舟を漕ぐ

文字数 1,003文字

 背の高い木々に囲まれ、足元には膝丈ほどの草がまとわりつく。
 どうして自分がこんなところにいるのか、自分はどこに向かっているのか、どうにも判然としないが、ここがずっと居るべき場所でないのは確かだ。

 東西南北も分からないが、微かに漂う潮の匂いを頼りに、道なき道を進んでいく。鼻腔をくすぐるしっとりとした空気が段々と濃くなる。
「間違いない、海だ」
 海へ出たからといって、そこが目的地なのかどうかは分からない。それでも出口の見えない迷路のような場所より、開けた海辺の方が幾分か気分がマシだ。手足にまとわりつく草を掻き分け、早足で進み続ける。

 ついに木の迷路を抜けだした。目の前には砂浜、そして海。だが、想像していたような開けた海辺ではなく、小さな小さな入江だった。海にはポツンと一艘の舟が浮いている。船ではなく舟、時代劇なんかに出てくる木製で小型の舟だ。

「……ふね?」
「乗るかね?」
「う、うわあああああああ」
 突然、後ろから声を掛けられ、お手本のような悲鳴が出た。振り返ると、ヨレヨレの着物を着た老人が立っていた。
「乗るかね?」
 老人は舟の方を指差しながら、もう一度訪ねてきた。しかし、舟に乗ったとして、どこに向かえば良いのかも分からない。とは言え、この小さな入り江にずっといても仕方ないし、さっきの林に逆戻りするのは絶対にイヤだし……。
「乗るかね?」
 三度目。段々と老人からの圧力が強くなる。
「乗らんのかね?」
「乗る! 乗ります!」

 老人の圧力に負け、舟に乗り込む。だが、舟にはオールどころか木の棒一つない。
「えっと……これはどうやって漕げば?」
「なんじゃ、舟の漕ぎ方も知らんのか」
「漕ぎ方というか、道具をなにか」
「なんじゃ道具がないと漕げんのか」
 そう言うと、老人は懐から穴の開いた小銭がぶら下がった紐を取り出した。催眠術で使うやつだ。

「ほいじゃ、こいつをよく見るんじゃぞ」
 老人は小銭を振り子のように揺らし始める。催眠術でよく見るやつだ――が、あっ、と言う間に目蓋が重くなってきた。かくん、と首が揺れると、舟がスイと前に進む。うつらうつらとする度に舟は前に進み、あっという間に浜辺を離れていく。
 しかし、この状態では前も見えないし、どの方向へ進んでいるのかもよく分からない、居眠り運転だな、と思いつつも、眠気が誘うままに舟を漕ぎ続けることにした。
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