第40話 北斎現代へ

文字数 3,017文字

 開け放たれた引き戸から少し家の中の様子が伺える。どうも隣も借りていて、仕切を取り払って使っているようだった。手前の部屋が作業場らしく、文机にが二つ置いてあり、その上に筆が幾つか置かれていた。お栄さんと北斎さんのそれぞれの机なのだろう。この天保の頃には今に通じる机や居酒屋なのでは樽を椅子代わりにして座らせる店などが出て来ていた。絵師もこの頃は畳に机を置いてそれに紙を広げて絵を描く事が普通になっていた。実は蔦屋さんは寛政の頃にはこれを考えついていて写楽さんに使わせていた。
 文机の周りには書き損じた紙が丸められて散乱していた。部屋には棚が置かれており、そこには紙や既に描いたと思われる作品の一部分が見えていた。首を伸ばして奥の隣の部屋を見ると色々なものが散乱している。
「散らかっているけど、座れるようにするから」
 お栄さんはそう言って文机の周りの紙屑を隣の部屋に押しやった。
「どうぞ」
 そう言われては上がらない訳には行かない。正直気が進まなかったが仕方ない。この時、俺はさきも蔦屋さんも着物のグレードを一段落としていた事に気がついた。二人は予想していたのだ。間抜けなのは俺だけだ。後で、さきに「何故教えなかったのか」と問うたら
「だって、あなたは三人の中でも責任者ですよ。一番良い格好をするのは当然じゃありませんか」
 そんな返事が返って来た。確かにそうだ。いつの間にか、さきより俺の方が責任者になったのが何か腑に落ちなかった。だって、俺よりさきの方が経験者でベテランなのだから。
 中に入らせて上がらせて貰う。部屋は六畳で奥に台所がついている。表に向かった側に窓があり二つの文机はその壁に並んで置かれていた。ここで幾つかの作品が描かれたのだと思うと感慨が深い。
「ま、座布団もありませんが……」
 お栄さんが、そんな事を言うので
「それ、現代ですよ。この時代は畳に座布団は敷かないのでは?」
 俺がついそんな事を口にすると
「でも、最近はそうでもないのですよ」
「そうなのですか」
 幕末は色々と変化のあった時期で、混乱する。
「今日はお栄さんを現代に連れて行く為にこちらに来ましたが、表で伺った範囲では鉄蔵さんも一緒に行きたいそうで」
 俺は正直に先程聞いた事を言うとお栄さんは
「そうなんですよ。それは虫が良すぎると叱っていたところだったのですよ」
 お栄さんは俺たちと話す時はかなり俺たちの時代の言葉を使ってくれる。それはセンターで一週間ほどレクチャーを受けたからだ。
「鉄蔵さん。西洋の絵を見たいならお栄さんと一緒に行きましょう」
 俺がそう言うとさきも
「但し、秘密でござんすよ」
 そう言い、蔦屋さんが
「敢えて北斎殿と呼ばせて戴きますが、どうしても西洋画の技法を学びたいなら、お手伝い致しとうございます」
 蔦屋さんの本音でもあり我々の総意でもあった。
「よろしいので?」
「勿論ですよ。一緒に行きましょう。」
 信じられないと言った顔をしている鉄蔵こと葛飾北斎さんは娘のお栄の顔をしみじみと眺めて
「へへへ、これで生きる望みが増えたってものだ」
 そう言って表情を崩した。それを見てさきが
「その為には、まずお栄さんもこの前行った。我々の組織のセンターに一緒に行って貰うでござんす。そこで着替えたり、簡単な事を学んで貰うでござんす」
 さきがそう言ってこれからの予定を述べた。
「実際にこの目見られるなら、どんな事でもしやすよ」
 まず、最初に説明をする。
「鉄蔵さん。これから我々と一緒に現代に向かうのですが、帰って来るのもこの時間になります。ですから他の人にはお二人がずっと家の中に居た事になっていますので、その辺の事は宜しくお願い致します」
 俺がそう言うと鉄蔵さんは
「話しても誰も信じねえし、その昔、こうすけさんや、さきさんに逢ったことは一度も口にしてはいませんよ」
 そう言って、そんな事は納得済みだと言う顔をした。
「では、早速行きましょう」
 蔦屋さんがそう声を掛ける。時限転送手タブレットは俺とさき、それに蔦屋さんも持っている。我々に持たされているタブレットの能力は一つでは人なら二人とプラスαで、要するに絵画を運ぶ事が出来る訳だ。
 俺が、鉄蔵さんを、さきがお栄さんを。それから蔦屋さんが二人の希望で絵の道具が入った鞄を運ぶ事になった。センターや八重洲のギャラリーの転送装置はもっと大きいのでこれぐらいなら一緒に転送出来るから帰りは心配していない。センターの了解を受けたので
「それでは」
 三人一斉にタブレットのスイッチを入れた。その途端に一瞬目の前が暗くなり次の瞬間にはセンターの転送室に居た。
 エンジニアが笑顔で
「ようこそ北斎様。ここが我々組織の中核のセンターです」
 転送室から出て来た鉄蔵さんは周りを見渡しながら
「はあ~これは、凄い。全く違う場所に来てしまった」
 そんな言葉を口にした。
「鉄蔵、こんな事で一々驚いていたら仕方ないよ。大変なのはこれからなんだから」
 お栄さんはもう慣れているので、驚きはしなかった。
 とりあえず、今の格好では不味いので着るものをどうするか決める事にした。歩きながら蔦屋さんが鉄蔵さんに
「『富嶽三十六景』の方がいよいよ最後なのでは?」
 そう尋ねると
「いや、絵はもう仕上げて渡してあるんで、彫師と摺師の仕事があるだけで。だから次の事を考える余裕があるんで」
 センターのリノリウムの床を草履でパタパタさせながら歩いて行く。
 
