関所跡で思ったこと

文字数 1,446文字

 お礼を言い、それからひとりで神社をお参りしてうろうろしていると、神主さんが「裏に行くと、関所跡がありますよ」と教えてくれた。

 肝心なところに行っていなかったことに気づいた。
 雨は上がっていたけれど、道がぬかるんでいたので歩きやすい道を教えてもらい、その道を行くと小さなお社があった。お参りして関所跡に向かう。
 与謝野晶子の歌碑があった。松がやけに印象に残った。疑問に思いながら左の道を行くと、松に囲まれた『関所跡』と書いてある石碑があった。
 この松のことだろうか? そもそも私に歌心はない。

 でも、ようやく関所跡に着いた。
 一回りに1分もかからないくらい小さな場所。元々の想像通りだったが、もっと道をふさぐような物でなければ、義経は子供たちに扇をあげなくても済んだだろう。
 現在の神社の近くに、必要もない関所があっても困るだけかもしれないけれど。

 しかし、この感じは嫌いではない。
 石碑がぽつんとあるだけ。その周りに自然がある。

 ここに関所があったのは八百年も昔のこと。人がいなくなれば、あっという間に草木で覆われる。人間の感覚からすると長い時間だけど、自然界から見れば一瞬かもしれない。

 その先に階段があったので、下って行くと海が見えてきた。さらに下ると勧進帳の像が立っていた。像の前に説明が書いてあって、はじめに弁慶と富樫さんの像がでてきて、その後にその像を作った人の息子さんが義経の像を作って、像の前に書かれている文字をまた別の方が書いたそうだ。

 父から子へと繋がり、その先も繋がっていく。点ではなく線、そして面になり、立体になる。
 石川は昔から教育に力を入れているらしい。金沢に行った時、観光ガイドの『まいどさん』からそう教えてもらった。だから知識が途切れないのだろう。

 また、まっすぐな物は曲げ、曲がっている物はまっすぐにするそうだ。金沢城のなまこ壁でそう言っていた。普通のなまこ壁は斜めの格子が多いけれど、金沢城のなまこ壁はまっすぐだった。その話を思い出した。

 安宅の関と、そこにいたであろう富樫左衛門。彼は悲劇の英雄が北に逃げるために手を貸した。追われている人間を逃がしてしまうのは曲がったことかもしれない。

 吉野山で行方をくらませた義経は、命を落とすことになる平泉に行くまで、どのルートを通ったのかわからないらしい。安宅の関を抜け、能登半島の先まで行き、船で東北に行ったというのも有力な候補のひとつ。しかも、この辺りには義経伝説が多く残っている。

 けれど、それが史実になってはいない。
 つまり、当時の人たち、義経に会った人たちは、義経の行方を誰も正式に通報しなかったのではないか。

 通っても見て見ぬふりをしてくれた。
 義経主従だと知って、通してくれた富樫左衛門のように。
 当時は曲がったことだったけれど、時間が経ってまっすぐになった。英雄伝説として。

 石川の人たちは、この物語を大切に後世に伝えようとしている。
 安宅の関では巫女さんがとても素敵だった。もちろん神主さんも。
 人々の温かさに触れることができて、嬉しかった。

 ありがとう、物語を伝えてくれて。
 私がここに来るきっかけを作ってくれて。

 沖の方では、雨を降らせていた雲の切れ間から光が差し込んでいた。鈍色に輝く日本海を見ながら、そんな気持ちになった。

 歴史を感じられるのもいいが、石川の人たちのおおらかさが心地よい時間旅行だった。
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