第2話 境内からまちへ

文字数 1,108文字

 浅草の歴史は江戸よりはるかに古い。
 浅草寺の寺伝によれば、628(推古天皇36)年、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)竹成(たけなり)兄弟の網に仏像がかかった。
 主人である土師中知(はじのなかとも)に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とし、この像を本尊の聖観音(しょうかんのん)として供養した。これが浅草寺の始まりである。
 そして、この浅草寺の草創に関わった三人を主祭神としてできたのが浅草神社であり、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった。
 毎年5月に斎行される三社祭は、1312(正和元)年に三社権現の神話に基づき行われた「舟祭」がその起源と言われる歴史ある浅草神社の例大祭だ。
 700年を超える伝統ある三社祭の祭神が漁師とその主人というのは、何とも浅草らしい感じがする。2011(平成23)年は東日本大震災の被害状況に配慮して中止となった。新型コロナ下の昨年(2020年)は10月に延期して、一之宮神輿1基をトラックに積んで町内を回ったが、今年は中止となった。

 寺社には縁日があり、開帳や祭礼などの行事があって、大勢の人々が集まることから門前町ができる。
 江戸時代になると、この門前町の雷門から宝蔵門までの間に「仲見世」と呼ばれる商店街ができる。
 元禄時代に、浅草寺境内の掃除役の代償として床店の営業権を与えたのが始まりだと言う。
 錦絵、小間物、雷おこし、人形焼など土産物や玩具などを商う店が並んだ。現在に至るまで残っている老舗も少なくない。
 観音堂裏には「奥山」と呼ばれる一角がある。江戸中期になると、ここが見世物・大道芸の並ぶ盛り場として賑わうようになる。
 為永春水の『春の若草』では、「手品、軽業、独楽まはし、ぜんまい仕掛け、生人形と、人の山なす浅草の、かの観世音の奥の山」と表現している。
 1657(明暦3)年の明暦の大火のあと、日本橋葺屋町にあった吉原遊郭が浅草田圃に移転し、新吉原遊郭となった。不夜城吉原の出現は、遊興の地、浅草のイメージを一層強めることになった。「観音は使いでのある仏なり」という川柳は、江戸っ子にとって「浅草へ行く」とは吉原へ行くことを意味していたことが読み取れる。
 1841(天保12)年、天保の改革に際して、浅草寺の北東あたりにあった大名の下屋敷を埋め立てて猿若町一・二・三丁目を造成し、江戸市中に散在していた中村座、市村座、河原崎座などの歌舞伎座や、操り人形の薩摩座、結城座などをここに集め、芝居町とした(現在の浅草6丁目)。芝居小屋、芝居茶屋が軒を連ね、芝居見物に訪れる女性で華やぐ盛り場となった。
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