第1話

文字数 1,995文字

「ほら、もうこんなに歩いたよ」
 私はしゃがみこんで、疲れて泣く小さな娘の肩を持ってくるりと方向転換させた。公園がずいぶん遠くに見える。制服姿の女の子たちがいた。この時間は、誰もがみな家に帰る時間だ。
 私は昔、この時間が嫌いだった。
「もうちょっとだよ」
 いやいやと泣く娘を励ましながらふと見上げると、橙と桃と菫がミルキーに入り混じった深い空がある。
 この色の空と、歩いてきた道と。私は何度振り返って見てきただろう。振り返ることを教えてくれたのは汐だった。夕方の風が、記憶から汐のハスキーな声を運ぶ。
「ずるいママなの」
 舌ったらずな日本語で、このお菓子おいしいね、くらいの口調でそう言った汐を私は気付くと凝視していた。あの日、最終下校時間はとうに過ぎ、教室には私と汐しかいなかった。
 汐は転校生だった。中学受験を突破した優等生しかいないうちの中高に転校生がくるのは異例だったが、疑問はすぐに消えた。汐は帰国子女で、英語は飛び抜けて、かつ他の科目も非常に優秀だったのだ。誰もが彼女に一目おいたが、汐はクラスに馴染むことがなかった。ママは仕事で海外を飛び回ってるとか、ヘリコプターで夜景散歩を楽しんだとか。空気を読めず天真爛漫に発言する汐をクラスメイトは明らかに持て余していた。
 私はというと、汐に興味がなかった。というよりも父を喪ってすぐだった私は全てに興味を失っていた。毎日学校には通っていたが、それは母の涙でできた海の底にある家にいたくなかったからだ。
 私の前では明るく振る舞うママの、常に腫れた目と細い体。
 ママには笑っていてほしいのに私ではママを笑顔にできないこと。ママと私はいつも一人ずつ泣いていたこと。それが、恐ろしく寂しく、怖かった。パパがいない世界で、ママの生きる理由として私があるのか、不安と孤独で気が狂いそうだった。
 部活後、家に帰りたくない私が教室にいくと汐がいた。帰らないのか聞くと、ママが近くまで迎えにくるから待っているという。優しいママだね、と言った私に汐はあの言葉を言った。
「優しくない、ずるいママなの。最近ママ、彼氏と別れて」
 恐らく私がよほど間抜けな顔をしたのだろう。汐は、パパはいないんだよねーとのんびり言って今度こそ私は顔を強張らせた。そんな私を見て汐は焦ったように言葉を重ねる。
「よくあるの。ママはモテるけどすぐ別れちゃうから。子どもみたいな人なの」
 違うの、私もパパがいないの、という言葉は、ついぞ声にならなかった。
 秘密の共有は友だちとの仲を深める魔法のスパイスだ。でも、向き合う覚悟と責任がなければ、その魔法は使えない。高校生の私でもそれくらいは知っていた。汐の深海と、私の深海。互いに自分たちの真っ暗な海底でもがくばかりで、それを表す言葉を知らないほど、私たちは幼い女の子だった。
 本当のパパは?ママはちゃんとあなたを愛してる?泣きたい時と寂しすぎる時のやり過ごし方は?
 全てを飲み込んで、私は気づくと汐の手を握り「一緒に寄り道しよう」と声にしていた。
 汐は一瞬目を見開いた後「いいよ、一応ママに連絡する」と気が抜けたように微笑んだ。
 私と汐は毎日最終下校時間ギリギリまで残って、寄り道をした。
 汐には不思議な癖があった。横並びで歩くのではなく、私より少し先を歩いて、後ろ向きで歩くのだ。どうしてそんなことをするのか問うと、汐はいたずらっ子のような顔をして、足を止めた。突然私の肩を持って、くるりと私を回転させる。
 目に飛び込んだのは、汐と歩いたまっすぐな道と、橙と桃と菫をぼやかした水彩画のような空、遠くに見える校舎。
「もうこんなに遠くまできたの、知ってた?」
 夕焼けが深呼吸しているような世界を私と汐は並んで見つめていた。
「安心しない? もうここまで歩けたってわかると」
 ささやいた汐の声は茜色の空気に溶けて、息を吸った私の深いところに入りこむ。横で汐が勢いよく息を吸いこむ。
「お味噌汁の匂い。私、この時間のこの匂いが一番好き!」

 小さな娘に手を引っ張られはっとした。気づくと機嫌を直した娘が再び歩き始めている。
 もう無理だと思ったとき、振り返って確かに自分が歩いてきた道を見て、前へ進めている自分を知ること。それを教えてくれたのが汐だった。
 時間とともに汐とは自然と疎遠になり、今は連絡を取り合うこともなくなった。彼女のラインのアイコンが変わるたびに彼女の存在を感じるのみだ。
 願わくば、彼女にも大事な人がいますように。
 娘の小さな手を握りしめると、スマホの通知音が短く鳴った。立ち止まって確認し、体に震えが走る。
 汐のアイコンの変更通知。生まれたての赤ちゃんと彼女の写真。
「ままぁ、きょうのごはんはぁ?」
「……まず、お味噌汁でしょ、それから……」
 娘と話しながら、私はそっと振り返る。歩いてきた道のずっと奥に、制服姿の彼女が見えた気がした。
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