第3話 イタリアンにて

文字数 2,341文字

 平日ばかり、わずか朝の五分間しか会っていなかったので、それまで考えもしなかった。リコは、土日もこのゴミ箱にペットボトルを捨てに来ているのか、と。
 土曜の朝、気が逸るばかりで、家にいても落ち着かず、一時間前には豪徳寺駅に着いてしまった。駅構内にあるカフェの窓側席に座り、いつものゴミ箱を眺めて過ごす。あのゴミ箱を見張れ。自分が何かの役割を与えられた重要人物のように思えた。
 リコがペットボトルを捨てるのを土日もしているのだとしたら、平日と同じ時刻だろうか。自問しつつも、すぐに否定した。そもそも彼女は出勤するときに豪徳寺に行っているのであって、わざわざペットボトルを捨てるために、この駅に来ているのではない。出勤する必要がなければ豪徳寺に来ないのだから、近所の上町で捨てるだろう。
 いや、自宅から豪徳寺駅に向かう間の一キロ圏内に、ペットボトルを捨てるゴミ箱がまったくないことはないだろう。いくら街中からゴミ箱が消えたとはいえ、コンビニにも自動販売機の脇にもペットボトル専用のゴミ箱はある。具体的なルートを知らないが、その間にゴミ箱がないとは思えない。なぜわざわざ彼女は、あのゴミ箱にペットボトルを捨てるのだろう。
 そんなことを考えているうちに、約束の時間の五分前になる。例のゴミ箱に近づいてくるジーンズ姿の女があった。その女はペットボトルを一本、ゴミ箱に落とした。それがリコだった。
 僕はカフェを出て側に寄ると、彼女は笑った。
「早く着いてたんですか」
 ごく自然でいよう。僕の口調は少し速まった。
「ええ、今あそこから見てたんです。そういえば、いつもこのゴミ箱でペットボトル捨ててますね」
 尋ねてから己の浅ましさを後悔した。リコの表情がみるみる強張る。
「いや、朝リコさんを見かけるとき、たまに捨てているのを見てたんで……」
 ストーカー行為をしているように思われたのではないか。
 リコは苦笑いだけで、何も言葉にしなかった。
 駅の近くにあるイタリアンは、まり若い客はなく、年配が多かった。一つひとつの座席にゆとりがあり、客同士の会話は気にならない。対面に座ったリコは、
「二、三度来たことあります」
 と、さっきの気まずさを忘れたかのように、にこやかに呟いた。
 いつもはスカートが多く、ジャケットを羽織っているときもあるリコだったが、今日はジーンズ姿ということもあり違う女性のようだった。髪は結んでおらず、女性は髪型でこうも雰囲気が変わるのか、と感心してしまった。
 ウエイターがグラスに水を注ぎ、ひと通りメニューの説明をしてくれる。心がどこかに飛んでしまい、僕はまともに聞いていなかった。Bセットを頼むと、
「私も同じもので」
 リコが顔を傾けた。
 何を話そうか。そんなことを考えるまでもなく、僕の口は次から次へと言葉を送り出そうとしていた。落ち着くために、ひと口水を含んだ。
「仕事先は新宿なんですか」
「いえ、そこから山手で恵比寿に出てます」
「そうなんですか。ちなみにどんな仕事を」
「アパレル関係です」
 リコが言うには本部勤めで、広報を担当しているということだ。
 アパレルの広報というと美人のイメージがあったが、リコはぴったりに思えた。
「どれくらいお勤めで」
「五年目です」
 それなら二十七、八かもしれないと勝手に計算していた。
 前菜のサラダがやってきてからも、僕の質問はどんどん重ねられていく。どのくらい上町に住んでいるのか。仕事は定時で上がれるのか……。
「五年住んでいます」
「残業するときもありますけど、基本定時には上がれます」
 リコは簡潔に答えるばかりだ。
 なんとか話を膨らまそうとするけれど、次第に僕の心は萎えてきてしまった。いつしか僕の質問は止み、皿をフォークで鳴らす音が僕らのテーブルを包むようになる。
 せっかくの休日のランチを、もっと楽しめばいいのだろう。リコは僕に関心がないんだろう、ということがわかり始め、気持ちを立て直すことができないでいた。
 メインディッシュのパスタとピザが来たところで、微かに会話の波が蘇った。
「やっぱり近所だと豪徳寺によく行きますか。最近、招き猫ですっかり有名になりましたけど」
 マルゲリータの一切れを持つリコの手が、疎かになった。
「私、行ったことないんです、豪徳寺」
「え、意外」
「いつか行ってみたいんですよね」
 伏し目がちで口元だけに小さな笑みをつくったリコは、ゆっくりピザを噛んだ。
「近所なんだから、いつでも行けるじゃないですか。何だったらこれから行きませんか」
 リコは一瞬、宙を見つめ、
「いえ、また今度にします」
 と笑ったあと、すっと表情を失くした。
 食後のコーヒーと小さなティラミスが運ばれ、僕らは黙々と食べる。これを胃に収めてしまったら、この時間は終わってしまう。息が詰まるような時間になってしまったのは、きっと僕が緊張しており、それが彼女に伝播してしまったからだろう。このまま彼女と別れるのが惜しい気持ちで、心は一杯となった。
 頻りに自分の分は払うと言うリコをなだめ、僕が会計を済ませると、自然僕らの足は豪徳寺駅へと向かっていく。
 このまま別れたら明後日から気まずくなってしまうし、もう日常の五分間もご破算になってしまうかもしれない。自棄っぱちなところもありながら、僕は、
「また、一緒にランチしてもらえますか」
 と、駅前の巨大な招き猫の前で尋ねた。
 リコは僕をまともに見据えた。初めて正面から互いの目が合った瞬間だった。
「はい。隔週でもよければ、ぜひ」
 僕は言葉を失い、ただ首を縦に振った。
 このまま自転車に乗り、上町へ戻るという彼女の背を招き猫の横で見送る。いつか一緒に豪徳寺に行ける日が来ればいい、と思いながら、僕は一度、招き猫の頭を撫でた。
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