第1話

文字数 3,497文字

明日は爽やか★ハッピーデーか。
山本哲夫は会社の帰宅途中、歩きながらそんなことを思った。
店頭には呪いの人形や藁人形、毒薬、睡眠薬、刃物などが並んでおり、店員が準備に忙しそうだった。
「明日こそ恨みをはらそう!」「猛毒、もっとく?」「恨みをはらして心も体もリフレッシュ!」「恨みのメッセージを贈ろう」などという世にも恐ろしい言葉のポップが飾ってある。

爽やか★ハッピーデーの一週間くらい前から哲夫は部下のご機嫌を取り続けた。
「大丈夫か?何か大変なことがあったらなんでも言っていいぞ。手伝ってやるからな」とそんな言葉をかけ、「すごいぞ!やればできるじゃないか!優秀だな君は」などと褒めちぎった。
言葉だけじゃない。笑顔だってふりまいた。
普段ならそんなことは決してしないのだが、来たる爽やか★ハッピーデーのため少しでも部下の不満を軽減しておく必要があった。
恨みをはらしに来られたらたまったものではないからだ。
なるべく良い印象を植え付けておきたい。
やれやれ。これだから中間管理職はキツイと哲夫は思う。

それなのに。それなのに!
ここまで神経をすり減らしてご機嫌を取り続けてきたのに。
な、なんじゃこりゃ!
祝日であるため少々遅い起床をした哲夫がスマートフォンを覗いてみるとそこには罵詈雑言の嵐のメッセージが届いていた。
「お前しゃべりすぎなんだよ。少し黙れボケ」「クセえんだよ、口」「ご機嫌とってんのバレバレ。気持ち悪いんだよ」「お前のせいで会議が長くなってんだよ!」「おしゃべりクソ野郎」「一回死んでくれ」
そこまでいうか。
特におしゃべりクソ野郎はあんまりじゃないか。
しかし罵詈雑言を吐かれたからって部下を攻撃することはできない。
日頃の溜まった恨みや不満を吐き出し、健全なる精神を取り戻して爽やかでハッピーな日になろうという国が決めた祝日だからだ。
国も今日だけは犯罪を犯したとしても多めにみるという。
哲夫がソファーで意気消沈していると、妻が「どうしたの?」と話しかけてきた。
「別に」
「恨みでも吐かれた?」
「まあ、そんなところだ」
「バカね」
妻は心底、哲夫をバカにしたように鼻で笑う。
「なんだよ」
「別に」
短い返事をした妻は「アヤと買い物行ってくるから」と言って部屋を出ていった。
やがて階段を下りてくる軽やかな足音が聞こえてくる。
娘のアヤだろう。
二人が玄関を出てから哲夫はテレビをつけた。
テレビでは爽やか★ハッピーデーの特集がやっていた。
芸能人が街ゆく人に「今日は誰にどんな恨みをはらしますか?」というインタビューを行っている。
顔にモザイクのかかった男性がインタビューにこんな返答をしていた。
「いやー恨みをはらしたいのは嫁ですよ。嫁が不倫してたんすよ。本当に信じられないっすねー。しかも不倫相手が僕の友達で、で、友達も既婚者なんすよ。W不倫すよ。W不倫。ぜってー許せないっすねー。もう今日は懲らしめてやります。半殺しくらいにしちゃおうかなって。さすがに殺すのは悪いから」
そのインタビューを聞いて、哲夫は「嫁か」とつぶやいた。
俺もやってやるか、と哲夫は思った。
なぜなら妻は俺に対して冷たすぎるから。
飯なんてろくに作らない。作ったとしてもコンビニの弁当をチンしているだけ。余計な金は使うな、酒もたばこも禁止。うるさいし電気代かかるからテレビも禁止。
そのくせ自分はエステだのヨガだのマッサージだのわけのわかんないことをやってやがる。クソババアのくせに。もちろんセックスなんてもう何年もやっていないし、触らせてもくれない。
クソ!だから俺は。だから俺はな……。
だんだんと哲夫の中にふつふつと長年の怒りが込み上げてきた。
やってやる!

