会社ではなく別の会社だった。日本に戻った九地はさらに調査を続ける。社長を探すのには時間がかかった。その人物はホームレスをしていた。誰かがダミー会社を用意したのだと分かった。
キックバックのせいで、開発にはまともな人数も工数も割かれていなかった。納品を前提にしない体制。最初から資金を抜くために全てが仕組まれていた。
このとき初めて、九地の胸に疑惑が浮かんだ。誰か内部の人間が、会社の資金を抜くためにやったのではないか。そして、こうした絵図を描けそうな人間は一人しかいなかった。経済に明るい人間。企業間の取り引きを熟知している人物。頭に浮かんだ顔を、即座に消そうとする。しかし九地は思い出す。海外発注先の候補のリスト。検討の初期段階で、その選定をしたのはジラフだった。九地の額に汗がにじむ。これ以上調べれば、戻れないところまで迷い込みそうだと思った。
九地は調査を続行した。当時のリストを探し、全ての企業を調べていく。嘘だと信じたい気持ち。真実を知りたいという欲求。再び長い時間をかけて海外を巡った。
いくつかの会社は同じ人物がオーナーだった。他国に展開する際に名前だけ変えているところもあった。リストの中からどこを選んでも同じだった。選んだのはジラフではない。しかし、どの発注先を選んでも、ダミー会社にキックバックの金が入るようになっていた。選べるだけの数があったようで実は選択肢はなかった。社員は全員、ジラフの手の平の上で転がされていた。
これまで不可解だった全ての謎が解き明かされた。ジラフが糸を引いていた前提で見直すと合点がいくことばかりだった。ジラフがことあるごとに適切な慰めの言葉をかけられたのは何が起きるのかを知っていたからだ。いつでも落ち着き、周囲の精神的な支柱になっていたのは、自分のコントロールの範囲内だったからだ。
ジラフは悲痛な顔で、九地たちの悩みを聞いてくれた。おそらく彼は、地獄のような様相になっていたあの会社の末期を楽しんでいたのだ。自分は安全な場所に立ち、他人の不幸を見ることに博愛的快楽を得ていたのだろう。
九地は事実を知り慟哭した。止まらぬ怒りを周囲にぶつけた。そして九天に怪我を負わせてしまった。病院のベッドに横たわる妹を見て、九地は自身の行為を悔いる。そして九天の求めるままに心の鍵を渡した。自分の行動や決断、そして怒りの解放先を彼女に委ねた。大きすぎる負の感情のスイッチを外部装置化した。
そんな人間がいるのか。人の信用を易々と得て、その信用を手形として、友人を罠にはめるような悪人が。
「にわかには信じられないですよね。でも、いるんです。そうした人間が」
九地はゆっくりと歩きながら、自身が体験したジラフとの日々を語りだした。
その年、九地は横浜の進学校に入った。そして図書部に入部した。彼がその部活に入ったのは自然な流れだった。軍学者の家系で育った九地は、幼い頃から漢文や古文を読んできた。普通の家庭にはない兵法や軍学の書物。そうした生活を送ってきたため、本に囲まれるのが当たり前だと思っていた。
「きみは本のにおいがするね」
図書館の広いエントランス。窓から陽光の入る場所。そこで九地は声をかけられた。振り向くと美しい男が立っていた。柔和な笑み。光をまとった姿。九地は灯りに誘われる虫のように心を奪われた。その男は九地と同じ新入生だった。
――本のにおいがするね。
その言葉で、九地はジラフに引き込まれた。ジラフには、そうした他人の心の内を探り当てる嗅覚があるのだろう。九地は彼から目を離せなくなった。二人は親友といってもよい間柄になる。ニックネームはナインとジラフ。図書部には、もう一人一年生がいた。早瀬あかり。彼女は二人のあいだで、いつも笑顔を振りまいている存在だった。
ジラフとの友人関係は、自然に発生したものだと思っていた。しかし全てを知った今ならば分かる。彼は教室で九地の話す言葉に耳を澄ませていたのだ。何でもないような会話でも、情報を組み合わせれば相手の素性や内面を探れる。当時の九地が本に耽溺していることを見抜いて声をかけた。自分の周りに配置する人間を、ジラフは選んでいたのだろう。
彼は他の生徒の心も似た手法でつかんでいた。自身の魅力と演出。思春期の青年が抱える、自分を理解して欲しいという願望。しかし、その力が功を奏する相手と、奏さない相手がいた。早瀬あかりは後者である。彼女は理解者を必要としていなかった。裏表がない早瀬には、内面と外面の差がなかった。だからジラフに特別な何かを感じなかった。そうした結果をジラフは楽しんでいた。彼は自覚的に、自分の能力の輪郭を確かめようとしていた。
九地はジラフと行動をともにした。そして親友となった男が、多くの女性の心を奪うことを知った。美しい外見、的確なやり取り。多くの女性たちがジラフに告白した。しかし彼は誰とも付き合わなかった。九地は、その理由を尋ねた。
