第10話 関係
文字数 1,153文字
自分のことを話そう。
八年間一緒に暮らした後、妻とは別れた。だが、それから先のつきあいの方が、よほど長い。彼女は彼女で再婚し、私は私で同様の生活に入った。それぞれに離れ合っていながらも、今もたまにメールでやりとりをしている。
この関係、ただありがたいとする以外に、ぼくは言葉がない。まったく、何の邪心も下心もなく、まっさらにそのまま、つきあえる関係。友達でも恋人でも愛人でもなく、ただの、それぞれの自分と自分として、関わり合える関係。こうなるまでに、別れて十年以上の時間が掛かっている。あれは、ほんとうに「別れ」だったのかと思う。
確かに、かたちは別れた。だが、それはどこまでもかたちであって、そこからまた別のかたちで繋がっていった。彼女が彼女であり、ぼくがぼくであることから、始まったのだと思う。現実のかたちは後からついてくるものとして、それはどうでもいいものだ。断ち切れなかったもの。捨てられなかったもの。どうしようもないぼくの自己と彼女の自己があって、そこから始まるものが、どうもホントウに繋がる、ということにつながるらしいのだ。
彼女が自分に基本をおき、私が自分に基本をおく。離れたから、そうなれた、とも思える。
おたがいにそうでなかったら、「別れた」後、「別れていない」関係にはならなかったと思う。現在一緒に暮らす私のパートナーも、離婚した旦那さんとskypeで談笑したりしている。この世の人間関係、女/男にかぎらず、そんなふうになったらいい、と、ぼくの妄想は肥大する。
さらに言えば、愛というものがこの世にあるとして、その愛もなくなるほどであればいい、と妄想に翼をつけてみたい。愛は憎しみと表裏であるから、その一方だけを美化したくないというわけだ。
つまりは人間、少なくともぼくの実現したい「愛」の情態は、静かで、穏やかな春の海のようであることに尽きる。死ぬまでに、そんな心をずっと持続させるところへ行き着けるかと思うが、本気で臨めば、けっして実現不可能ではない、近づけるとは思う。
浮き足立たず、沈没もせず、たんたんとあること。
「幸せも不幸せもなく・喜びも悲しみもなく」となっては、はたして死んでいるのか生きているのか分からぬ情態だが、そのような情態を、落ち着いて受け止められる自分でありたいと願う。
そもそも、今だって、生きているのか死んでいるのか分かったものではない。ただ、自分の場合、一緒に暮らす人との関係、あるいは周りにいる人から、何やら自分がいるなあ、と思う。決定的に、何かを気づかされる。
その関係は、自分をさらけ出し合った関係であればあるほど、時間が経って、理解だか誤解だかの空間を経由して、許し許され、それぞれの中に確固として、「もうひとりの自分」のように息づくかのようだ。
八年間一緒に暮らした後、妻とは別れた。だが、それから先のつきあいの方が、よほど長い。彼女は彼女で再婚し、私は私で同様の生活に入った。それぞれに離れ合っていながらも、今もたまにメールでやりとりをしている。
この関係、ただありがたいとする以外に、ぼくは言葉がない。まったく、何の邪心も下心もなく、まっさらにそのまま、つきあえる関係。友達でも恋人でも愛人でもなく、ただの、それぞれの自分と自分として、関わり合える関係。こうなるまでに、別れて十年以上の時間が掛かっている。あれは、ほんとうに「別れ」だったのかと思う。
確かに、かたちは別れた。だが、それはどこまでもかたちであって、そこからまた別のかたちで繋がっていった。彼女が彼女であり、ぼくがぼくであることから、始まったのだと思う。現実のかたちは後からついてくるものとして、それはどうでもいいものだ。断ち切れなかったもの。捨てられなかったもの。どうしようもないぼくの自己と彼女の自己があって、そこから始まるものが、どうもホントウに繋がる、ということにつながるらしいのだ。
彼女が自分に基本をおき、私が自分に基本をおく。離れたから、そうなれた、とも思える。
おたがいにそうでなかったら、「別れた」後、「別れていない」関係にはならなかったと思う。現在一緒に暮らす私のパートナーも、離婚した旦那さんとskypeで談笑したりしている。この世の人間関係、女/男にかぎらず、そんなふうになったらいい、と、ぼくの妄想は肥大する。
さらに言えば、愛というものがこの世にあるとして、その愛もなくなるほどであればいい、と妄想に翼をつけてみたい。愛は憎しみと表裏であるから、その一方だけを美化したくないというわけだ。
つまりは人間、少なくともぼくの実現したい「愛」の情態は、静かで、穏やかな春の海のようであることに尽きる。死ぬまでに、そんな心をずっと持続させるところへ行き着けるかと思うが、本気で臨めば、けっして実現不可能ではない、近づけるとは思う。
浮き足立たず、沈没もせず、たんたんとあること。
「幸せも不幸せもなく・喜びも悲しみもなく」となっては、はたして死んでいるのか生きているのか分からぬ情態だが、そのような情態を、落ち着いて受け止められる自分でありたいと願う。
そもそも、今だって、生きているのか死んでいるのか分かったものではない。ただ、自分の場合、一緒に暮らす人との関係、あるいは周りにいる人から、何やら自分がいるなあ、と思う。決定的に、何かを気づかされる。
その関係は、自分をさらけ出し合った関係であればあるほど、時間が経って、理解だか誤解だかの空間を経由して、許し許され、それぞれの中に確固として、「もうひとりの自分」のように息づくかのようだ。