第1話

文字数 1,994文字

 闇の中に轟音が響き渡った。それは連続して山を、城を揺るがした。音は神の怒りの雷のように思えた。断崖に突き出した見張り台の兵士は、山裾に無数の松明が揺らめいているのを見た。可動式大砲をいくつも並べ、兵達が一斉に火を点ける。
 オスマントルコの軍勢だ。このポエナリ城の真下に迫っている。難攻不落の城と言われたここも堕とされる日が来たのか。城にいる者は皆祈りを捧げていた。ただ一人の男を除いては。

 男は血に塗れた剣を手にしていた。松明の火が照らし出す男の顔には血の飛沫、そして憂いの表情が浮かんでいる。足下には2人の男の亡骸が転がっていた。石畳に流れ出した血が男の靴を濡らす。亡骸の側にはトルコで鋳造された金貨が転がっていた。
「片付けろ」
 男は踵を返した。
「はい、ヴラド様」
 傅いた兵は深く頭を垂れた。窓からは吹きすさぶ風の声が聞こえる。冷たい風がヴラドと呼ばれた男の豊かな黒髪を揺らした。

 逃亡し、トルコ軍へ寝返る者の末路はよく知っている。残虐な拷問により情報を吐かせ、殺す。メフメトのいかに慈悲のあることか。それならば、五体満足のままここで斬られた方がましだったと感謝するだろう。

 ヴラドはトルコに人質に取られていた時期がある。野営地で見たのは、残虐極まりない処刑法の数々だった。中でも戦慄したのは、生木の杭を人間の尻から刺し、それを引き立てて晒す串刺し刑だ。自身の体重で直立する杭に身体が沈んでゆき、やがて無惨にも内蔵を破られ、口から杭が飛び出す。

 それでも人間の生命力は逞しいもので、杭を立てられてしばらくはもがき苦しみながら、辛うじて生きているのだ。獣の咆哮のような叫び声が聞こえなくなる頃には、周囲に血と汚物の匂いが漂い始める。戦場では、その地獄への道標のような串刺しの木が乱立していた。

「ヴラド様、城下に敵が迫ってきております」
 窓から城下を見つめるヴラドの側に男がやってきた。麻布のローブに身を包むのは、麓の村の農夫だった。
 城下には無数の松明が闇の中で蠢いている。先ほどから大砲の音は止んでいた。火薬を詰め終えたら、まだ威嚇射撃を始めるつもりだろう。どの砲撃もこの城壁には届かない。

 ただ、城の住人を怯えさせるには充分だった。ヴラドはしばしの沈黙の後に重い口を開いた。
「この城の者を皆逃がすことができるか?」
「はい、私の村へ通じる秘密の地下道があります」
「女と子供を先に、それから兵達を」
 ヴラドは短く指示を出し、私室へ向かった。

 天守への螺旋階段を上ると、部屋には明かりが灯っていた。
「ソフィア、まだここに居たのか」
「陛下」
 細身の女性が簡素な寝台に腰掛けていた。美しい金色の髪はほつれ、白い顔には疲労が滲んでいた。
「村の者が手引きをする、早く逃げろ」

「陛下」
 王妃はゆらりと立ち上がる。ヴラドはその声に振り向いた。蒼い月光に照らされた彼女はまるで幽鬼のようだ。彼女はヴラドの胸に倒れ込む。その手には鈍く光る刃が握られていた。
「ソフィア」
 ヴラドはその手をなぎ払った。王妃はよろめくが、震える手にはまだナイフを握りしめている。青い目には狂気が宿っていた。
 
 再び、刃がヴラドを襲う。非力な女が豪胆な猛将に敵うはずもなく、ナイフは易々と弾き飛ばされ、部屋の隅に転がった。
「何故だ?」
 ヴラドは問う。その声には怒気はなく、哀しみに満ちている。王妃に一歩近づけば、彼女は後ずさった。その大きな瞳から涙がこぼれ落ちる。

「陛下、お許しを・・・トルコの陣からあなたの命と引き換えに、息子を助けると書簡が届いたのよ」
 王妃の声は震えていた。おそらく、金貨を持っていた裏切り者が届けたのだろう。ヴラドは唇を噛んだ。

「お前を責めはしない。息子も助かる。さあ、行こう」
 ヴラドは手を伸ばす。王妃は身を翻し、窓の上に立った。
「ソフィア!」
「息子をお願いします」
 微笑みを浮かべ、王妃は天守の窓から身を投げた。一瞬のことだった。ヴラドの手は彼女が消えた虚空を求めていた。唇の端から血が滲む。爪が食い込む程に拳を握りしめ、怒りに肩を震わせた。寝台の側に書簡が残っていた。流麗な文字で息子の命と引き換えに、ヴラドの殺害を促す文章が書かれていた。そして末尾のサインを見た瞬間、ヴラドは書簡を握りつぶした。
「ラドゥ・・・!」
 トルコの将兵からの書簡なら信じることは無かっただろう。しかし、トルコ軍と親密な義弟が書いたものなら?彼女は弱かった。そして息子を愛していた。

 ヴラドはらせん階段を降りてゆく。トルコ軍の砲撃が再開された。山に轟音が鳴り響く。ヴラドは村の男の手引きで城下へと繋がる秘密の通路への入り口をくぐった。その先へ続く階段を降りてゆく。ヴラドの姿は果てしない闇の中へ吸い込まれていった。

-ヴラドの妻についての記録はほとんど残されていない。彼女が身を投げたアルジェシュ川は王妃の川と呼ばれている。
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