「適切な距離を保つ練習をしているんだ」
九地にはジラフの答えが理解できなかった。
高校二年生になった。受験のことを考えないといけない学年。九地は進路に悩んだ。漠然と、家系の軍学を研究するのだと思っていた。文学部。それも史学科。しかしそれでは食えない。そもそも現代に軍学は求められていない。いったい誰と戦うのか。そうした悩みをジラフに相談した。
「今の時代、きみは情報工学に向いていると思う。論理的思考という奴かな、それと内的世界に没頭できるのが、きみの強みだ」
まるで考えていなかった進路だ。少し興味を持ち、図書館の本を読んでみる。すぐにプログラムを書いてみたくなった。蔵書管理のコンピュータを利用して、簡単なプログラムを作成する。ジラフは、他人の能力を的確に計量できる才能を持っていた。また、適切に言語化できる能力も有していた。
九地とジラフと早瀬は高校を卒業して、それぞれ違う大学に進学した。九地は工学部に進み、早瀬は教師になるために教育学部に入った。ジラフはビジネスの勉強をしたいと言い、経営学部を選んだ。大学時代、図書部の三人は疎遠になった。新しい友人もでき、たまに地元に戻ってきたときに顔を合わせる程度の交流になった。
大学を卒業した九地は、ポータルサイトを運営しているIT企業に就職する。会社での仕事は楽しかったが満たされぬ思いを抱えた。自分の力を試してみたい。若者特有の気質。九地はさらなるチャレンジを求めて機会を探った。
プログラミングの研究会などに参加しているうちに知り合いが増えた。そうした仲間たちと集まって、ベンチャー企業を作るという話を始める。情報技術の世界ではよくあることだ。この時期に両親が亡くなり、自分の生き方を考え直したというのも大きかった。
プログラマー仲間で会社を作りたい。とはいえ技術者だけでは、いずれ行き詰まるのが目に見えている。営業や経営が分かる人間が必要だ。それも情報技術を理解していなければならない。なかなか厳しい条件だ。九地と仲間たちは、それぞれの人脈でいくつかの人材に当たった。
最初、九地はジラフのことを忘れていた。高校を卒業して長い時間が経っている。その後多くの人間を見て来た。ジラフを思い出したのは、両親の財産の整理で地元に戻ったときだった。高校時代の友人たちとの交流。ジラフには会わなかったが、その噂を聞いた。コンサルタント会社で働いている。既にいくつものビジネスを成功に導いている。
ジラフと連絡を取ってみよう。メールアドレスは知らなかったので、彼の実家に電話をした。ジラフの親は、息子に知らせると約束してくれた。その日のうちに折り返しの電話がある。「両親の件は聞いたよ。残念だったね。話を聞こう。前向きに検討するよ」ジラフは、優しい声で言った。
九地はジラフを仲間たちに紹介した。全員がジラフを絶賛した。ビジネスのことが分かり、情報技術も詳しい。大学在学中に事業を興して売却した経験もある。卒業後はコンサルタント会社に勤めており、様々な現場を知っている。これほど条件に合う人間はいなかった。九地は鼻が高かった。
起業の準備が始まる。ジラフは人の輪に入るのが上手かった。角砂糖に水滴を垂らすように、九地たちのチームに浸透した。ジラフの力はすぐに発揮された。彼は複数のベンチャーキャピタルから、ほとんどノーリスクで資金を集めた。営業や広報にも力を発揮した。開発者だけでは成し遂げられなかった成果を会社にもたらす。九地たちはジラフを信用した。
「ジラフ、ありがとう」
「ナイン、僕ときみとの仲じゃないか」
居酒屋の席で、九地は自分の夢を語る。ジラフは宝石をながめるような目で、九地を見つめた。
会社崩壊の遠因は、開発の一部を外部に発注するようになったことだった。安価で質のよいプロダクトを求めて、九地たちは海外に協力先を求めた。そうしたやり方は、誰が提案したのか分からないまま自然と決まった。あるいはジラフが誘導したのかもしれない。ジラフは他人に決断させるのが上手かった。周囲を意のままに動かす話術に長けていた。
アジア圏の複数のベンチャー企業。それらに発注した仕事に、納期の遅れが発生した。上がってきたプロダクトはゴミだった。ベンチャーキャピタルから得た金の多くが垂れ流された。進捗の管理は、社内の開発者が持ち回りでやっていた。ジラフはタッチしておらず責任の外にいた。
会社の金がショートし始める。社内に怒号が飛び交うようになる。オフィスは荒れ果てた。床にはゴミや食べ物が転がっていた。悪臭が漂っていた。髭を剃らず服を着替えない者が多かった。目の焦点が合っていない者もいた。ぶつぶつと独り言を唱える者、間欠的に怒鳴り声を上げる者。躁鬱が入り乱れる、すさんだ空間。社員は疲弊し、ちょっとしたことで喧嘩が起きた。その最悪の人間関係の中で、ジラフは唯一のまともな人間として、献身的に仲間のサポートを続けた。
