「はじめまして、ヘミングウェイさん!」

文字数 1,903文字

「あの、いいお天気ですね」
「子供っていうのはすぐ大きくなるねえ。いくつになったの」
「あ、14です」
「本当に子供っていうのは。お父さんに感謝しなきゃいけないよ。お父さんはあなたのことをね…」

認知症って本当に他人のこと自分の孫と間違えるんだ。
私は軽く感動しながら、片方の頭ではどうやってこの会話を切り上げるか考えていた。ニワトリの足のように骨張ったおばあちゃんの指は、意外に強い力で私の手首をつかんでいる。

「本当に大きくなって…」

まずいぞ。しわの中に埋もれてしまいそうなおばあちゃんの目に、涙が盛り上がり始めた。辺りを見回しても助けてくれそうな職員さんはいない。涙の膜が黄ばんだ瞳を覆い、目元のくぼみを伝ってポロポロと流れた。私はとりあえずニコニコしながらつかまれた右手を引いてみたが、倍の力でにぎり返された。

「おや、どうしたんだ」

かすれた渋い男性の声に、私は期待の眼差しを上げた。そこには片足にギプスをつけ、半身を杖で支えながら、でも、ちっとも憂鬱そうではないおじいさんが立っていた。立派なあごひげ、それと同じ色の胸毛が開襟シャツから覗く。目は好奇心が強そうで、口元は葉巻を咥えている姿が似合いそうだ。
この人、誰かに似ている気がする。すごく有名な人、たしか、小説を書いた…。

「私はヘミングウェイ。ときどき”パパ”とも呼ばれている」

なんと、本当にヘミングウェイだそうだ。

:::

うちの学校では毎年、夏季ボランティアに参加することになっている。幼稚園か、障がい者施設か、老人ホーム。いずれかの施設で2、3日お手伝いをしなければいけない。つまり「やらされる」わけだけど、それは受け入れ先の施設にとっても同じことだ。

ーーこのフロアの入居者さんたちの話し相手になってあげてください…。
ボランティア初日、老人ホームの担当職員さんは申し訳なさそうに言ったきり、どこかへ消えてしまった。職員さんたちは軒並み忙しそうで、パッときた学生に仕事を教える余裕はないらしい。

私が配置されたエリアは認知症の入居者用の交流スペースだった。大きな窓に面した空間にテーブルが並べられていて、それぞれの場所で塗り絵とか縫い物ができるようになっている。
窓際のひときわ日の当たる席に座り、私は真っ白なギプスが眩しく輝くのを見ていた。

「この世は素晴らしい、戦うに値する」

”ヘミングウェイ”はこれで8回目となるセリフを繰り返した。ギプスをはめた左足を高々とテーブルに乗せ、葉巻の灰を落とすような手つきで血圧計に指を突っ込んでいる。なるほど、このおじいさんはボケてしまっているけど時間を潰す相手には良さそうだと私は考えた。この人の隣に座ってウンウン頷いていれば、とりあえず仕事をしているように見えるだろう。だから、

「ヘミングウェイさんはどんなとき、この世は素晴らしいって思いますか」

思いついた質問をしてみた。おじいさんは真っ黒な優しい目をこちらに向けて答えた。

「生きているとき全て。素晴らしいのはこの一つひとつの瞬間なんだ。素晴らしさに(こま)い過去は必要ない」

私はどきりとした。この人、実はボケてないんじゃないか。からかわれているのは私の方なんじゃないか。
よっこらしょ、とおじいさんは立ち上がった。見てなさいというように目配せをし、杖を支えにひょこひょこと歩き、さっきのおばあちゃんの前に立った。

「はじめまして!私はヘミングウェイ。ときどき”パパ”とも呼ばれている…」

「あらま、はじめまして!」

おばあちゃんは恥ずかしそうに笑った。いい男ね、と目が言っている。二人は並んで座って話し始めた。同じ話を何回も繰り返すのが聞こえた。

「私たちは本当に良いお友達になれそうね。こんなに気が合うんだから、もしかしてもう会ったことがあったのかしら」
「年を取ると色々なことが思い出せなくなる。私は自分の本当の名前すら忘れてしまったが、だからと言って思い出を失ったわけじゃない。思い出を引っ張り出す神経の働きがちょっとばかり鈍くなっただけさ。その証拠に、ほら、口はしゃべり方を忘れない。私たちは毎日この場所で、何度も出会ってきたのかもしれないな。素晴らしいことだ。しかも、気持ちはいつも新しく出会えるんだから!」
「良いお友達になれそうね。まるで会ったことがあるみたい…」

私はふと自分がまだ自己紹介すらきちんとしていないことに気が付いた。それはこの施設の人たちが認知症を患っていて、あいさつをしても忘れてしまうだろうと思っていたからだ。
でも、今はそれを恥ずかしいと思う。

「その、私はーーです。はじめまして!」

ヘミングウェイさんとおばあちゃんは朗らかに応えてくれた。

「はじめまして!」
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