 結局、鉄蔵さんも着物に草履となった。頭には少しつばの広いパナマ帽を被る事にした。甕覗(かめのぞき)と呼ばれる淡い藍色の無地の着物に鳶色(とびいろ)の羽織にした。白いパナマ帽が良く似合っていた。
 鉄蔵さんは鏡に自分の姿を写しながら
「馬子にも衣装とは良く言ったものだなぁ。それにこれ絹じゃねえかい。良いのかい?」
 天保時代は「天保の改革」が行われ、贅沢は禁止された。その改革の始まりの時代でもあったのだ。
「今は色々な素材のものがありますよ」
 センターの係員に言われ鉄蔵さんは納得していた。着る物の次は言葉だがこれは簡単な注意に留まった。それは鉄蔵さんが、いきなり現代の人間と言葉を交わす事が無いだろうと想定されたからだ。
 お栄さんもこの前来た時に着替えたスーツ姿にポニーテールになった。それを見た鉄蔵さんは
「へえ~まるで別人じゃねえか。後でその姿を描いてやるよ」
 そう言って我が娘の姿に見とれていた。
 俺とさきは着物から普段の格好に、蔦屋さんは現代に来る時に使う帽子を被って準備は出来た。
 転送室から八重洲の、ギャラリーに向かって転送して貰った。転送室の外では五月雨さんが出迎えてくれていた。
「北斎殿、ようこそ。ここの責任者の五月雨と申します」
 五月雨さんが自己紹介をすると
「北斎こと画狂老人でございます」
 そう言って自己紹介をした。鉄蔵さんは辺りをキョロキョロと見回していて、落ち着かない。それを見たお栄さんが
「少しは落ち着きなよ。みっともない」
 そう言って窘めるのだった。
「所変わればと言いますが、全くその通りで」
 鉄蔵さんにとってはこの現代には幾つも興味を惹かれる事があるのだと思うのだった。
「一休みしたら行きましょう」
 俺の言葉に嬉しそうに頷くのだった。
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