ジラフは慈母のような態度で人々を慰めていく。悲しみや苦しみを訴える社員たちの言葉を涙とともに聞く。そうしたある日、九地はジラフに声をかけられた。
「ありがとう、ナイン。僕は今、貴重な体験をしているよ」
苦境の中で、親友が笑みを浮かべて言う。この悲惨な境遇を、貴重な体験と言ってくれる。すまないジラフと九地は思った。九地は、ジラフの心の広さと優しさに感動する。
しかし全てを知ったあと、ジラフの言葉の意味は裏返った。僕は今、貴重な体験をしている。それは嘘偽りなき彼の気持ちだった。ジラフの言葉は、真の喜びから出たものだった。
最終的に会社は倒産した。海外発注した際の契約書に穴があったからだ。そのためプロダクトの不具合を追求できなかった。それに管轄裁判所がシンガポールになっていたことも問題だった。九地たちの規模と経験では、海外で裁判を戦える自信はなかった。
会社は倒産して仲間はばらばらになる。メンバーは全員、ジラフに感謝していた。九地もそうだった。親友に迷惑をかけて経歴を汚してしまった。九地は自身を恥じた。そして心身ともに傷つき資産も失った。
ベンチャー企業を始める前には、両親が残した土地があった。しかし、終わったときにはなくなっていた。会社の存続のために売却して資金に当てたからだ。そのことで伯父夫婦と対立した。土地を手放した九地は、小さなアパートで暮らしていた。エスポワールという名の、くたびれた集合住宅だ。
九地は回復のためにアパートに引きこもる。九天が伯父夫婦の家から来て支えてくれた。しばらく経ち九天が、電脳探偵事務所を開くことを提案した。定期的な仕事ではなく短期的な仕事。専門知識を活かした納期に追われることのない働き方。
ぽつぽつと依頼が入り、少しずつ取り組んだ。そうした経験が溜まったあと、過去を振り返ってみたいと考えるようになった。自分の心に区切りをつけたい。九天に相談した。それでおにいちゃんの心が晴れるならと、妹は言ってくれた。
倒産の原因となった発注先は、いずれも海外のものだった。情報を集めることは容易ではない。旅行の費用を貯めて、アジアの諸国を回る。当時の関係者に会い、可能な限り話を聞いていく。そうしているうちにキックバックという言葉を耳にした。末端の社員の話。その会社の社長が口にしていたそうだ。耳を疑う。九天のいた会社では、そうしたことは一切おこなっていなかったからだ。
キックバック先は、九地たちの会社ではなく別の会社だった。日本に戻った九地はさらに調査を続ける。社長を探すのには時間がかかった。その人物はホームレスをしていた。誰かがダミー会社を用意したのだと分かった。
キックバックのせいで、開発にはまともな人数も工数も割かれていなかった。納品を前提にしない体制。最初から資金を抜くために全てが仕組まれていた。
このとき初めて、九地の胸に疑惑が浮かんだ。誰か内部の人間が、会社の資金を抜くためにやったのではないか。そして、こうした絵図を描けそうな人間は一人しかいなかった。経済に明るい人間。企業間の取り引きを熟知している人物。頭に浮かんだ顔を、即座に消そうとする。しかし九地は思い出す。海外発注先の候補のリスト。検討の初期段階で、その選定をしたのはジラフだった。九地の額に汗がにじむ。これ以上調べれば、戻れないところまで迷い込みそうだと思った。
九地は調査を続行した。当時のリストを探し、全ての企業を調べていく。嘘だと信じたい気持ち。真実を知りたいという欲求。再び長い時間をかけて海外を巡った。
いくつかの会社は同じ人物がオーナーだった。他国に展開する際に名前だけ変えているところもあった。リストの中からどこを選んでも同じだった。選んだのはジラフではない。しかし、どの発注先を選んでも、ダミー会社にキックバックの金が入るようになっていた。選べるだけの数があったようで実は選択肢はなかった。社員は全員、ジラフの手の平の上で転がされていた。
これまで不可解だった全ての謎が解き明かされた。ジラフが糸を引いていた前提で見直すと合点がいくことばかりだった。ジラフがことあるごとに適切な慰めの言葉をかけられたのは何が起きるのかを知っていたからだ。いつでも落ち着き、周囲の精神的な支柱になっていたのは、自分のコントロールの範囲内だったからだ。
ジラフは悲痛な顔で、九地たちの悩みを聞いてくれた。おそらく彼は、地獄のような様相になっていたあの会社の末期を楽しんでいたのだ。自分は安全な場所に立ち、他人の不幸を見ることに博愛的快楽を得ていたのだろう。
九地は事実を知り慟哭した。止まらぬ怒りを周囲にぶつけた。そして九天に怪我を負わせてしまった。病院のベッドに横たわる妹を見て、九地は自身の行為を悔いる。そして九天の求めるままに心の鍵を渡した。自分の行動や決断、そして怒りの解放先を彼女に委ねた。大きすぎる負の感情のスイッチを外部装置化した。