商店街まできた哲夫は薬局屋の前で足をとめた。
店頭では毒や睡眠薬が売っている。
「お客様どうですか?」と足をとめている哲夫に店員が声をかけてきた。
「そうですね……」
「ポピュラーなヒ素と青酸カリをそろえました。お客さんも聞いたことあるでしょ?お手頃な価格ですよ。ね!いっちゃいましょうよ」
「う~ん」
「お客様はどなたに?」
「えっと、まあ、嫁に」
「嫁さんですか。あーそういうお客さん多いですよー。旦那っていうお客さんも多いですねー。もう、なんで結婚なんてするんですかね。あ、すいません。で、どうします?」
「じゃあ、これを……」と哲夫は青酸カリを指でさした。

帰宅した哲夫はさてどうしようかと悩んだ。
どうやって毒を飲ませる?
食事に混ぜてとか飲み物に混ぜてというのがいいのだろうが、普段、哲夫はそんなことはしない。
はい、どうぞ、なんて出したら妻は絶対何かあると怪しむだろう。
なかなかいい案が思いつかない。ほんのちょっとだけでいいのだ。しかし、そのほんのちょっとをどうするか。
リビングをウロウロしながら考えていた哲夫の目にあるものがうつり込んできた。
それは二人の結婚式の写真だった。
もう色も褪せ、ホコリをかぶっている。
娘の写真が多く飾ってある中から唯一夫婦だけの写真を取り出してみた。
それは紛れもない愛を誓いあった二人の写真だった。
あの頃は、と哲夫は思い出す。
あの頃は幸せだった。そして俺は妻を確かに愛していた。
思えばこんな俺と結婚してくれた妻に感謝をしなければならない。
いつの間にか感謝する心を忘れてしまっていた。
哲夫はキッチンに置いてあった青酸カリを見つからないようゴミ箱の奥底に捨てた。
バカバカしい。何を考えていたんだ俺は。

夜の八時ごろに妻と娘は帰って来た。
「お帰り」と哲夫は玄関まで迎える。
「え、何?」
「何が?」
「何?お帰りって」
「え?いや、なんかさ。たまには」
妻と娘は首を傾げながら哲夫の前を通り過ぎようとする。
「あ、もつよ」と哲夫が妻の持っている買い物袋を持とうとしたが、「触らないで」と拒否された。
「私とアヤ、外で食べてきたから」
キッチンで買い物の片づけをしながら妻は言った。
「あ、そうなんだ」
「あんたはなんか食べた?」
「いや、なにも」
「じゃあ、これでいいよね」と値引きされたスーパーの天丼の弁当を見せた。
「ああ、いいよ」
買ってきてくれるだけありがたい。
哲夫はそう思うことにした。
「はい」と妻はチンした弁当と水を持ってきてくれる。
「ありがとう」
「は?」
「いや、だからありがとう」
「なに言ってんの?」
妻は奇妙なものを見るかのような顔をしてキッチンに戻っていった。

目を覚ました哲夫は自分が異常な状態をしていることに気が付く。
手足がガムテープとロープで固定されており、床に寝かされていた。
しかもうまく呼吸ができないと思ったら口をガムテープで固定されており、下半身が妙に涼しいと思ったら下半身には何も身に着けていなかった。
なんだこれは。どうなってる?
薬でやられたか。天丼か?水か?
その時、「あ、ママー。オヤジ起きたよ」と娘の声がし、「やっと起きた?」と妻が哲夫の視界に入ってくる。
「あんた今日、何の日か知ってるよね?」と妻がしゃがみ込んで言った。
哲夫は頷く。妻の顔が目の前に迫ってきた。
「じゃあ、話が早い。あんたさ、浮気してたよね?私が知らないとでも思ってんの?もう探偵に依頼して証拠もつかんでんのよ」
哲夫の額から汗がこぼれ落ちてきた。
「妥協して結婚してやったのにさーお前程度の男が浮気するわけ?いい度胸してんなーオイ。許さないから」
違う、と哲夫は言いたかった。いや、浮気したのは事実だが、それはお前が相手してくれないだけであって、ただの遊びなんだ。ちょっとだけ遊んだだけなんだ。本気じゃない。愛してるのはお前なんだ!
妻は立ち上がり、「アヤ、あれ持ってきて」と言った。
「はーい」と言って娘はあるものを妻に渡した。
それを見た時、哲夫は慄然とした。額から大量に汗が流れ落ち、「やめてくれ!」と必死に叫ぼうとするが、「ウーウー」というくぐもった声しか出てこない。
鋭利な刈込バサミが妻の手からぶら下がっている。
「切っちゃおうか。アレ。だって、いけないことをするんだもん。そんなたいしたもんじゃないくせに」
シャキーン、シャキーンというキレのいい音が哲夫の耳に届く。
妻が哲夫の足元へと行った。
哲夫は抵抗を試みるが体がしびれて言うことをきかなくなっていた。
アハハハハハハハ、と妻は甲高い笑い声をあげた。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ!
妻は高らかに宣言した。
「ヒサカいっきまーす!」
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