第47話 現れたふたり

文字数 1,580文字

「ふってるぅ」ドアから出てきたのはすみれだった。空を見上げて発した言葉は白く舞い上がり、見る間に()き消えた。

「お昼には止むらしいわよ」後ろからドアを押し開けているのは妻の早紀だ。黄色いゴム長を履いたすみれが小さくジャンプして雪の中に立った。スキージャンプの着地を真似て膝を曲げ、両手を横に広げてふらふらと振るすみれが顔を上げた。

「あーパパだー!」目を大きくして、宝物でも見つけたような顔をした。
「パパが帰ってきたー!」白い息が盛大に舞い、すみれが走り出した。

 その声は現実感を伴うことなく遠くで聞こえる。この風景には、リアリティというものが完全に欠如していた。

「あら、どうしたの?」妻の声がする。すみれが足にしがみついてきた。暖かい。
「うーん……」鳴海は首をかしげた。何をしに戻ってきたんだったろう。すみれの頭を撫でた。それでもやはり、現実感がない。

「忘れ物?」
「いや、忘れ物というか……」早紀が歩み寄ってくる。
「どうしたのよ、ボーッとして。熱でも出たんじゃないの」

 これはやはり、夢だろうか。目覚めたら病院のベッドか、三角兵舎の中か、はたまた隼の中か。早紀が手袋を取り、その手が鳴海の額に触れた。

「手が温かいせいだろうけど、よく分からないわね。冷たいわ額」早紀が少し笑った。

「パパはお仕事がおやすみになったの?」足元ですみれが見上げてくる。鳴海は両手を広げてすみれを抱き上げた。暖かい。明らかな体温を感じる。

「雪だるま作ったー」体を捻って指さす方に、小枝を刺したおにぎりぐらいの小さな雪だるまがあった。
「ほらぁ、ママと作ったんだよー」



「よくできたねぇ、よく作ったねぇすみれ──パパは……」鼻の奥にツンとした刺激が走り、目が痛い。
「ごめんねすみれ、パパは、いいパパじゃなかった」

「パパが泣いてうぅ」すみれの声のトーンが落ちる。
「いや、泣いてないよ、すみれ」すみれを下ろし、膝をついて両手で雪をすくった。これで顔を洗ったら、夢から覚めるのだろうか。目覚めたら余計につらくなる夢から、覚めるのだろうか。

 ……だとするのなら、もう一度だけ。夢でもいいからもう一度だけ。

 手のひらの雪を捨ててジャケットで払い、すみれを抱きしめた。いつものすみれの暖かな匂いがした。

「パパを許してくれるか、すみれ」
「よしよし、いいこだからね。泣かないんだよパパ」すみれの手が鳴海の後頭部をパタパタと叩く。

「ありがとう、すみれ」鳴海は覚悟を決めてすくった雪で顔をゴシゴシと洗った。



 声は聞こえない。辺りはシンと静まりかえって何も聞こえなかった。二度、三度、雪をすくって顔を洗う。

 顔を上げたら誰もおらず、娘を亡くした男がひとり、我が家の庭で雪を顔になすりつけながら後悔をしている。そんな情けのない姿を(さら)している。

 鳴海はゆっくりを顔を上げ、目を開いた。

「パパが雪だるまになってるー」すみれの笑い声とくしゃくしゃの顔が見えた。
「パパはやっぱり、お熱を出してるかも」早紀が眉根を寄せた。

「俺のことがちゃんと見えてるか?」
「見えてるに決まってるでしょ。それより、気づいちゃったんだけど」
「何?」
「左のバンパー、少し傷がいってる」早紀がアウトバックを指さした。

「あぁ、ちょっと居眠りをして何かにぶつけちゃってね」
「怪我はないの? ねえ、ひょっとして頭ぶつけてない? さっきから言動が変だけど」
「いや、頭はぶつけてない。エアバッグが開くほどでもなかったから」鳴海は小さく頷いた。
「ならいいけど」
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